「父が消えた」
尾辻 克彦著 河出文庫
画家であり、作家であった赤瀬川原平氏が、尾辻克彦という別名で発表し、第84回芥川賞を受賞した同名の作品を含んだ短編小説集である。
なお、収録されている作品は、以下の5篇である。
「父が消えた」
「星に触る」
「猫が近づく」
「自宅の蠢き」
「お湯の音」
すべての作品が、日常の生活を、芸術家の独特な視点、あるいは観察力を持って描いている。特に何か大きな事件などが起こっているわけでもない。それでも最後まで読ませるのは、作者の力量なんだろうなあ。
「父か消えた」は、簡単に言えば、電車に乗って、教え子と二人で亡くなった父のお墓を建てる目的で墓地を見に行くストーリーである。ただ、電車に乗っている間の教え子との会話と父の思い出が交互に繰り返される構成になっている。そうした中で出てくる会話に、いくつか生と死について考えさせられるものがあった。
例えば「だから、死ぬときもね、ちょうど裏返しに、だんだん意識が薄れていって、記憶もどんどん消えていって、最後には空白に至るというのがほんとうはいちばんいいのだと思う。」だとか、「みんな最後まで行けばそうなるという。眠るような状態になるという。その最後の状態に至ってはじめてしあわせといえるんだけど、その途中のままで終わる人は不幸だろうね。」などなど。
このような台詞を読んでみると、最近、こういったことを考えてしまう自分にとって非常に示唆するものがあった。
僕自身、いつかは受け入れていかないといけないものなんだろうけれども、何とも受け入れがたいものがある。少なくとも自分自身としては、死を最後まで、意識したいと死にたいと思っている。だから、事故などで突然、やってくるのは勘弁だし、原爆の被害者のように、一瞬で(一瞬なんてもんじゃないだろうけども)この世から消えてしまうなんて、死を冒とくしているとしか言いようのないものは断固として拒否したい。ただ、不条理なことに、どのようにしてこの世から消えていくのかということは、自分では選択のしようがないというのも不条理ではある。
最近、職場の先輩や友人が、1年に一人二人と亡くなっている。ふとそんな事を考えてしまう。携帯電話やパソコンに亡くなった人の電話番号やメールアドレスを何となく削除ことができないんだよね。何か思い出もすべて消去してしまうような気がしてね。ただ、たまに、このメールアドレスは使えないみたいなお知らせのメールが来て、ああ、いなくなっちゃたんだなってふうと思う。
そして、読んでいて、墓地にも資本主義が入り込んでいるのだというところは、なるほど。そういえば、そうだ。あらためて気づく。死んでも貧富の差というのは現れる。でも死というものだけは完全に平等なはずである。その対比が、不思議だ。
「星に触る」では、様々な天文学上の発見について、こう述べている。
「いままではこの地球の専売特許とされていた「生命」と「人類」の特殊性も、いずれこの八〇年代以降には一般化されるのだろう。」この感覚もわかるなあ。確かに天文学上の発見が続くたびに、われわれの世界も太陽がちょっとくしゃみをすればなくなってしまう、結構、脆弱なものであったことに気付かされるし、また、どうも我々の存在は、単なる分子化合物なんじゃないのという曖昧な気分に襲われることになる。少なくとも、人類が、万物の霊長なんて傲慢なことはちょっと言えない気分になる。
「猫が近づく」も猫に対する観察が非常に興味深い。うちでは飼っているわけではないのだが、いつもうちの塀にのって寝転がっている猫がおり、その存在が気になっている僕の気分と合致したりしている。
日常の話なのだが、その視点が独特のものがあり、ふっと僕自身が何気なく感じていることとつながっているような気がする。ただ、小説の主題は別にあるのですが・・・。でもそれぞれの小説に表されている感性が、路上観察学やトマソンという形で表現されるようになっていったような気がする。
「お湯の音」は、なんだか切ない。父子家庭の哀愁、子どもに対する深い愛情を感じてしまう。
この時期、作者は、小さい女の子を抱えた父子家庭だったという。小説という形で心情を吐露していくことが必要だったのかもしれない。
昨年、尾辻克彦こと赤瀬川原平さんが亡くなられた。僕自身、路上観察学やトマソンといったものにすっかりはまった時代があり、路上観察学会が編集した「京都おもしろウォッチング」を片手に京都の市街をうろうろと歩き回った思い出がある。いまでも歩いていてちょっとしたことを楽しんでしまう気質は、この影響だと思う。ちょうど精神的にしんどい時期だったから、いい気分転換になったものである。ありがたかった。
氏のご冥福をお祈りします。
尾辻 克彦著 河出文庫
画家であり、作家であった赤瀬川原平氏が、尾辻克彦という別名で発表し、第84回芥川賞を受賞した同名の作品を含んだ短編小説集である。
なお、収録されている作品は、以下の5篇である。
「父が消えた」
「星に触る」
「猫が近づく」
「自宅の蠢き」
「お湯の音」
すべての作品が、日常の生活を、芸術家の独特な視点、あるいは観察力を持って描いている。特に何か大きな事件などが起こっているわけでもない。それでも最後まで読ませるのは、作者の力量なんだろうなあ。
「父か消えた」は、簡単に言えば、電車に乗って、教え子と二人で亡くなった父のお墓を建てる目的で墓地を見に行くストーリーである。ただ、電車に乗っている間の教え子との会話と父の思い出が交互に繰り返される構成になっている。そうした中で出てくる会話に、いくつか生と死について考えさせられるものがあった。
例えば「だから、死ぬときもね、ちょうど裏返しに、だんだん意識が薄れていって、記憶もどんどん消えていって、最後には空白に至るというのがほんとうはいちばんいいのだと思う。」だとか、「みんな最後まで行けばそうなるという。眠るような状態になるという。その最後の状態に至ってはじめてしあわせといえるんだけど、その途中のままで終わる人は不幸だろうね。」などなど。
このような台詞を読んでみると、最近、こういったことを考えてしまう自分にとって非常に示唆するものがあった。
僕自身、いつかは受け入れていかないといけないものなんだろうけれども、何とも受け入れがたいものがある。少なくとも自分自身としては、死を最後まで、意識したいと死にたいと思っている。だから、事故などで突然、やってくるのは勘弁だし、原爆の被害者のように、一瞬で(一瞬なんてもんじゃないだろうけども)この世から消えてしまうなんて、死を冒とくしているとしか言いようのないものは断固として拒否したい。ただ、不条理なことに、どのようにしてこの世から消えていくのかということは、自分では選択のしようがないというのも不条理ではある。
最近、職場の先輩や友人が、1年に一人二人と亡くなっている。ふとそんな事を考えてしまう。携帯電話やパソコンに亡くなった人の電話番号やメールアドレスを何となく削除ことができないんだよね。何か思い出もすべて消去してしまうような気がしてね。ただ、たまに、このメールアドレスは使えないみたいなお知らせのメールが来て、ああ、いなくなっちゃたんだなってふうと思う。
そして、読んでいて、墓地にも資本主義が入り込んでいるのだというところは、なるほど。そういえば、そうだ。あらためて気づく。死んでも貧富の差というのは現れる。でも死というものだけは完全に平等なはずである。その対比が、不思議だ。
「星に触る」では、様々な天文学上の発見について、こう述べている。
「いままではこの地球の専売特許とされていた「生命」と「人類」の特殊性も、いずれこの八〇年代以降には一般化されるのだろう。」この感覚もわかるなあ。確かに天文学上の発見が続くたびに、われわれの世界も太陽がちょっとくしゃみをすればなくなってしまう、結構、脆弱なものであったことに気付かされるし、また、どうも我々の存在は、単なる分子化合物なんじゃないのという曖昧な気分に襲われることになる。少なくとも、人類が、万物の霊長なんて傲慢なことはちょっと言えない気分になる。
「猫が近づく」も猫に対する観察が非常に興味深い。うちでは飼っているわけではないのだが、いつもうちの塀にのって寝転がっている猫がおり、その存在が気になっている僕の気分と合致したりしている。
日常の話なのだが、その視点が独特のものがあり、ふっと僕自身が何気なく感じていることとつながっているような気がする。ただ、小説の主題は別にあるのですが・・・。でもそれぞれの小説に表されている感性が、路上観察学やトマソンという形で表現されるようになっていったような気がする。
「お湯の音」は、なんだか切ない。父子家庭の哀愁、子どもに対する深い愛情を感じてしまう。
この時期、作者は、小さい女の子を抱えた父子家庭だったという。小説という形で心情を吐露していくことが必要だったのかもしれない。
昨年、尾辻克彦こと赤瀬川原平さんが亡くなられた。僕自身、路上観察学やトマソンといったものにすっかりはまった時代があり、路上観察学会が編集した「京都おもしろウォッチング」を片手に京都の市街をうろうろと歩き回った思い出がある。いまでも歩いていてちょっとしたことを楽しんでしまう気質は、この影響だと思う。ちょうど精神的にしんどい時期だったから、いい気分転換になったものである。ありがたかった。
氏のご冥福をお祈りします。
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