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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

百舌鳥ミサンザイ古墳~履中天皇陵~

2015-09-02 17:20:36 | 史跡を歩く
 百舌鳥古墳群には、昔から百舌鳥三陵として、仁徳天皇、履中天皇、反正天皇の御陵として伝えられる南北に連なっている。古墳の大きさもさることながら、この古墳が築造されたころというのは、倭の五王と呼ばれるヤマト王権の大王が、ヤマト王権を背景に中国との国交を結ぼうとした時代であり、日本の国家の形成史を考える上でも画期となる時代であった。
 私が、中学生や高校生の頃は、反正天皇陵として治定されている田出井山古墳については、被葬者については、陵墓として小さすぎるのではないかという理由で疑問視する声はあったが、他の2つについてはほぼ間違いがないものという感じであった。仁徳天皇陵に治定されている大山古墳については、古墳時代の中期の基準となる古墳とされていたように思う。
 大学に入る頃には、ちらほらと履中天皇陵に治定されている百舌鳥ミサンザイ古墳の方が大山古墳より古いのではないかという声が聞かれるようになり、いまや大山古墳よりは半世紀ほど早く作られたと考えられている。この古墳から出土した円筒埴輪から考えると、奈良の御所市にある室宮山古墳と同じ頃の築造ではないかとのことである。
 ちょうど、百舌鳥ミサンザイ古墳が築造されていた時期は、倭の五王の時期と重なり、また、古代豪族の葛城氏の全盛期であったと考えられている。ちなみに履中天皇については、倭の五王、讃ではないかともいわれている。(和名から、仁徳天皇とする説もある。)そういったことを考えると何か示唆的なものを感じる。

 百舌鳥ミサンザイ古墳については、大山古墳や古墳の保存運動の象徴となったいたすけ古墳などの陰に隠れ、あまり目立たないが、実は、大山古墳、誉田山古墳につぎ、日本で三番目に大きい古墳なのである。墳丘長は365m、後円部径205m、高さ27.6m、前方部幅235m、高さ25.3m、三段築造となっており、また、両側に作りだしがあるが、東側については、水没していて確認ができないようになっている。もともとは周濠が2重であったが、今は埋め立てられている。

 現在は、履中天皇百舌鳥耳原南陵として宮内庁の管轄となっている。

 

 大山古墳が、三重濠となっていて、墳丘の観察とかが出来ないのに比べると、東側の途中半分と、西側からじっくり観察ができる。百舌鳥三陵と言われている古墳では、一番見応えのある古墳ではないかと思う。

 ■東側

 

 ■拝所

 

 ■西側

 


 西側からは遊歩道になっており、古墳を眺めながらといきたいところだが、後円部の方へ行くにしたがって、古墳の外堤の方が高くなり、道からは見ることができない。ただ、後円部の方に、階段がついており、そこから展望ができるようになっている。

 ■後円部

 

 堺市の百舌鳥古墳群の解説本には、「土の企画美」という表現が使われているが、まさに墳丘の樹々の緑、周濠の水の豊かさなど本当に美しいし、圧巻である。まさか1600年ほどの時を経ているものとは思えない。日本人として誇るべき文化財なのである。残念ながら、あっという間に都市化が進み、そのため、10基ほどあったと考えられる陪冢も破壊され、寺山南山古墳、七観音古墳、東酒呑古墳、経堂古墳の4つのみが現存している。

 

 そして、堺市役所の最上階からの写真、手前が大山古墳で、奥が百舌鳥ミサンザイ古墳。あんまりわからない。

 百舌鳥、古市古墳群については、世界遺産の指定に向けて活動中。地価が値上がってどうにもできないだろうけど、周辺の環境をもう少しどうにかできないのかなといつも思う。

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