奈良国立博物館で、白鳳時代をテーマにした展覧会があったので、ちょうど仕事の調整も出来たので、昼から年休を取って見に行ってきた。ちょうど繁殖期が終わった時だったのかな、途中、鹿の赤ちゃんというか子鹿というのかいっぱいいた。
鹿がとにかくいっぱいいて、信号待ちをしている横に大きい角をはやした鹿が寝そべってたりしていてほんまびっくりですわ。しかし、久しぶりに奈良公園に来て、あんまり鹿のフンとか匂いとか感じなかったんですが、もしかしてちょっとばかしきれいになった?
昔、うちの娘が小さいころ、「ひ」を「し」としか言えなくて、「しかちゃん、しかちゃん」と呼んでいたことを思い出した。私も娘が小さい時のことを想い出すようになったんやなあ。ちょっと横道にそれてしまった。
さて、白鳳展である。奈良国立博物館が建てられて、120周年ということで、それを記念しての展覧会である。白鳳というのは、7世紀の中ごろから8世紀の初頭の間を対象とした文化史上の区分である。白鳳というのは、このころに使われたとされる私年号である。一説には、大化の次の年号である「白雉」の別称ではないかとも言われている。今回、薬師寺の聖観音菩薩立像や法隆寺の夢違観音菩薩立像、野中寺の弥勒菩薩像、興福寺(旧山田寺)の仏頭など白鳳文化を代表するとされる仏像等が一堂に会している。僕自身は特に興福寺の仏頭をぜひ見たいと思っていたので、その展示期間にあわせていくことにした。
白鳳期の仏像については、前代の飛鳥時代前期の仏像と比較すると、非常に表情が違うのがわかる。飛鳥期の仏像が、顔が四角く、表情も生硬なものが多い。また、どことなく異国朝な雰囲気が漂っているのに対して、白鳳期の仏像は、表情が明るく初々しい気がする。興福寺の仏頭などは本当に若々しい青年のような顔をしている。ちょうど日本の古代国家が、律令制国家の確立に向けて伸び盛りであった動きと軌を一にしているかのうようである。
今回の展覧会では、興福寺の仏頭について、ほぼ360度、全方向から見ることができる。後ろに回って気付いたのが、この仏さんって中が空洞だったんだということ。制作過程を知るとそうなんだけどちょっと意外だった。
興福寺の仏頭については、昭和になってから、興福寺東金堂の修理の際にお堂の床下から発見されたらしい。興福寺は奈良時代に創建されたので何で白鳳時代の仏さんがあったかというと、これも文献に残っていて、九条兼実の書き残した「玉葉」に記載があり、源平の内乱期に興福寺が焼け落ちてしまい、その再建に際して、興福寺の僧が、山田寺に押し寄せ、無理やり奪い取ったらしい。無茶なことをしはる。その強奪された仏さんが、この仏頭であるという。そして、室町時代の応永18年(1411)火災に遭い。堂とともに焼け、首だけが残ったのだという。何か数奇な運命をたどっているなあ。ちなみに、薬師如来だそうだ。こうやってみると白鳳時代の仏像の名品には薬師如来像が多いような気がする。「玉葉」も展示されている。
その他、薬師寺の聖観音菩薩立像や月光菩薩立像、法隆寺の夢違観音菩薩立像などがあり、また仏像以外でも薬師寺の三重塔の相輪水煙などが展示されていて見ごたえは十分。途中、いろんなものを見過ぎてこっちが疲れてしまった。
白鳳仏には、意外と銘文が刻まれているのもいくつか残っており、それが印象に残った。例えば、野中寺の弥勒菩薩像には、「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也』と刻まれている。丙寅年というのは、666年にあたり、天智天皇の時代になるのだが、中宮天皇とはだれを指すのか。また、666年にこの銘文が刻まれたとすれば、すでに天智天皇の頃には「天皇」という称号は使われていたということになるのだろうかなどと疑問が出てくる。その他にもいくつかそういった銘文が刻まれている仏像があり、それを読んでいくのが結構楽しかった。
現在、常設展の方は、奈良国立博物館の改修のためお休み。これだけ特別展でいっぱい見れたので、もうおなかいっぱい。頭の中はパンクしそうだったのでちょうどよかったかも。
博物館を出ると、もう夕刻になっていた。鑑賞に疲れてしまった。
※在りし日の奈良国立博物館本館
鹿がとにかくいっぱいいて、信号待ちをしている横に大きい角をはやした鹿が寝そべってたりしていてほんまびっくりですわ。しかし、久しぶりに奈良公園に来て、あんまり鹿のフンとか匂いとか感じなかったんですが、もしかしてちょっとばかしきれいになった?
昔、うちの娘が小さいころ、「ひ」を「し」としか言えなくて、「しかちゃん、しかちゃん」と呼んでいたことを思い出した。私も娘が小さい時のことを想い出すようになったんやなあ。ちょっと横道にそれてしまった。
さて、白鳳展である。奈良国立博物館が建てられて、120周年ということで、それを記念しての展覧会である。白鳳というのは、7世紀の中ごろから8世紀の初頭の間を対象とした文化史上の区分である。白鳳というのは、このころに使われたとされる私年号である。一説には、大化の次の年号である「白雉」の別称ではないかとも言われている。今回、薬師寺の聖観音菩薩立像や法隆寺の夢違観音菩薩立像、野中寺の弥勒菩薩像、興福寺(旧山田寺)の仏頭など白鳳文化を代表するとされる仏像等が一堂に会している。僕自身は特に興福寺の仏頭をぜひ見たいと思っていたので、その展示期間にあわせていくことにした。
白鳳期の仏像については、前代の飛鳥時代前期の仏像と比較すると、非常に表情が違うのがわかる。飛鳥期の仏像が、顔が四角く、表情も生硬なものが多い。また、どことなく異国朝な雰囲気が漂っているのに対して、白鳳期の仏像は、表情が明るく初々しい気がする。興福寺の仏頭などは本当に若々しい青年のような顔をしている。ちょうど日本の古代国家が、律令制国家の確立に向けて伸び盛りであった動きと軌を一にしているかのうようである。
今回の展覧会では、興福寺の仏頭について、ほぼ360度、全方向から見ることができる。後ろに回って気付いたのが、この仏さんって中が空洞だったんだということ。制作過程を知るとそうなんだけどちょっと意外だった。
興福寺の仏頭については、昭和になってから、興福寺東金堂の修理の際にお堂の床下から発見されたらしい。興福寺は奈良時代に創建されたので何で白鳳時代の仏さんがあったかというと、これも文献に残っていて、九条兼実の書き残した「玉葉」に記載があり、源平の内乱期に興福寺が焼け落ちてしまい、その再建に際して、興福寺の僧が、山田寺に押し寄せ、無理やり奪い取ったらしい。無茶なことをしはる。その強奪された仏さんが、この仏頭であるという。そして、室町時代の応永18年(1411)火災に遭い。堂とともに焼け、首だけが残ったのだという。何か数奇な運命をたどっているなあ。ちなみに、薬師如来だそうだ。こうやってみると白鳳時代の仏像の名品には薬師如来像が多いような気がする。「玉葉」も展示されている。
その他、薬師寺の聖観音菩薩立像や月光菩薩立像、法隆寺の夢違観音菩薩立像などがあり、また仏像以外でも薬師寺の三重塔の相輪水煙などが展示されていて見ごたえは十分。途中、いろんなものを見過ぎてこっちが疲れてしまった。
白鳳仏には、意外と銘文が刻まれているのもいくつか残っており、それが印象に残った。例えば、野中寺の弥勒菩薩像には、「丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也』と刻まれている。丙寅年というのは、666年にあたり、天智天皇の時代になるのだが、中宮天皇とはだれを指すのか。また、666年にこの銘文が刻まれたとすれば、すでに天智天皇の頃には「天皇」という称号は使われていたということになるのだろうかなどと疑問が出てくる。その他にもいくつかそういった銘文が刻まれている仏像があり、それを読んでいくのが結構楽しかった。
現在、常設展の方は、奈良国立博物館の改修のためお休み。これだけ特別展でいっぱい見れたので、もうおなかいっぱい。頭の中はパンクしそうだったのでちょうどよかったかも。
博物館を出ると、もう夕刻になっていた。鑑賞に疲れてしまった。
※在りし日の奈良国立博物館本館
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