休日はデジカメ持ってぶらぶらと📷

アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

百舌鳥古墳群を歩く ⑪ ~経堂古墳、乳岡古墳~

2017-02-10 17:17:40 | 史跡を歩く
 かぶと塚古墳のあった住宅街を、少し戻って、元来た道を西へ歩くと、住宅地に中に樹木が刈り取られ、側面がコンクリートで固められた小さな古墳らしき塚がある。

 

 これが経堂古墳と呼ばれる古墳であり、百舌鳥ミサンザイ古墳の陪冢として宮内庁が管理している。古墳自体は直径30mの円墳とのことで、すでに半壊状態ではある。

 

 だた数年前の古墳の周辺を撮った写真では、古墳の周囲が金網に囲われている様子であったのだが、今回、訪れてみると、古墳を削って駐車場のような物が出来ている。これはいったいどうなっているのであろうか。宮内庁が墳丘の周囲を削って整備したのか?何のために?(以前の様子がGoogleマップ等で確認ができる。【経堂古墳地図

 整備はされているのだろうが、どうも傷ついた無残な姿に見えてしまう。もう少しやり方がなかったのかなと思う。経堂古墳も世界遺産を構成する古墳の一つであろうと考えるとどうもいたたまれない気がする。
 
 

 経堂古墳のある住宅街から少し北へ行くと府道34号線を西へひたすら歩いていくとイオンを過ぎたあたりに電力会社の高圧線の向こうに丸い古墳が見える。これ乳岡古墳と呼ばれる古墳であり、百舌鳥古墳群の古墳では一番古い古墳であると言われている。

 

 古墳は、後円部はかなり残ってはいるものの、前方部はほとんど削平されている。まあ、よく言えば後円部だけでもよく残ったものである。保存までの経過をたどってみると、戦後所有者からは、削平して宅地化し、売却してほしいという要望は何度か出ており、また、国のほうもかなり破壊をされているので買い上げてまで保存する価値はないとみていたようで、そうしたやり取りを経て、昭和49年に国の史跡として指定を受けている。まあ、よくぞ残ってくれたというところである。周囲に高圧線とかがあったことも破壊に至らなかった要因なのかもしれない。

 

 乳岡古墳は、昭和47年の発掘調査により、後円部の墳頂に埋葬施設があり、長持型石棺が検出されている。また、石棺の周辺からは、腕輪型石製品も見つかっている。以前はこの乳岡古墳は百舌鳥古墳群の古墳としては珍しく墳丘の上に登れたらしいが、今は金網に囲われて立ち入ることが出来ない。

 

 むしろ、ごみの集積場になっていたりするのがなんだか物悲しい。世界遺産に登録するんだよねえ、本気でと言いたくなる。

 

 乳岡古墳については、墳丘長155m、後円部直径94m、高さ14mの部分が残っている。また、墳丘の周辺は、周濠で囲われていたらしい。なお、先にも書いたように、百舌鳥古墳群の古墳の中では、一番古い4世紀末に造られた古墳ではあるが、後続する百舌鳥ミサンザイ古墳や大仙古墳との関係があまりよくわかっていない。同時代に造られた古墳としては、古市古墳群の津堂城山古墳があるが、それと比較するとかなり落ちるような気がする。いつも思うのだが、乳岡古墳の実測図って、目玉に見える気がする。前方部の残っているところが視神経かな。

 

 いつの日にか墳丘に上ることが出来る日を夢見て、次の古墳へ行こう。

 乳岡古墳から北へ向いて歩いていくと、大きな工場が集まっている工場地域がある。クボタやら日清やら有名企業の工場がある。このうちクボタ堺製造所の中に、檜塚古墳がある。残念ながら、写真の通り工場の厚い扉があり、中に入って確認することが出来ない。

 

 門の外から、首を長くして覗いたりするのだが、全く墳丘等は確認することが出来ず、このままでは、やばい人に見られても嫌なのでほどほどにして退散をした。ここだけが唯一どうにもこうにもならない古墳である。堺市さんどうにかしてください。檜塚古墳については、履中天皇陵の陪冢として宮内庁の管理になっているらしい。全長25mの帆立貝型の古墳であるようだ。Googleマップでは、檜塚古墳の存在を確認できる。【檜塚古墳地図

 現存する百舌鳥古墳群の古墳の制覇が出来ないという失意のどん底にたたき起こされた気持ちを奮い起こしつつ、次の古墳へと歩いていこう!

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