石のカラト古墳より、西へ万葉の小径を500mほど歩いていくと、新興住宅地とマンションの間に公園と思われる緑地帯がある。よく見ると、公園にしては起伏があり、所々に写真のようなコンクリートで何かを表示しているような場所がある。
緑地の北端には、小さな覆い屋があった。中を覗いてみると、押熊瓦窯跡と書かれた説明板があり、その横に1基、復元された瓦窯があった。
説明板によると、押熊瓦窯跡は、平城宮の瓦を焼いた瓦窯の一つであり、平城宮の屋根を飾った瓦を制作していた瓦窯は、この押熊瓦窯を含めて奈良山において、中山瓦窯や歌姫瓦窯、音如谷瓦窯、市坂瓦窯、鹿背山瓦窯などが発掘調査により検出されている。
瓦窯跡から出土した瓦については、中山瓦窯跡から出土した瓦と類似していることから、中山瓦窯の工人集団が中山瓦窯から分かれて新たに制作した瓦窯ではないかと考えられている。
また、押熊瓦窯は、登り窯形式の中山瓦窯から平窯形式の音如谷瓦窯へ変化していく中間の形式とのことである。押熊瓦窯で制作されたと考えられる瓦は、平城宮の馬寮と推定される場所や東院地区から検出されているとのことである。
たぶん、最初に緑地の中で何かを示しているのではと思ったのは、窯跡の場所を示したものなのであろう。
押熊瓦窯跡から、ずっと南へ下っていくと、幹線道路から少し外れると、もうそこは都市ではなく農村の世界が目の前に開かれていく。自動車の音も聞こえない静かな世界である。
まだまだ、奈良市のはずれにはこういう所が残っているのだなあと少しうれしくなってくる。
そうした農村地帯の中に押熊八幡神社がある。押熊八幡神社は、江戸時代の中期に付近にある中山八幡神社から分祀されたと伝えられる。小さな農村の神社としては境内も広く、鬱蒼とした鎮守の森が残っている。
この八幡神社のはずれ、鳥居とコンクリート塀に囲まれた一郭の中に、押熊王と籠阪王の墓と伝えられる石塔などがある。
その石塔は、社殿風の石造物と五輪塔の一部となっており、どちらが押熊王でどちらが籠阪王のものか定かではない。ただ奈良県の遺跡地図を見ると、この墓のある場所は、径15mほどの円墳であるとのこと。調査は行われていないようなので詳細はわからない。
ちなみに押熊王と籠阪王については、ともに仲哀天皇の皇子と伝えられ、仲哀天皇と神功皇后の子である応神天皇と皇位を争い敗死したと日本書紀等には記されている。
周辺の押熊という地名もこの押熊王にちなんだものなのだろうか。
この押熊八幡神社の周辺の風景は、失われゆく日本の風景のような気がして、何とも落ち着いた佇まいである。
こういう風景は、ずっと続いてほしいなあと思う。
この後、中山瓦窯跡を探して周辺をうろついてみたのだが不明。案内板もなく、どうやら民家の下になっているようであった。
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