押熊八幡神社から、中山瓦窯跡を探すも見つけることができず、県道に戻り、次の目的地である五社神古墳(神功皇后陵)をめざすことにした。あとで考えると結構な距離を歩いていて、3kmほどの距離になる。途中、小腹が空いたので、お気に入りの来来亭で昼食を取った。
そして、奈良大学付属高校を過ぎたあたりから、田んぼの中を通っていくと、五社神古墳(神功皇后陵)の西側の外堤に登ることができる。
外堤に登って墳丘等を観察するも、五社神古墳の周濠は天理市にある行燈山古墳のように段築で造られており、同一平面になっていないので、全体を一望にすることができない。
前方部の渡土堤には、樋が設けられている。かなりの段差がある。この渡土堤は、江戸時代の修復で設けられたものもあり、周濠全体が、築造時のものではないようである。
五社神古墳は、墳長267mもある巨大な前方後円墳で、古墳時代の中期の初め、4世紀の末葉に築造されたと考えられる古墳であり、佐紀盾列古墳群の中では、最大の古墳であり、古墳が属する西群では、佐紀陵山古墳、佐紀石塚山古墳に次いで築造されたと現在は考えられているようである。
墳丘は、後円部が四段、前方部が三段であるとみられる。
拝所には、写真のように石灯篭が並べられている。これは、江戸時代以前に神功皇后陵として考えられていた佐紀陵山古墳に武運長久を祈って建てられたものを、五社神古墳が、神功皇后陵として治定される際に移築したものである。
神功皇后に武運長久を祈るのは、日本書紀等に記載されている三韓征伐の故事によるものなのだろう。
ちなみに五社神古墳(神功皇后陵)の制札は、拝所から少し離れたところにある。仲哀天皇皇后神功皇后狭城盾列池上陵と記された制札からは、石畳の道を小さい丘を周って登っていくことになる。
今度は、拝所の前を通り過ぎて、五社神古墳の東側へ回り込む。ずっと池が続いていて、古墳の墳丘までの距離ができる。
この池をずっと長年、五社神古墳の周濠だと思っていたのだが、どうやら、一部は周濠ではあるが、ほとんどは後世のものであるようである。おそらくもとは古墳の形に沿った周濠だったを拡張したと考えた方が良さそうだ。
東側は、古墳と道路との間に畑地などがあり、牧歌的な雰囲気がする。
残念ながら、五社神古墳をぐるっと一周することは北側の後円部で道が切れており、不可能である。
ちなみに調べてみると、古墳の西側に陪冢として円墳と方墳が三基ある。(ちなみに神功皇后陵の陪冢としては、5基治定されている。)
しかし、この古墳も何回か来ているのだが、そのたびに古墳の巨大さに圧倒されてしまう。神功皇后と言う伝説上の人物が本当に埋葬されているのかどうかはさておき、かなりの権力をもった大王級の人物が埋葬されているのだろう。そういえば、江戸時代の盗掘の記録では、長持形の石棺があったそうだ。
この後、近鉄電車の京都線を横切り、佐紀陵山古墳、佐紀石塚山古墳に向かうことにした。
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