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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

千早赤阪村立郷土資料館です。

2014-05-17 21:33:30 | 博物館へ行こう
 非常に良いお天気だったので、奥さんに自動車を運転してもらって、大阪府の南東、金剛山の麓にある府下、唯一の村千早赤阪村の郷土資料館へ行ってきた。
 郷土資料館の横には、楠公誕生地という石碑が建てられている。

 

 楠公というのは、南北朝時代の武将、楠木正成のことである。楠木正成の誕生の地と伝えられる所がここである。石碑の近くに寄ってみると、古い皇太子やら宮様などが植えた樹木であることを顕彰する石碑が多く建てられていて、戦前の楠木正成の評価というものを想像させるものである。戦前、戦中の楠木正成像というのは、皇国史観のもと、大日本帝国の大忠臣であった。国家主義イデオロギーを具現化した人物として扱われていた。千早城址や上赤坂城址、下赤坂城址などが、昭和9年という時に、早々と史跡に指定されたのは、こういった風潮と無関係ではないだろう。戦後は、後醍醐天皇の建武の親政を実現した功臣の一人ではあるが、悪党の代表格として、当時の権力構造からはみ出た人物として評価されていたような気がする。(林屋辰三郎氏の長者説はその代表的な考え方ではないだろうか。)戦前戦後では、かなり評価が変わった人物の一人ではないだろうか。

 

 この石碑のある場所であるが、後年の発掘調査で、実際に中世の館跡が発掘されており、あながちない話でもなさそうである。

 さて郷土資料館ではあるが、昭和61年に建てられ、1階は、この近くにある古墳、御旅所古墳、御旅所北古墳で出土した須恵器や銅鏡や楠木正成の関係のものを展示している。小さいが、千早城を復元した模型もあった。2階は、民具や戦後間もない時までこの地方の産物であった高野豆腐についての説明などが展示されていた。今は、もう作られていないらしい。

 郷土資料館であるが、せっかく郷土の有名人楠木正成を取り扱うならもっと徹底的にすればいいのになあと思ったりした。太平記の絵巻や南北朝時代の兜や腹巻が展示されていたが、果たして楠木正成なる人物を今の若い人はどれほど知っているのかどうかわからないのだから。
 
 

 郷土資料館の入り口の横には、まさしげくんというゆるキャラが置かれていた。どことなく控えめな感じであった。郷土資料館のパンフレットについていた地図、あれではどこもいけないと思う。たぶんこの郷土資料館を訪れる人のほとんどは周辺の遺跡などの情報が欲しくて来ているはずなので、もう少しわかりやすい地図にしてもらえるとありがたいのだが・・・。大体方位自体がわからない。

 郷土資料館を出て、しばらく行くと楠公産湯の井戸があった。田んぼの中を降りていくのだが、ちょっとひなびた感じが趣があってよかった、

 

 階段を下りていくのだが、その前に、手作りの武者人形がお出迎えしてくれる。

 

 

 覆屋があり、水は枯れていない様子で、ちょろちょろと水の音がしていた。遺跡自体が地域の人にも親しまれている雰囲気を感じた。

 郷土資料館の横には、府下で一番最初に作られたという道の駅「ちはやあかさか」がある。民家を改造したのかと思われるような建物。

 

 郷土資料館からの階段には、下の写真のように日本一かわいいと書かれている。まあ物は言いようである。

 

 千早赤阪村に入るとき、「一冊の絵本のような村」というキャッチコピーを見つけた。大阪には何となく似つかわしくないコピーではあるが、わかるような気がした。変に開発せず牧歌的な景色を残してほしいなあと思う。

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