太田裕美の1978年作品、『海が泣いている』のCDを買ってみた。確かにLPを所有していたはずだが、いくら探しても見つからないため、CDを買ったのだ。やはり、記憶どおり、当時流行のLA録音で、ギターはリー・リトナーだった。さすがにいい演奏だ。録音も良い。太田裕美のアルバムの中でも評価の高い一枚である。しかし、どうも当時の印象と違う気がする。やはり、太田裕美はアナログ盤で聴くべきものなのだろうか。それとも時代が変わってしまったという事だろうか。
①「スカーレットの毛布」に懐疑的である。webで検索するとファンの間ではかなり高い評価をえているようだ。軽快なリズムにのせて、当時流行のAOR的なシティーポップが展開される。今聴いてもお洒落なサウンドだ。クオリティーの高い音楽をめざし、太田裕美が名実ともにアイドルを脱皮して《アーティスト》へとテイクオフしようとする意欲がうかがえる。実際、悪い作品ではない。当時の私も拍手喝采を送っていたのかもしれない。
しかし、である。この違和感はなんだろうか。今という地点からみると、私の考える太田裕美的世界ではないということになろうか。この曲を太田裕美が歌わねばならない《必然性》が感じられないのである。お洒落なサウンドではあるが、リズムに、メロディーに同化できない。歌詞をじっくり聴く気にもなれない。どのような詞なのか、興味が湧かないのである。太田裕美的名曲とは、聴衆と時代を共有し、太田裕美そのひとでなければ表現できないと思われるような世界を表現したものだった。この曲にはそれが感じられない。サウンドのクオリティーは高いが、太田裕美的必然性がどうしても感じられないのだ。もちろん、こう考えるのは聴き手の勝手な思い込みであり、私の独善的な思考のなすところである。けれども、「音楽」というものが、演奏者と聴き手の関係性によって成立する限定された時間と空間なのであると考えると、この曲に対する高い評価というものに懐疑的にならざるをえないのである。どうやら、「スカーレットの毛布」は、私にとって時間というろ過装置をくぐりぬけられなかった作品といえそうだ。
このアルバムで私が太田裕美的世界を感じるのは、例えば「茉莉の結婚」であり、「水鏡」である。