皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

鳥居強右衛門居宅跡

2018-05-14 20:43:28 | 行田史跡物語

 行田市の中心を走る国道125号線、市街地に建つ商工センター脇に小さな史跡跡が二つ建っています。一つは商工センター敷地内にある忍警察署跡。そして道を隔てて反対側に建つ「鳥居強右衛門居宅跡」です。特に強右衛門居宅跡は貸しビルの敷地生垣に隠れるように建っていてその姿に気づく人も少ないでしょう。
 史跡の説明には「天正三年(1575)三河長篠城救援軍師として役割を果たし磔死した鳥居強右衛門の第十二代商近は松平家家老として五百石を以てここを忍の居宅にした」とあります。鳥居強右衛門(とりいすねえもん)とはいかなる人物だったたのでしょうか。
文政六年(1823)幕府は忍藩主阿部正権(まさのり)に陸奥白河へ転封を命じます。忍藩に入ったのは桑名藩松平忠尭です。「三方領地替」と呼ばれます。老中を輩出し、幕政に影響を誇った忍城の歴史の転換点とされます。
 桑名から入った松平家は下総守、その祖先は三河長篠城主であった奥平信昌と家康の長女亀姫との四男松平忠明を初代とします。その長篠城主に仕え、家康に命を賭けて急を知らせたのが初代鳥居強右衛門とされます。自らは磔にされて命を落としますが、軍神として祀られ、その子の信商は武士として取り立てられ初代松平忠明に取り立てられます。そして鳥居家は代々家老を継ぎ十二代商近の時桑名から忍に来て居を構えたとされます。

十三代商次の時に明治維新を迎え、慶応四年(1868)官軍が羽生より進軍し行田町に入り大砲を地獄橋に構えて藩主に勤王の確証を求めました。藩主と先代との間には意見の相違があり、鳥居をを含めた家老5名のうち署名するのは一人、万事があれば切腹をという状況で、顔を見合わせた家老の内鳥居強右衛門が進み出て一人署名したとして、藩を救った名家老として語り草となったといいます。
 
貸しビルには長く大手音楽教室が入り、子供も多くみられましたが、残念ながら撤退しテナント募集となっています。明治から数えて百五十年。来年の今頃には次の元号となっていますが、史跡を通して様々な歴史を読み解くことができます。
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川圦神社と人柱伝承

2018-05-12 22:00:47 | 神社と歴史

 加須市外野の川圦神社。外野の地名については先述の通り、かつての古利根川が本流であった頃、坂東太郎の名のにふさわしく幾度となく流れを変え、堤の外に位置していたことに由来する。明治に入り外野村が大越村に合併された際、村格から無各社になった歴史があるという。
 祭神は弥都波能売神(水波能売命)と河菜姫命。どちらも水神にあたり、水波能売命は古事記に於いて伊邪那美命が迦具土命を産み焼かれた際に、伊邪那美命の尿からなった神とされている。尊い水の神として祀られている。

 歴史散歩利根川の碑によれば川圦神社のあった堤防の外、現在の河川敷の中にはかつて川圦河岸という船着場があって大変賑わっていたが、船運の廃止でいつしか河岸は姿を消してしまった。また利根の改修で堤防が拡張され、神社も今の場所に移された。
 ある年連日の大雨で水かさが増し、堤が切れそうになり、地元の人々は神仏に祈ったが水は引かず、村人の中から「人柱を立てねば村が流される」という声が出た。その時川を越えられずに近くに留まっていた巡礼の母子が目に入った。血気走った村人によって母娘は激流に投げ込まれ、雨はやみ堤も事なきを得たが、それから村には疫病が流行り農作物も不作が続き、凶事が続くこととなった。
 水難から村を救うためとはいえ、旅の六部を人柱として利根川に投げ込んみ、不幸が続くのは六部の祟りだということになって、村中恐れおののいた。六部とは六十六部の略で、六十六回写経した法華経を以て霊場を廻る僧のことで巡礼者と考えられる。「六部殺し」として各地に怪談として残っていることが多い。その後六部の霊を川圦神社に祀り供養したという。
 水難に苦しんだ村人たちが後世に伝えようとしたことはどういったことなのか。村という共同体を守るために誰かを犠牲にしてはならないという戒めのように感じる。但しこうした伝承を経て、当時の村の様子を後世に伝えるという強い意志も感じることができる。
 今日も境内の北側には雄大な利根川の流れを抑える堤を見ることができる。水難の歴史を物語るようにしっかりとした少し小高い土台の上に美しい社殿が建っている
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加須外野 新田稲荷

2018-05-11 21:41:26 | 神社と歴史

 加須市最北部の外野は利根川と古利根川の分岐点にあたる。県道46号線を大利根方面に走り、埼玉大橋を超えれば北川辺に入る。古利根川がかつて幹流であったころは、坂東太郎の名の通り、この付近で幾度となく流れを変えたらしい。外野の地名は往時、村がその堤外にあったことを示している。
 付近の川圦神社や鷲神社にはそうした利根川の決壊を防ぐための人柱となった話が残っている。この新田稲荷は明治期の合祀政策で川圦神社に合祀された歴史があり、神社としての登記も単独ではされていないが、例のごとく合祀後村に凶事が起こり返還されたとされている。

田植えが終わった後で水田に囲まれた様子は神々しくも水面に映るようだ。社殿裏には明治期に建てられた月待講の石碑が建てられている。また稲荷神社の神使である狐も供えられている。

明治期の神社合祀政策は特に地方においては地域の共同体の総意に反して行われた部分が大きかったと思う。埼玉の神社を読みながら、合祀後村に災い、凶事があり合祀を免れた等の記述がとても多い。祟りを理由に村に神社を残そうとしたと考えた方が自然のような気がしている。稲の成長と共に緑に囲まれた稲荷神社はより一層美しく映えることだろう。毎日この脇を通りながらその様子を目にしている。
 
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忍城 谷郷口六ツ門

2018-05-09 12:51:35 | 行田史跡物語

忍藩の穀倉地帯、谷郷、星宮に通じる重要な道の出入りを見張る谷郷御門。明六ツ暮六ツに開閉するのでいつしか六ツ門と呼ばれ地名となった。明け六ツ暮六ツとは江戸期の時刻法で現在の朝晩六時にあたる。

忍城は関東の名城として築城以来二百八十年の歴史を経て明治六年に取り壊された。明治二十一年忍橋から東照宮境内の南を通過し持田へ抜ける行田・熊谷線が開通し、この道路工事の請負人であった田村重兵衛に払い下げ、重兵衛は日頃信仰する加須の不動尊(総願時)に寄進している。これが黒門であるという。黒門は総欅造りで門扉は一枚板からなる。

今年の大河ドラマは幕末から維新にかけて西郷隆盛が描かれているが、ここ忍藩に於いても廃藩置県・版籍奉還は大きな出来事だった。財政は逼迫し、藩主と侍は居場所も仕事もなくなったのだ。昨年の市民大学講座でも当時の混乱ぶりについて触れられていた。大手門を始め忍城払い下げ入札価格の合計は2334円。現在の価値で四千五百万ほどですべて払い下げられたと考えられている。
 戦国時代15世紀後半から四百年あまり続いた忍城の歴史は幕を閉じたとされる。現在残る場内の建築物はこの総願寺黒門のほかに郷土資料館敷地内に立つ高麗門だけだとされている。
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沼尻神明社と御高盛り

2018-05-08 21:50:33 | 神社と歴史 忍領行田

行田市沼尻地区は忍川の左岸に位置し、持田、皿尾と隣り合う区域で中里の東になる。地名の由来は条里制の遺構にあるとされ、中里も同じ由来であり条里制水田遺構が埋没している。創建年代は不明だが正徳三年(1714)再興の記録が見られるようだ。明治期に中里村鎮守八幡神社への合祀が見られたが、当時から通学区が持田地区だったため、合祀を免れた。皿尾、中里と隣接しながら村づきあいは持田と深く、剣神社の氏子とかぶっていたらしい。中里の本村から離れていたためだ。

ご祭神は大日女貴(オオヒルメムチノノミコト)即ち天照大御神。古くより境内に大木があり、また拝殿には扉がなく子供の遊び場となっていたが、汚されるという意見から扉を設けると、氏子に病が多く出て不幸が続き、『お鎮守様は子供が好き』ということで扉は外されたと伝わる。

こうした村の不幸や災いが神社の信仰と結びつく話は非常に多い。特に明治期の合祀政策に対し、村の災いから合祀を避けたとする記述は埼玉の神社に多く見られ、とても興味深い。本当に不幸があったのか、村の鎮守を守る口実か定かではないが、鎮守様をとられてはかなわぬといった意識が垣間見えるようだ。寛政期の賽神も残る。
 五穀豊穣を祈願する『お高盛り』という行事が残っているそうだ。神社での祭典後、拝殿で御神酒を頂き、白米を手に取って食べる。その後宿に移り「神明宮」の掛け軸をかけて座り各人の前に御馳走を並べ、膳を掛け軸前にも供える。一同がまず普通の椀で白米を食べ、酒を五合飲み、「十分です」というと、総代が『ではお高盛りを始めます』と宣言し、黒塗りの椀に5合のご飯を山盛りにして各人に差し出す。これを一粒残らず平らげないとその家はその年豊作に恵まれないという。かつては年に三回の行事だったという。
 現在この行事が続けられているのか非常に興味がある。大正期までは長雨が続くと「日和揚げ」と称して晴れを祈って忍川に男衆が飛び込み、体を清めて神社で祈祷したという。
 わずか二十軒足らずの氏子戸数にも関わらず、こうした行事を行いながら地域の繁栄を願いつつまとまっていたことがよくわかる。
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