皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

北川辺麦倉 八坂神社

2018-05-07 16:48:25 | 神社と歴史
旧北川辺町は、埼玉で唯一利根川の左岸にある地域です。武蔵、下総、下野とそれぞれ歴史が交わりながらこの地を形成してきたのでしょう。水の町として日本百選にも選定されています。渡良瀬川、利根川に挟まれて湿地を開拓しながら、水害に耐えこの地で生きてきた人々の営みはどういったものだったのでしょう。
利根川に架かる埼玉大橋です。徳川による施策として、利根川を東に流すための瀬替えにより、江戸は洪水から逃れましたが、この北川辺の地は陸の孤島となって寛永年間から、昭和50年代まで被害を受けた水害は八十五回を数えます。このため多くの農家は塚を築き、その上に蔵を建て、水害予備舟を備えていたといいます。
地上から見上げる埼玉大橋と近くにあった十九夜塔です。水害の多い地域は、多くの歴史資料を失っていますが、近年では、残された資料を保存したり、無形文化財を継承するなどの活動が盛んになるようです。社殿には多くの絵馬や松本備前守在銘の太刀が納めらているといいます。
「風土記稿」によれば、この地の開拓は明応期頃で、(1500年前後)石川権頭義俊が領主となって治めたが、羽生城と争って敗れたため廃村となっています。羽生城主は戦上手で知られる木戸伊豆守忠朝です。その後石川家の家臣が当地を再び開拓し、村の鎮守の鷲神社や牛頭天王を祀り、明歴元年(1655)持明院持ちとなります。
明治の神仏分離で、寺の管理を離れ社号を八坂神社に改めて御祭神を須佐之男命としています。江戸期には牛頭天王と呼ばれ、疫病避けの神として、また利根川の守り神として信仰されたようです。農作物にまつわる禁忌として、八坂様の祭りに備えてからではないときゅうりを食べてはならないとされていたようです。こうした作物に関する禁忌、言い伝えは多く、いつか各地の禁忌について調べてみたいと思っています。(「埼玉の神社」参照)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川辺 柏戸鷲神社

2018-05-04 20:48:00 | 神社と歴史
古河方面から新三国橋を下り、向古河を過ぎて北部地域が柏戸地区だ。柏戸字新田というように、ある時期以降に開発された地域だ。武蔵、下野の境にあたり、古くは古河公方足利氏に仕えた武士が住んでいたが、足利氏の衰退と共にこの地に土着し、開発したとされる。主祭神は天穂日命。
古くから相撲の盛んな土地柄で、江戸期の初代柏戸(大関)はこの地の出身であり、昭和の名横綱柏戸は十一代にあたる。また氏子の中には立行司式守伊之助に養子入りするものもあったという。柏戸地区の総鎮守として祭られていて、この他上、中、下地区でそれぞれ出流神社、八幡神社、日枝神社を祭っている。県内でも田植えの時期が早く、ほとんどの田んぼで、田植えが済んでいた。北川辺区域には多くの鷲神社が勧請されているが、時期は前後しても何れも北葛飾の鷲宮神社から勧請したとされている。鷲宮神社は出雲族による関東最古の神社とされている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前谷天神社と光明寺

2018-05-01 21:47:15 | 神社と歴史 忍領行田

 国道17号熊谷バイパスを鴻巣から走ってくると渡柳を過ぎてなお豊かな田園風景が続く。下忍交差点の先行田駅に向かう方面が前谷地区。古くは持田村の一部で前谷新田と呼び、『風土記稿』にも持田村の小名として前谷村と載っているそうだ。言い伝えに『三千坊沼。前谷にあり。古は大沼なりしが今は田んぼとなる。この沼に鐘沈みしを成田竜淵寺和尚法力を以て取り上げ、寺に持行、其の休みし処を鐘置橋といふ。鐘置橋は皿尾より上之村へ行く中程小川に係る橋をいふ也。然して龍淵寺に在りしがしが今は常陸筑波山にありといふ。』(増補忍城名所図会)この橋の場所は定かではないが、忍の行田の昔話にある『沖の天神』につながっているように思う。新田開発後も治水に悩む湿地帯で古くから水損の地であったとされる。所謂悪田と呼ばれる地域だ。しかしながらこうした治水に悩む地域はかえって相互の協力を生み、神に対する信仰も厚くなるのだと思う。共同体として苦難に立ち向かうと団結するのだろう。

神社境内北には真言宗光明寺が経っている。光明寺には不動堂があり、『前谷の不動様』として各地から信仰を集めていた。理由は昔悪病が流行った際、この不動様を信仰していた人々は軽くて済んだと伝えられていることからだ。真偽はともかく各地から講社が集い三月末の百万遍の日には各講社からの代参で賑わった。また光明寺には江戸期の法華経が残されていて八巻の内三巻が金銀泥で交互に書かれ文字も鮮明に残されている。(市指定有形文化財)

 
参拝の際は神仏両方に参るのを例としている。昭和40年代頃から多くの講社は途絶えたとされているが、新興住宅が立ち並ぶようになった今でも寺社共に昔の佇まいを残している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする