皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

塗り替わった勢力図

2019-03-19 21:36:33 | 物と人の流れ

平成の小売り業は急成長したコンビニや、近年売り上げを伸ばしているネット通販に目が向けられがちだが、売り上げ規模の統計からすれば、そのトップはスーパーマーケットだという。経済産業省の商業動態統計によれば、平成元年(1989)小売業の王者だった百貨店の売り上げは

平成三年(1991)をピークに減少し2018年年には半分になってしまった(6.4兆円)平成5年(1993)にトップにったったスーパーは人口減少社会においてもその売り上げは横ばいながら13兆円規模を維持している。

 急成長したコンビニは2018年度には売り上げ総額12兆円とスーパーとの差を約1兆円にまで迫っているが、店舗数の飽和状態が叫ばれ(5万5千店)、なおかつ昨今では営業時間や契約形態に対して社会的に厳しい目が向けられている。

 またアマゾンや楽天といったネット通販が平成の終わりになって急激にその販売力を強め、急成長している。物販に限っても年々右肩上がりに売り上げを伸ばしており、総額は約8兆円とみられている。スーパーの約三分の二の売り上げ規模だ。特に物流において大手宅配業者も絡めて追いつかないほ社会に影響を及ぼしている。また物流に必要な段ボールは近年その材料確保が難しいほど需要が増しているという。

 10年後20年後、小売りの店舗はどうなっていくのだろうか。通販に負けて衰退の道をたどるのだろうか。

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明日にきらめけ

2019-03-14 21:23:03 | 心は言葉に包まれて

平成の御代も終わりに近づき、30年の時代を振り返る企画や番組も多くなっている。勤務する会社の店内放送にも平成の時代を彩ったヒットナンバーがかかり、毎日懐かしく聞き入っている。

GReeeNのキセキは平成20年の曲。TBSドラマ『ROOKIES』の主題歌だった。少年週刊ジャンプに連載していたころから好きだった。

子供の小学校の運動会や朝のマラソンの音楽として流れているので4年生の息子も所々唄ってくれる。

明日今日よりも好きになれる あふれる思いが止まらない

今もこんなに好きでいるのに 言葉にできない

君のくれた日々が積み重なり 過ぎ去った日々 二人歩いた 『奇跡』

僕らの出逢いがもし偶然ならば 運命ならば 君に巡り合えた それって 奇跡

二人寄り添って歩いて 永久の愛を形にしていつまでも君の横で 笑っていたくて

ありがとうや AH 愛してるじゃ まだ足りないけど

せめて言わせて 『幸せです』と

明日今日よりも笑顔になれる 君がいるだけでそう思えるから

『明日今日よりも好きになれる』という現在進行形の表現は人の心に明かりをともしてくれる。振り返ることよりも前を見ることを教えてくれる。『好き』という感情でさえも、今日よりも明日と時間と共に高まっていく。そんな毎日を過ごしたい。

原作の漫画家森田まさのり先生は『ろくでなしBLUES 』の中でも多くの名言を残している。大の阪神ファンで『ROOKIES』の登場人物は85年優勝当時の阪神タイガース往年の選手の名前が多く使われている。主人公は代打の切り札『川藤幸一』。川藤の名言はファンの間で数多く取り上げられている。その第一位は

『夢にときめけ 明日にきらめけ』

GReeeNの歌と共に色褪せることない名言が心に残っている。

弥生も半ばを迎え桜の季節もあと少しだ。

 

 

 

 

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ぺーヤングとTVCM

2019-03-14 20:32:56 | 食べることは生きること

お昼に一人きりの時には焼きそばが食べたくなる。四角い容器といえばペヤングソース焼きそば。発売は1975年というから40年以上の歴史がある。2014年にTwitterで異物混入騒ぎが大事となり、自主回収の上販売休止になったのが記憶に新しい。むしろその後販売再開後、あまりの人気に品薄が続いたことの方が驚きだった。スーパーの店頭でもいつ入ってくるのか分からず、棚割りに苦労していたように思う。

一度無くなった棚位置を戻すには相当の努力が必要というが、ここまで顧客に浸透していると販売休止後も再開を待ちわびている人も多かったのだろう。ロングセラーのA商品となるのにはそれなりの理由があったのに違いない。

 販売しているのはまるか食品で本社は伊勢崎市だ。食品問屋にいた頃、担当ではなかったが会社が卸売をしていて、工場が近かったことのあり、納品ではなく引き取りに行く取引形態だった。要するに自社便を持っているところはその方が運賃がかからない。商品を段ボールに10個または12個詰めて1ケースとして流通取引するが、2ケース(箱)をPPバンドで縛って1縛りで取引することを1甲(ひとこうり)と呼んでいた。

文脈で説明しても伝わりにくいが、群馬方面からから来ていたベテラン営業マンは「1甲」を「ひとっこうれ」と発音していた。群馬、本庄方面の販売店は皆そうだったように思う。所謂上州なまり。営業の会話の端々にこうした訛りがちりばめられていて、聞いている方はわかりずらいが、今から思うと味があってかっこよかったように思う。そもそもその営業マンは「ペヤング」ではなく「ぺーヤング」と呼んでいた。

 子供の頃ペヤングソース焼きそばといえばTVCM。四角い顔の落語家が出ていた。当時の桂小益(9代目桂文楽)。1980年代前半のCMで柔道部員と落語家がやり取りしていた。

「どうだい味は?」「まろやか~」「もう一丁いく?」「オッス!」

いまだにこのフレーズを覚えている。子供の頃に食べた焼きそばの味は40年近くたっても変わることがない。

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行田の初午と伝兵衛長屋火事

2019-03-12 00:05:51 | 風の習わし時を超え

「春が来る来る初午祭、幼馴染の掛け行灯(あんどん)」行田音頭の一節にも唄われる行田の初午祭。立春を過ぎて最初の午の日を初午と呼び、その起源は山城伏見稲荷の御例祭が和同四年二月九日であったことに由来する。但し旧暦にあたり、今年に限れば三月十日になる。

 稲荷社は全国数多く、江戸期においては「伊勢屋稲荷に犬の糞」といふほど武家屋敷から市場に至るまでそこかしこに稲荷の社があったとされる。行田町は江戸期において数多くの火災にみまわれ、屋敷はもとより古くからの神社仏閣も焼かれてしまった記録が残っている。

 

弘化三年(1846)二月の大火は午後五時蓮華寺町御家中鵜野伝兵衛屋敷から出火し、折からの強風で近世行田町最大の火事と伝わる。伝兵衛長屋火事と呼ばれ「武江年表」にも記載が残る。出火の原因は炊事中出火の半鐘がなったので表へ出たところその勝手の障子が風ではずれ、竈の上に倒れて、一度にどっと火が上がったという。強烈な西風にあおられ、北谷、御堀端、新町を焼き飛び火は埼玉村まで至って材木を焼いたという。

 弘化三年は丙午の年で、火事にあった二月二日が初午の日であったことから行田町では初午に各家々で屋敷稲荷を祀ることが盛んになったという。丙午の年には火事が多いとか、月初めに初午が当たり、二の午、三の午とあると火が出やすいといった言い習わしがあり、初午の晩には風呂を焚かないといった風習が広まったとされる。昭和期まではこうした風習がかなり残り、市内の銭湯や当時は珍しかったサウナ店も、初午には店を休んでいた。昔気質の父はこうした風習に厳しく、幼い頃まだ寒さ厳しい初午の日に風呂に入れないと、子供心に悲しい思いをした記憶が残っている。

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弘法大師と我空薬師(がっからやくし)

2019-03-11 22:25:49 | 郷土散策

行田市長野林地区に建つ薬師堂。縁起によればその昔弘法大師がこの地で加持祈祷をし、木を植え薬師如来を祀るよう人々に人々に諭したという。大師は「信仰の篤い人々が頼めば、必ずご利益を与えてくださる」といってこの地を去ったという。

 いつのころからか、植えられた木は光り輝くようになり、夜道でも薬師堂にたどり着くことができるようになったという。

その後、木の根元から泉がわき、その湯に浸かると万病に効いたとされる。「薬師の井」として評判が立ちそのころから夜になるとどこからともなく森の中から「ガッカラ、ガッカラ、、、」と唐臼を引く音が聞こえるようになった。その音が薬師様から聞こえるということで、「ガッカラ薬師」と名がついたという。

評判となった「薬師の井」は近隣からも水を受けに来る人々が絶えなかったが、いつしか心無い者が目を付け、勝手に浴場を開いて大繁盛となり「霊泉の町」となった。いつしか湯屋は歓楽街となり湯場のの権利で争いが絶えなくなると、享保期に忍城主阿部豊後守正喬は一帯の浴場を禁じてしまったという。しかし「薬水」の効き目は衰えず各地から水を受けに来る人は絶えることがなかった。

正徳六年(1716)この地の住職がなくなると、我空の森に葬られ、死体を埋めた人々は高熱にうなされたという。薬師様を穢した罰が下ったと口々にいうもので、亡骸を別の場所へ移すと、熱はたちどころに引き、皆正気を取り戻したことから、ガッカラ薬師の霊験あらたかと益々信仰を集めていったという。

弘法大師にまつわる伝承は若小玉地区にも残っており、全国でも五千以上あるとされている。特に大師がついた杖から泉が湧くという話は多く、その水は弘法水、御加持水と呼ばれ、大師が発見した温泉は近辺では群馬川場温泉や伊豆の修善寺温泉などがある。

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