皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

酒巻 八幡神社

2019-03-11 13:51:22 | 神社と歴史 忍領行田

 利根川と福川の合流点に位置する酒巻は、その昔河岸があり、江戸時代から明治初頭にかけて江戸との生活物資の水運によって栄えたという。地名の由来は「水逆まく故、逆巻が酒巻に転じた」という。

 逆巻の地は関東造盆地運動による地盤沈下が激しく利根川氾濫による堆積作用と重なって、水田下に20基にも及ぶ古墳が確認され、酒巻古墳群と称される。多くの埴輪が出土し、特に14号墳より出土した旗を立てた馬の埴輪は国の指定重要文化財となっている。

また忍城の譜代侍酒巻長安の地として知られ、酒巻家は成田親泰の代から成田家に仕えた。「のぼうの城」では甲斐姫に心を寄せる若侍酒巻靱負が登場し映画では成宮寛貴が演じていた。

明細帳によれば神社の勧請は古く天喜五年(1057)伊予の守源頼義によるものとされる。源頼義、八幡太郎義家親子は前九年の役のにおいて奥州討伐に赴く際、行田の地を訪れ戦勝祈願していることが、行田総鎮守八幡神社に伝わっており、平安期より前には村として開けていたことが分かる。時代は下って慶長十三年(1609)中村左近によって社殿が再建されている。中村左近は当地の名主中村家の祖先で平家の末裔と伝えられる。八幡様は武神として信仰され、戦時中には多くの八幡詣でがなされた。

利根川に隣接しかつては水害も多く堤防拡張工事により氏子が強制移住させられることも多かったという。現在でも境内地脇の堀を渡るとすぐに堤が築かれており、堤防からは坂東太郎の水の流れと共に、遠くには山々の景色に富士の姿を目にすることもできる。

神社の先には地蔵尊があり、八月には地蔵祭りがあるという。子育ての神として子供が生まれると、お地蔵さまに赤い着物を着せている。

今日でも赤い羽織を纏ったお地蔵さまが建っており、信仰の継続が見て取れる。武神と子育ての信仰が村社として守られているようだ。

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笑顔と感謝の卒業式

2019-03-07 22:19:13 | 生涯学習

平成30年度行田市民大学9期生卒業式がものつくり大学にて行われました。二年間慣れ親しんだキャンパスとも今日でひとまずお別れとなります。生涯学習の名の下、多くの市民講座が開かれ学びと共に、仲間づくりを推進しています。わたしがこの市民大学に入学したきっかけは平成28年末、行田市総合体育館の廊下にて募集のポスターを目にしたことがきっかけです。普段平日休みの販売業の現場にて働いていますので、なかなか地域の活動に参加する機会がありませんでした。運動会、自治会活動などせっかく地元にいながら兼務する神社の祭事以外に地元の活動に参加する機会が少ないのは残念なことでしたが、幸いなことに市民大学の講座開催日と、自分の公休日が重なっていたため、思い切って参加することにしました。

 以前にも記しましたが、行田市民大学は開校10年を過ぎ、市役所の公的生涯学習から自立し今村理事長の元、NPO法人として自主運営をしています。勿論市の教育委員会の支援等を受けますが、講師の依頼会場設営、運営費の管理など運営部の皆さんの尽力と学生一人一人の参画によって成り立っています。座って公演を聞くだけではありません。卒業認定も講座の7割の出席が求められます。家庭の事情やご自身の健康問題等で、卒業までたどり着かなかった方も数名いらっしゃいます。

卒業にあたり市民大学の基本理念を振り返ります。

希望に満ち活気あふれる明るい街づくりには市民一人一人が「志」を持って自ら学ぶことにより、見識を高め能力を磨き、自主的に行動することが求められています。市民大学は多くの市民に生涯学習の場を提供し、一人一人が輝き、豊かな地域社会づくりに貢献することを目的とします。

①「自ら学ぶこと」は、楽しいことです。

②「共に学ぶ仲間にであえること」はうれしいことです

③「学んだことを日々の暮らしや地域に活かすこと」は素晴らしいことです。

参加者の多くは所謂定年を迎えられた年配の方が中心ですが、郷土史、社会保障、健康といったテーマについて学ぶことに年齢は関係ないと感じていました。むしろ私の年代(40代)の人の方がこうしたことに自ら進んで学ぶ必要性を感じています。

2年間ご一緒させていただいた歴史文化グループの女性陣です。班内では女性陣ではなく「三人娘」と言っていつも笑顔で話していました。この市民大学がご縁でとても仲良くなっていました。

私を含め男性陣です(写真を撮ってくださった清水さん写せずごめんささい)特に班長さんは埼玉地区の自治会長をされていらっしゃり、今度の埼玉火祭りでは大役をされるそうです。父親に近い年齢の先輩方とお付き合いさせていただき、お世話になっただけでなく、こうして穏やかに年齢を重ねてこられたことをうらやましく思います。

歳は取るものではなく重ねるもの。重ねた年齢の分だけ人として心が広く穏やかになる。そういう人生を送りたい。見習いたい。そんなふうに感じています。

卒業後も不定期ではありますが、神社や史跡を訪ねながら郷土を学び楽しくまた末永くお付き合いいただくことを約束し、思い出のものつくり大学を後にしました。

また理事長さまを始め運営部の皆様、二年間ご一緒させていただいた9期生の皆様に感謝申し上げます。

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栗橋町 島川八幡神社

2019-03-06 22:04:09 | 神社と歴史

古利根川である中川は加須方面から鷲宮にかけてその流れを蛇行させ栗橋との境を成している。栗橋町島川は中川左岸の自然堤防沿いに沿って東西に細長く形成され、近くには中川を横切るように宇都宮線が走っている。八幡神社は集落の西端にあり氏子区域を見守るように東を向いて鎮座している。

送電線の高い鉄塔に囲まれ独特の景観を成しているが明細帳によれば歴史は古く、元禄十五年(1697)の検地以前より除税地となるとあり、村社として祀られていたことが分かる。村社としての信仰は「八幡様は願えばいろいろなことをかなえてくれると」言われ、願いが叶うと紅白の布や額を収めたという。

 

地区の南側を流れる中川は通称島川といい、昔はもっと川幅も広かったという。川の中には大きな島があり、島には家が四、五軒あったが河川改修の際島が削り取られることになって、島の住人は土手の傍らに移る条件として、島川という地名をつけ、川の中に島があったことを代官に約束させたという。また島から移った人たちが開いた裏組という地では住人十一軒で稲荷神社を祀っていたことから、村の鎮守の八幡様に末社として合祀している。

また戦前まではお日待ちにササラを奉納していたという。昔大水の際に獅子頭が村に流れ着いた逸話が残り、若い衆が鷲宮神社から習って始めたとされる。大水に悩んだことから境内には弁天様も祀られていて、安政六年(1860)の年号が見える。

平成になって以来過疎化の進行と人口減少のあおりで多くの市町村が合併し、地名も無くなったところも多い。明治期における神仏分離と神社の合祀政策に対し、自分の村の神社がなくなってしまうことに反対し、村を守ろうとしたところもおおい。地名についてもおらが村の名を残そうと必死に働きかけたことがうかがえる。地名は村の歴史を表すもので、特に水運や交通にについて後世に伝える意義は大きかった。

行政の合理化も大切であるが、歴史を伝える貴重な宝として各地の地名が残ることは大事なことだろう。

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最終講座はグループ研究発表

2019-03-04 22:05:35 | 生涯学習

 遡りますが先月2月21日行田市民大学9期生2学年の最終講座としてグループ研究発表が行われました。会場は慣れ親しんだものつくり大学の大教室です。行田市だけではなく多くの市町村または埼玉県においてもこうした市民大学と銘打った公開講座が盛んで、生涯学習として講座が開かれているようですが、一般の大学に倣ってゼミ形式でのグループ研究をまとめ、各班ごとに成果を発表し年度ごとに資料として残してくれます。こうしたことに負担を感じる方もいらっしゃるようですが、学んだことを地域に生かすという理念の元、各グループごとに資料としてまとめ上げてきました。

 

今年度のグループは4班あり、各グループの発表時間は質疑応答含め25分です。パワーポイント等を使いスライド方式で説明していきます。但し制限時間になると鐘が鳴らされてしまいますので、ある程度事前準備が大切です。

①産業経済グループは『日本遺産探訪』です。

一昨年日本遺産認定を受け、足袋蔵等の指定遺産が整備されたところを再度巡る中で、十分に活用できていない場所を指摘するなど市民の立場からの提言をされていました。

②行田市を調べる グループは 「行田ふるさと検定」について

行田ふるさと検定は市民大学2期生が平成23年に提言して実現しています。昨年度第7回を迎え、行田市の歴史文化継承に寄与しようと内容の修正、加筆をしていました。忍城、成田氏、足袋蔵といったものだけではなく、初午のスミツカレ、スターダストレビューなど郷土文化の今昔を問わず、検定問題が加えられています。

③歴史文化A班は「北武蔵歴史探訪」郷土に伝わる逸話・伝承研究

発表は私が担当しました。

活動範囲を行田市から羽生、加須、大利根といった利根川流域まで広げた経緯を説明し、各所に残る逸話や伝承が伝えようとした意味を自分たちなりにまとめてみました。

行田市には弘化三年伝兵衛長屋火事と呼ばれる大火があり、その年の干支が丙午。火事の当日旧暦の初午であったことから、近年まで(現在でも)初午には風呂を焚かない風習が残っています。こうしたことを知っているか会場の方に聞いてみたところ、3割ほどの方しか手が上がりませんでした。

④歴史文化B班は河原氏に付いての研究です。

武蔵七党に数えられる武士団の私市党である河原氏の歴史を、吾妻鏡に見られる生田の杜の合戦の様子を中心に、郷土の英雄としての河原兄弟の足跡を解説しました。

まとめ上げられた資料は製本化され、図書館にも寄贈されます。また行田市民大学HPにも公開される予定です。

3月7日にはものつくり大学にて卒業式を迎えます。

大学の関係者はもとより共に学んだ皆さんと、仕事や子供の行事などことあるごとに協力してくれた家族に感謝しています。

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五徳の冠者と平家物語

2019-03-04 20:35:06 | いろはにほへと

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。

沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす。

おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。

猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。

インドの祇園精舎という寺の無常堂の鐘の音は「世の中のすべとのものは、生まれては滅び流れては去っていき、とどまることはない」と説いている。お釈迦様が亡くなった時、白い色に変わったという沙羅双樹の花の色は、いま勢いの盛んなものも、いつしか必ず衰える時がくるという道理を示している。おごりたかぶる人もその暮らしがいつまでも続くことはなく、ちょうど春の夜に見る夢の様に儚いものである。そして荒々しい強い者でも最後には滅びゆく。それはまるでたあいもなく吹き飛ばされてしまう風の前の塵に等しい。

 あまりにも有名なこの平家物語の節は今でも小学校高学年で暗唱するほど読み込まれている。

 では作者は誰なのか。諸説ある中で『徒然草』の伝える信濃前司藤原行長が書き、生仏という琵琶法師に語らせたという説が信頼できるという。そして藤原行長の生涯と『平家物語』を書きあげた経緯がまた興味深い。

 

 

後鳥羽上皇の院の御所で開かれた御論議で「七徳の舞」について講義した藤原行長。「一には暴を禁じ、二に兵を治め、三に大を保ち、四に功を定め、五に民を安んじ…」ところがこの後が思い出せなかったという。(六に衆を和し、七に財を豊かにする)

 他の公卿からは「お忘れになられたのか」と問いただされ、上皇に低頭する行長に対し、後鳥羽院はこう諭したという。「七徳の二つを忘れた行長にいい名前を授けよう。今日からそなたを『五徳の冠者』呼ぶがよい」

 あまりの落胆から行長は官職を捨て都の外の草庵にひこもり、今の自分と同じように栄華を極めながら滅んでいった平家一門の物語を書き始めたという。但し源氏や武士にの合戦について造詣はなく、思案していたところ天台座主慈円が物語を読み、源平合戦のことをよく知る琵琶法師生仏を紹介したという。

 こうして『平家物語』が藤原行長によってまとめ上げられたのは建長二年(1250)。無念の思いを抱えながら書きあげた軍記物語は、その後多くの人々の加筆を受けながら今日まで読み伝えられている。

 8百年の後、自分の残した物語が多くの人々から読み知られることを五徳冠者と蔑まれた行長は思いもよらなかったに違いない。

 

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