安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

公共交通と原発を中心に社会を幅広く考える。連帯を求めて孤立を恐れず、理想に近づくため毎日をより良く生きる。

当ブログのご案内

当サイトは列車の旅と温泉をメインに鉄道・旅行を楽しみ、また社会を考えるサイトです。

「あなたがすることのほとんどは無意味でも、あなたはそれをしなくてはなりません。それは世界を変えるためではなく、あなたが世界によって変えられないようにするためです」(マハトマ・ガンジーの言葉)を活動上の支えにしています。

<利用上のご注意>

当ブログの基本的な運営方針

●当ブログまたは当ブログ付属サイトのコンテンツの利用については、こちらをご覧ください。

●その他、当サイトにおける個人情報保護方針をご覧ください。

●当ブログ管理人に原稿執筆依頼をする場合は、masa710224*goo.jp(*を@に変えて送信してください)までお願いします。

●当ブログに記載している公共交通機関や観光・宿泊施設等のメニュー・料金等は、当ブログ管理人が利用した時点でのものです。ご利用の際は必ず運営事業者のサイト等でご確認ください。当ブログ記載の情報が元で損害を被った場合でも、当ブログはその責を負いかねます。

●管理人の著作(いずれも共著)
次世代へつなぐ地域の鉄道——国交省検討会提言を批判する(緑風出版)
地域における鉄道の復権─持続可能な社会への展望(緑風出版)
原発を止める55の方法(宝島社)

●管理人の寄稿
規制緩和が生んだJR事故(国鉄闘争共闘会議パンフレット「国鉄分割民営化20年の検証」掲載)
ローカル鉄道に国・自治体・住民はどう向き合うべきか(月刊『住民と自治』 2022年8月号掲載)
核のない未来を願って 松井英介遺稿・追悼集(緑風出版)

●安全問題研究会が、JRグループ再国有化をめざし日本鉄道公団法案を決定!

●安全問題研究会政策ビラ・パンフレット
こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
国は今こそ貨物列車迂回対策を!

【転載記事】〔週刊 本の発見〕核のない未来を願って 松井英介遺稿・追悼集

2022-01-06 23:11:09 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

------------------------------------------------------------------------------------------------
気骨ある反核医師の生き様から核廃絶の重要性を学ぶ~『核のない未来を願って 松井英介遺稿・追悼集』(松井英介遺稿・追悼集編集委員会・編、緑風出版、3,400円+税、2021年11月)評者:黒鉄好

 核兵器と、核のいわゆる『平和利用』としての原発。その双方に反対し精力的な活動を続けてこられた松井英介・岐阜環境医学研究所長が82年の生涯を閉じたのは2020年8月。お連れ合いの和子さんから「故人の追悼集を出したいので、生前にゆかりのあった人に追悼文を寄稿いただきたい」と評者にも依頼があった。英介さんを中心に発足した「株式会社はは」の会報的なものだろうと思ったので気軽に引き受け寄稿した。贈呈を受けてから、立派な装丁を見て驚いたというのが正直なところである。

 「株式会社はは」は、福島で、子どもの歯の生え替わりで抜けた乳歯を保存、残留する放射性ストロンチウムのデータを記録し被曝の実態を解明するための民間プロジェクト組織である。放射性ストロンチウムはカルシウムに似た性質を持ち、歯や骨に蓄積しやすいことからこのプロジェクトが発足した。「はは」は2018年に開設したばかりで、まさにこれからという時期に英介さんは旅立った。

 評者と英介さんとの関わりは米軍によるイラク戦争に遡る。米軍が使用した劣化ウラニウム兵器の危険性を民衆法廷で証言いただいた。天然ウラン鉱石から原爆や原発の燃料となるウラン235を抽出後、残ったウラン238は核分裂を起こさないため燃料にはならないが、放射性物質であるため利用もできず各国は処分に困っていた。だが地上で最も重い物質である点に米軍が着目し砲弾に転用。砲弾が燃える際に飛散したウラン238を吸って多くのイラク市民が被曝した事実は、英介さんとの出会いなくしては知り得なかった。当時は距離感もイメージできないほど遠い国の出来事と思っていた放射能被曝に、その後よもや自分が遭うことになるとは夢にも思っていなかった。

 原発事故後、福島で今後どうすべきか途方に暮れていた私は、郡山市での講演会で英介さんに偶然再会した。「ヒトの肺胞というのは、大人の場合、広げると面積はテニスコート1面分と同じ。福島で生きるということは、その面積いっぱいに放射能を吸うことです」。肺胞の大きさを印象づけようと、両手をいっぱいに広げて話す「英介節」は昔と変わらず健在で、驚きより懐かしさを感じた。それまでの私は、福島原発事故が巨大すぎて現実感覚を持てずにいたが、8年前は写真で見るだけだった遠い異国の放射能被曝者と同じ数奇な運命を、これから自分も生きなければならないのだと厳しい現実を悟った。

 本書には、英介さんとともに直面したその厳しい運命と、それでも格闘しながら生きることを選択した137人もの寄稿者の思いが綴られている。そこには、原子力ムラの地位と利権に溺れた者たちが世迷い言のように繰り返す根拠なき楽観など微塵もない。緊急事態宣言下で強行された東京五輪は、多くの市民に日本の衰退と精神的荒廃を自覚させる契機となったが、本書の137人の寄稿者たちは10年も前から気づいていたのだ。

 原子力ムラ関係者を福島、そして世界から追放しようとする137人の闘いとそれにかける思いに本書を通じて接してほしい。その闘いはまだ緒に就いたばかりであり、10年経った今もなお、終わりが見える気配はない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【転載記事】〔週刊 本の発見〕女性のいない民主主義

2021-11-04 23:43:46 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

------------------------------------------------------------------------------------------------
なぜ日本で「女性政治家」が増えないのか~『女性のいない民主主義』(前田健太郎・著、岩波新書、820円+税、2020年3月)評者:黒鉄好

 世界経済フォーラムが発表するジェンダーギャップ指数で日本は常に最下位グループで、順位の足を引っ張っているのはいつも政治部門。なぜ変われないのか、女性政治家が増えない理由はどこにあるのか。解決方法はあるのか。その疑問に挑戦している。

 「女性議員が増えなくても、女性の意見や悩みに共感し、耳を傾け、その意見を政治に届けるまっとうな男性議員が増えれば政策決定上は問題ないのではないか」という主張も根強くあるが、前田はこうした意見に対し、民主主義という政治体制の下で「誰が誰を代表しているのか」との疑問を提示。「政治家はみずからの支持者の社会的属性と同じ属性を持っている」と指摘した上で「代表者を持てない社会層の意見は政治には反映されない」と分析。「存在の政治」との表現で、女性の意見を政治に反映させるため、女性政治家を増やすことはやはり必要であるとする。

 前田はさらに、なぜ女性の意見が政治に反映されにくいかについても分析している。政治とは利害関係のぶつかり合いであり、労働組合・業界団体などに集団化、組織化された社会層が有利であることは明白である。こうした組織化は男性中心に行われてきた。女性の組織化が男性に比べて進まなかった理由について、前田は女性の意見や利害関係が男性に比べて多様であることを指摘する。実際、女性は雇用形態ひとつとっても男性の非正規化が問題とされるはるかに前から正規、非正規など多様で、共通の利害関係に基づく社会集団への組織化は難しい面があった。さらに、このような組織化された社会団体から候補者が「発掘」されるケースが多いことも女性が政治から排除されることにつながったとする前田の分析は説得力を持つ。これらは与野党共通の課題であり、女性政治家を意識的に育成する何らかの仕組みが必要であることを示唆している。

 日本で女性政治家が育たない原因についての前田の分析は多方面に及び、納得できるものが多いが、様々な要因が積み木のように少しずつ積み上げられて今日の状態が作り出されていることも同時に見えてくる。「この要因さえ取り除けば状況が劇的に改善する」という特効薬的な解決策は存在しないように見え、それだけに本書を読み進めば進むほど、解決の困難さも浮き彫りになるとともにため息が止まらなくなる。だが、前田が同時に指摘しているのは、政治への女性進出が始まったのは欧米諸国を除けば21世紀に入ってからであり、日本だけの問題ではないという事実である。もちろんそれを言い訳にしてよいわけではないが、「千里の道も一歩から」と腰を据えて取り組む以外にないと思う。

 本書に不足があるとすれば、前田が単純に女性政治家の「数」だけにこだわった議論をしている点である。「どのような女性政治家が増えるべきか」の議論は行われていない。まず人数が増えることが第一であり、「質」の議論はその後でいいと前田が考えていることは本書の他の記述から伝わってくる。だが女性政治家が一定の数を確保した後は「質」が議論される日が来る。前田がそのときにどのような議論を展開するのか。1980年生まれの若き著者の今後も含め、注目すべき1冊である。2020年新書大賞第7位。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【転載記事】〔週刊 本の発見〕企業犯罪を罰するには~JR福知山線事故から生まれた1冊

2021-09-02 20:33:57 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

----------------------------------------------------------------------------------

組織罰はなぜ必要か』(組織罰を実現する会・編、現代人文社ブックレット、1,200円+税、2021年4月)評者:黒鉄好

 企業や法人、政府機関などの組織が不注意などの過失により事故を起こし、多くの被害者を出しても、日本には100年近く前に制定された刑法の規定により責任者の「個人としての罪」を問うことしかできない。法人にも罰金刑を併科できると定めた法律も一部にあるが、あらゆる形態の組織犯罪を網羅して、そのような規定を持つ法律は存在していない。このため、大組織になればなるほど責任と権限が分散、「誰もが少しずつ悪いが決定的に悪い人は存在しない」という壁に阻まれ、日本では墜落事故で520人が死亡しても、脱線事故で107人が死亡しても、原発事故で10万人近い人が避難民となっても、いまだ誰一人として刑事責任を問われていない。

 本書が生まれるきっかけとなったのは2005年の福知山線脱線事故である。当時23歳の娘さんを事故で失った大森重美さんが代表となり「組織罰を実現する会」が結成された。大森さんは「組織の構成員ひとりひとりは灰色であっても、灰色が重なり合うことで黒に近づき、組織全体であれば罪に問えるのではないか」として、組織に高額の罰金刑を科することができる制度(組織罰)の創設に意欲を見せる。

 構成員に理不尽な事故対策サボタージュを強いることで得をするのは個人でなく組織だ。高額の罰金刑を通じて組織から「不当利得」を返還させることには合理性がある。

 福知山線事故のほか、笹子トンネル天井板崩落事故や軽井沢スキーバス事故遺族など、本書には様々な事故の遺族が登場する。第2章ではそうした遺族たちが思いを述べる。遺族の悲痛な思いに接すると胸が締め付けられる。第3章では、質問に対し専門家が回答するQ&A方式で、組織罰という聞き慣れない制度に対する解説が行われている。第1章で制度の概要を説明し、第2章では遺族の思いを前面に出して、法制度不備の理不尽さに対する読者の怒りと共感をうまく引き出し、組織罰制度の必要性に対する確信を与えてから、第3章で導入への具体的な道筋を描くという本書の構成は、全体を読み終えてみると意外にうまくできていると感じる。

 評者自身も福知山線脱線事故には長く関わってきた。福島第1原発事故当時、県内に住み間近でその理不尽も味わった。この事故も、福知山線事故と同じように検察の不起訴処分を検察審査会が覆し、強制起訴によって刑事訴訟が行われている。ただ2019年9月の東京地裁判決はここでも無罪。現行裁判制度の限界も改めて浮き彫りになった。

 組織罰制度がモデルとしている「法人故殺法」制定後の英国では、公共交通機関の事故が3割も減ったとの報告がある。制定に激しく抵抗した英国産業連盟(経済団体;英国版経団連)も「企業の信用度が高まることがビジネスにもプラスになる」として今では法人故殺法を容認している。世界の組織罰制度の一覧表からは多くの国がすでに同様の制度を設けていることが分かる。ここでも「日本の常識は世界の非常識」なのである。

 法人故殺法案は、保守党政権下では黙殺され続け、労働党政権時代になって日の目を見た。日本で組織罰制度が実現するかどうかは、私たちが政治を変革できるかどうかにかかっている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【転載記事】〔週刊 本の発見〕『地域における鉄道の復権~持続可能な社会への展望』/すべては「国鉄分割民営化」から始まった~「公共」壊した「改革」を超えて

2021-07-02 22:09:55 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

----------------------------------------------------------------------------------
〔週刊 本の発見〕『地域における鉄道の復権~持続可能な社会への展望』(宮田和保・桜井徹・武田泉 編著、緑風出版、3,200円+税、2021年3月)/すべては「国鉄分割民営化」から始まった~「公共」壊した「改革」を超えて

 2021年は、奇しくもJR発足後最初の惨劇となった信楽高原鉄道正面衝突事故(1991年)から30年、石勝線特急列車火災事故(2011年)から10年の節目の年である。信楽事故を起こしたJR西日本はその後、さらなる悲劇・尼崎事故を起こし、コロナ危機のなかで中国山地の不採算ローカル線切り捨てに乗り出している。JR北海道に至っては、路線全体の半分を「自社単独では維持困難」な路線に指定し、鉄道事業からの全面撤退すら現実のものになろうとしている。JR東海は南アルプストンネル工事によって大井川からの流量が毎秒2トンも減少するとの試算があるにもかかわらず、静岡県にまともな説明もしないまま国土破壊のリニア開業へ向け暴走する。「大雨が降っても道路はすぐ復旧するのに、鉄道は復旧されずに消えていくのはおかしい」という疑問も市民の間に広がっている。

 このような惨状を生み出したのは国鉄分割民営化であり、本書はその全体像を改めて捉え直し批判を加える。鉄道をめぐっては、北海道のローカル線問題を中心としながらも、安全問題、経営問題、「改革」反対派組合員の不採用などの労働問題、リニア、整備新幹線と並行在来線などあらゆることを取り上げている。

 「改革」の背景にある新自由主義はいかにして生まれてきたのか。どのように社会の隅々にまで浸透し世界を持続不可能に追い込んできたかについても分析、批判を加えている。国鉄分割民営化の総決算と新自由主義批判。一方だけでもじゅうぶん1冊の本になり得るほどの重い2つのテーマのどちらとも手を抜かずに格闘した労作である。

 日本でも世界でも、既存の支配構造への批判は多く聞かれるようになったが、今や重要なのは「世界を解釈することではなく変革することである」。持続可能な社会への展望という副題が示すように、本書は持続不可能な新自由主義社会を清算した後に来るべき新しい社会像についても対案を示す。JRグループを中心とした鉄道改革の方向として、持株会社制による旅客6社間の格差是正策のほか、上下分離や、あらゆる公共交通機関を連携させ一体的に運用するドイツの「運輸連合」など、1980年代の改革で壊されたものの単なる修復にとどまらない新しい制度の提案も試みている。そこには、執筆陣が実際に欧州を訪問し、公共交通を実地調査した際の知見も取り入れられている。自動車中心の従来型のまちづくりから脱し、公共交通中心のまちづくりへ転換していく必要性も述べられている。

 13人もの共著者が30回以上も討議を繰り返す中から本書は生まれた。SDGs(国連「持続可能な開発目標」)の評価をめぐっては共著者間で激しい議論もあった。北海道ローカル線と住民の関係、鉄道再建策を論じた節のほか、尼崎事故遺族・藤崎光子さんを取り上げたコラムの担当として私自身も共著者に加わった。公共交通問題をライフワークとしてきた私にとってもこれまでの活動の集大成になったと思っている。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【重要発表】当ブログ管理人初の著書「地域における鉄道の復権~持続可能な社会への展望」が発売になりました!

2021-03-13 12:30:12 | 書評・本の紹介
管理人よりお知らせです。

当ブログ管理人として、雑誌への寄稿を除けば人生初の著書がこのたび出版されました。ただし、単著ではなく共著です。執筆者は当ブログ管理人を含め13人に上ります。

書名は「地域における鉄道の復権─持続可能な社会への展望」(緑風出版)です。都内では、神田神保町の「書泉グランデ」等ですでに販売されているのを確認しています。北海道内でも、紀伊國屋書店札幌本店ではすでに在庫を確認しています。

JR北海道が、自社単独で維持困難な10路線13線区を公表してから、この秋で丸5年となります。バス転換が相当とした5線区のうち、3線区(石勝線夕張支線、札沼線北海道医療大学~新十津川、日高本線鵡川~様似)はすでに転換済みか転換決定済みです。

鉄道事業開始に当たって収支見積書の添付を義務づけている現在の鉄道事業法を廃止し、ローカル線を公共財として維持できるような新たな法体系をゼロベースで構築しない限り、もはや日本でローカル線を維持することはできません。安全問題研究会は、そのための抜本的対案として、JRを再国有化するための「日本鉄道公団法案」をすでに公表しています。

このようなお寒い状況がなぜ引き起こされたのか、背景にある新自由主義思想はどのように生まれ、この社会を侵食し、持続不可能な状態へ日本と世界を追い込んできたのかの考察も試みています。そうした考察の中から、ローカル線が廃止に怯えることなく、生き生きと輝きながら存続、発展できるようにするための方策も提示しています。「道路は災害に遭ってもすぐ復旧するのに、鉄道だけが国の支援も受けられず、台風や洪水のたびに消えていくのはおかしい。なんとかしたいが、どうしたらいいかわからない」と感じている多くの人々にとって、この本は大きな示唆を与えてくれると思います。

本書中、第2章「JR北海道の経過と現状」の第2節「廃止対象路線と住民・自治体」及び第5章「持続可能な社会の形成と鉄道の再生の可能性」の第2節「北海道の鉄道の再生プラン」の部分を当ブログ管理人が執筆しました。

価格は3,200円と学術書並みとなっていますが、当ブログ管理人を通じて購入いただくと著者割引(2割引)が適用されます。当ブログ管理人と面識のある方は、ご連絡いただければ対応します。また、当ブログ及び安全問題研究会ホームページに、申込専用メールアドレス等を設けられないか検討しています。これらの部分は改めてお知らせします。

緑風出版は、社の方針としてAmazonによる本の取り次ぎに反対しており、Amazonへの出荷を拒否しているため、Amazonでは購入できません。すぐにお読みになりたい方はお近くの書店にお申し込みいただくか、少しお待ちいただける方は、当ブログ管理人にご連絡いただいても構いません。

当ブログ管理人にとっては、自分の名前で出版する初の著書です(雑誌を除く)。ボロボロになってしまった日本の鉄道の再建のため、ひとりでも多くの方が、本書を手に取られることを希望しています。

以下は、緑風出版社による本の紹介です。

----------------------------------------------------------------------
 北海道の鉄路は全路線の半分に当たる10路線が維持困難として廃線の危機に直面している。国鉄の「分割・民営化」から30年、JR各社では不採算路線の廃止などで、全国的な鉄道網の分断が進行している。鉄道は安全性、定時性、高速性で高く評価され、地域社会の発展に不可欠であるのに、政府の自動車・航空偏重政策の前に危機を迎えている。

 本書は、JR北海道の危機的状況にたいして、新自由主義による従来の「分割・民営化」路線の破綻を総括し、「持続可能な社会」の考え方を基本に、鉄道路線の存続・再生、地域経済・社会の再生の道を提起する。(2021.3)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【転載記事】〔週刊 本の発見〕『武建一が語る 大資本はなぜ私たちを恐れるのか』

2021-03-05 21:02:30 | 書評・本の紹介
(この記事は、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」の書評コーナー「週刊 本の発見」に寄稿した内容をそのまま転載したものです。)

----------------------------------------------------------------------------------
労働運動の「神髄」見せる関生労組の清々しさ 『武建一が語る 大資本はなぜ私たちを恐れるのか』(武建一 著、旬報社、1,500円+税、2020年12月)評者:黒鉄好

 一切の虚飾のないストレートなタイトルと裏腹に、本書は、囚われの身となった著者が拘置所で迎えた保釈の日の描写から始まる。ドラマか映画でも見るかのように一気に引き込まれる。

 戦後、高度成長の波に乗った日本の歩みにみずからを重ねるように頭角を現す全日建連帯労組関西生コン支部委員長の武さん。権利獲得、ヤクザとの闘争、経営者との対決と協調。破天荒だが正義の炎を絶やさず、大きな敵に敢然と立ち向かう武さんのスケールの大きさが、読者の心を捉えて離さない。

 資本家が資本家たり得るのは、単に生産手段を所有することのみにとどまらず、価格、生産量や出荷量などの決定権――言い換えれば経営権を独占するからである。しかし、武さんの率いる関生労組は、経営者・資本家のこの「聖域」にズカズカと平気で踏み込む。過当競争による値崩れを防ぎ、適正価格での販売を通じて得た利益を労働者に還元する。あるいはコンクリートの品質を確保して建築物の安全を守る。そのような大義名分を掲げ、生産・流通のコントロールに乗り出す。原材料のセメントを少しでも高く売り暴利をむさぼるメーカーと、買い叩こうとするゼネコン。前門の虎、後門の狼という状況の中で、生き残りを賭け、利害が一致する局面では生コン経営者と共闘もする。大資本が関生労組を恐れる理由は、経営権を侵食する存在だからである。

 『法律など守っていたら組合をつぶすことはできない』――かつて財界の労務担当といわれた日経連が開催した講演会で、元役員の講師が放った言葉を本書は暴露する。それを読んで私は身震いがしたが、衝撃は受けなかった。同じような例は歴史書をひもとけばいくつでも見つけられるからだ。私がすぐに思い出したのは『国労を崩壊させる、その一念で(国鉄「改革」を)やってきたわけです』という中曽根康弘の言葉である。資本家の聖域である経営権に踏み込んでくる者は誰であろうと許さない。どんな手段を使ってでもつぶすという資本側の「不退転の決意」がそこに込められている。

 私は、関生労組にかけられている攻撃がかつて国労に向けられたそれと同じであることを理解した。この攻撃から関生労組を守るためには、あのときと同じように、すべての労働者が考え方や立場の違いを越えひとつにならなければならない。

 この闘いに関生労組は勝てるだろうか? 長く複雑な過程を経るとしても、最終的に勝てると私は判断する。どんな乱暴な経営者もどん欲なハゲタカも「全体の利益」という経済原則を越えることはできないからだ。他人を犠牲にして自分だけがいい思いをしようとする者は、社会各層の利害を調整し、全体の利益を図るという経済の自己調節機能によって手痛い反撃を受ける。武さんの波瀾万丈の人生ドラマからはそんな未来への希望も覗く。自分だけの利益ではなく労働者、社会全体のためになるように行動する。日本社会が久しく忘れてしまっている労働運動、社会運動の「神髄」を見せてくれる1冊である。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評】スターリン~「非道の独裁者」の実像(横手慎二・著、中公新書)

2016-11-13 15:38:23 | 書評・本の紹介
「ソ連崩壊後に公開された史料をもとに知られざる「素顔」に迫る~スターリンを知らずしてロシアは語れない」と、帯には大きく書いてある。著者・横手は慶大法学部教授。過去には在モスクワ日本大使館調査員として勤務経験を持つロシア専門家。

ロシア革命は1917年、ソ連邦の崩壊は1991年。ソ連が存在していた期間は74年間であった(実際にはソ連建国宣言は1922年に行われたが、本エントリではロシア革命をソ連時代の起点としている)。スターリンは1922年の共産党書記長就任から53年の死去まで、31年間もソ連の最高指導者として君臨した。ソ連時代の歴史の4割はスターリン時代だったことになる。その意味では、「スターリンを知らずしてロシアは語れない」というキャッチコピーは正しい。

スターリンと旧ソ連の実情を知らない読者のために概要を述べておくと、スターリンはロシア語で「鋼鉄の人」を意味する変名で、本名はヨシフ・ヴィッサリオーノビッチ・ジュガシビリである。ロシア語っぽくないのは彼がグルジア出身だからだ。この時代、君主制や右翼独裁政権と戦っていた革命政党の党員は、自分自身や組織を弾圧から防衛するため、本名ではなく変名を名乗ることが多かった。例えば、ロシア革命指導者のレーニンも変名で、本名はウラジミール・イリイチ・ウリヤノフ。スターリンの政敵であったトロツキーの本名はレフ・ダヴィデヴィチ・ブロンシテインという(ダヴィデヴィチはユダヤ教のダビデに由来しており、このミドルネームが示す通り、トロツキーはユダヤ人である)。トロツキーという変名は、彼が帝政ロシアで逮捕されていた時代の、収容所の看守の名前から取ったと言われる。

ロシア以外の国の革命政党も事情は同じであり、例えば日本共産党の不破哲三議長の本名は上田建二郎。本名で活動している上田耕一郎副委員長は実兄である。

また、ソ連の正式国名「ソビエト社会主義共和国連邦」の「連邦」に当たる部分はロシア語で「ソユーズ」である。この名前は、ソ連が打ち上げた宇宙船の名前にも使われていたが、「連邦」とも訳せるものの、本来のロシア語の語感としては「同盟」に近い。ソビエト(労働者階級代表による評議会)体制によって社会主義を目指す諸国の「同盟」という意味合いを込めてソユーズという単語が充てられた。ソ連の正式国名の英語表記も“The Union of Soviet Socialism Repubrics”であり、“Union”とは労働組合の「ユニオン」と語源が同じである。間違っても米国のような単なる“United States”(国家の連合体)とは異なり、当ブログの見解では「ソユーズ」はやはり連邦ではなく同盟と訳されるべきものである。

さて、前置きが長くなったが、本書はグルジアでの彼の生い立ちから幼少の神学校時代、そして神学校の不条理な現実を意識して革命運動と民族問題に関心を抱いていくスターリン(愛称ソソ)の様子から、死去するまでの彼の人生を丹念に追っている。この時代、多くのロシア社会民主労働党(ボルシェビキ~後のロシア共産党)党員たちは、民族問題を重要な問題だと考えていなかった。この分野で頭角を現したスターリンは、やがて民族問題に関する論文をレーニンに高く評価され、革命家の道を歩み始める。

多くのスターリン研究が明らかにしているとおり、本書もスターリンの能力が最大限に発揮されている分野は組織作りと実務能力であるとしている。特に、特定の問題に集中し、高い問題解決能力を示すスターリンは、理論・思想形成や革命などの激変期の対処には向かないが、平時における党・国家の実務や統治といった分野では優れた能力を示した。その意味では、スターリンを革命家に分類するのは正しい評価とはいえないような気がする。本書が示しているスターリンの実像をワンフレーズで表せ、と言われたら、当ブログは「党官僚」「党組織者」と答える。

トロツキーも、「裏切られた革命」の中で「もし、誰かが将来のスターリンの党書記長就任を予言したとしたら、そこに居合わせた全員が(スターリン自身を含め)彼らを悪質な中傷者と罵っただろう」「彼らでは革命は達成し得なかった」と述べている。スターリンに対する正しい評価だといえよう。

日本において、スターリンは「政敵を次々と粛清・処刑した残虐非道の独裁者」というイメージが定着している。ソ連をモデルに社会主義・共産主義革命を目指していたはずの新左翼政治党派の中でさえ、「スターリン主義」は党内分派・反対派弾圧とほぼ同義語として使われてきたし、「反帝・反スタ」のようにスターリン主義を帝国主義と同列に並べてその打倒を訴える党派も今なお存在する。

しかし、本書が示すスターリンの実像は、そうした残虐非道のイメージからはかけ離れている。実像としてのスターリンは、しばしば優柔不断で、状況対応的で、内外情勢の変動に合わせて政策をジグザグに変えてきたプラグマティストとして描かれている。しかし、こうした彼の柔軟さこそが31年もの長期政権を実現する原動力であった。また、食料生産の担い手である農民が飢餓に直面するほどの厳しい食料徴発政策を採ってまで、スターリンが重工業優先の経済建設を行ってきたことは、後の歴史家から「大量虐殺」と批判された。だがもしこれと正反対に、彼が農民を食べさせることを最優先にし、軽工業化政策を採っていたら、ソ連が「大祖国戦争」(独ソ戦)に勝つことはできなかったとする横手の見解に、当ブログは全面的に同意する。

民主主義擁護を使命としている当ブログにとって、このような横手の見解に同意することには苦痛を伴う。しかし、当時のソ連を取り巻く内外情勢を見ると、ナチス・ドイツと軍国日本によって東西から挟み撃ちされる恐怖に怯え、軍事上の保障を願っていた米英両国は当てにならず、独力で第2次大戦を戦わざるを得ないかもしれない――そう考えていたスターリンにとって、これ以外の選択があり得ただろうか。私はなかったと考えている。食料徴発による飢餓政策を「虐殺」とする歴史家の見解は、しょせんは「歴史の後知恵」に過ぎないのである。

当ブログとして、読者のために、どうしても言及しておかなければならないことがある。「誰がスターリンをこのような独裁者に育てたのか」という、当然出されるであろう疑問への見解である。本書を読む限り、しばしば優柔不断で、状況対応的で、内外情勢の変動に合わせて政策をジグザグに変えてきたプラグマティストのスターリンが、みずから独裁者になりたいと望んだ形跡は見当たらない。むしろそこに描かれている実像からは、周囲の取り巻きたちが勝手に彼を神格化し、祭り上げ、彼の権勢を利用して政敵を追い落としているうち、次第に彼が絶対不可侵の領域に置かれていく過程が垣間見える。その意味では、明確に目的を持って独裁への道をみずから望んだヒトラーとは実情が違うように思われる。

これに加え、要因を探るとすれば、彼が党組織化能力と実務能力に長けていたこと、帝国主義諸国によるソ連包囲が彼による状況対応的措置を正当化する力として働いたことが挙げられる。前者=党の組織化はそのまま党内権力の強化・再配分であり、後者=帝国主義諸国による包囲は軍事的かつ即時的対応を通じて権力の強化作用をもたらすからである。不幸だったのは、第2次大戦をバックとしたこの一連の強権発動装置としてのソ連型社会主義が、第2次大戦後の東ヨーロッパ諸国にそのまま持ち込まれ、社会主義のモデルとされたことにあると思う。

最後に、スターリンの死因についても述べておきたい。彼の死に関しては、毒殺ではないかという疑惑が今もソ連史研究者の中に強くある。中でも、内務人民委員部(内務省に相当)で、事実上秘密警察のトップとして君臨してきたヤゴダ、エジョフなどの前任者が、スターリンによって用済みと見なされた後、銃殺に追い込まれていくのを見たベリヤが、「自分もいずれそうなる」と恐れ、スターリンに毒を盛ったとの説は広く信じられている(ちなみに、ベリヤはスターリンの死後、共産党第1書記に就任するニキータ・フルシチョフとの権力闘争に敗れ、結局は処刑で人生を終えている)。

しかし、本書が示す「実像」は、そうした毒殺説が否定されるべきであることを示唆している。すでに死の前年、1952年後半から、言動が支離滅裂で、彼の最大のよりどころであった集中力がなくなり、ミコヤンやモロトフなど、長く彼に仕えてきた側近さえ米国のスパイと疑って追放していくなど、本書は丹念にスターリンの「老化」「劣化」の過程を浮き彫りにしている。横手は、こうしたことを根拠に、ナチス・ドイツとの壮絶な戦争と、その後の米国との厳しい冷戦による重圧が、彼を死に導いたとしているが、この推測に大きな誤りはないように思う。死去時のスターリンは72歳であったが、当時のソ連の医療・保健水準を考えると、どこにでもある平均的な死であったと考えていいのではないだろうか。

いずれにしても、本書は「非道な独裁者」とされるスターリンの実像を明らかにした貴重な著書である。スターリンに興味を持つ人は日本ではごく限られており、本書を手に取る人は少ないと思う。だが、一定の諸条件(やりたいことへの強烈な政治的意思、周辺諸国からの戦争圧力、勝手に祭り上げ、権威化しようとする取り巻きの存在など)が重なれば、こんな凡庸な人物でも容易に独裁者に転化しうることを丹念に検証したという意味で、当ブログは本書を評価する。今、「中国の脅威」を振りまきながら、安倍首相が党規約を変えてまで自民党総裁に3選しようとしている姿や、頼まれもしないのに周囲が勝手に安倍首相の「自衛隊礼賛演説」にスタンディング・オベーションしているのを見ると、周囲の取り巻き連中によって独裁者への階段を押し上げられていったスターリンの軌跡と重なって見える。今こそ、「凡庸な人物」を独裁者へと押し上げていく「日常的な恐怖のシステム」に目を向けさせるとともに、それに対する政治的警戒を惹起するため、当ブログは本書がより多くの人に読まれることを願う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評】この経済政策が民主主義を救う~安倍政権に勝てる対案(松尾匡・著、大月書店)

2016-11-12 23:12:16 | 書評・本の紹介
当ブログが最近、すっかり書評ブログ化している気がする。それほどまでに現実の政治に展望がなく、ネットも絶望的につまらない。入院と、Win10の不具合によって約1ヶ月、ネットから遠ざかったが、ちっとも困らなかったという事情もあり、当ブログ管理人はネットから離れ、知識の吸収は本による「原点回帰」をしている。こんなにたくさん本を読んだのは学生時代以来だと思う。

さて、今回取り上げるのは、「この経済政策が民主主義を救う~安倍政権に勝てる対案」(松尾匡・著、大月書店)。出版している大月書店は、新日本出版社とともに、知る人ぞ知る日本共産党系列の出版社。「そっち系」の本は充実している。ただ、著者の松尾は、保守系のPHP出版等からも自著を出版しており、「そっち系」の人でないことは誤解のないようにしていただきたい。

そういうわけで、「そっち系」方面の一部だけで話題になっているが、なぜリベラルがいつまでも自民党に勝てないかを考察した上で、リベラル派は経済政策に難があるからだという問題意識が、本書の出発点になっている。選挙のたびに争点を尋ねるマスコミの世論調査では、いつも1位は「景気・雇用」で2位は「社会福祉」。反原発、基地反対、それ自体はとてもすばらしいことなのだけれども、これらはいわば「飯を食うことにつながらない」テーマ。どんなにすばらしいことを唱えても、腹が減っては戦はできないし、どんなすばらしい政策も、資本主義が資本主義である限り、お金がなくては始まらない。そのことを忘れて、原発をなくすため、基地をなくすためには空腹に耐えろ、では誰もついてこない。本書は、そんな「本音のお話」から始まっている。

とはいえ、経済学に関する知識は、大学で一応、経済学科を経験している私にとってはイロハのイに属するような、ごくごく基本的な話ばかり。中学校社会科の公民の授業のようで、「なめとんのか!」というのが正直なところ。ただし、経済学を専門に勉強した経験のない人には、参考になる内容ではある。

この本では、松尾の最も言いたいこと、すなわち結論は巻末の「むすびにかえて」ではなく、「はじめに」にいきなり書かれている。緊縮政策は左翼・リベラルにとって禁じ手であり、左翼・リベラルこそどんどんお札を刷り、政府支出を拡大して、その金で弱者を救済せよと説く。緊縮財政で社会が疲弊したギリシャで、いきなりSYLIZA(急進左翼連合)が政権を取ったりしているのは、こうした緊縮政策で結局、貧困層が苦しめられたことが背景にある。本書はそうした欧米諸国の動向も念頭に置いている。

当ブログの書評が「それまで自分の中で常識となっていたことを転換させてくれる本」「それまで地球の周りを太陽が回っていると思っていた人々に、実際に回っているのは太陽ではなく地球のほうなのだとわからせてくれる本」を「名著、好著」の基準としていることは、すでに過去ログでも述べている。そして、この基準に照らすなら、本書もまた名著、好著の部類に入る。なによりも、政府(特に財務省)による「国の借金1000兆円」との宣伝が行き届きすぎて、日本国民はもうかなり以前から「緊縮財政が当たり前」「金がないんだから、政府に何を言っても仕方ない。自分で解決するしかない」と信じ込まされている。自分で解決するしかないから、ある人は新自由主義に走り、別の人は差別排外主義に傾倒することで他人(特に外国人、マイノリティ、女性)のせいにし、そのどちらも選べない「優しい人たち」は静かに自分の命を絶っている。左翼・リベラルが政権を取ったとき、本書に書かれている政策を実行できるなら、多くの人を救うことができるだろう。安倍政権? そんなもの1秒で粉砕できる。

実は、当ブログ管理人はかなり以前から、「消費増税などせず、国債を発行して資金調達すればいいのでは?」と薄々思っていて、妻にだけは何度か話したことがある。1000兆円の借金を抱えている日本にとって、もう100兆や200兆くらい借金が増えたところで大勢に影響はないし、その国債の7~8割は日本国内で日本の金融機関、日銀、富裕層が保有しているのだから「外国に日本の命運が握られている」わけでもない。

そして、何より重要なことは、貧困層からも容赦なくむしり取る「逆進性」の象徴としての消費税などより、「買いたい人が買い、買いたくない人は買わなくてもよい」「買う能力のある人が買い、買う能力のない人は買わなくてよい」国債のほうが、よほど応能負担(能力に応じた負担)の原則にかなっており、その意味では公平な手法であるといえる。赤字国債は「財政法」で発行が原則、禁じられており、発行するには法改正が必要だが、国民の注目を集めやすく、与野党対決法案になりやすい税制改正法案と違い、特例公債法案(財政法で原則、禁止されている赤字国債の発行を、今年度に限って○○兆円まで認める、という内容の法案)は誰も注目せず、対決法案にならないから簡単に国会を通過する。

増税が難しい日本では、政府は赤字国債によって資金の調達を続けてきた。財務省は、国債の償還にいわゆる「60年ルール」を採用していて、例えば10年ものの国債を60兆円分発行した場合、10年後に実質的に返すのは6分の1の10兆円だけ。残り50兆円分は、新たに国債を発行して「借り換え」をする自転車操業でしのいでいる。10年ものの国債でも、6分の5は借り換えで済ませるこの手法では、本当に6分の6の全体が返されるのは60年後になる。60年ルールとはそういう意味である。つまり、富裕層(に別に限らないが)が買った国債は、60年後にならなければ全体が戻って来ない、事実上の「富裕層課税」として所得再分配の機能を果たしてきたのである。

加えて、松尾の掲げる政策――「左翼・リベラルこそどんどんお札を刷り、政府支出を拡大して、その金で弱者を救済せよ」が経済的に合理的なのは、「無駄な支出の削減」をめぐって「公共事業ムラ」と闘わなくてすむ点にある。民主党政権が3年ちょっとのわずかな期間で倒れてしまったのは、「コンクリートから人へ」のスローガンの下に、福祉・医療・教育に充てるための財源を、いきなり公共事業削減で捻出しようとして「公共事業ムラ」との全面戦争に発展したからである。コンクリートから人へのスローガン自体の正しさを、当ブログは疑わないが、日本の「公共事業ムラ」はあまりに強力すぎて、脆弱な政権なら一撃で倒してしまうほどの利権を持っている。政権基盤も十分に固められないうちから、「無駄な支出の削減」を通じて、日本で一番強力な敵にいきなり闘いを挑んだ民主党政権はあまりにやり方が無謀すぎ、倒れてしまった。

そしてその民主党政権の失敗を通じて、リベラル層は「もう二度とこの国で政権交代はできない」とすっかりあきらめ、選挙に行くこと自体をやめてしまった。民主党に政権を奪われた2009年総選挙より、その後の総選挙での得票のほうが少ないにもかかわらず、安倍自民党政権はリベラル層のこの失望に支えられ、安定的に推移してきたのである。

誰かを助けるために誰かから金を奪うのではなく、ゼロから金を作るよう説く、松尾の本書における提言には価値がある。築地移転だ、オリンピックだ、リニアだと暴走の限りを尽くす公共事業ムラはいずれ倒さなければならないが、小泉政権でも民主党政権でも倒せなかった彼らと闘うのは得策とは思えない。衰えたりとはいえ、建設業界では未だに1000万人近い人が働いており、それは8000万人と言われる日本の労働力人口の8分の1にも達する。公共事業ムラを倒すということは、「日本の労働力人口の8人に1人が失業してもいい」という主張を認めることであり、あまりに犠牲が大きすぎるのである。どんな強力な政権でも公共事業ムラを倒せないのには、それなりの理由があるのだ。

それでも日本の土木・建設業界は徐々に縮小しており、ムラもそれによって縮小している。リニアなどの公共事業と闘ってきた当ブログとしても悔しいけれど、つける薬もない彼らのことは「自然死するまで放置」しか手がなく、彼らが浪費する国家予算は民主主義の必要経費と割り切るしかない。どうせ日本国債を買っているのは日本の富裕層と金融機関なのだ。利益を受け取る者が、内部で国債を買い、せっせと公共事業ムラを支えているだけの話だ。その国債の借り換えも実質的には彼らが行っているのだから、もう勝手にすればいい。彼らの動向と無関係に、こちらでも国債を発行し、どしどしお札を刷って、国民が本当に必要としている分野(医療・福祉・教育)に金を回す――松尾のこの手法でしか、「保育園落ちた」と泣いている母親を救う手はもうないと思う。

以上の理由から、当ブログは、一見、荒唐無稽に思えるが、実際には理にかなっている松尾の経済政策を支持するとともに、本書も推薦図書に指定する。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評】あの日(小保方晴子・著、講談社)

2016-11-05 13:48:05 | 書評・本の紹介
ご存じ、「STAP細胞」騒動で日本中を混乱の渦に巻き込んだ、元理化学研究所研究員・ユニットリーダー。「リケジョの星」と持てはやされながら、科学界から「追放」された「元」科学者による著作。あえてジャンル分けすれば「暴露本」の一種と考えていいだろう。話題をさらった著書として、Amazonではベストセラー1位が今なお続いており、購入も考えたが、結局は図書館で借りて読んだ。

結論から言うと、外部から細胞に刺激を加えた場合、細胞が初期化し、緑色に光るSTAP「現象」は確認されたものの、得られた初期化細胞は脆弱で生命力に欠けており、これを再生医療の現場で実用化するためには、まず移植が可能なように生命力を持たせたまま、初期化した細胞を維持しなければならない。だが、その第1ステージさえ突破できないまま、研究中止を余儀なくされた――そんな印象だ。

とはいえ、中学・高校の理科で生物を選択していた私にとって、細胞核とか細胞膜、アデノシン三リン酸なんて用語はとても懐かしく、一生懸命中間・期末試験に向けて生物関係の勉強をしていた青春時代を思い出させてくれる。中学・高校の理科で生物を選択している生徒であれば理解可能な程度に、小保方さんが自分のしていた研究内容をわかりやすく説明した前半部分は楽しく読めた。米国ボストンで過ごしたバカンティ研究室留学時代の話もうらやましく、小保方さんが、このまま成功の階段を着実に上っていくように思われた。

小保方さんの研究生活が「暗転」したのは、なんと言っても理研に移ってからだろう。特に、若山輝彦・山梨大教授との出会いが彼女の人生を大きく狂わせた。小保方さんの「転落」の軌跡が示された後半部分は、若山教授にいかにして研究生活と人生を狂わせられたかの告発に費やされている。

あ然としたのは、小保方さんが早稲田大学に博士論文を提出するとき、指導教員の添削を受けた後の完成版ではなく、添削前の未完成版を誤って提出してしまったと述べている点だ。そのことに気づかず博士号を認定、未完成版の論文をそのまま国立国会図書館に納本した早稲田も、今回の騒動が起きるまで気付かなかった小保方さんも、あまりにずさんだ。

未明までの論文執筆で時間的に追い詰められていたとはいえ、こうした当たり前のことを当たり前にできない小保方さんの「詰めの甘さ」が、結局は魑魅魍魎が跋扈する理研で、名誉欲の塊の研究者たちに利用され、陥れられることにつながっていったのだと思う。加えて言えば、東京女子大の研究者に誘われたから同大へ、バカンティ教授に誘われたからバカンティ研究室へ、理研に誘われたから理研へ、と二転三転する小保方さんの軌跡を見ていると、あまりに自分の運命を他人に委ねすぎで、研究者として自分がどこで何をしたいのか、という主体性がまったく見えてこない。ちやほやしてくれる周囲に流されているだけのように見え、このことも、彼女が陥れられることにつながっていったように思われる。小保方さんは、「生まれ変わってもまた研究者になりない」などと書いているが、もっと主体性を持ち、当たり前のことを当たり前にこなせるようにならない限り、難しいだろう。

Amazonのレビューでは、この本を高く評価する一般読者と、否定的に評価する研究者に真っ二つに割れていることも興味深い。こうした事実こそ、日本の科学界が「ムラ」化し、一般国民の常識とかけ離れていることを示している。「言いたいことがあるなら論文で反論すればいい」と評している「科学者」も見受けられるが、すでに理研の職も早稲田の博士号も失い、科学界を「追放」となった小保方さんに対して、それは酷な要求というものだろう。私は、科学界を追放された以上、小保方さんの身分は一般人であり、「一般人枠」の中で科学界批判の著書を出すことには問題はないと考える。

「この本に書かれていることは本当なのか」と疑う声も、ブックレビューに多く出されているが、私はおおむね事実という印象を受ける。嘘やでっち上げでここまで具体的で整合性のとれた記述は不可能と思われるし、STAP騒動勃発後の理研の対応についての記述が支離滅裂なのも、理研の対応そのものが支離滅裂なのだから致し方ないところだ。実験を繰り返しても自分の望む現象が再現できなかったことや、論文を投稿しても「不採用」になったことなど、自分の失敗も隠すことなく告白している。そして何よりも、理研の職から博士号に至るまですべてを失い、文字通り「命以外に何も失うものがない」状況に至った小保方さんにとって、こんなところで嘘をつく実益がないからだ。

この本の中で、自己の名誉欲と権力を満たすためなら何でもする、手段を選ばない人物と言わんばかりに徹底的に批判された若山教授は、ここまで言われた以上、何らかの見解を表明することがあっていいのではないか。無視し続けることで嵐が過ぎるのを待っているのかもしれない。だが、このまま反論せず沈黙を続ければ、この本に書かれたことを事実として認めたことになる。「笹井―小保方ライン」を潰し、笹井氏は自殺にまで追い込まれた。このことに、若山氏は良心の呵責を感じないのか。もし、感じないとしたら、日本の科学界の腐敗ももはや御しがたいように思う。

当ブログは、2014年6月18日付け記事「STAP細胞、そして「美味しんぼ」~信じたいものだけを信じ、科学と強弁する自称科学者たちへの最後通告」の末尾でこう記した。『めまいがするほどあまたの堕落、腐敗、利権、打算と野望にまみれた師弟関係、そして何より真理も事実も否定して、自分の信じたいものだけを信じ「科学」と強弁する「ムラ」住人たち――もう日本の科学に未来はない』。本書を読んだ限りでは、日本の科学界に対するこの評価を、変える必要はないように思う。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【書評】感情の政治学(吉田徹・著、講談社選書メチエ)

2016-09-07 22:34:00 | 書評・本の紹介
入院中、妻に頼んで地元の図書館で借りてきてもらった1冊。読破は退院後の9月7日になってしまった。

「それまで自分の中で常識となっていたことを転換させてくれる本」「それまで地球の周りを太陽が回っていると思っていた人々に、実際に回っているのは太陽ではなく地球のほうなのだとわからせてくれる本」ーーこれが私の「名著、好著」の基準である。そして、この基準に照らすなら、本書は名著、好著の部類に入る。

なによりも、「政治とはどのようにして発生するのか」という問いから出発しているだけに、本書が扱う内容は根源的で、刺激的である。そして、選挙と、デモ・集会など「選挙に回収されない政治的意思を回収させる政治的行動」に優劣を付けず、フラットに扱っており、そのどちらも民主政治のために必要とした点は大いに評価したい。

最も刺激的で、吉田らしいと思うのは、政治についての根源的な考察をしつつも、「選挙は権利であると同時に義務なので行きましょう。行かなければ、政治家に白紙委任したことになります」に代表される、いかにも学級委員的、総務省的なきれい事を言わず、逆に、選挙にかかるコストと政治から受け取るリターンを比べて、前者のほうが大きいことはわかっているから、合理的な市民ほど選挙に行かない方が正しい選択になる、と堂々と述べている点。「政策を良く吟味する有権者」ほど「選択肢がない」と嘆く一方、自分の会社の仕事のために自民党に投票する人々や、費用対効果を度外視して自分の理想のために共産党に投票する人たちのように、選挙が「合理的でない行動を取る人たちだけのものになっている」日本政治の現状を、よく考察している。これを読んでいると、ますます選挙に行くのが馬鹿馬鹿しく思えてくる。

新自由主義を関係性の政治で置き換えることを説いた第3章だけでも、カネを出して読む価値がある。かつて、労働組合や企業、地域社会などに組織化されていた人々が粉砕され、個人単位にバラバラにされている状況では、人は自分の身を自分で守ることしか考えられないようになり、そのことが新自由主義を生み出した、このような状況では、政治的に維持が必要な公共財は獲得できない、とする論考には説得力がある(例えば、保育や介護も公共財なので、市民が個人単位に粉砕され解体された新自由主義的状況で、ブログに「保育園落ちた日本死ね」と書き込むだけでは保育所は獲得できない、という状況のよい説明になっている)。

中道左派がどれだけ弱者救済や格差是正を訴えても無党派層がまったく選挙に出て来ないのに、橋下徹や小池百合子のような新自由主義ポピュリストが小さな政府を訴えると、一気に投票率が上がるのはなぜか。日本にいわゆる中道左派的「リベラル」層は存在せず、存在しているのはリベラルでも「ネオリベラリスト」(新自由主義者)だけなのではないかという疑問を私は以前から抱いていたが、その見方が正しいことが証明されたように思う(ただし、この見方にかなり私の主観が交じっていることは付記しておきたい)。

日本の政治がよくなるためには、難解な「○○主義」などではなく、隣人との関係をきちんと取り結び、粉砕された個人を再度組織化し、相互不信から相互信頼へ転換すること、とした吉田の提言には傾聴の価値がある。

とはいえ、「感情の政治学」というタイトルほど難しい内容とは思わない。平たく言うと「政治とは仲間作りのことである」ということを大まじめに論じたに過ぎない。学級委員選挙に立候補した児童生徒が「なあ、俺とお前って、仲間だよな」と言っている風景を「政治」レベルに引き上げて論じている本だという言い方もできる。私の本書に対する理解が間違っていなければ、労働組合や政治組織で「オルグ」(組織化)と呼ばれるものこそが本来の政治だということになる。

著者の吉田は、この本ではない別の場所で、「リベラルは組織化されていないから選挙ではからきし弱い」という趣旨の発言をしているが、本書でもその基本路線にはまったくぶれがない。(吉田は本書ではひとことも触れていないが、)自民党政権を倒したければ、反自民の人たちが、味噌もクソも一緒でかまわないから、徒党を組み、仲間作りをして、一致結束して行動すればいいということがわかる。

でも、それが一番難しいんだよなぁ。「あんなウ○コなんかと一緒に行動できるか」とすぐ結束を乱す者が現れて、市民派・リベラル派はいつもバラバラになる。選挙に勝つためならウ○コでも平気で食べる自民党を、少し見習わなければならないのかもしれない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする