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【管理人よりお知らせ】イラクパネル展&医師講演会、オスプレイ反対集会・国会包囲行動にご参加ください

2012-09-06 22:22:57 | その他(海外・日本と世界の関係)
管理人よりお知らせです。

1.イラク子ども写真展&報告会「イラクから福島へ」(福島市)、講演会「イラクからのメッセージ 小児がんを乗り越えて」(東京)が開催されます。

直前のお知らせになってしまい、申し訳ありませんが、昨年末、米軍が撤退したイラクから、小児ガン専門医、フサーム・サリッヒさんが来日し、報告会(福島)、講演会(東京)が開催されます。概要は以下のとおりです。

9月7日(金):福島/報告会「イラクから福島へ」

時間 18:30~20:30
場所:チェンバおおまち3階会議室(福島市大町4-15 TEL 024-526-4533)
参加費:500円
お問い合わせ:子どもを放射能から守る福島ネットワーク

★同時に、チェンバおおまち3階交流広場(印刷室隣)にてイラクのパネル展を開催しています。

◆期日 2012年8月25日(土)~9月14日(金)(火曜日休館) 
◆時間 開館中(午前10時~午後9時) 

9月8日(土):東京/講演会「イラクからのメッセージ 小児がんを乗り越えて」

時間:18:45開演(18:30開場)
場所:文京区シビックセンター(文京区春日1丁目16番21号)
主催:バスラ東京報告会実行委員会
協力:JIM-NETセイブ・ザ・イラクチルドレン広島日本国際ボランティアセンターイラク戦争の検証を求めるネットワーク
お問い合わせ:JIM-NET(情報ページを参照してください)

イラク戦争で米軍が大量に使用した劣化ウラン弾(ウラニウム兵器)による子どもたちの内部被曝が深刻さを増しています。こうした問題は、福島原発事故由来の放射能にさらされている福島でもいずれ必ず顕在化する問題です。日本より先に放射能被害が深刻化しているイラクの小児ガン専門医の講演を聴くことは、被曝の恐ろしさを再認識し、被曝からの防護を図る上で必ず役に立つものと思います。

福島のみならず、福島原発の放射能による被害が予想される地域の皆さまは、是非聴いておくことをお勧めします。

●劣化ウラン弾については、こちらをご覧ください。世界の原発で使われるウラン燃料(ウラン235)を抽出した後の放射性廃棄物(ウラン238)を兵器に転用したのが劣化ウラン弾です(参照)。このことだけでも、原発は人道主義に反する「兵器工場」であり、一刻も早く廃絶されなければなりません。

2.オスプレイ配備反対沖縄県民集会、及び同時アクション「国会包囲行動」にご参加ください。

台風のため延期となった「オスプレイ配備反対沖縄県民集会」が、9月9日、宜野湾海浜公園で開催されます。詳細は「no osprey 沖縄県民大会事務局」公式ブログをご覧ください。

この沖縄県民の闘いに応える形で、東京でも同時アクション「国会包囲」行動が取り組まれます。詳細はチラシ()()をご覧ください。

なお、この国会包囲行動には、当ブログ管理人も参加予定です。多くの人の参加をお願いします。

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イラク敗北の衝撃~戦争国家の時代の終焉

2012-01-22 10:00:15 | その他(海外・日本と世界の関係)
(当エントリは、当ブログ管理人が「イラク平和テレビ局メールマガジン」2012年1月22日号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 2003年の戦争開始後、8年あまりにわたって米軍駐留が続いてきたイラク。そのイラクから米軍がついに撤退した。今後は民間軍事会社に雇われた傭兵部隊が残るものの、イラク市民に直接銃口を向けてきた占領部隊は2011年の終わりとともに引き揚げざるを得なかった。ギングリッチ・下院議長がいみじくも述べているように米国は「敗北して去る」のである。2008年の大統領選をオバマ大統領と争い、敗れたマケイン上院議員(共和)も「中東でアメリカ合衆国が新たな戦争をすることはないと思う。世論が賛成しない」と述べている。

 日本のメディアでは、米軍のイラク駐留を不可能にした原因として、米国政府が民間傭兵部隊の刑事免責を要求したのに対し、マリキ首相がこれを拒否したことで駐留協定の延長が不可能になったためだと伝えられている。もちろんそれも理由のひとつではあろう。しかし真の原因は他にある。その原因に迫っていくと、イラク戦争がアメリカに与えた衝撃の大きさが見えてくる。

◇上限に達した国債発行

 米国の法律により、国債の発行上限はたびたび引き上げられてきたが、現時点でのそれは14兆3000億ドルである。2011年夏、米国政府の国債発行残高がこの上限に近づいたことは日本のメディアでも取り上げられたが、米国政府行政予算管理局資料“HISTORICAL TABLES”によれば、情報が発表されている2006年度の時点で連邦政府債務残高(国債発行残高)は8兆4,513億ドルの赤字とされている。米国政府の国債発行残高はわずか5年間で6兆円近く、率にして40%も急増したことになる。特に2008年以降の増加が大きく(参考資料)、これは軍事費の支出よりもむしろリーマン・ショックによる混乱が大きく影を落としているように思われる。

 国債が発行上限に達することが明らかとなった2011年8月、オバマ政権は、さらなる国債発行上限の引き上げや、歳入拡大のための富裕層への増税を提案したが、2011年11月の米議会超党派委員会の同意を得られなかった。トリガー(引き金)条項が発動され、2013年1月から約5000億ドルの軍事費を含む1.2兆ドルの歳出が強制的に削減されることが避けられない情勢だ。

 軍事費の削減に「懸念」を抱く米共和党内の一部には、軍事費強制削減を避けるため、トリガー条項の見直しを求める法改正を企む動きもあるが、上下両院で多数派が異なる日本同様の「ねじれ国会」のなかで法案が提案されたとしても、可決の可能性は低いとみられる。

 オバマ政権によるイラクからの全面撤退は、このような状況下、イラク駐留継続のための戦費調達ができなくなったための「強いられた敗戦」でもあった。冒頭に紹介したマケイン上院議員の発言はその意味で正しいが、彼の発言に訂正の必要があるとすれば次の2点だろう。1つは米国が戦争をできないのは中東に限らないということ、もう1つは「することはない」のではなく「できない」のだということである。

 ◇ベトナム戦争以来の衝撃

 米国の戦費調達が不可能になったという意味において、イラクでの敗戦は世界史上に残るニュースである。米国の政治・経済・社会への打撃という意味ではベトナム戦争での敗戦に匹敵するであろう。

 ベトナム戦争で米国が失ったのはブレトン・ウッズ体制である。ブレトン・ウッズ体制とは、金と米ドルとの交換を可能とする「金本位制」を基軸として、各先進国が固定相場制の下に通貨を交換し合う制度のことだ。1945年に発効したこの制度では、金1オンス=35米ドルに固定され、日本でも長い間外国為替市場は1米ドル=360円に固定されてきた。

 金本位制は貨幣価値を金の価値によって保証する制度だ。金の埋蔵量には限りがあるから、どの国も金の保有量を増やすことには限界があり、また、どの国の政府もその国が保有している金の価値の総体を超えて通貨を発行することはできない(仮に発行できたとしても、貨幣価値が下落し、インフレが起きて両者が調整されるだけである)。

 戦争は、新たな商品を生み出すことなく破壊だけをもたらす資本主義経済にとっての麻薬である。ところが、政府以外に顧客のいない軍需産業は政府の政策に介入し、政治を歪め、国家経済に「麻薬」を注射し続ける。戦争が続くと、戦費調達のため紙幣の増刷も続く。金の価値によって貨幣価値を裏付けていた金本位制は、やがて金の価値が増大する通貨発行量に耐えられなくなり、崩壊する。ベトナム戦争によるブレトン・ウッズ体制の崩壊はこのようにして起きたのである。

 1961年度以降、米ドル発行残高は一度として減ることがなく、今日に至るまで右肩上がりで上昇を続けている。ベトナム戦争があろうとなかろうと、このことだけでもブレトン・ウッズ体制はいずれ崩壊する運命にあった。しかし結果的にベトナム戦争がその死を早めた。

 米国経済のドル垂れ流しはこの後も絶え間なく続いたが、これには戦争や金融危機以外に国際通貨としての米ドルの特殊性も指摘しておく必要がある。日本円の場合、国際取引にはほとんど使われず、そのほとんどは日本国内で所有されているから、日銀が金利を引き上げれば市場に流通していた円は一定程度日銀の金庫に戻る。しかし世界中であらゆる取引の決済に使われている米ドルは、単にFRB(連邦準備制度理事会;米国の中央銀行)が金利を引き上げたくらいではFRBの金庫になかなか戻ってこないのである。国際通貨、共通通貨としての性格を強く持っている通貨は垂れ流しになりやすいといえる(ユーロにもこのことは一定程度当てはまるが、本稿筆者はユーロ危機にはまた別の原因があると考えている。このことは機会があれば別に述べたい)。

 統計の残る1961年以降、米ドルが右肩上がりで発行量を増やしてきたということは、米ドルの価値もまた一貫して下落し続けてきたことを意味する。ベトナム戦争で金本位制を失った米国が、その後二度と金本位制に戻ることができなかったように、イラク戦争で「戦費調達の自由」を失った米国がその自由を回復することは二度とないであろう。その意味でイラク戦争は、ベトナム戦争以来の打撃を米国に与えたのである。

 ◇誰が救済されたのか?

 もう一度、次の2つの資料を見比べていただきたい。1つは米国におけるドル発行残高の推移、もう1つは米国債発行残高の推移である。どちらも1980年代に入る頃から緩やかに増え始め、2008年から急増するという形で相似を描いている。

 米ドル発行額と米国債発行残高が、ともに2008年に急増したという事実から次のことが読み取れる。リーマン・ショックの際に大量の米ドルが刷られ、国債も大量に発行され、これらのすべてがマネーゲームに狂奔してきた米国金融資本の救済に回されたということである。国債の新規発行は、通貨の増刷を少しでも抑えるための目くらましとして同時に実行されたと考えられるが、返済のための資金的裏付けのない新規国債発行は、結局、返済の際に新たな紙幣を刷らなければならないということを意味しており、一時的な問題のすり替えにしかならない(ちなみに、日本では太平洋戦争の戦費調達のため、大蔵省・日銀が軍部の圧力に屈して新規国債を日銀に引き受けさせた結果、返済のための円が足りなくなり、紙幣を増刷したところ、インフレで経済が崩壊したことから、戦後の財政法では新規国債を日銀が引き受けることは禁止された)。

 カネのために戦争とマネーゲームを始めた米国グローバル資本は、まさにその戦争とマネーゲームとでみずから深く傷ついた。米国政府はその救済のため、税金と借金をグローバル資本にジャブジャブ流し込んだ。2008年~2011年だけで、米ドルの発行残高は従来の2.5倍、米国債の発行残高は従来の40%増である。これらのツケはこれから民衆に回される。考えただけで背筋も凍るような悪夢である。

 ◇戦争国家から民衆の国家へ

 以上、米国が置かれている深刻な経済危機の一端をご覧いただいた。これらの事実からいえることは、「戦争国家としての米国」の完全な終焉である。これからの時代を米国が生き残れるかどうかは、軍需産業だけが栄え、それ以外の産業はすべて没落していく戦争国家路線を民生本位に転換できるかどうかにかかっているといえよう。

 2011年秋、米国各地に「ウォール街を占拠せよ」「我々は99%だ」との叫びが響き渡った。この動きはやがてギリシャのように、米国でも「支配層が作った借金なら我々は返済しない、返済するのは奴らだ」という声につながり、支配層を大きく揺さぶることは間違いない。

 日本でも状況は同じである。「一般会計税収、歳出総額及び公債発行額の推移」(財務省)によれば、日本でも1000兆円を超えるといわれる債務の大部分は平成10(1998)年以降のものであることがわかる。バブル時代に踊り狂ったマネーゲームの後始末で山一証券や北海道拓殖銀行といった金融機関が相次いで破綻していった時期と重なる。このときを境にして国債発行残高が急増している事実を見れば、この債務が誰のために作られたのかわかるだろう。野田政権が進めようとしている消費増税とは、この借金の民衆への押しつけに他ならない。ギリシャの民衆と同じように、我々には返済を拒否する権利がある。

 「ウォール街を占拠せよ」「我々は99%だ」「借金は作った奴らが返せ」という声を日本でも各地でとどろかせよう。「金融屋が作った借金の請求書は金融屋へ、戦争屋が作った借金の請求書は戦争屋へ、原子力村が作った借金の請求書は原子力村へ!」が2012年のスローガンだ。

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<緊急寄稿>金正日総書記の死去報道を読み解く

2011-12-20 22:13:47 | その他(海外・日本と世界の関係)
(本エントリは、当ブログ管理人が「レイバーネット日本」用に執筆した原稿をそのまま掲載しています。)

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 金正日・朝鮮労働党総書記の死去の報が流れた。だが私はこのニュースを聞いても全く驚かなかった。

 12月13日に朝鮮中央テレビ女性アナウンサー、リ・チュンヒ(李春姫)氏が50日以上ニュース番組に出演していない、という報道が日本のバラエティ番組で面白おかしく取り上げられているのをご記憶の方も多いと思う。民族衣装を身にまとい、激しい抑揚で北朝鮮政府の公式見解を内外に向けて発表するあの女性アナウンサーである。いつの頃からか、日本のテレビでもすっかりおなじみになった。

 私は、このニュースを見た直後、半分冗談、半分本気で連れ合いにこう言った。「こんな恐いことを憶測でネットなんかに書けないけど、金総書記死去なんてニュースがそのうち年内か年明けくらいに流れるかもしれないよ」と。

 ●明らかな「予兆」

 予兆はあった。11月末頃、なんとなくネット動画投稿サイト「ユーチューブ」を見ていた私は、あるひとつの動画にたどり着いた。それを見た私は衝撃を禁じ得なかった。今年秋、平壌で行われた北朝鮮のある公式行事で、壇上にいる金総書記の衰弱ぶりが尋常ではなかったからだ(何の行事か覚えていない上、そのネット動画も今うまく探せないが、時期から判断して9月9日の建国記念日か、10月10日の朝鮮労働党創建記念日のどちらかだと思う)。

 その際の金総書記は、お年寄りが階段を上るときのように手すりにつかまりながら登壇し、虚ろな表情で拍手をしながら、終了後も手すりにつかまりながら退場した。金総書記が倒れないよう、すぐ後ろに立ち、不安な表情で見守る朝鮮人民軍幹部の姿も映し出されていた。金総書記が手すりにつかまりながらでなければ通常歩行すらできないという事実は、私に「これはもう長くないかもしれない」と思わせるに充分だった。

 その上、冒頭で紹介したリ・チュンヒ氏の50日以上にわたる不在。これが私の「直感」を増幅させた。

 ●リ・チュンヒ氏の不在が意味するもの

 リ・チュンヒ氏が10月中旬から50日以上にわたって北朝鮮のニュース番組に登場していない――この事実に日本で最初に気付いて国内メディア向けに配信したのは財団法人「ラヂオプレス」だ。この団体は、もともと1941年に外務省が設置した「ラヂオ室」が前身で、戦後は財団法人として外務省から切り離された。主として情報統制の厳しかった共産圏のラジオ放送を傍受し、その記事を翻訳・解説して日本国内のメディアに流す通信社である。若い人にとっては初めて聞く名称かもしれないが、ソ連・東欧の社会主義体制が崩壊するまで、閉ざされた共産圏の情報を日本に配信できるほとんど唯一の通信社として独特の存在感を発揮していた。

 国内メディアはせっかくこんな貴重な情報の提供を受けたのに、日本の女子アナのスキャンダルを報じるような感覚の下にバラエティ番組で面白おかしく取り上げるだけに終わった。東西冷戦が激しかった1960~80年代には、「ソ連のラジオでニュース番組が突然放送されなくなり、代わりにクラシック音楽が流され始めた」という情報から「党書記長死去」を読み解くなど、ラヂオプレスが流す情報から言外に含めたメッセージを理解していた日本のメディアも、すっかり情報分析力が退化し、今回、ラヂオプレスが言外に含めたメッセージの解読すらできなかったようだ。

 北朝鮮のアナウンサーは「放送員」と呼ばれ、役職が上のほうから順に「人民放送員」「功労放送員」「放送員」の3種がある。「放送員」は事実上のヒラ放送員である。政府の重要方針、最高指導者の動静、重要な国家的行事の生中継といったトップクラスの放送は人民放送員が担当する。人民放送員の多くは朝鮮労働党員である。これに次いで重要な放送は功労放送員が担当し、それ以外の一般ニュースは放送員の担当である。1994年に金日成主席が死去したとき、その放送を行ったリ・サンビョク氏も人民放送員だった。リ・サンビョク氏はその後死去しており、現在はリ・チュンヒ氏が事実上トップ放送員だというのが北朝鮮ウォッチャーの間での一致した観測だった。今回、金総書記の死去をリ・チュンヒ氏が担当したことは、この観測を裏付けるものだ。

 極端な言い方をすれば、北朝鮮では「ニュースの重要度は内容ではなく、誰がそれを読むかによって決まる」といえる。メディアは単なる政府の宣伝機関に過ぎないのだから、こうなることは当然の帰結である。人民放送員が担当する放送は、北朝鮮国民ならよくそれを聞いて政府の方針を理解しなさい、ということである。

 その意味で北朝鮮のメディアは「いつものニュースキャスターが休暇を取っていれば代わりに別のキャスターが読めばいい」という日本のメディアとは根本的に違う。日本のメディアがこうしたスタイルを取るのは、「ニュースの重要度は内容にあり、誰がそれを読むかによって決まるのではない」ということが社会的合意となっているからである。

 こうした状況の中で、リ・チュンヒ氏が10月中旬以降、50日以上も朝鮮中央テレビに登場しなかったという事実は重要な意味を持つ。人民放送員が担当すべき重要な放送が50日以上にわたって行われないということは、すなわち50日以上にわたって北朝鮮では重要な国家的決定が行われず、最高指導者の動静もなかったということを意味する。金総書記の身に何かが起きているのではないか――ネット動画で見た金総書記のボロボロの健康状態とあいまって、そうした直感がふと私の頭をよぎった。連れ合いに向かって発した私の冒頭のひとことは、こうしたことを根拠にしていた。

 「一葉落ちて天下の秋を知る」という中国の故事成語がある。わずかな兆候をキャッチし、それを正確に分析できれば事の本質に迫れるという意味だ。情報を統制し、真実を明らかにしようとしない相手を知るには、こうしたわずかな兆候を捉えることが必要である。残念なことだが、こうした技能は今後、既存メディアが壊死しつつある日本でも確実に必要になるだろう。情報隠しに明け暮れる東電対策にもこの方法はある程度有効である。

 ●北朝鮮は今後どこへ?

 不確実な東アジア情勢の中で、北朝鮮が今後どこに向かうかを予測することは難しい。総書記の三男・金正恩氏がその後継者だというのが北朝鮮政府の「公式見解」であろうが、公式発表されている正恩氏の経歴によれば彼は1983年生まれである。まだ20代の正恩氏に歴史上最も困難な状態の北朝鮮の舵取りが務まるとはとても思えない。しばらくの間は集団指導体制となるであろう。

 党、軍、政府各機関を掌握していた金総書記の死去によってこれらが全くバラバラに活動し始めることがないとはいえない。特に朝鮮人民軍は「党の私兵」という位置づけのまま半世紀以上にわたって活動してきた。金日成主席~金総書記時代には「党」とは事実上主席や総書記個人を意味しており、「党」を失った朝鮮人民軍が何者にも統制されない暴力装置として他の全階層の上に君臨するという事態は避けなければならない。

 日本が取るべき道は決まっている。冷静に東アジア情勢を見る必要がある。軍事挑発に挑発で応えてはならない。困難な情勢にある北朝鮮は、瀬戸際外交を繰り返しつつも、最後は対話に応じる以外に道はないと悟るであろう。その時のために対話の窓口を開けておくべきである。国交回復を目指すべきことは言うまでもないが、国交のない相手でも非公式の対話チャンネルならいくらでも設置できる。感情に走らず粘り強い対話を呼びかけ続けることが大切である。

 現状では北朝鮮の核開発はそれほど大きな問題ではない。日本の支配層の代弁機関である商業メディアの空騒ぎに付き合っていたずらに敵対姿勢を取ることは慎むべきである。もとより核開発・保有は人類道徳に挑戦する野蛮な冒険であり非難されなければならないが、原発からの放射能汚染水を海に投棄した日本が北朝鮮に核放棄を迫っても笑いものになるだけだ。残念ながら日本には現在その資格はなく、野田政権は福島原発事故を収束させるほうが先だ。北朝鮮に核放棄を迫る役割は韓国が果たせばよい(中国・米国はみずからも核兵器保有国であり、自分が先に核軍縮の姿勢を見せない限り北朝鮮を説得するのは無理だ。北朝鮮に核放棄を要求する資格を持っているのは、みずからは核兵器を保有せず、同じ民族・同じ言語・同じ文化を持つ韓国のみであろう)。

 過去の侵略戦争と植民地支配の謝罪をしない国を相手が信頼などするわけがない。北朝鮮に対しても、戦争責任を日本がきちんと取ることを忘れてはならない。

<参考文献>
 本稿執筆に当たっては、「北朝鮮アナウンサーの話術の秘密を『放送員話術』から分析する」(「アジア放送研究会」レポート)を参考とした。

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ムバラク政権崩壊…エジプト激動の2週間

2011-02-16 23:54:34 | その他(海外・日本と世界の関係)
エジプト、進化した蜂起の形(フィナンシャル・タイムズ) - goo ニュース

後日アップ予定。

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2011年は中東民主化ドミノの年となるのか?

2011-01-30 23:51:00 | その他(海外・日本と世界の関係)
(この記事は、当ブログ管理人がインターネットサイト向けに執筆した原稿をそのまま掲載しています。)


 2011年に入って早々、北アフリカ・チュニジアで23年間にわたったベンアリ独裁政権が「民衆蜂起」で崩壊したと思ったら、今度は隣の隣・エジプトでムバラク独裁打倒を訴えるデモが激しさを増している。

 市民が「打倒」の対象としているホスニ・ムバラクはエジプトがシナイ半島をイスラエルに奪われた第三次中東戦争後、空軍大将として壊滅状態となった空軍の立て直しに成功し、サダト大統領から副大統領に任命されて政治的立場を固めた。サダトはシナイ半島をイスラエルとの講和によって返還させるなど大きな政治的手腕を発揮したが、1981年、「イスラエル壊滅」を訴えるイスラム原理主義者の凶弾に倒れた。サダト暗殺直後、副大統領から大統領に昇格したムバラクは、イスラム原理主義の抑圧を口実に強権体制を敷き、あらゆる反対運動を弾圧しながら30年にわたって権力を維持してきた。首都カイロに住んでいるある日本人駐在員は、「外国人の目で見ても、(エジプト国民は)よく我慢しているなという印象を受けた」と商業メディアの取材に対して答えている。

 今年、83歳となるムバラクの健康状態を巡っては、癌との噂、またドイツで胆のうの摘出手術を受けたのではないかとの噂が流れるなど、様々な憶測を呼んできた。30年というあまりにも長すぎる政権とあいまって、このところムバラクの求心力には急速に陰りが見えていた。2011年はエジプト大統領選の年でもあり、エジプト政治にとって激動の1年になることは新年早々から予測されていたが、それでも中東情勢に詳しい識者の多くはこんなに早くムバラク政権の危機が訪れるとは予想していなかった。現に、英フィナンシャル・タイムズ紙のルーラ・ハラフ記者は、「2011年、エジプトでムバラク時代は終わるか」との問いに対し「ムバラク一族の意向が通るなら、ノーだ」と答えている。

●頭をよぎった1989年の東欧ドミノ

 チュニジアで始まった「ジャスミン革命」はエジプトに影響を与え、イエメンでも民主化を求める市民のデモが始まるなど、押さえつけられていた政治的不満が新たな胎動を呼び起こしつつある。今、筆者の関心はただ1点に絞られている――2011年が1989年の再来となるのかどうかである。東欧諸国を抑圧していた「ブレジネフ・ドクトリン」が消失し、ソ連のくびきから解き放たれた市民が次々とスターリニズム独裁を覆した東欧ドミノ革命が、アラブ諸国でいよいよ再現されるのだろうか。

 それにしても、中東諸国は、こうしてコラムの題材にしているだけでもうんざりするような長期独裁政権ばかりだ。ムバラク政権30年、崩壊したベンアリ政権が23年。リビアのカダフィ政権に至っては1969年の成立から今年で42年目に突入する。あのスターリンでさえ、1922年の党書記長就任から53年の死去まで在任期間は「わずか」31年に過ぎないのだ!

 長期個人独裁でない国に目を転じても、アサド大統領が2000年に死去するまで「邪魔者は消せ」とばかりに敵対勢力の粛清を繰り返したシリア、シリアと競うように反対派の粛清が続いたサダム・フセイン政権下のイラク、選挙で国民が選んだ大統領の政策が選挙もされない「絶対不可侵」のイスラム聖職者たちによって次々に覆されていくイラン。そして、覆す以前に国会も選挙もなく、2005年にようやく「地方評議会議員の半分だけ」選挙が導入された絶対王政のサウジアラビア(そもそも、この国名自体が「サウド王家のアラブ国」という意味であり、王家による国家私物化を如実に示している)。

 中東諸国の独裁がいかに異常で深刻な事態か理解できるだろう。そもそも、これだけの石油収入がありながら、国民になんの恩恵ももたらされない社会体制に対して疑問を持たない方がどうかしている。これら諸国では民衆の不満は頂点に達しており、いつ爆発するともしれない不穏な空気が漂っていたとしても不思議ではない。

●むかし衛星、今ネット

 エジプト危機の引き金を引いたチュニジアに関して、筆者は北アフリカの砂漠の国という他に、PLO(パレスチナ解放機構)の本部が置かれていたことがある国だという程度の知識しかなかった。そこで起きた民衆革命のことは「飛幡祐規 パリの窓から(14)「砂漠に種を蒔く」~ジャスミン革命がもたらす希望」が詳しいので、そちらを参照いただきたいが、インターネットを通じた情報化によって人々がしなやかに結集していく様子が生き生きと描かれている。エジプトでも、反政府デモに参加している若者のひとりが「これはフェースブック革命だ」と叫んでいるのを見て、筆者は軽い衝撃を覚えた。

 フェースブックとは、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)と呼ばれる会員制ホームページサービスだ。実名で会員登録をし、プロフィールを公開して趣味や指向を同じくする同好者と交流を図る。実名で情報を発信することから、情報の信頼性は一般的に匿名制のサイトより高いといわれる。先行するSNSとしてはすでにmixi(ミクシィ)があるが、フェースブックはすでにミクシィを大きく超え、昨年までに全世界の会員数が5億人を超えた。

 チュニジアでベンアリ政権を崩壊させる市民集結のツールとしてフェースブックとツイッターは重要な役割を果たした。市民をつなげる情報ツールとしてのネットの力に驚愕したムバラク政権は、今頃になってネットと携帯電話を遮断する処置を取ったが、多数の市民が街頭に出てしまった後とあっては、もはや手遅れだろう。

 1989年の「東欧革命」では、体制変革に大きな役割を果たしたのは衛星放送だといわれた。西側諸国が衛星放送で東側に向けて番組を流し続けたことが、自由の価値を東欧の市民に認識させたというのだ。実際、東欧革命の端緒を作ったポーランド自主管理労組「連帯」のワレサ委員長(民主化後、大統領に当選)はこう語っている。「世界は衛星放送によってひとつになった。喜びも隠せないし悲しみも隠せない。兵器も隠せない。そしてもはや何も隠せない」。

 世界政治の大きな変革期には、変革を象徴する情報ツールが登場することが多い。そして、新しい情報ツールを駆使して下から広がる連帯の動きに対し、独裁者の対策は常に後手に回ることになるが、それは当然だろう。政敵や反対者を粛清し、イエスマンばかりに囲まれた「裸の王様」は批判されることがないから自分の頭で考えることもない。長期にわたってそんな状態が続けば、やがて考えること自体ができなくなり、想定外の事態が起きたとき対処できず、独裁支配は解体することになる。新たな情報ツールの出現によって民衆蜂起が引き起こされている現在の状況は、その意味でも1989年に酷似している。

●中東民主化で困るのは誰か?

 ところで、中東諸国が民主化した場合、最も困る国はどこかと尋ねられた場合、読者の皆さんはなんと答えるだろうか。筆者は「米国とイスラエル」だと答える。

 米国は第二次大戦後、あらゆる手法で中東諸国の石油を支配しようと試みた。それはあるときは成功し、あるときには失敗したが、米国を悩ませるほどの反米産油国がイランとベネズエラ程度しかない現在では、概ね成功しているといっていいだろう。

 米国から見れば、石油を支配するには親米独裁>反米独裁>親米民主主義>反米民主主義の順に都合がいい。反米独裁と親米民主主義は順序が逆ではないかといわれそうだが、反米独裁政権に対しては、米国はいつでも軍事力を行使して親米独裁に変えることができる(イラクが典型例)。政府の政策が「世論」に影響され、前の政権との間で締結された米国に有利な石油供給契約がいつ次の政権によって破棄されるかもしれない民主主義では、米国は枕を高くして寝られないのだ。特に、民主主義的に選出された政府が米国の開戦に強硬に反対する、イラク戦争当時の独仏のようなケースが米国にとって最も厄介な相手である。中東産油国の多くが独裁政権である現状では、米国は独裁者を援助で懐柔し、体制を保障しながらできるだけ有利な石油供給契約を締結さえすればよい。独裁者は長期にわたって交代しないから、この先何十年もの間、安く石油を買える契約が米国に対し保障され続ける。

 イスラエルにしても同様である。イスラエルの選挙制度は、かつて日本でも参議院の一部が採用していた全国を一選挙区とする拘束名簿式比例代表制だが、この選挙制度はパレスチナ人を国会から締め出すために最も好都合である。パレスチナ人を一定の狭い地域に押し込めて生活させているイスラエルでは、地域代表を個人名投票で選ぶ選挙区制を採用した場合、パレスチナ人の国政進出が避けられない。そこで、比例代表名簿に誰を搭載するかが各政党に委ねられている拘束名簿式比例代表制とすることで、ユダヤ人だけが比例代表名簿に載るようにしているのである。パレスチナ人には、ユダヤ人だけを候補者とする各政党のなかから自分の考えに近い政党を選ぶ自由が与えられているに過ぎない。

 もし、中東諸国で非アラブ人も含めて誰でも自由に選挙に立候補し、誰もが平等な投票権を持つ先進国並みの民主主義が確立するとしたら、それはイスラエルにも大きな影響を与えるだろう。中東諸国は自分たちの民主主義に自信を持つ。「腐敗した独裁政治に毒された2級国民はせん滅されても仕方がない」と、周辺諸国への無差別な武力攻撃を正当化してきたイスラエルの論拠は根底から崩れ去る。それどころか「非ユダヤ人を締め出し、ユダヤ人だけで民主主義だと寝言を言っているイスラエルと、奴隷が締め出され平民だけに選挙権が与えられていた古代ローマの“民主政”はどこが違うのか」と中東諸国から論争を挑まれた場合、自己改革を迫られるのはイスラエルのほうだということになる。

 筆者は、だからこそ中東民主化の最大のチャンスが巡ってきた今、一気に民主化を実現すべきだと訴える。民主化が実現すれば、米国は中東諸国から石油を買うため独裁者ではなく民衆を説得しなければならなくなる。イスラエルも自己改革を迫られる。そのことだけでも、途上国の犠牲の上に莫大な利益を上げている米国の多国籍資本に大きな打撃を与えることができる。中東和平の推進にも良い影響を与えるに違いない。

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北朝鮮、韓国・延坪島を砲撃 民間人も2人死亡

2010-11-24 23:38:28 | その他(海外・日本と世界の関係)
<北朝鮮砲撃>100発着弾で兵士2人死亡 韓国側も応戦(毎日新聞)

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 【ソウル大澤文護、ニューヨーク山科武司】23日午後2時半(日本時間同)ごろ、韓国が黄海上の南北軍事境界線と定める北方限界線(NLL)まで約3キロの韓国領・延坪島(ヨンピョンド)に向け北朝鮮側から砲弾100発以上が発射され、このうち数十発が島内の韓国軍基地や民家に着弾した。韓国軍合同参謀本部によると兵士2人が死亡、兵士15人が重軽傷、民間人3人が軽傷。韓国軍は対岸約10キロに位置する北朝鮮黄海南道の海岸砲基地からの攻撃とみて約80発の砲撃で応戦し、日本政府関係者によると、北朝鮮側にも被害が出たとの情報がある。北朝鮮が韓国領土を砲撃し、人的被害が出たのは1953年の朝鮮戦争休戦以来初めてで、朝鮮半島情勢は緊迫の度を増している。

 北朝鮮による砲撃を受け、国連安全保障理事会は24日以降、緊急の会合を開いて対応を協議する見通しだ。

 延坪島はNLLの南側に位置し、島民約1660人のほか韓国軍兵士約600人が駐屯する。韓国メディアによると、北朝鮮の砲撃は約2時間断続的に行われ、約60~70軒の住宅が破壊された。島の各所で火災が発生し、住民は島内の防空壕(ごう)や、島の東約90キロの仁川港などに定期船や漁船で避難している。

 北朝鮮の朝鮮人民軍最高司令部は23日、韓国軍が先に砲撃してきたとする声明を発表。韓国軍が北朝鮮領海を侵犯したと主張し、「領海を0.001ミリでも侵犯するなら、今後もちゅうちょせず無慈悲な軍事的対応打撃を引き続き加える」と警告した。朝鮮中央通信が伝えた。

 北朝鮮は99年にNLLの「無効」を一方的に宣言し、NLLの南側に独自の「軍事統制水域」を設定して延坪島周辺海域を含む一帯を北朝鮮領海と主張してきた。韓国軍は22日から黄海で演習を実施しており、韓国メディアによると、北朝鮮は「北側海域で射撃をした場合、座視しない」との通知文を韓国側に送っていたという。

 韓国軍当局は「演習では北朝鮮の方角ではなく西に向けて砲撃していた」と主張しているが、北朝鮮側が自らの領海と主張する海域での演習に反発し、砲撃した可能性もある。

 李明博(イ・ミョンバク)大統領は直ちに招集した安保関係閣僚会議で「二度と挑発することができないよう対応措置を取る」と発言。大統領府の洪相杓(ホン・サンピョ)首席秘書官は「韓国に対する明白な武力挑発だ。追加挑発時には断固対応する」との声明を発表した。

 韓国政府は事態拡大の防止を呼びかける通信文を北朝鮮に送る一方、全軍に最高度の非常警戒態勢を発令し、戦闘機が上空で警戒。25日から南北軍事境界線に近い韓国・坡州(パジュ)で予定していた南北赤十字会談の無期延期を発表した。
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北朝鮮が突如、韓国の民間人居住地域を攻撃した。朝鮮戦争休戦以来、南北間の衝突は海上での正規軍同士の衝突や、軍事境界線を挟んだ正規軍同士の発砲など、民間人を巻き込まない形で限定的に行われてきた。それだけに、今回の事態は深刻であり、衝撃でもある。

99年に北朝鮮が設定した軍事統制水域なるものは、国際社会の承認が得られていない。自分で勝手に設定した水域を根拠に、それより北側は自分たちの水域だと主張することには無理がある。もし、そのような主張が認められるなら、世界中の国々が、みんな自分勝手に国境を変更できることになる。そうなれば、世界は国境紛争だらけ、戦争だらけになるだろう。

一方、ではNLLが正しいかといえば、そうとも言い切れない。このNLLは、朝鮮戦争が休戦となった1953年に国連軍が設定したものだが、国連軍の実態は米軍であり、米軍の意向が強く反映していた。当時、国連に議席を持っていた「中国」は現在の台湾政府であり、朝鮮戦争当時、人民義勇軍を送って北朝鮮を援助した大陸政府はこの当時、国連に代表権がなかったのである(大陸政府が台湾に代わって国連加盟となるのは1971年)。

したがって、北朝鮮はもちろんのこと、中国政府も「俺たちの関与できないところで勝手に決められたNLLなんて知るか」が本音だろう。

しかし、どのような事情があれ、民間人に犠牲者を出す軍事行動に正当性はなく、北朝鮮はこうした危険な軍事行動をやめなければならない。NLLを変更させたければ、国連安保理なり、6カ国協議なり、正当な話し合いの場で持ち出して議論するのが筋である。

韓国・延坪島で民間人2遺体発見=砲撃受け兵力増強―黄海に米空母派遣へ(時事通信)

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 【ソウル時事】韓国の海洋警察庁は24日、北朝鮮による砲撃を受けた延坪島で、民間人2人の遺体が発見されたと明らかにした。兵士に加え、民間人の死者が出たことで、韓国の北朝鮮に対する反発はさらに強まる見通しだ。

 海洋警察庁によると、遺体が見つかったのは海兵隊官舎の工事現場。2人とも60歳前後の男性で、島外から働きに来ていたとみられる。遺体は焼け焦げており、作業中に砲弾を受けたもようという。

 23日の砲撃では、韓国軍海兵隊員2人が死亡、隊員16人が重軽傷を負ったほか、民間人4人の負傷が確認されていた。今回の遺体発見で砲撃による死者は計4人となった。また、損壊した家屋は22軒に上った。

 李明博大統領は24日午前、首席秘書官会議を開き、延坪島など北朝鮮に近い黄海の5島の兵力を増強し、新たな挑発に備えるよう指示。また、今回のような局地的挑発に積極的に対応するため、北朝鮮との交戦規則を改定する必要があるか検討するよう求めた。

 統一省は同日、安全上の問題を理由に、北朝鮮の開城工業団地への韓国人の訪問を当面禁止すると発表。また、赤十字を通じた北朝鮮への水害支援を中断することを明らかにした。

 李大統領はこの日、オバマ米大統領、菅直人首相と相次いで電話会談し、連携して対応していく方針を確認。米韓は28日~12月1日に黄海で合同軍事演習を実施することで合意した。

 韓国軍合同参謀本部によると、演習には米原子力空母「ジョージ・ワシントン」も派遣される予定。同本部は演習は以前から予定されていたと説明するが、事実上、砲撃への対抗措置と言える。
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米韓の軍事演習は、北朝鮮にさらなる攻撃の口実を与えるものだ。軍事力に対抗する軍事力の連鎖は、決して良い結果をもたらさない。ここは自重し、国際社会の北朝鮮非難が高まるのを待つべきだ。同時に、中国政府に対する働きかけを強めることも必要である。

今回のような無差別砲撃をすれば、民間人に死傷者が出かねないことを北朝鮮は十分知っていたはずである。それにもかかわらず無差別攻撃を実行したのは、金正日総書記の余命幾ばくもなく焦っているのか。あるいは軍にさえ十分な食糧配給が回らなくなり、不満を持った軍が暴走しているのか。いずれにしても、尋常でない事態であることは確かだ。

北朝鮮では、「金日成主席生誕100年である2012年に、強盛大国の大門が開かれる」などという宣伝が行われているようだが、こんな状況で2012年まで持つのだろうか。北朝鮮の崩壊は思いのほか早いのではないかという気がする。周辺諸国は、北朝鮮崩壊に備えた準備をしておく必要があるように思われる。

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中国の民主活動家、劉暁波氏にノーベル平和賞

2010-10-08 22:35:29 | その他(海外・日本と世界の関係)
<ノーベル平和賞>中国の劉暁波氏に…服役中の民主活動家

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 【ロンドン会川晴之、北京・成沢健一、ワシントン草野和彦】ノルウェーのノーベル賞委員会は8日、「長年にわたり、非暴力の手法を使い、中国で人権問題で闘い続けてきた」として、中国の民主活動家で作家の劉暁波(りゅうぎょうは)氏(54)に10年ノーベル平和賞を授与すると発表した。同委は、事実上の世界第2の経済大国となった中国が、人権問題でも国際社会で責任ある役割を果たすよう強く求めた。中国政府は劉氏への授与決定を伝える衛星放送を一時遮断、外務省が「(劉氏は)犯罪者で、授賞は平和賞を冒とくしている」との談話を発表するなど強く反発した。

 ◇中国反発「賞を冒とく」

 劉氏は08年12月、中国共産党の一党独裁を批判する「08憲章」を起草した中心人物。08年に拘束され、今年2月に国家政権転覆扇動罪で懲役11年の刑が確定、服役している。89年6月の天安門事件でも学生を支持して投獄された経験がある。

 劉氏には、賞金1000万スウェーデン・クローナ(約1億2500万円)が授与される。授賞式は12月10日、オスロで開かれる。

 同委は授賞理由について、中国では「言論、出版、集会、結社、抗議活動の権利が極めて限定されている」と指摘。20年以上にわたり活動を続けた劉氏を「人権運動の第一人者」と高く評価した。また、劉氏が自身の懲役刑について「中国の憲法、基本的人権の双方に違反している」と主張していると指摘した。

 会見したヤーグラン委員長は「反体制派への授賞は反発を招くと中国から警告を受けていた」と明らかにしたうえで「中国がより民主的な国になるために他の人が言えないことを、我々は言わなければならない」と述べ、人権と平和を最重視する考えを強調した。同委員会は昨年、就任直後で実績のないオバマ米大統領に授与したことが議論になった。

 ◇米大統領「歓迎」

 オバマ大統領は8日、授賞決定を「歓迎する」との声明を発表、中国政府に同氏の即時釈放を求めた。声明では劉氏を、人権と民主主義など「普遍的な価値観を広める雄弁で勇気ある人物」と称賛。中国の「政治改革が(経済成長に)追い付いていないことを想起させる」と述べた。

 ◇劉暁波◇

 1955年、中国吉林省生まれ。北京師範大講師だった88年に渡米し、民主派の在米中国人組織「中国民主団結連盟」のアピール「中国大学生に告げる公開書簡」の起草に加わった。89年4月に中国の民主化運動を知って帰国。同年6月には天安門広場でハンストを行うなど一連の運動に加わり、天安門事件後に拘束された。事件後、学生指導者らの多くが出国したのに対し、国内にとどまり民主化を求め続け90年以降、断続的に身柄を拘束された。現在は遼寧省の刑務所で服役している。

 ◇08憲章◇

 08年12月10日付(発表は9日)で、中国の作家ら303人が連名で出した中国の民主化を求める宣言文。中国共産党の一党独裁体制の廃止や三権分立、集会の自由など人権状況の改善などを求めている。劉暁波氏ら作家や弁護士、学者らの著名人が実名で発表した。多くの著名人が中国共産党の統治を公然と批判したのは異例。国内外で大きな反響を呼び、インターネット上では約1万人が署名。劉氏は発表の前日に拘束された。
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当ブログは、ノーベル賞委員会の決定を支持する。これまで、「人質」となっていたフジタ現地法人社員、高橋定さんへの配慮もあり触れてこなかったが、一連の尖閣問題を見ても、最近の中国の「大国覇権主義」は目に余る。これ以上こうした外交姿勢を続けるなら、中国はいずれ国際的孤立という高い代償を払うことになるだろう。

人権問題についても同様である。かつて当ブログは、天安門事件20周年に当たり、中国に民主化を促す原稿を発表したが(過去ログ)、経済面では近代的な資本主義経済の体裁を整えながら、政治は一元的で批判を許さない独裁体制のままである。

経済という下部構造と、政治という上部構造の間の矛盾は、今臨界に達し、まさに爆発寸前の状況となっている。経済力増強によって自信を深めた中国国民は、今後、一党独裁制への批判を強めることになるだろう。そのとき、中国を覆うこの矛盾は、臨界を越え、一気に爆発へ向かうに違いない。

幸いにして、中国国民は政府に何度も裏切られてきた歴史から、政府を疑い、きちんと批判する術を心得ている(むしろこの点では日本よりずっと先進的だろう)。一党独裁体制が崩壊すれば、健全な民主主義が育つ可能性はある程度期待できるといえよう。

今回のノーベル平和賞は、国際社会から中国への明らかな「民主化要求」である。中国政府は独裁政治を捨て、その経済規模にふさわしい近代的な統治形態へと、直ちに移行しなければならない。

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「日帝支配36年」と金メダリスト・孫基禎

2010-08-20 22:54:19 | その他(海外・日本と世界の関係)
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 「第11回近代オリンピアードを祝し、ベルリン・オリンピックの開会を宣言する」

 ドイツ首相アドルフ・ヒトラーによる、余計な修飾語の一切ない簡潔な開会宣言で、1936年ベルリン五輪の幕は開けた。

 しかし、ヒトラーは当初、ベルリン五輪開催にきわめて懐疑的だった。その証拠に1932年、まだドイツの野党党首に過ぎなかったヒトラーは、「オリンピックはユダヤ主義に汚れた芝居であり、国家社会主義が支配するドイツでは“上演”できないだろう」と、政権獲得後の中止さえ匂わせる発言をしていた。しかし、翌33年にナチスが政権を獲得すると、最大の側近だったゲッベルス宣伝大臣の入れ知恵もあって、ナチズムの宣伝のためオリンピックを政治的に利用することを考え始めた。

このような経過をたどって開催されることになった1936年ベルリン大会は、極端な人種差別・民族抹殺政策をとる独裁国家によって、政治的に最大限利用された大会として、五輪史上に大きな汚点を残すことになる。

 世界的な軍国主義・ファシズムの嵐の中で、朝鮮半島は1910年以来、日本の植民地支配の下にあった。天皇への忠誠と日本人への同化を強制され、言葉や氏名まで奪われていく屈辱と苦難の中で、2人の朝鮮半島出身のマラソンランナーがベルリンの地を疾風のように駆け抜け、朝鮮半島の人々に勇気と希望を与えた。しかし、その希望は、植民地支配の現実の中で、脆くも打ち砕かれ、消えていった。

 私たちは侵略者としての日本の歴史に区切りをつける意味からも、植民地支配の責任を明確にしなければならない。戦争の歴史を知らない若い世代のためにも、「日帝支配36年」が朝鮮半島とその人々に与えた苦しみを伝えることは平和運動に関わる者にとっての義務である。今回は、ベルリンの地を駆け抜けたマラソンランナーの姿を通じて、歴史の真実を見ていく。(以下、文中敬称略)

●「私が走らなければ損をするのは彼らですからね」

 朝鮮半島出身の孫基禎は、当時の日本と朝鮮半島で間違いなくトップを走る選手だった。だが、朝鮮半島の人々に当時、自分たちの国はなかった。孫もまた「日本代表」としてベルリンに来ていた。孫は、自分の出身を伝えるため、サインをするときは必ずハングルで自分の名前を書こうと決めた。日本選手団の役員はそのことに不満を持ち、「なぜそんな難しい字を書きたがるのだ」と何度も孫を詰問した。孫は「優勝できるかもしれないのでサインの練習をしているのです」と答え、サインを求められると、朝鮮半島の地図とともに気軽にハングルを添えたサインをして「KOREAの孫基禎です」と自己紹介した。練習の時も、極力、日の丸のついたトレーニングウェアを着ないようにした。着ない理由を問われると「ユニフォームがもったいない。家宝として取っておくのです」と答えるのだった。

 「日本代表」としてベルリンに滞在していた同じ朝鮮半島出身の他の選手は、そうした孫の態度を心配した。中には「そんなことをしているとレースに出してもらえなくなるぞ」と“忠告”する者もいたが、孫は「いいですよ。私が走らなければ損をするのは彼らですからね」とあくまで平然としていた。

 朝鮮半島出身の2人、孫と南昇龍は予選での圧倒的な記録によって選出されており、その実力に疑問はなかったが、日本選手団の役員たちは、マラソン日本代表3人のうち2人まで朝鮮半島出身であることに不満を抱いていた。懲りない役員たちは、ベルリン到着後、もう一度代表選考のための予選をやり直そうと言い始め、30kmを走る選考会が提案された。だが、そこでも孫が1位、南が2位となり、役員たちもこの結果を受け入れざるを得なかった。

 ベルリンに向け送り出される直前、朝鮮半島出身の選手の激励会がソウル(当時は京城と呼ばれた)で開催された。他の競技に出場する選手と合わせ、計7人が「日本代表である前に朝鮮青年としての意気を天下に知らしめてくるように」と同胞たちに激励された。

 1936年8月9日、ベルリンではいよいよマラソン競技の号砲が鳴る日が来た。前評判の高かったアルゼンチンのザバラは30kmを過ぎた地点で転倒し脱落、トップに立った孫はそのままオリンピックスタジアムのゴールを駆け抜けた。南も3位に入り、朝鮮半島出身の2人の実力は余すところなく証明された。

●屈辱の儀式

 孫と南は表彰台に上がった。朝鮮半島出身の2人の他には、2位入賞のイギリス代表選手が立っている。実は、孫はそれまで、オリンピックに表彰式という儀式があり、そこで優勝した選手の出身国の国旗が掲げられ、国歌が演奏されるということを知らなかった。孫の優勝を称え、会場には君が代が流れ始めた。それと同時に、スルスルと上がり始めた国旗は、日の丸だった。

 「果たして私が日本の国民なのか、だとすれば、日本人の朝鮮同胞たちに対する虐待はいったい何を意味するのだ。私はつまるところ日本人ではあり得ないのだ。日本人にはなれないのだ。私自身もまた日本人のために走ったとは思わない。私自身のため、そして圧政に呻吟する同胞たちのために走ったというのが本心だ。しかしあの日章旗、君が代はいったい何を意味し何を象徴するのだ」と孫は考えた。そして「これからは二度と日章旗の下では走るまい」と決心したのである。

●同胞たちの歓喜、そして「日の丸消し去り事件」へ

 2人の勝利を何より喜んだのは朝鮮半島の人々だった。日本による弾圧と朝鮮人蔑視を跳ね返す2人の活躍を誰よりも喜び、祝福した。そんな中、ベルリンの日本選手村では2人の祝勝会が準備されたが、孫と南はそれには参加しなかった。2人はベルリン在住の韓国人・安鳳根から招待を受けていたのである。安鳳根は、韓国統監府初代統監・伊藤博文を暗殺した韓国独立闘争の英雄・安重根のいとこに当たる人物だった。2人は、同胞からの祝福を受け、改めて勝利を喜び合った。

 朝鮮半島の新聞「東亜日報」(現在も韓国の新聞として存在する)は、孫の優勝を写真入りで報じたが、掲載された紙面の写真からは、孫が着るユニフォームの胸の部分に付けられていたはずの日の丸が消え、空白となっていた。これは、東亜日報のスポーツ担当記者によるもので、事実を知った朝鮮総督府は激怒した。東亜日報は日本の警察による強制捜査を受け、写真を加工した記者の他、社会部長、運動部長が拘束される事態となった。その後、東亜日報は停刊処分を受け、社内の「危険人物」の追放を条件にようやく復刊を許された。

 当時、東亜日報には系列の雑誌「新家庭」があった。同誌は孫の下半身だけの写真をグラビアとして掲載し「世界制覇のこの健脚!」というキャプションをつけた。「新家庭」編集部にも刑事が捜査に来たが、編集部は「孫選手が世界を制覇したのは心臓ではない。彼の鉄のような両脚である。画報的効果を生かすために脚だけを拡大して掲載した」と反論した。また「使用した写真は孫の高校時代のものである」(=もともとユニフォームに日の丸はついていない)とも説明した。刑事が編集部内を捜索した結果、この事実が裏付けられたため、「新家庭」は関係者の逮捕や処分を免れた。

●「日本人が監視している」

「公式祝勝会」を無断で欠席し、安鳳根と会っていたとして、孫と南に対する日本選手団役員の扱いは次第に冷たくなっていった。その後、シンガポールに滞在していた2人は、東亜日報を巡る事件の発生を受け、小さなメモを渡された。「注意せよ、日本人が監視している。本国で事件が発生、君たちを監視するようにとの電文が選手団に入っている」と、そこには書かれていた。日本は、植民地支配に反抗する朝鮮半島の人たちを徹底的に監視し迫害した。金メダリストさえ、それは例外ではなかったのだ。

●約半世紀の時を経て

 1984年、ロサンゼルス五輪。ソ連のアフガニスタン侵攻を受け、前回、1980年のモスクワ五輪を西側がボイコットしたことに対する「報復」として東側がボイコットした寂しいスタジアムの中で、孫は初めて韓国代表として走ることになった。選手としてではなく、聖火ランナーのひとりとして1kmを走った孫は、10万人の大観衆の中、初めて「ソン・ギジョン、KOREA」と名前・出身国を紹介された。日本語読みの「ソン・キテイ」から朝鮮語読みの「ソン・ギジョン」へ、「日本代表」からKOREAへ。孫基禎は、長かった「日帝支配」からこのとき初めて解放されたのである。

●今こそ過去の清算と差別解消を

 日韓併合100年の今年は、戦争責任を曖昧にしてきた日本政府に謝罪と補償をさせる絶好の機会である。しかし、日本政府は政権交代などなかったかのように、高校教育無償化制度から朝鮮学校を除外して恥じることなく、新たな差別を繰り返している。圧倒的な成績で金メダルを獲得しながら、「日本代表」として表彰台で君が代を聞かなければならなかった屈辱を孫基禎が経験してから70年。今なお朝鮮学校が「各種学校」であるために、生徒たちは多くのスポーツ大会に参加できないでいる。「在日特権を許さない市民の会」などという薄汚い根性の日本人が、朝鮮学校へ押しかけ、大音量で威圧的な街宣を繰り返している。女子生徒のチマ・チョゴリが引き裂かれる事件も後を絶たない。

 「在特会」など右翼の主張を真に受けている若い人に、筆者は、日の丸・君が代にはこのような歴史があることを伝えたいと思う。朝鮮半島の人たちばかりではない。日本人もまた多くが日の丸に寄せ書きをして「武運長久」を祈り、「靖国でまた会おう」と言い残して、無謀な戦争に突撃していった。日の丸・君が代を国旗・国家として受け入れることは、筆者にはできない。

 侵略と植民地支配の謝罪は、被害者に言われたからするというものではない。加害者である日本人みずからがなすべき義務だ。筆者は、戦後補償問題は日本と日本人ひとりひとりの問題であることを、この機に改めて訴えたい。

<参考文献>
「オリンピックの政治学」(池井優・著、丸善ライブラリー、1992年)

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ベルリンの壁崩壊から20年

2009-11-09 22:40:37 | その他(海外・日本と世界の関係)
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

●唐突な「壁解放」の真相
 1989年11月9日、ドイツ民主共和国(東独)の首都ベルリンからやって来たその発表は世界に大きな衝撃を与えた。「(東独国民は)直ちに、全ての国境通過地点から出国が認められる」…後の歴史を大きく塗り替えることになる、ベルリンの壁解放の瞬間だった。

 1989年、世界人口の3分の1を占め、共産圏と呼ばれていた世界は大きな動揺の渦中にあった。中国ではこの年6月、民主化を求めて天安門に集まった学生らを人民解放軍が無差別殺傷する天安門事件が起きたばかりだった。1985年、ソ連共産党書記長に就任したゴルバチョフが「ペレストロイカ」(刷新)、「グラスノスチ」(情報公開)を掲げ、改革を初めて4年あまり。改革の波は東欧社会主義圏全体を揺るがすものになりつつあったが、多くの社会主義国ではいまだに改革は道半ばで、共産党・労働者党が一党支配原則を放棄する決心もつかず逡巡していた時期だった。

 しかも、ちょうどその1ヶ月前の10月9日、東独建国40周年記念式典で、ホーネッカー国家評議会議長兼社会主義統一党書記長が「壁は今後とも数十年間、いや100年にもわたり存続するであろう」と演説したばかりだった。社会主義体制を放棄しても生き残れる可能性がある他の国と違って東独は社会主義を放棄すれば西独に吸収されるのみであり、他の国が社会主義を放棄しても最後まで社会主義を固守するに違いないと信じられていたから、私にはその発表があまりにも唐突なもののように思えたのである。

 それから20年経った今日、謎めいた「壁解放」の真相は担当者の誤発表だったというのが定説になっている。実際には、社会主義友好国にしか自由な旅行が認められていなかった東独国民に対する外国旅行の全面自由化が指導部によって決定され、その自由化が1989年11月10日から発効することになっていた。しかもその外国旅行自由化は「ベルリンの壁を除く」ことになっていたにもかかわらず、社会主義統一党のシャボウスキー政治局員が決定内容を正しく理解しないまま、冒頭のような誤った発表をしてしまったのである。

 シャボウスキー政治局員の発表を「正しく理解」した東ベルリン市民は、大挙して壁に押し寄せ、わずか数日間のうちに東独国民700万人が西独へ出国を申請したといわれる。それは東独国民の4割にも及ぶ恐るべき数字である。東独は翌90年、西独に吸収される形で消滅し、第二次世界大戦の敗戦以来分断されていたドイツはあっけなく統一を達成してしまった。

●壁崩壊の光と影
 ソ連・東欧の社会主義が崩壊して以来20年、社会主義に対する資本主義陣営の勝利が大々的に喧伝されるとともに、資本主義陣営のトップである米国の一極支配が始まった。だが、資本家が労働者を搾取することによって成立する資本主義の一極支配で良い時代が来るなんて、どうしても私には思えなかった。世界経済の教科書が再びマルクスやケインズからアダム・スミスに戻ってしまうのではないかという漠然とした不安に襲われた。

 そうした不安は、今、最悪の形で現実となってしまった。共産圏崩壊の引き金を引くことになるゴルバチョフが登場した1985年はまた労働者派遣法制定の年だが、この法律によって企業の使用者責任はなし崩しとなり、労働者保護の精神を定めた職業安定法は解体させられた。派遣労働者を初めとする非正規雇用は1700万人に上り、20歳代に限れば全体の4割を占めるとも言われる。貧富の格差は拡大し、社会保障は崩壊、彼らはみんな低賃金とピンハネ、理不尽な首切りに怯えながら日々を過ごしている。国鉄改革によって解雇された1047名は、いまだ解雇のまま復職も実現していない。

 自由が抑圧され、錆び付いた「労働者の王国」でも、それが資本主義陣営に対抗できる形で存在していれば、各国の労働者はここまで追い詰められなかったであろうし、ましてやそれが政治的自由を大幅に認める改革を成功させていれば、歴史は大きく変わったであろう。改めて、共産圏崩壊が世界の労働者に与えた負の影響の大きさを実感させられる。

●「レーガンになんて誰も感謝していない」
 ところで、ソ連と共産圏が崩壊したのは、レーガン米政権がSDI(戦略防衛構想:現在のMD=ミサイル防衛構想の原型)を初めとする軍拡競争を仕掛けながらソ連を経済的に追い詰めていったからであるとして、レーガンを冷戦勝利の英雄視する空気が米国にはいまだにあるといわれる。しかし、今年11月のニューヨークタイムズは、東西冷戦の主戦場であったヨーロッパでは必ずしもそうした見方はされていないとして、次のように解説している。

 『ベルリンの壁が崩れて冷戦が終わったのは米国と特にレーガン政権のおかげだ、米国の勝利だと自慢するのが米国側の認識だが、欧州では特にレーガンに感謝していないし、むしろドイツの東方政策と衛星テレビで西ドイツの番組を東に向けて流し続けたおかげ、いわゆる「ソフトパワー」のおかげだと思っている。そしてロシアでは、別にソ連が負けたわけではなく「弱腰ゴルバチョフがぐずぐずして、勝手にソ連を崩壊させただけだ」と未だにゴルバチョフ氏を唾棄している』

 筆者はこの見解に全面的賛同はしない(というより、賛否を表明できるだけの資料を持ち合わせていないと言ったほうが正しい)が、ソ連の社会主義体制が当時の指導部によって人為的に解体されたとする説は一定の説得力があると今でも思っている。歴史的に考えれば、ソ連の社会主義体制は、マルクスやエンゲルスの古典に書かれていたような「生産手段の社会的性質とその資本主義的所有形態との矛盾」が爆発するような形で起きたというよりは、ボルシェヴィキによって上から政治的に移植されたというのが実態だったからだ。革命の第一人者であったトロツキーでさえ、ロシアが「資本主義の鎖の最も弱い環」しか存在していない国だという事実を、なかば公式に認めていた。

 人為的に移植された政治体制は、解体も人為的に行うことができる。ペレストロイカについて、ああでもない、こうでもないといろいろ試してみた挙げ句、大爆発を起こしてしまったゴルバチョフという人物は、研究者には向いているが国家の指導者には向いていなかったということなのかもしれない。

●映画「グッバイ・レーニン」が語る希望
 今から5年ほど前の2004年に、「グッバイ・レーニン」という映画が公開され、東西統一後のドイツでは600万人の観客を動員するほどのヒットになった。

 主人公のアレックスは東独のテレビ修理店に勤める青年だが、社会主義体制に辟易していた。一方、彼の母、クリスティアーネは、社会主義の祖国を捨てて西側へ亡命した夫の反動で、社会主義体制への傾倒を強めていく。ある日、クリスティアーネは、息子アレックスが反社会主義デモに参加し警官隊と衝突しているのを見て、ショックで心臓発作を起こしてしまう。昏睡状態となった彼女は、医師から「二度と覚醒しない」と宣告されるが、奇跡的に意識が回復する。だが、彼女の長い昏睡状態の間に、ベルリンの壁は崩壊し、東独は資本主義の波に洗われていた。

 アレックスは医師から「クリスティアーネが再び大きな精神的ショックを受けて心臓発作が起きたら、今度は助からない」と宣告されたため、映像制作会社に勤める友人の協力を経て、社会主義体制崩壊の事実を母から隠そうとする。社会主義時代と変わらないニュース番組を作って自宅のテレビだけに流したり、キッチンにある外国製ピクルスの瓶のラベルを東独の国営企業のものに貼り替えるなどの工作を行う。初めのうち工作はうまくいくが、やがてクリスティアーネが散歩に出かけた先で外国企業の看板を見つけるなどするうち、彼女は疑いを抱くようになる。母が再び心臓発作を起こすのではないかと案じたアレックスは、そこで母に対し、最後の宣伝工作を打つのである。

 『壁が解放されたベルリンでは、西側資本主義の競争社会に疲れた労働者たちが、続々と社会主義の東独に押し寄せてきています』

 クリスティアーネは、そのニュース映像を見て満足そうにうなずく。これが大まかなあらすじである。

 筆者は、このシーンが、冷戦後の世界を席巻した新自由主義に対する強烈なアンチテーゼであると考えている。広がる一方の格差、下がり続ける生活水準の一方で肥え太っていく資本家たち。ドイツ国民はこの映画の中にユートピアの再興を夢見たのではないか。

 2008年末に起きた金融危機と全世界的規模での雇用・生活崩壊は資本主義が長い歴史の過程をたどりながらも死滅に向かっていることをはっきりと示した。このままではいけないという認識は多くの人々の共有するところとなり、半世紀間、政治的惰眠をむさぼっていた日本でもついに政権交代が実現した。

 「グッバイ・レーニン」は資本主義に代わる新たなユートピアの正体を示すことまではできなかった。しかし、ソ連より民主的で労働者の自主裁量性の高い新たな社会主義を実現させる環境が整いつつあるのではないだろうか。壁崩壊から20年を経た2000年代最後の年の暮れ、ふと筆者はそんなことを思うのである。

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惨敗自民、北朝鮮にまで酷評される

2009-09-06 22:14:13 | その他(海外・日本と世界の関係)
自民惨敗「当然の末路」=北朝鮮党紙(時事通信)

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 【ソウル時事】ラヂオプレス(RP)によると、北朝鮮の平壌放送は6日、同日付の労働党機関紙・労働新聞が日本の衆院選結果について「自民党が大惨敗を喫し政権を手放したことは、時代錯誤の反動政治の当然の末路だ」と主張したと伝えた。また、同紙は「政治的に無能で反人民的な政策を追求する政権は必ずや民心を失い、破滅の泥沼に陥るしかない」と結論付けた。

 北朝鮮メディアは、衆院選の投開票翌日に自民党敗北の事実を伝えたが、選挙結果について本格的に論評したのは今回が初めてとみられる。 
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自民惨敗「反動政治の当然の末路」 北朝鮮機関紙が報道(朝日新聞)

 【ソウル=箱田哲也】北朝鮮の朝鮮労働党機関紙、労働新聞は6日付で、先の日本の総選挙で惨敗した自民党について「時代錯誤の反動政治の当然の末路」などと酷評する記事を掲載した。朝鮮中央通信が伝えた。

 記事は「麻生(首相)が遊説で口にしたのは、政権交代すれば混乱する、などと陰口ばかりで、腐敗政治に幻滅した民心を取り戻すことはできなかった」と自民党の敗因を分析。「総選挙結果はそのまま民心を失った自民党の総破綻(はたん)を宣告している」「特に注目されるのは自民支持者の3分の1が民主党側に寝返ったことだ」とも指摘した。
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世界最悪の独裁国家・北朝鮮。「お前にだけは言われたくない」という気もしないではないが、しかし、言っていることはしごく真っ当だ。

それに、小泉(2世)、安倍(3世)、福田(2世)、麻生(3世)と歴代首相は世襲続き、民主党政権で首相となる鳩山氏も3世だ。案外、北朝鮮のほうも「お前たちと一緒にすんじゃねぇよ。世襲でなければ指導者になれないのはお互い様だ」と思っているのではないか。

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