安全問題研究会(旧・人生チャレンジ20000km)~鉄道を中心とした公共交通を通じて社会を考える~

公共交通と原発を中心に社会を幅広く考える。連帯を求めて孤立を恐れず、理想に近づくため毎日をより良く生きる。

当ブログのご案内

当サイトは列車の旅と温泉をメインに鉄道・旅行を楽しみ、また社会を考えるサイトです。

「あなたがすることのほとんどは無意味でも、あなたはそれをしなくてはなりません。それは世界を変えるためではなく、あなたが世界によって変えられないようにするためです」(マハトマ・ガンジーの言葉)を活動上の支えにしています。

<利用上のご注意>

当ブログの基本的な運営方針

●当ブログまたは当ブログ付属サイトのコンテンツの利用については、こちらをご覧ください。

●その他、当サイトにおける個人情報保護方針をご覧ください。

●当ブログ管理人に原稿執筆依頼をする場合は、masa710224*goo.jp(*を@に変えて送信してください)までお願いします。

●当ブログに記載している公共交通機関や観光・宿泊施設等のメニュー・料金等は、当ブログ管理人が利用した時点でのものです。ご利用の際は必ず運営事業者のサイト等でご確認ください。当ブログ記載の情報が元で損害を被った場合でも、当ブログはその責を負いかねます。

●管理人の著作(いずれも共著)
次世代へつなぐ地域の鉄道——国交省検討会提言を批判する(緑風出版)
地域における鉄道の復権─持続可能な社会への展望(緑風出版)
原発を止める55の方法(宝島社)

●管理人の寄稿
規制緩和が生んだJR事故(国鉄闘争共闘会議パンフレット「国鉄分割民営化20年の検証」掲載)
ローカル鉄道に国・自治体・住民はどう向き合うべきか(月刊『住民と自治』 2022年8月号掲載)
核のない未来を願って 松井英介遺稿・追悼集(緑風出版)

●安全問題研究会が、JRグループ再国有化をめざし日本鉄道公団法案を決定!

●安全問題研究会政策ビラ・パンフレット
こんなにおかしい!ニッポンの鉄道政策
私たちは根室線をなくしてはならないと考えます
国は今こそ貨物列車迂回対策を!

SYRIZA、コービン、サンダース…政治の表舞台に復活する左派 日本でも「受け皿」作りを急げ!

2015-10-26 22:12:18 | その他(海外・日本と世界の関係)
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2015年11月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 ●世界的な左派の上昇

 欧米諸国に再び左派の時代が到来しつつあるようだ。EU(欧州連合)から突きつけられた緊縮財政政策の是非をめぐって9月に行われたギリシャ総選挙で、チプラス首相率いる急進左派連合(SYRIZA)が得票率約35%で議席数を減らしたものの、第1党の座を維持。選挙前と同じ右派政党、独立ギリシャ人との「反緊縮左右連合」で政権も維持した。英国でも、9月に行われた労働党首選で、鉄道や電力の再国有化を唱える最左派、ジェレミー・コービン下院議員が勝利。コービン氏といえば、反戦団体・ストップ戦争連合主催のイラク反戦集会でたびたびスピーチをしたことで知られる。2004年、インド・ムンバイ(旧ボンベイ)で開催された世界社会フォーラムには英国代表として参加。英国史上最大のイラク反戦運動について報告を行った。コービン氏は、みずからも所属する労働党・ブレア政権下で英国が「有志連合」として参加することになったイラク侵略戦争を厳しく批判し、注目を浴びた。

 来年の大統領選挙目指して共和、民主両党の予備選挙が行われている米国でも、民主党で最左派のバーニー・サンダース上院議員が、本命視されていたヒラリー・クリントン国務長官をリードし優位に立っている。厳しい緊縮財政政策の押しつけに対する「反乱」としてギリシャで始まった左傾化の波は、スペイン、英国を経て、ついに米国にも押し寄せようとしている。

 在英ジャーナリストの小林恭子さんは、コービン氏が労働党首となった直後、9月12日付の自身のブログ記事で、その背景を次のように指摘する。

『コービン氏は1980年代から下院議員だが、どうみてもニュー・レイバーではない。閣僚になったこともない。いまさら、鉄道を国有化なんて、非現実的にも思える。……(中略)……しかし、2010年発足の連立政権、今年5月からの保守党政権による財政緊縮策に飽き飽きしている人が国民の中には多数存在している。福祉手当や公共予算が削減されて、困っている人々がいる。コービン氏の選出は、そんな国民の思いを反映しているようだ。

 今のところ、「コービン氏が党首では選挙に負ける」という論客がほとんどだ。私自身、「この人、首相になれそう」・・とはなんとなく、思えない。しかし、「(公共予算)削減のスピードをもっと緩慢にしてほしい」「弱い人を助けて」・・・そんな普通の生活感覚を持つ層がいて、いささか古臭いように見えても、または非現実的に見えても、昔からの「労働者擁護」を打ち出す政策を実行しようとする政治家=コービン氏=を見て、「労働党も悪くないかもしれない」と考える、若い人が結構いるのではないか。1970年代、80年代、あるいは90年代の労働党を知らない若い層、ブレア政権でさえも何をやったかを覚えていない層にとっては、コービン氏は逆に新鮮に見えるに違いない』。

 筆者は、この小林さんの指摘におおむね同意するとともに(鉄道や電力の再国有化が非現実的とは思わないので、その点は同意できない)、ついに時代の時計の針がぐるりと1周したのだと実感する。東西冷戦とベルリンの壁崩壊、そしてソ連解体と続く激動によって「社会主義が敗北した」との資本主義陣営の大宣伝が行われる中、じっと息を潜めてきた左派・左翼が、世界を吹き荒れ続けてきた強欲資本主義とグローバリズムの結果、普通の生活すら営めない貧困層の大量登場、多国籍大企業のために流された大量の血という事態を受けて、再び国際政治の表舞台に登場してきたと見るべきだろう。

 とはいえ、こうした時代の変化を、世界の市民・労働者はただで手に入れたのではない。ウォール街を占拠したあのオキュパイ運動をはじめとする市民・労働者の闘いがこの時代の変化をもたらしたことはもちろんである。この流れを確かなものにし、世界中に広げることができるならば、21世紀はこれまで私たちが描いていたほど悲観的ではないのではないか。

 ●日本でも受け皿作りを

 ギリシャにおけるSYRIZAの台頭、英国労働党におけるニューレイバー(第3極、反左翼的「中道路線」)の否定と左派躍進は、市民・労働者の闘いを通じて下から沸き上がってきた貧困層、社会的弱者のための政治的受け皿作りの要求に応える政治サイドのひとつの動きである。それがSYRIZAのような新勢力として現れるか、英国労働党や米国民主党のような旧勢力復活の形を取るかは、新勢力が登場しやすい選挙制度、政治体制になっているかに大きく左右される。二大政党制という新勢力の登場しにくい選挙制度が採用されている米英両国では、旧勢力の復活という形にならざるを得なかったのだと考えられる(もっとも、最近では英国を二大政党制に含めない見解が、政治学者の間では主流になりつつあることも指摘しておく)。

 翻って日本ではどうか。1960年安保闘争、1970年安保闘争と比較する形で「2015年安保」闘争と形容されるほどに成長した戦争法(安保法制)反対、安倍政権打倒の闘いが、やはり欧米諸国と同様、政治サイドに対する受け皿作りに向けた圧力に発展しつつある。日本共産党が「戦争法廃止のための国民連合政府」樹立を呼びかけた背景には、こうした事情があることを指摘する必要がある。

 ワイマール期のドイツでは、国民が中道勢力を見殺しにした結果、ナチスか共産党かの二者択一を迫られ、ナチスの政権奪取から第二次世界大戦につながっていった。その経過については、筆者がすでに本誌第174号(2015年4月号)で指摘しているのでここでは繰り返さないが、日本が安倍政権の下で同じ道を歩まないためには「どこに投票したらいいかわからない」として、もう何十年もの間、投票所から遠ざかっているリベラル勢力を投票所に呼び戻すための受け皿作りが急務である。

 さしあたり、日本でどのような受け皿が可能であろうか。筆者にも明快な答えは見いだせない(というより、簡単に明快な答えが出せるようなら、ここまでの少数野党乱立状態には陥っていないであろう)が、この間の戦争法反対運動を組織してきた「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」や、反原発運動の軸となった「さようなら原発1000万人アクション」を軸に、民主党内の旧社会党系勢力を結集した「平和・人権・民主主義・リベラル・競争より協働と再分配」の新しい政党を結成、これを自民党への対抗軸に育てていく必要があるだろう。

 欧米諸国から吹いてきた新しい風を日本でも100年に一度の政治変革の好機と捉え、大胆に行動することが、今求められている。

<参考資料>
英労働党党首選 左派コービン氏の勝利で新たな政治勢力が生まれるか?(在英ジャーナリスト、小林恭子さんのブログ)

(黒鉄好・2015年10月25日)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【転載翻訳記事】米国政府の日本盗聴を暴露したウィキリークスのプレスリリース

2015-08-04 22:26:52 | その他(海外・日本と世界の関係)
7月31日、ウィキリークスは、米国政府が日本に対しても盗聴を行っていたことを明らかにした。そのウィキリークスのプレスリリースを、小倉年丸さんの仮訳でお届けする。レイバーネット日本からの転載。(サムネイル写真=ウィキリークスのプレスリリースに掲載されたイラスト)

--------------------------------------------------------------------------------------------
ウィキリークスのプレスリリース(原文

本日、2015年7月31日、中央ヨーロッパ夏時間[世界標準時より2時間進んだ時間]午前9時、Wikileaksは「ターゲット・トーキョー」を公表する。NSAが日本をターゲットとした35のトップシークレットの情報で、このなかには日本の閣僚、三菱などの日本の企業が、日米関係、貿易交渉、慎重な取り扱いが必要とされる気候変動戦略に関する傍受が含まれている。

このリストは、NSAが日本の企業複合体、政府の官僚、大臣、相談役を、第一次安倍内閣(2006年9月から2007年9月)の時期にまで遡ってスパイしていたということを示している。電話盗聴のターゲットのリストは、日本の内閣府の電話交換台switchboard、内閣官房長官、菅義偉、「政府VIP 回線」と記載された回線、 黒田日銀総裁を含む日本銀行内部の非常に多くの職員、少なくとも一人の日銀職員の自宅の電話、日本の財務省内、経済産業省、三菱の天然ガス部門、三井の石油部門の部の非常に多くの電話番号が含まれている。

本日公開したドキュメントには日本の政府高官の盗聴に基づくNSAの複数のレポートも含まれている。これらのレポートのうちの四つは、「トップ・シークレット」に分類されている。このうちの一つのレポートは「REL TO USA, AUS, CAN, GBR, NZL」という印がつけられているが、これは、合衆国の「五つの目」の諜報機関のパートナー、すなわち、オーストラリア、カナダ、英国、ニュージーランドに情報を提供する権限を与えたものだということを意味している。

これらのレポートは、非常に多くの日本の政府省庁から情報を収集し分析しているということを示しており、日本政府に対する米国諜報機関の奥深さを立証するものである。これらのドキュメントは、以下の日本の内部での討議について細部にわたる詳細な知識を有していることを立証している。農業の輸入や貿易をめぐる論争、世界貿易機関のドーハラウンドにおける交渉上の立場、日本の技術開発計画、気候変動政策、核とエネルギー政策、二酸化炭素排出に関する制度、国際エネルギー機関といった国際機関との通信、米国やEUとの外交関係の扱いに関する戦略計画や論点についての草稿、安倍の首相公邸でなされた部外秘の首相ブリーフィングの内容。

Wikileaksの編集長、ジュリアン・アサンジは以下のように語っている。「これらのドキュメントから我々は、気候変動についての日本の提案や日本の外交関係が損なわれないようにするために日本政府が米国にどれだけのことを話し、どれだけのことを話さないでおくかについて気をもんでいることがわかる。しかし、合衆国は全てを聞き全てを読み、日本の指導層の通信をオーストラリア、カナダ、ニュージーランド、英国に提供していたということを今知ったのである。日本にとっての教訓とは以下のことである。日本はグローバルな監視のスーパーパワーに恩恵とか尊敬といった態度をもって期待すべきではないということである。唯一のルールがある。ルールなどは存在しないというルールが。」

Wikileaksの調査編集者のサラ・ハリソンは次のように語った。「本日の公表は我々に、米国政府が慎重な扱いを必要とする日本の産業や気候変動政策をターゲットにしていたということを示している。もし日本におけるコミュニケーションが防御されていたとしたら、日本の産業や気候変動の提案は効果は異なるものになったかもしれない。」

日本は第二次世界大戦以降、米国の親密な歴史的な同盟にある。最近の米国大統領の日本訪問の最中に、バラク・オバマ大統領は「世界でも最も親密な米国の同盟のひとつ」としてこの東アジアの国を表現した。これまでのWikileaksの公表したドキュメントから米国の諜報機関が組織的に大量のスパイ活動をブラジル”Bugging Brazil” https://wikileaks.org/nsa-brazil/、フランス”Espionnage Élysée” https://wikileaks.org/nsa-france/ 、ドイツ”The Euro Intercepts” https://wikileaks.org/nsa-germany/ に対して行なってきたことが示されてきたが、本日公表されたドキュメントはこれらに新たに日本を加えることになる。」

NSAの日本に対する最優先のターゲットの全リストは https://wikileaks.org/nsa-japan/selectors.html にある。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【転載記事】ギリシャ国民投票:反対票のみごとな勝利

2015-07-07 22:44:10 | その他(海外・日本と世界の関係)
EUから求められた財政緊縮策に、圧倒的大差でノーの民意を突きつけたギリシャ国民投票。この国民投票は、ギリシャ国内において与党・急進左翼連合(SYLIZA)の政治的立場を強化したものの、ギリシャ国民の経済的苦境を直ちに解消することにはならないだろう。

それでも、グローバリズム推進の立場の大手メディアが繰り出す「賛成しなければギリシャが破綻する」との脅しをはねのけ、ギリシャ国民が自分たちのこれからの生き方を、民主主義に基づいて、主体的に決めたことには大きな意義がある。進むも地獄、退くも地獄なら、せめて誇りある生き方を選びたいと、反対票を投じたギリシャ国民の気持ちを、当ブログはよく理解できる。

この国民投票に対する反グローバリズム団体、アタック・ジャパンの声明をご紹介する。

----------------------------------------------------------------
エリック・トゥサン

ギリシャ公的債務真実委員会の科学コーディネーター
CADTM[第三世界債務帳消し委員会]国際ネットワーク代表世話人

 「反対」票のすばらしい歴史的な勝利は、ギリシャの市民が債権者からの恐喝を受け入れるのを再び拒否したことを示すものだ。ギリシャ議会が創設した公的債務真実委員会の予備的報告が示したように、不法であくどく正統性のない債務に対し、国家が一方的に支払いを猶予したり、拒絶したりすることを認める法的論拠が存在している。

 ギリシャのケースでは、こうした一方的行為は以下のような論拠に基づいている。

●国内法や、人権に関する国際的義務を違反するようギリシャに強制した債権者側の背信

●前政権が債権者やトロイカ(EU、欧州中央銀行、IMF)との間で調印したしたような協定に対する人権の優越

●その抑圧性

●ギリシャの主権や憲法を無法にも侵害する不公正な用語

●そして最後に、故意に財政的主権に損害を与え、あくどく不法で正当性のない債務を引き受けさせ、経済的自己決定権と基本的人権を侵害する債権者の不法行為に対して国家が対抗措置を取る、国際法で認められた権利

返済不可能な債務について言えば、すべての国家は例外的な状況において、重大で差し迫った危機に脅かされる基本的利害を守るために必要な措置に訴える権限を、法的に有しているのである。

こうした状況の中で、国家は未払い債務契約のような危険を増大させる国際的義務の履行を免除されうる。最後に諸国家は、不正な行為に関与せず、したがって責任を負わない場合には、自らの債務の支払いが持続不可能な時に一方的に破産を宣告する権利を持つのだ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「選択肢がない」「どこに投票したらいいかわからない」~それでもあなたの責任なのです

2015-03-25 22:15:52 | その他(海外・日本と世界の関係)
(当エントリは、当ブログ管理人が月刊誌「地域と労働運動」2015年4月号に発表した原稿をそのまま掲載しています。)

 「国民の自業自得だ。ドイツ国民が地獄を味わうのは当然の義務。われわれを選んだのは国民なのだから、最後まで付き合ってもらうさ」

 時代は第2次世界大戦末期、1945年4月。「ソ連軍に包囲される前にベルリン市民を脱出させるべき」との周囲からの助言を、ヒトラーはこう言って退ける。映画「ヒトラー~最期の12日間~」(2004年公開)にこんなシーンがある。この映画はその大部分が史実に基づいて作られており、ヒトラーは実際にこう言ったのだろう。やがてヒトラーは愛人エヴァ・ブラウンとともに地下壕で自殺。ベルリン市民が市内にとどまったままソ連軍突入の日を迎える。ベルリンは圧倒的なソ連軍の前に廃墟となり、5月8日、ドイツはついに連合国に降伏する。以降、1989年に「壁」が崩壊するまでベルリンは東西に分割統治され続けることになる。

 敗色濃厚となった「第三帝国」の滅亡に積極的に国民を巻き込むかのように、「自分でナチスを選んだドイツ国民の自業自得」とうそぶいたヒトラー。ドイツ国民もまた、その負の歴史と真摯に向き合いながら、ナチス戦犯を地の果てまで追いかけ、断罪し続けてきた。今年1月に死去したワイツゼッカー元西ドイツ大統領は、「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目となる」と連邦議会で演説した。今では地図から消えてしまった旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)の国歌「廃墟からの復活」には「われら兄弟団結すれば人民の敵は打ち負かされる/平和の光を輝かせよう/母親が二度と息子の死を悼まずにすむように」という一節があった。人類史上最悪のホロコーストを生んだナチスと第二次世界大戦への強烈な反省に、保守・左翼の違い、また東西ドイツの違いはなかった。

 ナチスによる戦争犯罪が語られるとき、決まって言われるのが「ドイツ国民は自分でナチスを選んだのだから責任を取るべき」論だ。大正デモクラシーの歴史を持つとはいえ、天皇主権の明治憲法の下で限定された形でしか存在していなかった市民の権利が軍部のクーデターで殺されていった日本と異なり、当時、少なくともヨーロッパでは最も民主的だといわれたワイマール憲法に基づいて、自分でナチスを選び取ったドイツ国民はその責任を免れないというのだ。

 だが、私はこれにずっと疑問を抱いてきた。先の侵略戦争も福島第1原発事故もまったく反省しない日本人よりは賢明に思えるドイツ国民が本当に自分の手でナチスを選んだのだろうか。選ばざるを得ない何らかの事情があったのではないだろうか。そう思いながら、当時のドイツ政治事情を調べていくと、興味深い事実に突き当たった。

 ●「自分で選んだ」は本当か? ~「選択肢がなかった」ドイツ国民

 以下の表は、ワイマール体制下のドイツにおいて、ベルサイユ条約(第1次大戦関係国による講和条約)が締結された1919年から、ナチスが政権に就く1933年までの連邦議会総選挙の結果を示したものである。

 社会民主党(社民党)は現在まで続く最古参政党であり、最近ではシュレーダーを首相に就けている。独立社会民主党は、社民党内で第1次世界大戦に反対した左派グループが分離してできたもので、ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトらが所属したことでも知られる。共産党はナチス政権成立後、禁止・弾圧される。中央党はカトリック政党であり、政治的に中道に位置しているわけではないことに注意を要する。当時のドイツで中道政党と呼ばれる位置を占めていたのは人民党(リベラル右派)や民主党(リベラル左派)であり、民主党は「職業としての政治」「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」などを著した社会学者マックス・ウェーバーが所属していたことでも知られる。国家人民党は富裕層を支持基盤として共和制反対・帝政復活を主張しており、今日では右翼政党に位置づけられる。


(出典:「現代政党学」ジョヴァンニ・サルトーリ)

 詳しく見ていこう。1919年段階で得票率18.6%だった民主党は選挙のたびに勢力を減らし続け、1933年にはついに0.9%と壊滅状態に追い込まれる。人民党も同様であり、1920年選挙(14.0%)を頂点に、1933年にはわずか1.1%の得票率に落ち込んだ。

 一方、共産党は、独立社会民主党を糾合した影響もあり1924年選挙で得票率2.0%から12.6%に躍進、その後も一貫して9.0%~16.9%の得票率を維持する。社民党は、1919年の37.9%から、翌1920年には一気に21.6%まで勢力を減らすが、その後は微増・微減を繰り返しながらも1933年の18.3%まで基本的に勢力を維持する。中央党は1919年段階での19.7%を徐々に減らしながら、固定支持層を持つ宗教政党としての特殊性のためか、1933年段階でも11.2%を維持。1924年、初めて国政に進出したナチスは、1928年までに目立った伸びは認められないが、1930年、18.3%へと一気に躍進。1932年には得票を37.4%へと倍増させ、社民党をも抑えて第1党に躍り出る。1933年選挙では単独で43.9%を獲得。ヒトラーはついに首相になった。

 もう少し分析を続けよう。社民・共産の2党を「左翼」、民主・人民の2党を「中道」、そして国家人民・ナチスの2党を「右翼」としてその勢力の変遷を見ることにする(中央党は宗教政党という特殊な立場であり、ここでの分析にそぐわないため除外する)。独立社会民主党が共産党に糾合されるとともに、ナチスが登場してヒトラー以前の勢力図が確定し、比較が容易な1924年と1933年で見ると、「左翼」は33.1%から30.6%。「右翼」は26.1%から51.9%。そして「中道」は14.9%から2.0%である。

 その後の政党結成・解党など変動が激しいため単純比較はできないが、1919年の総選挙を、同じように比較分析してみる。1920年総選挙を最後に姿を消した独立社会民主党は明確な社会主義政党だったので、これを「左翼」に含めると45.5%、「右翼」は10.3%、そして「中道」は23.0%だ。

 わかりにくくなってしまったので、最後にもう一度まとめると次のようになる。左から順に、1919年、1924年、1933年である。
 
 「左翼」…45.5%→33.1%→30.6%
 「右翼」…10.3%→26.1%→51.9%
 「中道」…23.0%→14.9%→ 2.0%

 この分析結果から確実に言えることがある。この間、ワイマール憲法という、当時としてはヨーロッパで最も民主的な憲法を持ちながら、ドイツでは一貫して過激な主張を掲げる左右両極が勢力を伸ばし続ける一方、穏健な主張を掲げる中間勢力は一貫して勢力を減らし続けたという事実である。とはいえ、左翼は1924年以降、現状維持に過ぎないから、1924年から1933年までの10年間のドイツは「右翼の伸張と中間勢力の没落」の歴史であったと言える。中間勢力から票を奪いながら、一貫して右翼が伸び続けたのである。ナチスが政権を獲得した1933年には、ついに連邦議会の8割以上を右翼と左翼で占める。当時のドイツ国民も「選択肢がなかった」のである。

 この間のドイツにおける投票率のデータがないので、ドイツ国民がどの程度「選択肢がない」政治状況にため息をついていたのかはわからない。しかし、ナチスにも共産党にも投票したくない多くの良識ある国民が棄権したことは想像に難くない。「自由からの逃走」(エーリッヒ・フロム)は、まず選挙からの逃走によって準備されたのだ。

 すでに述べたように、右翼は1920年段階では国家人民党の15.1%のみにとどまっており、それほど大きな政治勢力だったわけではない。これを1924年のナチスの登場が一変させる。国家人民党の勢力がほとんど変わらない中での「右翼」全体の躍進は、言うまでもなくナチスの伸張による。

 右翼陣営が国家人民党だけであった時代に勢力を伸ばすことができなかった理由は、データがないため推測の域を出ないが、この政党が富裕層を支持基盤とし、帝政復活など時代錯誤の主張をしていたために、貧困層・知識層への浸透ができなかったためと考えるのが最も理にかなっている。そこにナチスが登場、カリスマ性を持ったヒトラーが繰り返すポピュリズム的プロパガンダを前に、「選択肢がない」貧困層が雪崩を打つようにナチスへと向かっていったことを、データ分析結果は示している。

 ●「第2の1933年」を迎えてしまった私たちがなすべきこと

 選挙のたびに中間勢力が衰退し、左右両極が躍進していくワイマール体制期のドイツの総選挙結果を見て、察しのいい読者の方はすでにお気づきになったであろう。選挙のたびに自民党と共産党ばかりが躍進し、民主党などの中間勢力が没落していく「どこかの国」とそっくりだということに。安倍政権の登場は自民党の圧倒的なバラマキ「アベノミクス」のせいでも、小選挙区制のせいでもない(よく小選挙区制が悪いといわれるが、自民党は選挙制度がどのように変わろうとも第1党である。小選挙区制はもともとあった第1党の優位を拡大するシステムであり、ありもしない現象を「拡大」などできるわけがない)。それはドイツの例ですでに見たように、中間勢力の没落によってもたらされているのであり、その背景には、経済的に中間層が没落し、富裕層と貧困層に二極化していく社会の反映でもある。

 残念ながら、「中道」が没落への流れを強める中で、日本もついに安倍首相の登場により「第2の1933年」を迎えてしまった。安倍首相は、戦後日本が過去、自民1党支配の下でも決して容認しなかった「初めての独裁者」であり、安倍政権の下で今進められている集団的自衛権の行使容認や、その先の「改憲」への流れは、ナチスとヒトラーがワイマール憲法の破壊を企てた当時の動きと完全に重なって見える。

 私たちは今、ドイツでいえば1933年から1939年(第2次大戦の開始)までの間にいる。ドイツと同じ歴史を再び迎えないため、私たちは何をすべきだろうか。

 過激な政治勢力に身を委ねたくないと思いながらも、「選択肢がない」と嘆き、投票所から遠のいている有権者(その多くは政治意識が高くない)に対し、「右翼に対する防波堤として中間勢力を機能させることの重要性」を説くべきだろう。何もできなくてもいいし、政策がなくてもいい。内部がバラバラでひとりひとりが別々の主張をし、混乱しているだけの「中道」政党でもヒトラーよりはましだ。彼らに一定勢力を与えることが、史上最も危険な安倍自民1強体制に風穴を開けることにつながる。

 同時に、「災害時に助けてくれる自衛隊はあってもいいけど戦争はイヤ」「農産物の価格が高いよりは安い方がいいから自由貿易に反対はしないけど、でも安全な国産の農産物が食卓の中心であってほしい」と考えているような「普通の健全な人たち」の投票先として中道リベラル勢力を育てる試みを、どんなに困難であっても続けなければならない。最終的に、日本が戦争に向かうか平和を維持できるかは、彼ら最大勢力にかかっているのだから。

 中間勢力を見殺しにし、左右両極しか選択肢のなくなったドイツ国民は「自業自得」の結果としてベルリン市街戦に巻き込まれ、多くの命を落とした。戦後も敗戦国として責任を背負い続けた。もし私たちが平和憲法を失い、再び世界の人々に「銃」を突きつけるなら、「選択肢がない」ことの結果であったとしても、日本国民は未来の歴史において断罪されるだろう。国家による戦争犯罪が「選択肢がない」ことによって免罪されるわけではないことを、ドイツの歴史は教えている。私たちは今こそ歴史に学ばなければならない。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【転載記事】飛幡祐規のコラム : パリ連続襲撃事件の悲劇~考えつづけていること

2015-01-20 22:21:48 | その他(海外・日本と世界の関係)
先日ご紹介したコリン・コバヤシ氏の論考に続き、同じくパリ在住の日本人、飛幡祐規(たかはたゆうき)さんによるパリ連続襲撃事件に関する論考をご紹介します。レイバーネット日本からの転載です。なお、リンク先のレイバーネット日本サイトでは、写真・画像も見ることができます。

なお、当コラム筆者は、日本に一時帰国中の飛幡祐規さんと、都内で一度、お会いした記憶があります(2006年頃だったと思います)。レイバーネット日本サイトにおける、コラム常連執筆者同士という間柄でもあります。

----------------------------------------------------------------------------------------
飛幡祐規・パリの窓から~パリ連続襲撃事件の悲劇~考えつづけていること(レイバーネット日本)

 パリで起きた諷刺週刊紙「シャルリー・エブド」とそれにつづく連続襲撃事件(1月7日~9日)について、短い文章で語ることはとても難しい。パリに40年暮らし、この悲劇のあと深い哀しみにくれる者のひとりとして、まず三つの事件の犠牲者全員に哀悼の念を捧げる。そして、事件の背景にあるフランス社会のさまざな側面について、いくつか書き留めておきたい。

1)「シャルリー・エブド」のエスプリ

 「シャルリー・エブド」の編集部が襲撃されたのは、2006年以来、預言者ムハンマドの諷刺漫画を繰り返し掲載したからだが、その問題に入る前にまず、この諷刺漫画新聞へのテロがなぜ、全国400万人近くの市民が自発的に路上に繰り出すほどの衝撃を与えたのか、考えてみたい。実売数3万のマイナーな同紙(より有名な諷刺新聞「カナール・アンシェネ」の発行部数は40万部近く)は近年、若い層にはほとんど読まれず、深刻な経営困難に陥っていた。

 「シャルリー・エブド」は1960年発刊の前身紙「アラキリ(腹切り)」の時代から、挑発的な諷刺画で何度も発禁処分や名誉毀損の訴えを受けた。たとえば1970年、ド・ゴール元大統領死去時の非礼なタイトルのせいで「アラキリ」が発禁となったため、「シャルリー・エブド」に改名。政治家や軍隊、宗教を徹底的に「笑いもの」にし、セックスを奔放に描き、70年代はカウンター・カルチャーの象徴のひとつになった。政治的には左派でアナーキーな性格とはいえ、「シャルリー」の精髄はむしろ、すべての権力や宗教への「不敬」と(ブラック)ユーモアだろう。イラストレーターと筆者それぞれの個性も強く、下品や悪趣味、マッチョな部分やどぎつさが目立つときもある。この無礼千万の悪ガキ的な冗談やギャグを「笑う」感覚も、フランス人のユーモアの一面なのだ。(むろん笑えない人、嫌悪する人たちもいる。)

 それに、殺害されたヴォランスキ(80歳)とカビュ(75歳)は「アラキリ」発刊時からの歴史的メンバーで、広く大衆に愛されたイラストレーターだった。彼らが出演するテレビ番組を子ども時代に見て、反逆的なエスプリと(ときに)絶妙なユーモアの諷刺画に親しむようになった人々もいる。カビュは兵役でアルジェリア戦争に行かされた体験を原点に、反軍隊や反原発の諷刺画を数多く描いた。1970年代、彼はノルマンディー地方のフラマンヴィル原発の建設反対デモにも参加した。2012年に「シャルリー」は「原子力の詐欺」と題した特集号(表紙の諷刺画を描いたティヌスも犠牲者)を出している。

 1月7日の夕方、友人たちから「レピュブリック(共和国)広場に行こう」と携帯メッセージやメールが次々と入り、わたしも広場に足を運んだ。フランスはテロを何度も経験しているが、新聞の編集部への攻撃というショック(プレスへの爆弾テロやジャーナリスト襲撃はこれまでもあったが、死者が出たのは初めて)に加え、表現の自由を体現していた犠牲者たちに愛着の深かった人も多い。友人の中には泣いた人もいた。わたし自身、1990年代のはじめ、カビュのイラストを拙著に使わせてもらったことがあり、会ったときの温かい人柄が記憶に残っている。また、同じく犠牲者となった経済学者のベルナール・マリスの言葉を別の本で紹介したが、彼は10年間の廃刊期の後に1992年に復刊した「シャルリー」の中心メンバーのひとりだった。マリスは、いま日本で注目されているトマ・ピケティよりずっと過激に、辛辣かつユーモアあふれる口調でネオリベラル資本主義と「御用」経済学者を批判した。1992年以降の「シャルリー」の諷刺の対象は、極右の国民戦線、ネオリベラル経済、生産主義、宗教などにわたり、反権力・権威、反ファシズム、環境保護運動などのエスプリを(卑猥な性表現が多い点も)持続していた。同紙を「反宗教」の面だけ、預言者の諷刺画だけに特徴づけて語ることはできないと思う。

2)諷刺と「非宗教(ライシテ)」、「反宗教(アンチ・クレリカリスム)

 しかし、彼らはまさに預言者の諷刺画のせいで殺戮された。ことの始まりは2005年の秋、デンマークの日刊紙が預言者の諷刺画を掲載したことに対する抗議運動だ。2006年初頭、イスラム圏諸国と宗教団体に抗議やボイコットが広がった。フランスでは2006年2月、「フランス・ソワール」紙につづいて「シャルリー」が諷刺画を掲載し、大きな議論をよんだ。事件の状況と背景は当時書いたもの(下のリンク)を参照してほしいが、背後にイスラム組織によるマニピュレートがあったことも否めないだろう。しかし、「シャルリー」が預言者ムハンマドとテロリズムを結びつけた諷刺画も掲載したのは、哲学者エチエンヌ・バリバールが言うところの「軽率・不用心」だったといえるかもしれない。
http://www.nttdata.com/jp/ja/diary/diary2006/02/20060207.html

 「シャルリー」は一貫して、すべての宗教権威の愚かさを笑う自由を主張してきた。2006年以降、イスラム原理主義の過激派から脅迫を受けても意に介さず、2011年11月には事務所が放火された。それでも表現の自由と「非宗教(ライシテ)」は譲れないと、原理主義者やジハーディスト(聖戦義勇兵)、ときに預言者の諷刺をつづけた。そのため、国内で高まっている「イスラモフォビア(イスラム嫌悪)」を助長すると批判を受けていた。

 反宗教・非宗教は、「シャルリー」が受け継ぐアナーキズムの特徴の一つであるだけでなく、諷刺画の伝統においても重要な要素だ。フランスに限らずヨーロッパでは、ルネッサンス期から画家がローマ教皇を諷刺し(ホルバインの版画など)、フランスでは18世紀末の石版印刷発明後、新聞・雑誌の発達と共に、19世紀に諷刺画(カリカチュア)のジャンルが確立した。ちなみに、猥褻画も印刷技術の普及と共に広まった。一方、表現・言論の自由は、大革命時の人権宣言(1789年)で基本的人権に設定された後も、長い闘いによって勝ち取られてきた。たとえば七月王政下(1830~48年)の1832年、ルイ・フィリップ王の諷刺画を描いたオノレ・ドーミエは監獄に6か月幽閉され、1835年には政治的諷刺画の検閲法が復活した。プレスと表現の自由を保証する法律は1881年、第二共和政と第二帝政をへた第三共和政のときに制定された。

 その19世紀末はまた、強力なカトリック教会(大革命で財産を没収されたとはいえ)の勢力を退けて政教分離、フランス語の表現では「非宗教(ライシテ)」が共和国の原則として成立した時期である。しかし、1905年の「非宗教」に関する法律で政教分離と信仰の自由が定められた後も、カトリック系勢力と「反宗教」側の対立はつづき、宗教権威を「笑う」歌や諷刺画の文化が定着した。貨幣に「我々は神を信じる」と刻まれ、日常に聖書の引用があふれるアメリカと異なり、フランスの歴史には人文主義者ラブレーや啓蒙思想家ヴォルテールなどによる宗教(カトリック)勢力への批判と闘いが痕跡をとどめている。発禁文学の象徴であるサド侯爵(1740~1814)も、過激な「反宗教」主義者だった。「シャルリー」がこだわる表現の自由や非宗教は、そうした「反宗教」文化を受け継いでいると言えるだろう。

 「シャルリー」は近年、再び宗教が勢力を得ていること(キリスト教系保守の人々の、同性婚に対する強力な反対もその一例)に、大きな苛立ちを覚えたにちがいない。そこで、イスラム原理主義への諷刺攻撃を、非宗教の闘いの一貫だととらえたようだ。しかし、カトリック・ユダヤ・イスラムの三宗教を同列に並べるのではなく、それぞれの宗教の歴史的・社会的・政治的な文脈に留意する必要があったのではないだろうか。キリスト教は十字軍、異端裁判、宗教戦争など血なまぐさい歴史といくつもの革命と議会政治の末、ようやく世俗化されたのである。カトリック教の権威は諷刺には慣れていて、たまに狂信的な信者が映画館に爆弾を仕掛けたりするが、嘲笑に動じない。一方、イスラムはフランス第2の宗教(信者約500万人といわれる)になってから、まだ日が浅いのだ。原理主義に限定して諷刺したとしても、「シャルリー」を見たこともないフランスのイスラム教徒は、自分が信仰する「イスラムが侮辱された」と感じるのだという。

 ムスリム系の人々の多くは、元植民地からの移民やその子孫だ。フランス社会の底辺で働き、差別を受けやすく、9.11の連続テロ以降はとりわけ、疑いの目を向けられやすい。さらに近年、イスラム教徒や移民全部を過激なイスラムと混同して敵視する、差別的な排外ナショナリズムが煽られている。国民戦線など極右政党・団体にかぎらず、保守政治家や文化人の「イスラモフォビア(イスラム嫌悪)」発言がメディアで頻繁に流され、そうした本がベストセラーになってしまうほどなのだ。

 わたしは、「シャルリー」が反イスラム感情に便乗したという見方には、断じて賛成できない。しかし、彼らが、自分たちが嫌悪している極右・反動の「イスラム嫌悪勢力」に利用される危険や、自分たちの諷刺画が象徴的暴力になりうるという現実に目を向けなかったのはなぜなのか、事件が起きてから考えつづけている。アラブ系フランス人向けラジオ「ブールFM」のジャーナリストは、「シャルリー」はイスラム諸国や団体が抗議をすればするほど、「宗教勢力には絶対に譲らないぞ」と頑な姿勢に陥ったのではないかと語っている。批判する人たちと話し合えばよかったのに、と。

 「シャルリー」のしばしば猥褻なブラックユーモアとの世界と、処女性や貞節が絶対視されるムスリム系の人々の世界のあいだには、メトロや郵便局ですれちがう同じ社会に住んでいながら、あまりにも深い溝がある。しかし、諷刺画家をはじめ現在の編集部のメンバーはみんな、人間的な魅力にあふれる人たちだったという。表現の自由がフランスで「貴重な」権利であることを彼らが語り、ムスリム系の人たちと対話する場を重ねていくことはできなかったのだろうか?

 「シャルリー」は不幸にも、恐怖や憎しみは伝染しやすいのに、ユーモアや笑いがすべての人に通じるものではないという現実にも、あまり注意を払わなかったようだ。たとえば、500万部(700万部に届く?)発行された事件後の「シャルリー」最新号の表紙の諷刺画を、日本のメディアがいかに誤訳したか、諷刺画とテキストがどれほど多様な「読み」を内包しているかを、パリ在住の作家・翻訳家の関口涼子さんがすばらしく明敏に解説している。「すべて赦したよ、水に流そう」と読むべきところを、日本の新聞は、ムハンマドが「私はシャルリー」の標語を持ち、「すべて許される」と書いてあるから、預言者の諷刺も許されるという意味だろう、と解釈したのだ。関口さんはこの例をとおして、イメージが文化を越えてどのように読まれていくか、文化翻訳の問題を見事に指摘している。
http://synodos.jp/international/12340

 フランス人の夫とわたしもこの表紙を見てほっとしたのだが、日本のメディアは曲解し、イスラム諸国では続々と抗議が起きたのだから、やはりユーモアは「普遍化」されにくいのである。ちなみに、これまで彼らの諷刺画を嫌悪してきたフランス人が、この「シャルリー」最新号を我れ先に買い求めたのを、笑った人は多い。しかし、倒産寸前だった「シャルリー」が反イスラムを売れネタとしてきたという見方は、ぜんぜん「笑えない」。

 フランス社会で今やマイナーになった1968年五月革命のエスプリを体現する諷刺画家たち、国家の儀式や教会が大嫌いだった彼らのために、ノートル・ダム聖堂は弔鐘を鳴らし、彼らは「国民的英雄」になった。本人たちはさぞかし笑い転げているだろうと、諷刺画がたくさん描かれた。

 *これは、ヴォランスキ、カビュ、シャルブなど殺されたイラストレーターたちが占い師のところに行ったら、「あんたたち、テロリストに殺されて、ノートルダムの弔鐘が鳴らされ、オランド大統領、ヴァルス首相、サルコジ元大統領、コペ、メルケル首相、カムロン首相、ネタンヤフ首相まで来る行進があり、 三色旗がふられてラ・マルセイエーズが歌われるよ。あんたたちをパンテオンに埋葬しようと提案され、ナスダックとアカデミー・フランセーズが「私はシャルリー」と言い、ローマ教皇はあんたたちのために祈るよ・・・」と言われて、彼らは笑いくずれる。(作家 Dutreix)

3)共和国の理念

 「シャルリー」襲撃の翌日、パリの南郊外で警官を殺害した者により、2日後の1月9日にはユダヤ食品スーパー襲撃事件が起きて、犠牲者は17人になった。後者は反ユダヤ主義の行為であり、2012年3月に起きた反ユダヤの襲撃事件の記憶を思い起こさせた。犯人たちはいずれも、過激なイスラムに影響(洗脳?)された移民系のフランス人だった。

 フランスで生まれ育った彼らはなぜ、人殺しという究極の暴力行為にいたるほど、フランスとその機構すべてを憎んだのだろうか? 事件の要因のひとつに、フランス社会から排除されたと感じている若者の生きにくさがあると思う。犯人たちは児童援助のシステム(里親委託、施設)や公教育、刑務所など共和国の機構で長年を過ごしたが、それらはいずれも彼らを「迎え入れる」ことに失敗した。

 9.11につづくアフガニスタンとイラク戦争以降、フランスでは移民系にかぎらず、イスラム過激派に惹かれ、ジハーディスト(聖戦義勇兵)としてシリアなどに出向く者も出てきた。イスラエル/パレスチナ紛争、フランスのアフリカへの出兵などの世界情勢のなかで、欧米国家の「テロとの戦争」を不当に感じる人は多い。これらの問題についてここでは展開しないが、多くの若者にとって共和国の理念「自由・平等・友愛」が意味をなさない状況や、世界情勢などについては、コリン・コバヤシさんのテキストも参考になるだろう。
http://echoechanges-echoechanges.blogspot.fr/2015/01/350.html

 前述した排外ナショナリズムの煽りのなかで、今回のテロによって反イスラム感情が強まる危険は大きい。その一方で、反ユダヤ行為の再発を怖れる人々もいる。だからこそ、「混同を避けよう」という声が上がった。政府は、はじめ複数の市民団体がよびかけた1月11日の追悼デモ(共和国の行進)の中心に、世界各国の首脳(言論・表現の自由を迫害する国も含めて)を迎えて「テロに反する儀式」を設けた。しかし、そんな政治的な思惑とは関係なしに、フランスの市民は自発的に路上に繰り出し、パリで170万人、全国で400人近くという、1944年8月のパリ解放以来の巨大な行進になった。

 このデモのスローガンは「私はシャルリー」、「反テロ」だったかのように伝えられたが、「反テロ」と書かれたプラカードはひとつもなかった。また、「私はシャルリー」が多様な内容をあらわすことも、日本ではよく理解されていないようだ。この表現は、音楽雑誌のアート・ディレクターが、絵のために人を殺すことができることと知ったショックのなかで生み出した。彼にとってそれは、「私は自由だ、私は怖くない」を意味した。事件の日の夕方、レピュブリック広場で会った友人のひとりはすでに、「私はシャルリー」をもっていた。ボールペンや鉛筆を掲げた人々は、表現のために殺すことへの抗議と、犠牲者への連帯をあらわしていた。以後、各自が「私はシャルリー」を自分なりの意味をこめて使った。みんながこの表現を「自分のものに」したのだ。

 だから1月11日の追悼デモでは、「私はシャルリー、警官、イスラム教徒、ユダヤ人」(みんな共和国の市民、連帯しようの意)や、「大きくなったら僕はシャルリーになるんだ」、「我思う、ゆえに我はシャルリーである」といったバリエーションだけでなく、「戦争ではなくてユーモアを」、「流されるべきは血でなくてインク」、「芸術は人間的だ」など、工夫をこらした表現が掲げられた。ポール・エリュアールの詩「自由」の句もあった。また、インターネットなどで「私はシャルリーでない」と表明した人もいた。

 これほど大勢の多様な人々、出身、階層、宗教、思想の異なるさまざまな老若男女(生まれて初めてデモに来た人も大勢いた)をデモで見たのは、初めてだった。ときおり拍手がわき上がり、国歌「ラ・マルセイエーズ」を景気づけのように歌う人たちがいる。でも、国歌を歌うのが嫌いな人も大勢いるし、あまり歌詞を知らないから、大合唱にはならない。けっして「一体」ではないフランスの市民は、ともに歩いたこの歴史的な日、自由や友愛という共和国の理念に対する愛着を示したようにわたしは感じた。

 むろん、翌日からすぐに「テロとの戦争」という言葉が多発された。非宗教についての討論が組まれた。しかし一方で、「テロに対する戦争と表現してはならない」という意見や、学校での1分の黙祷に反発した生徒たちにどう対応するかを語る、歴史・地理の先生の話もメディアで紹介された。自分が共和国の一員だとは思えない、排除されたと感じている人々と、どうやってともに生きていくのか。まずは対話を始め、対話しつづけていかなければ、植民地支配やアルジェリア戦争などの「過ぎ去らない過去」が亡霊のように出現しつづけるだろう。

 力が尽きてきたので、ここでひとまず筆を置くが、最後に一つけ加えておきたい。巨大デモでスローガンにならなかった共和国の理念は、平等である。不平等がますます広がる現在の消費社会は、願望を殺すと指摘されている。願望を殺された人間は、死を望むようになるのではないだろうか。そんなことも考えつづけている。

    2015年1月18日 飛幡祐規(たかはたゆうき)

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【転載記事】350万のフランス市民が街を行進したあと、残されたものは?

2015-01-18 21:38:48 | その他(海外・日本と世界の関係)
フランス・パリで起きた連続テロ事件について、現地に在住している市民運動家、コリン・コバヤシ氏による論考が、当ブログ筆者の元に回ってきました。すでにネット転載もされており、当ブログへの掲載にも問題はないものと判断したので、以下にご紹介します。なお、週刊「AERA」誌でこの事件が取り上げられる際、以下の論考の一部が引用される、とのことです。

コリン・コバヤシ氏は、フランスが社会党・オランド政権成立後も中央アフリカ・マリ共和国等へ軍事介入を続けていることがテロ事件の背景にあると指摘しています。当ブログもこの見解に同意します。この事実は、同時に、日本が集団的自衛権行使を可能とする法整備を行い、世界のどこでも戦争に参加するようになった場合にどのようなことが起きるかを示す「警告」でもあります。

----------------------------------------------------------------------------------
パリ二つのテロ事件後報告~350万のフランス市民が街を行進したあと、残されたものは?

コリン・コバヤシ

 一月七日に起こった風刺漫画の週刊新聞社<シャルリー・エブド>に対する襲撃と十二名の虐殺、続いて起きたヴァンセンヌでのもう一つの拉致事件で客四名、警官一名、合計十七名が殺された二つのテロ事件は、フランスのみならず、世界に衝撃を与えたことは周知のとおりである。

 だが、現在、湾岸に空母シャルル・ドゴールを派遣してイラクで空爆を行ない、マリから周辺四カ国で軍隊を展開させているフランスは複数の戦線で戦争中なのだ。国内だけが静かでありうるはずがない。テロの可能性は早くから指摘されていたが、年明け早々にこのような形で、しかも国内から出現したテロリストによって、警備の薄くなった<シャルリー・エブド>とユダヤ系食品スーパー<ハイパー・カシェール>(カシェールはユダヤの戒律に則った食料)を狙って急展開してくるとは、さすがの治安当局も予期できなかったようだ。

 襲撃が特殊部隊の早い投入によって早期に決着をみた翌日、パリでは<共和制的行進>が提唱され、170万人とも言われる市民が巨大な行進に参加した。これは十九世紀末のヴィクトル・ユゴーの国葬や大戦後のパリ解放時の動員としか比較できないほどの希有な大きなうねりだった。むろん、この呼びかけ以前に7日の襲撃の夜に既に、誰に呼びかけられたわけでもなく多くの市民が自発的に共和国広場に集まり、哀悼と義憤の意を表したことも特記しておくべきだろう。また全国でも百万単位の人々が自発的に街に出た。一九八七年、朝日新聞阪神支局に赤報隊のテロリストが小尻記者を撃ち殺し、別の記者に重傷を負わせたとき、何人の日本人が「言論の自由」を擁護するために集まったといえるのか。

 一月十一日のフランスの大行進の性格は何か、市民のこうした動きをどのように見るベきなのか。また今後、どのような課題が山積みされているのだろうか。

 まず最近は、アルジェリア系ユダヤ家庭出身の政治記者で作家エリック・ゼンムールが書いた排他主義(アラブ移民は万単位で本国に送り返すべきといった)に基づいたエッセイ「フランスの自殺」(昨十月に出版)がベストセラーになり、また同じような排他的姿勢の作家ミシェル・ウーエルベックの書いた小説「従属」(2022年の大統領選で、イスラム教徒の大統領候補が勝利し、仏政権がイスラム教に乗っ取られるという空想話)の刊行が待たれていて(本書は事件の当日一月七日に発売された)、マスコミでも大きく騒がれており、ルペン率いる極右翼政党が台頭しているというフランスの社会的背景があったことを無視できない。その矢先に、これらの事件が発生したのだ。

 フランス国民の一部で当然の如く迎えられた「イスラム恐怖症」は、たしかに、衝撃を受けたフランス市民の大半がテロを許すべからざるものとして立ち上がることに拍車をかけたかもしれない。とはいえ、「イスラム恐怖症」に陥ることなく、民主主義、言論の自由を擁護しようと自発的に無言で参集した無数のフランス市民の主体性は、大いに称揚されていい。市民の大半が「私はシャルリー」というスローガン一色に染まったわけではなかったし、大きな横断幕を持っているわけでもなかった。若者たちも多く参加したこのデモは、ほとんど無言で犠牲者への哀悼を示していた。時折拍手を皆ですることはあっても、シュプレヒコールはなかった。フランス人はそもそも一丸となって何かをやることが好きではない。そして狙われた<シャルリー・エブド>は、そういうことが一番嫌いないわば異端の新聞である。読者数が少なく、経済的にも急迫していたのが実情だ。 

 この<共和的行進>の性格は、当然、三つの柱:自由・平等・友愛、そしてフランス特有の国定である世俗性に範を求めた行進であったことは言うまでもない。これに強く反応した市民たちも多いのだ。しかしこれら最初の三つのモットーは、どれも「ひどく困難であり、日毎に築かねばならないもの」[1]である。これについては後述する。

 またオランド大統領を筆頭に仏政府が広くこの行進への参加を呼びかけ、三十カ国以上の元首や代表が参加した。これは仏政府がたしかに政治的回収をフル回転させたといえる。欧米が唱える「テロへの戦争」を正当化するために、ナトー事務局長や欧州主要国の元首たちを招き、その上に、国際裁判にかけられれば戦争犯罪人になりえるネタンヤフ・イスラエル首相、 −この首相は、「私たち戦いはあなた方の戦いと同じだ」と主張するつもりなのだ− やリーベルマン国防相さえも一緒に行進するとなると、この行進の意味はすれ変わってしまう。ネタンヤフ首相の自主的参加表明に驚いたオランド大統領がパレスチナのアッバス自治政府議長に急遽参加を要請し、かろうじてバランスをとった。また、この行進は「言論の自由」を守るためでもあったが、言論を封殺している元首たちも多く参加した。エルドワン・トルコ首相は、どの国よりも多くの記者を投獄しているし、イスラエル軍は、昨年ガザだけで十六人の記者を殺している。ヨルダンのアブダラ国王は、パレスチナ人記者を十五年の刑に処した。こうして他にもリストはふくれあがる[2]。こうした元首たちがどうして他国に来て言論の自由を守れと主張する権利があるというのだろうか。この元首たちの参集は、結果として移民系(とりわけマグレブの)フランス市民たちのボイコットを引き起こした。 

 しばらく欧 米と中東は常に緊張関係にある。一九四八年から続いているイスラエル/パレスチナ紛争に加え、一九九◯年の湾岸戦争以来、アフガン、イラク戦争、イスラエルの二度のガザ攻撃などで、合計、数十万規模の犠牲者が出ている。そしてイスラムとユダヤとの抗争の上に、さらにイスラム教宗派間の争いが激化しているという複雑な事情がある。とりわけ、アメリカ合州国のパレスチナ/イスラエルの和平交渉の重なる失敗、そしてイラク、アフガン戦争での大失策は、西洋とイスラム世界に深刻な悪影響を長期に渡って及ぼしている。アメリカ合州国に追随するヨーロッパは、独自の解決策が提案できないばかりか、アメリカと同じようにイスラエルを擁護して来た。だが、昨夏のイスラエルによる無防備といっていいガザへの集中的な空爆は、明らかに国際世論の大きな反発と憤激を起こしたが、これに対してフランス政府はイスラエルを批判の一語も漏らさなかった。そのことが今回のユダヤ系スーパー攻撃の遠因になっているといっても過言でないだろう。アフリカでは、欧米は問題が発生すると軍事的介入をするだけで、抜本的な解決策を計らない。自国の権益を護持するために軍事力を投入し(例えばニジェールのウラン)、外交的解決をしなくなっている。このような状況が、冷戦後の世界の変化の中で、社会は旧来の意味での国家間戦争ばかりでなく、あらゆる場所で戦闘的な状況が生まれやすい「好戦的な社会」[3]になったと指摘されている。

 「テロとの戦争」を主張する指導層の間では、「反ユダヤ主義」というスローガンもコンビになっている。しかし、これは作為的な同一視というべきだろう。「反ユダヤ主義」は、ヨーロッパの白人社会で歴史的に発生して来たものだ。もし中東アラブ世界にユダヤ人排撃があるなら、それは「反ユダヤ主義」のせいというよりは、シオニスト国家イスラエルが、パレスチナ人を暴力的に差別し、抑圧し、軍事力によって植民地化して来たからに他ならない。むろん、イスラエルの中東植民地戦争が従来の「反ユダヤ主義」を助長している可能性はある。このような指導層や同じ潮流の人たちの間では、今回の事件をフランスの9・11と例える人さえいるが、根拠のないたとえに過ぎない。フランスではパトリオット法が成立する可能性は、今のところ、低い。しかし人間社会で起こることが、このフランス社会だけには絶対起こらないという保障はないのだ。

 ただ変化の兆しはある。欧州諸国がパレスチナを国家として認知し始め、フランスも国民議会は欧州連合は認知に向かうべきという決議を出している。また国連の機能が民主的でない、旧体制のままになっている安保理事会を再編し、国連に民主的な力を持たせるべきであるという論調も一段と強くなって来ている[4]。

 フランスの若者がなぜテロリストになったのか、その原因はいくつか考えられる。昨年夏のイスラエルによる一方的なガザ攻撃、無差別空爆の不正義について、マグレブ系移民の二世、三世であるフランス人たちが無関心であるわけがない。口で人権宣言や民主主義をいくら唱えたところで、前述したようにイスラエルの攻撃を容認し、同じアラブ民族の虐げられた状況に対して何の改善の努力もせず、具体的外交さえしない母国フランスがダブル・スタンダードを使っているではないかという不満は、言うまでもなく募って来ているのだ。そのうえ、経済不況が蔓延している中で、郊外に集中して居住している移民系の家族や若者たちは偏見と人種差別にさらされ、国は移民の統合政策に失敗し、三十年以上、彼らを放置してきたからだ。その結果、慢性的な就職難と失業に悩まされている以上、鬱憤が破裂寸前になっているとしても当然なのである。国の無為無策が、若者の不良化を促進させ、恐怖と憎悪をあおり立て、テロリストとなる温床を作っているのは、言うまでもなく不正義を放置している国際社会とフランス国家自身である。

 ところで、週刊新聞社<シャ ルリー・エブド>は、以前からイスラムホビーに類する風刺画を載せていた。2006年、マホメットの風刺画を公表して、フランスのイスラム宗教団体から禁止の要請があった。また翌年には追訴された。2011 年には火炎瓶が投げ込まれるなど、<イスラム嫌い>であり、脅迫も受け、当局からも警告されているにもかかわらず、予言者を風刺する漫画を出し続けた。彼らはあらゆる宗教に反対するという立場から、すべての宗教風刺をするのだが、とりわけイスラム教風刺にはかなりの力を入れて来た。漫画記者たちは、六九年の創立以来、世俗性を基本として来たことは確かだが、イスラム教とユダヤ教の扱いは平等だったろうか。また平等に扱ったからといって済む問題ではないだろう。たとえば、デンマークの新聞に掲載された右派の漫画家が書いた手榴弾をターバンに撒いたモハメット像は、どう見てもイスラム・イコール・テロリストという誤解を生じさせるアマルガムがあることを否定できない。この風刺漫画を載せてしまった<シャルリー・エブド>の判断は良かっただろうか。編集長シャルブは、一月最初の号で、「フランスにはまだテロがないよ」と表題された下に、ひげを生やしたイスラム戦士が「ちょい待てよ。新年の祈願の挨拶は一月末まで期限があるんだ」と言わせた漫画を書いているが、これなどはまさに誘い水をしたと思えるほど不幸な一致だ。楽しませてくれる風刺画もあるこの週刊新聞の掲載内容には、今後、厳密な分析と批判が課されているといえる。

 ところで今回の漫画家虐殺に絡んで言えば、一九八七年、パレスチナの有名な漫画家ナジ・アル・アリをロンドンで暗殺したのはイスラエル諜報機関モサドだが[5]、この事件は欧州のマスコミの関心を引かなかったし、今回のような市民の自発的なデモは起こらなかった。ましてや国際世論ではほとんど無視されてしまった。

 この度の事件は、 新聞社<シャルリー・エブド>に対する攻撃という意味で、表現の自由、言論の自由の問題に触れないわけにはいかない。ジョン・シチュアート・ミルの「自由論」に倣えば、自由とは相手を侮辱する自由を前提としている。その侮辱が損害とならない限りにおいて、自由は許される。ただし、この侮辱と損害の境の線引きは難しい。時と場合によっては、この侮辱は危険を覚悟しないとできない。哲学者エチエンヌ・バリバールが指摘するように、挑発的な表現がすでに烙印を押された数百万の人々に辱められたという感情を繰り返し植え付けるなら、シャルブ(『シャルリー・ヘブド』編集長)と彼の仲間たちは、こうした事態に対して<不用心>だったのではないか[6]、という仮定は成り立つ。「言論の自由を断固として守る」としても、この指摘は至極真っ当だと思える。

 最後に、世界化しているジハード(聖戦)を唱えるイスラム世界の聖戦派について考えねばならない。聖戦派は、西洋と対抗する中で歴史的に古くから存在して来た。欧米の警察、軍隊は世界的なネットワークを使って聖戦派の明日のテロを防ごうと躍起になっている。たしかにサラフィー派などのような急進派には気をつけざるを得ない。だが武器や資金を出しているのは、カタールやサウジ・アラビアを通じて欧米からのルートがあると指摘されてもいる[7]。聖戦派がとくに台頭して来る真の理由は何だろうか。本来、イスラム教徒たち自身がこうした急進的なテロ活動の最大の犠牲者であることは言うまでもないが[8]、こうした極端な狂気に近いアクションが出て来るとしたら、やはりその要因は必然的に社会の中にあるとみるべきだろう。テロ行為は自然発生するものではない。必ず政治的、社会的理由がある。発生するその社会に相当のひずみが生じているからこそ、そこに狂気が発生する要因が生まれるのだ。今日の数的成果と利益のみを追求する資本主義、終わらない北側諸国の暴力的な植民地主義の上にあぐらをかいて、己の立場を正当化し、相手をテロリストと決めつけて武力による解決のみをめざすなら、事態は決して沈静化に向かわないないだろう。そしてこうした状況がまさに前述した<好戦的な社会>を生み出しているとするなら、共和制の三原則とはまったく逆の、不自由、不平等、不友愛がまかり通ることにならないだろうか。生命をいとわない、愛情の片鱗もない人生を生き甲斐と勘違いしてしまうような教育を若者たちに与えていないだろうか。そのことこそわたしたちは深く省察すべきだろう。

[1] レジス・ドブレ:インタビュー、フランス・キュルチュール放送、2015年1月12日

[2] 「国境なき記者団」2014年殺された記者報告、「アムネスティー・インターナショナル」Newsの報告から。

[3] < Etat du monde 2015>, La Découverte, Bertrand Badie, Dominique Vidal

[4] 『ユマニテ』1月11日号、ドミニク・ヴィダル

[5] BBC News : http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/july/22/newsid_2516000/2516089.stm

[6] 『リベラシオン』紙、2015年1月11日

[7] « L’état du monde 2015 », La Découverte:輸出国ではドイツ、フランス、イギリス、カナダ。リヤドは米国、ヨーロッパから大量に武器を買っている。

[8] この二つのテロ事件の後、二十件以上のモスケやアラブ人に対する嫌がらせ、恐喝、攻撃があった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

英、対シリア軍事行動を断念 これは市民の闘いの勝利だ

2013-09-01 09:23:08 | その他(海外・日本と世界の関係)
英、対シリア軍事行動を断念=米は方針堅持、単独介入検討(時事通信) - goo ニュース

歴史は再び繰り返すのか。何もかもが「あの時」とそっくりである。イラクが「大量破壊兵器」を持っているという不確実な情報だけを頼りに、米英軍を中心とする多国籍軍がイラクに戦争を仕掛けたあの時に…。

しかし、時代は確実に前進していたようだ。リンク先記事にあるとおり、英議会下院が英国軍のシリア攻撃への参加を求める政府動議を僅差ながら否決。英国がシリア攻撃に参加しない見通しになったのである。

英国議会は、キャメロン首相の与党・保守党と自民党で過半数を占める。政府提案を否決するためには与党から一定数の造反票が必要だが、今回、保守党からかなりの造反が出た模様だ。

当ブログは、英国議会の勇気ある決定に謝意を表明すると同時に、大手メディアが決して伝えることのない重要な事実を指摘しておかなければならないと考える。それは2つのことである――第1に、英国がイラク戦争への参加が正しかったかどうか、検証委員会を作って自分で検証した国であるということ。第2に、英国政府にイラク戦争参加についての検証を迫ったのが市民の闘いであったことだ。

英国では、イラク戦争参加について検証を行うため、独立の検証委員会が作られた。この調査委員会は、北アイルランド省事務次官を務めたジョン・チルコット氏が委員長を務めたことから「チルコット委員会」と通称されている。検証委員会は、参戦の決断を下したトニー・ブレア首相や、ゴードン・ブラウン財務相らを証人喚問するなどして参戦の経緯などを調査した。ブレア元首相は、検証委員会に対し「参戦の決断を間違っていたとは思わない」と強弁したが、検証委員会に証人喚問されたことで、ブレア元首相の権威は失墜した。

チルコット委員会のイラク戦争検証の取り組みにはなお不十分な点も多くある。それでも今回、英議会下院が英政府のシリア攻撃参加動議を否決した背景に、「ブレアのように戦争終了後、喚問されたらたまらない」という議員たちの恐れがあるとしたら、それはイラク戦争の検証を行うよう政府に強く要求し続け、ついにそれを実現させた英国市民たちの闘いの力であることを私たちは改めて想起したいと思う。たとえ米仏の参加でシリア攻撃自体は行われたとしても、このことは輝かしい結果として、世界の反戦運動の歴史に残ることは間違いない。

なお、英国におけるイラク戦争検証委員会については、「レファレンス」(国立国会図書館発行)2010年6月号掲載「オランダ及び英国におけるイラク戦争検証の動向」をご覧いただきたい。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いま明らかになる朝鮮半島分断の真相、そして休戦協定60年を迎えた朝鮮半島の今後は?

2013-07-31 22:24:00 | その他(海外・日本と世界の関係)
朝鮮半島を分断する38度線の秘話(ナショナルジオグラフィック)

朝鮮戦争の休戦協定締結から29日で60年を迎えた。当ブログの記憶する限り、どのような経緯をたどって朝鮮半島が分断されるに至ったのかの詳細が明るみに出たことは、これまでほとんどなかったと思う。リンク先の記事は、南北を分断する境界線の策定作業に従事した当事者の証言という意味でとても貴重なものである。休戦協定締結60周年という節目に当たり、いま世に出しておかなければ真相が永遠に闇に葬られるという危機感もあるのかもしれない。

----------------------------------------------------------------------------------------
(前略)

 時間は限られていた。日本に宣戦布告したソ連は、アメリカが日本の本土を占領する前に一気に朝鮮半島を南下、占領してしまう恐れがあった。当時、アメリカの部隊はまだ966キロ離れた沖縄にいた。

 38度線が“経済的、地理的な意味を持たない”ことはラスクにもわかっていた。朝鮮半島は過去1000年のうち大半を、地理的には統一体として存在してきたからだ。しかし、冷戦時代の幕開けを告げる米ソ対立の中、“軍事上の便宜”がなによりも優先した。そして、朝鮮半島はあくまで一時的に分割されることになる。

(中略)

 緊急で、そして重圧がのし掛かる大変な任務、アメリカが占領する範囲を決めなければならない。ティックも私も半島の専門家ではなかったが、首都ソウルはアメリカ側に入れるべきだと感じた。軍が広い範囲の占領に反対していることも知っていた。そこで、ナショナルジオグラフィックの地図を引っ張り出し、ソウルのすぐ北にぴったりの境界線はないかと探してみた。しかし、適当な地理的境界は見つからない。代わりに目に入ったのが、緯度38度の直線だ。上司に提案してみるとすんなり通ってしまった。ソ連も同意したのには驚いたが。

(以下略)
----------------------------------------------------------------------------------------

この証言で貴重だと思うのは、米国が朝鮮半島の分断を「一時的な措置」と考えていたこと、ソウルは米国側が押さえるべきと考えていたにもかかわらず、「軍が広い範囲の占領に反対している」という当時の状況が明らかにされたことである。当ブログは、米国は朝鮮半島全体を支配下に収めたかったにもかかわらず、ソ連との関係を考慮して断念したのだろうと想像していたから、特に後者は意外な感じを受けた。

当時、米国はアジアのどこかを「共産主義の防波堤」にする必要があったが、中国がその役割を担える可能性はすでになくなっていた。朝鮮戦争が始まった当時(1950年)、中国は共産党が政権を握り、中華人民共和国となっていたからだ。米国は、日本に再軍備をさせれば再び軍国主義が復活しかねないと考え、日本再軍備には慎重だと考えられていた。となれば、「共産主義の防波堤」になり得るのは朝鮮半島しかない。「米国は朝鮮半島全体を支配下に収めたかったにもかかわらず、ソ連との関係を考慮して断念したのだろう」と当ブログが想像したのはこのような考えからだった。ところが実際はそうではなく、米軍サイドは“経済的、地理的な意味を持たない”朝鮮半島の「広い範囲の占領に反対」していたというのだ。

第二次大戦以降に米国が行った軍事行動、そして占領した国々とその占領の仕方を見るとひとつの「共通点」が見いだせる。米国が地上軍を投入してまである国を占領するのは、その国が(1)反民主主義的政治体制にあり早急な解体が必要な場合、(2)石油などの資源が豊富で略奪したい場合・・・のいずれかに限られる。(1)の典型例が日本であり、(2)の典型例がイラクだった(実際には米国は(1)を建前としてイラクを占領したが、本音は(2)にあった)。(1)(2)のどちらにも該当しない国の場合、米国は基本的には占領したがらない。米国は何も考えていないように見えて、実際にはその国を占領すべきかどうか、「費用対効果」を見極め、きわめて現実的、実利的に判断しているのだ。

そのように考えるならば、当時の米国にとって、資源もない朝鮮半島の全体を支配下に置くことは、効果が費用に見合わないから、米軍サイドが「軍が広い範囲の占領に反対」するというのは充分あり得ることだ。首都ソウルを押さえ、共産主義に対抗するための橋頭堡さえ確保しておけばよいという判断だったのだろう。

このことは、日本の戦後の運命をも左右したように当ブログは感じる。米国は、中国が共産党政権に変わってもなお朝鮮半島を「共産主義の防波堤」として使うことに消極的だった。理由はわからないが、その役目は初めから日本に負わせるつもりだったのだろう。逆に言えば、憲法9条を与えた日本に再軍備の道を歩ませるという米国の決意は、かなり早い段階から決まっていたような気がする。

-------------------------------------------------------------------------------------

休戦も60年続けば、戦争経験者は若くても80歳代になる。それ以下は戦争の記憶がない。国際法上、休戦は戦争状態には違いないが、事実上の終戦といってもよいかもしれない。

とはいえ、2010年11月には、韓国・延坪島が北朝鮮の軍事攻撃を受け、休戦協定発効以来初めて民間人に死者を出す事態も起きている。韓国は、私たち日本の市民も理解できる民主主義体制なので、当ブログは戦後補償問題を除いてあまり悲観をしていないが、北朝鮮は、いまだ文化大革命当時の中国のような「政治運動至上主義」の体制にある。

休戦65周年まで、北朝鮮は生き残ることができるだろうか。当ブログは、北朝鮮は案外低空飛行ながらも持ちこたえるのではないかという気がする。北朝鮮の体制側に国体護持の意思が強固であり、反体制派は存在すらせず、周辺諸国も北朝鮮崩壊を望んでいないからである。韓国は建前として「北進統一」を掲げているが、東西ドイツが統一後、経済状態の悪い旧東ドイツを抱えて苦労した例を見ているので、北朝鮮を吸収するのに二の足を踏んでいるのだと思う。

東アジア全体にとって困るのは、北朝鮮が経済の極度の困窮、軍の暴発などによって予期せぬ崩壊をすることだ。その際、朝鮮労働党政権なき後の朝鮮半島北部はどのような運命をたどるだろうか。

(1)韓国による統一
韓国自身は乗り気ではないが、周辺諸国からの圧力で渋々統一に応ずるシナリオである。東西ドイツ統一と同じ経過であり、統一後の政府は苦労するであろうが、民族の将来にとっては、民主主義による統一政権ができる最良のシナリオである。

(2)中国による傀儡政権の成立
朝鮮労働党に代わる傀儡政権を中国主導で樹立するシナリオである。現実的には最も実現可能性が高く混乱は少ない。中国は大規模な経済・食糧支援を行い、なんとしても傀儡政権維持に努めるであろう。この場合、朝鮮半島の分断は続く。

(3)中国が軍事侵攻し、直接統治
傀儡政権の樹立も難しいほどの混乱に見舞われた場合、中国がやむを得ず発動するかもしれないシナリオだが、中国はできるだけこの方法は避けようとするだろう。なぜなら中国がもし旧北朝鮮エリアを占領した後に撤退した場合、中国にとって領土を手放すという「悪しき前例」となるからだ。そうなれば「チベットも手放せ」「ウイグルからも撤退せよ」と要求を突きつけられ、今度は中国が制御不能の混乱に陥る可能性がある。

このシナリオを採った場合、中国が「領土撤退ドミノ」を恐れ、逆に朝鮮半島北部から永遠に撤退できなくなるかもしれない。そうなれば、旧北朝鮮エリアが中国の一部に完全に組み入れられ、朝鮮半島の統一はほぼ半永久的に不可能になる。朝鮮半島にとって長期的には最悪のシナリオである。

米国が旧北朝鮮エリアを占領することは、絶対にないと断言できる。東西冷戦が最も激しく、米国に最も国力があった第二次大戦直後ですら、米国は効果が費用に見合わないとして朝鮮半島全体を支配することを見送ったのだ。ソ連も存在しない現在、当時より国力も落ちた米国が実利のない占領などするはずがない。一時的な混乱はあっても、最終的には上記(1)~(3)のいずれかに落ち着くであろう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【転載記事】2012年米国大統領選挙の結果:新自由主義の再急進化は否定される

2012-11-08 20:07:53 | その他(海外・日本と世界の関係)
米国大統領選挙は、事前予想通り、現職のオバマ氏が再選を果たした。オバマ氏の第1期目の業績に華々しいものはないが、挑戦者のロムニー候補の政策が露骨な「富裕層・白人」優遇で酷すぎたというのが実際のところだろう。「今後の4年間、どちらに任せる方がよりマシか」の選択だったように思える。

当ブログとして、選挙結果について何か論評をしなければと思っていたら、「レイバーネット日本」サイトに極めて優れた大統領選挙についての論考が発表された。その多くが当ブログの見解と一致しており、ここにご紹介する(記事は「コロラド州とワシントン州で医療目的以外でも大麻の合法化が可決したことは画期的」としているが、当ブログは唯一、この見解にだけは同意できない。個人の自由とはいえ、銃の所持が自由な上大麻も解禁とは、米国もおかしなことをするものだと思っている)。

このところ転載記事ばかりで恐縮だが、ご了承いただきたい。

-----------------------------------------------------------------------
レイバーネット日本」より

2012年米国大統領選挙の結果:新自由主義の再急進化は否定される

2012年米国総選挙ではオバマ再選と、共和党の下院維持、民主党の上院維持という結論が出ました。今回の選挙については、新自由主義の再急進化が拒絶されオバマ政権の修正路線がかろうじて信任されたということと、迷走する政治にあまり希望は持てないがどうしたらいいか分からず立ち止まっている(前回と同じ投票行動をするにしても前回より冷めている)、という二重の側面があるように思います。新自由主義路線をより明確に打ち出した共和党大統領候補が落選したことは重要だと思いますが、議会選挙の結果など総合的に見れば新鮮な変化を予感させるような材料には乏しいように思います。

まず出口調査で前回2008年選挙との比較に注目すると、投票行動に大きな変化は見いだせません。前回同様に、人種では白人はロムニー支持が過半・非白人は圧倒的にオバマ支持、性別では男がロムニー・女がオバマがやや強く、年齢では若年層ほどオバマ支持が強い。前回との微妙な違いは、前回は割れていた富裕層がより真剣にロムニー支持になったことで所得別の党派色分けがややはっきりしたことと、前回はオバマを支持した白人若年層でロムニー支持が多数になった反面、ラティーノのオバマ支持がかなり増えてそれをかき消したこと(←ロムニーが移民に厳しい姿勢を打ち出したことが要因とされていますがそれだけではない)くらいです。

テーマごとの世論を見ると、経済運営・税財政政策・医療保険・移民政策などで一貫性のない調査結果がごろごろ出ているので、何か世論が根本的に変化したということは難しいです。政府の財政赤字を批判する世論が増えていることをもってアメリカの世論が4年前より保守化したと言っているジャーナリストもいますが、注意深く見れば財政赤字批判の中には富裕層増税を求める世論が含まれているので、そうとは言い切れません。再生可能エネルギーへの関心は以前よりはやや高まっていますが、他方で相変わらず地球温暖化問題よりもオイルの値段が大事だと考える人が多く、原発もクリーンな代替エネルギーだとするオバマ政権のバカげた主張を批判できる人も米国ではまだまだです。外交政策については、少なくとも前回はイラク戦争反対という世論の勢いがありましたが、オバマ政権が結局ブッシュの軍事治安政策の多くを継承したこともあって批判的世論は埋没してしまった感があります。

例外として、今回大きな進展が見られたテーマは、同性婚や中絶や大麻(マリファナ)の合法化といった、個人の生き方の文化的自由にかかわる政策です。レファレンダム(テーマごとの住民投票)の投票結果で、メーン州、メリーランド州、ミネソタ州、ワシントン州では、同性婚の合法化(もしくは禁止の否定)が可決。フロリダ州では中絶処置への州財政使用を禁止する提案が拒否されました。またコロラド州とワシントン州で医療目的以外でも大麻の合法化が可決したことは画期的です。その他にも、カリフォルニアで労働組合の政治活動を制限する提案が否定されたり、フロリダで医療保険強制加入への拒絶提案が否決されたり、メリーランドで未登録移民の学生が州市民と同じ学費を払えばよいことが可決したことは注目に値するでしょう。ただしアラバマ、アーカンソー、ミズーリ、モンタナ、オクラホマ、オレゴンでは逆に保守的な投票結果が出ているため、全米レベルでの評価は微妙です。

マスコミは今回の選挙について、民主党と共和党の違いが鮮明になったと報道してきました。確かにこの4年間を振り返れば、右派の茶会運動が共和党を右から引っ張り、2011年に台頭したオキュパイ運動が間接的に民主党を左から引っ張ったような形になり、それでオバマ政権も今年になって金持ち増税(まあブッシュの金持ち減税を元の段階戻すだけですが)とか移民の権利など口では言うようになりました。パブリックオプションすら認めず民間保険会社を温存して強制加入という中途半端な医療保険改革を続けるかムーアの『シッコ』状態に戻すのか、世界には自由市場を押しつけながら自国だけは国内産業保護を認めるか否か、公務員をあからさまにバッシングして乱暴に公共サービスをぶち壊すかそれとも保護すると言いながら組合を丸めこんでしたたかにコスト削減を図るか、など確かにいくつか対立している部分はあります。多くの人々がその狭い選択肢の中にでもわずかな期待をつなごうとする気持ちを持っていることも事実です。それでもオバマ政権が前回掲げた「チェンジ」がことごとく中途半端なまま4年が過ぎたという現実、選挙が終わったとたんに共和党との宥和とか財界との接近で「チェンジ」が失速するといった、ピープルパワーのマネーパワーへのすり替えをすでに前回経験していることは今一度確認しておく必要があります。今回議会の勢力バランスが変わらなかったので、そのパターンが繰り返される可能性は高いと思います。実際オバマは勝利演説で共和党と仲直りをして財政再建云々などと言い始めているので、早くも黄色信号が点っています。

選挙中、オバマもロムニーも「ミドルクラス」という言葉を呆れるほど連発しました。米国ではまだミドルクラス幻想にこだわる政治家が多く、アメリカンドリームを再建するという絵空事が繰り返し強調されます。新自由主義はミドルクラスを実際には縮小させて格差社会をもたらした元凶なので、修正路線のオバマ陣営の方がこの点では一貫性のある議論を展開できました。例えば選挙期間中オバマは教員の雇用を守るとして教員組合を喜ばせました。しかし同時にオバマ民主党はコスト削減を政府や学校に要求しています。どうやってそれを両立させるかを現実的に考えれば、ミドルクラスとして扱われていない非常勤・契約社員などにしわ寄せがくることになります。学生にとってもいくら貸与型奨学金を増やしたところで授業料高騰とローン地獄が続きます。ミドルクラスもロウアークラスも差別せずみんなが安心して生きられるようにするためには、既存の常勤職だけを守るとかブッシュ減税の廃止程度の中途半端な政策ではとうてい無理があります。それを越えるレベルのチェンジをオバマ政権が口にしたことは一度もありません。

二大政党政治では大きなチェンジなど期待できないとすでに考えている人達は、政治から離れてしまっているように感じます。今回の選挙は史上最高額のカネがつぎこまれた選挙と言われていますが、投票率は低調でした(最終集計はまだですがかなりの確率で前回を下回るとのこと)。ブッシュ路線の否定という点で一定の希望がもてた前回と違い、新自由主義の再急進化も無理だがそれに代わる新たなビジョンも打ち出されていないので、出口の方角すら見えずに迷走している政治に関心を持ちづらい状況と言えるでしょう。マイノリティコミュニティでの投票者への嫌がらせ(ID要求の厳格化など)や投票マシンに仕組まれた不正バグがまた問題になっていますが、米国の選挙制度そのものが非民主的で不公正であるという指摘は二大政党やマスコミからは一切聞くことがありません。「一票の格差」と死票を最大化して第三政党にほとんど存立の余地を与えない非民主的な世論歪曲装置のパッケージ、つまり大統領選における選挙人団・勝者一人勝ち制度と議会選挙における完全小選挙区制度、議員定数の少なさ(小さな議会)、さらに企業・金持ちの政治献金を完全自由化する法解釈と、二大政党の宣伝機関としてのマスコミの影響力により、アメリカ政治は一般の人間から著しく乖離したものになっています。緑の党などは移譲投票や比例代表の導入や企業献金禁止による米国政治の民主化を求めていますが、多くの人はそうした主張を耳にすることすら困難だったでしょう。新自由主義でも修正路線でもない本当の変化を求める声が行き詰まった二大政党政治に今度こそ風穴を開けるような新たなオキュパイ的運動を生み出すかどうかに注目したいと思います。

<参照>

選挙結果速報 http://www.google.com/elections/ed/us/results
レファレンダム結果 http://www.politico.com/2012-election/map/#/Measures/2012/
CNN出口調査 http://www.cnn.com/election/2012/results/race/president#exit-polls
投票率関係 http://www.oregonlive.com/today/index.ssf/2012/11/2012_election_voter_turnout_sh.html
NYT社説 http://www.nytimes.com/2012/11/07/opinion/president-obamas-majority.html?hp&_r=0

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シアヌーク・カンボジア元国王死去、大国に翻弄された波乱の人生

2012-10-16 20:40:44 | その他(海外・日本と世界の関係)
シアヌーク前国王死去 カンボジア国民統合の象徴(共同)

シアヌーク・カンボジア元国王が死去した。その89年間は、まさに大国に翻弄され続けたカンボジアの歴史そのままの波乱の人生だった。

1949年にフランスから独立後国王に即位。平和で穏やかな国だったカンボジアが一変するのは1970年、米国の支援を受けた親米派ロン・ノル将軍によるクーデターからだった。シアヌーク国王はこのとき追放、カンボジアはロン・ノル将軍の下でクメール共和国となった。

やがて、隣国ベトナムでの戦争がカンボジアにも波及。ベトナム戦争が終結した1975年、米国の敗退に合わせるようにカンボジア共産党(クメール・ルージュ)政権が成立。急激な農業集団化や貨幣経済廃止など極端な共産主義政策がとられた結果、多くの国民が餓死した。逮捕や処刑も相次ぎ、クメール・ルージュ政権下で死亡したカンボジア国民は200万人ともいわれる(クメール・ルージュ政権下での虐殺は、ハリウッド映画「キリングフィールド」にも描かれた)。

1979年、ベトナムの軍事介入によりクメール・ルージュ政権は崩壊。ベトナムの傀儡であるヘン・サムリン政権が誕生した。クメール・ルージュ時代の極端な政策は廃止されたが、引き続きベトナムの指導の下で社会主義政策がとられた。

ベトナムの支配に反対する旧勢力、シアヌーク派、ソン・サン派(旧ロン・ノル派)、クメール・ルージュによる「反ベトナム三派連合」が形成され、ベトナム軍と「三派連合」との間で内戦が続いた。倒し、倒される関係にあった国王派、親米派から共産主義勢力までが反ベトナムの1点だけで共闘した三派連合は、文字通り「呉越同舟」状態だった。

ベトナムと三派連合との内戦は、1989年、ベトナム軍撤退でようやく終結。国連による暫定統治の後、1993年、初めて民主的な選挙が行われ新政権が発足した。王政に戻ったカンボジアで、シアヌーク氏は「内戦に明け暮れ、疲弊した国民を再統合するための象徴」として再び国王に即位する(2004年に退位)。クメール・ルージュの残党が埋設した地雷の処理に自衛隊が派遣され、クメール・ルージュ関係者らの裁判が行われたことは記憶に新しい。

戦乱に明け暮れたカンボジアで時代に翻弄されたひとりの国王の波乱に満ちた人生から、21世紀の私たちがくみ取るべき教訓は、実はそれほど難しいことではない。民族自決権(各民族が自分たちの政治・社会体制を自ら選び取る自由)や民主主義の尊重、いかなる理由によっても武力による紛争解決をしてはならない(武力によって物事が解決することはない)ということである。

カンボジアは、長かった戦乱の時代が終わり、あまりにも大きな犠牲の上に平和がようやく訪れた。しかし、アフガニスタンのように今なお戦乱の中で社会的弱者が苦しみ続ける国もある。武力でなく平和的アプローチによって私たちに何ができるのか。世界、そして人類に突きつけられている課題は依然として大きい。

-------------------------------------------------------------------------
(注)クメール・ルージュについて

カンボジアはクメール民族の国である。クメール・ルージュとはカンボジアの公用語、クメール語で「赤いクメール人」を意味する。もともとは、シアヌーク国王(ベトナム戦争以前)時代に国費留学した学生たちが、留学先のフランスで共産主義にかぶれて帰ってくるのを見て激怒したシアヌーク国王が彼らをこう呼んだのが始まりである。このときの「赤いクメール人」たちが、後にカンボジア共産党の主力メンバーとなったことから、クメール・ルージュはカンボジア共産党の別名として国際的に広く使われるようになった。名付け親のシアヌーク国王にしてみれば、自分が「赤いクメール人」と罵った相手と、後に三派連合として組むことになるとは夢にも思わなかったに違いない。

日本のメディアは彼らを「ポル・ポト派」と呼んでいたが、厳密に言うとこれはあまり適切な呼称とはいえない。なぜならポル・ポト派はクメール・ルージュの中のひとつの派閥であって、他にもポル・ポトに次ぐ実力者といわれたキュー・サムファン議長を中心とする派閥なども存在していたからである。ポル・ポト派をクメール・ルージュ全体の呼称として使うのは、日本でいえば「森派」とか「古賀派」を自民党全体を表す別名として使うようなものである。
-------------------------------------------------------------------------

カンボジアの歴史については、古い資料だが、岩波ブックレットNo.284「ポル・ポト派とは?」(小倉貞男・著、1993年)が詳しい。当エントリもかなりの部分をこのブックレットに基づいて記述している。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする