ほしちゃんの「続・なるようにしか、ならん」。

安くてウマいもんと料理と旅行と音楽と競馬が好きなサラリーマンの暮らしを、ありのままに綴ります。

TVサイズだからこそ、ヒットした曲がある。

2022-02-25 22:15:00 | No Music,No Life.

夕食後、たまたまBSを観ていたら「武田鉄矢の昭和は輝いていた」というアラフィフホイホイな番組をやっており、案の定釘付けになってしまった。
武田鉄矢がナビゲイターで、音楽家・宮川彬良が昭和のヒット曲を分析するのだが今夜は沢田研二「勝手にしやがれ」、クリスタルキング「大都会」を分析していた。

改めて「大都会」を聴き、ヒット当時小6だった私は「ザ・ベストテン」などのTVの歌番組を熱心に観ていた頃を思い出し、つくづくこの曲はTVだからこそヒットしたのだ、と思った。

「大都会」は、イントロのピアノの乾いた摩天楼感、大都会でのサクセスを連想させる田中氏のハイトーン、大都会での苦悩を連想させる吉﨑氏の低音のダミ声と、まさしく劇的な展開の曲だ。
ところがこの曲は、レコードで聴くと1コーラスは
「♪今駆けゆく〜」
と暗く終わり、2コーラスの終わりで
「♪今駆け〜てゆ〜く〜」
と明るく間奏につなぐ構成だ。
昔のTVの歌番組では、尺の関係で1コーラスの終わりでいきなり2コーラスの明るい進行になり、間奏を入れずにサビのリピート、という短時間ながらものすごくカタルシスのある構成で歌われたのでヒットしたのだろう、と勝手に思っている。
仮にレコードのまま1コーラスが暗く終わっていたら、ここまでの気持ち良さはなかった。
従って「大都会」は、TVサイズにせねばならなかった事が曲の気持ち良さを倍にした、と言える。

同じような例は、1981年の山本譲二「みちのくひとり旅」でも言える。
この曲の最も気持ち良い部分は、大サビの
「♪例えどんなに〜」
だ。
TVでは尺の関係で、1コーラス終わりで大サビに直結していたが、レコードを聴くと1コーラスめは
「♪夢でも〜逢えるだろう〜」
と暗く終わっており、全く気持ち良くない。

その意味で「大都会」「みちのくひとり旅」は、TVの歌番組の尺の制約を逆手に取って、オリジナル以上に心地良い曲となってヒットしたと言える。
この「制約」はすべからく音楽全般に言える事で、その昔のオールディーズは「3minutes of paradise」
と言われた。すなわちドーナツ盤が3分しか音を刻めないため、3分以内でいい曲にする必要があった。
ゆえにいわゆるオールディーズは、その大半が3分以内なのに良い曲ばかりだ。
(余談だが、尾崎紀世彦『また逢う日まで』は2分50秒ぐらいしかないのに、あれだけドラマティックな曲はない。つくづく筒美京平は天才だ)
同じくLP盤は、どんなに頑張っても45〜50分ぐらいしか刻めない。ただその45ないし50分というのは、人間の集中力の限界らしい。
ゆえに我々LP世代は、アルバムを通して聴けたし今でも曲順でそのアルバムを語れる。

議論が飛躍したが、音楽を発展させてきたのはこれらの「制約」かもしれない、と思った今宵であった…