ほしちゃんの「続・なるようにしか、ならん」。

安くてウマいもんと料理と旅行と音楽と競馬が好きなサラリーマンの暮らしを、ありのままに綴ります。

「責任を取る」のは、誰のため?

2022-08-26 18:00:00 | 思うこと

先月の安倍・元首相銃撃事件を受け、警察庁・中村長官と奈良県警・鬼塚本部長がともに辞意を表明した。
銃社会ではないこの国では想定しがたい事件であり、また現職ではなく元職の首相だったためあのように後方の警備が手薄になってしまったとみられ、警備のトップが責任を取らされるのは致し方ない。

私は昔から、この「責任を取る=辞職」に、しばしば違和感を覚えてきた。
例えば業績が悪化した会社の場合、明らかに社長の失政で業績を落としたような場合辞職は当然だ。
しかし今回の場合、これは「トップの過失」なのだろうか。「過失」というより単なる現場の準備不足ではないのか。
現場の準備不足でも、トップが引責辞任せなばならない事に私はしばしば違和感を抱くのだが、その考えは甘いのだろうか。

その意味では、政治家の失言による引責辞任は理解出来る。責任ある立場にある人が、著しく見識を問われるような発言をした場合、その人はその立場にいてもらっては困るからだ。
あまり良い例えではないが、最も理解出来ないのは例えば学校の教諭が万引きしてその校長が引責辞任するようなパターン。
それはあくまでその教諭個人の問題であり、誰が校長であろうと万引きを働いていたはずだ。
校長が代わって、その教諭の盗癖が治るとは思えない。

日本は武家文化のため、やたらと「首」にこだわる。大河ドラマなど、毎週のように頭蓋骨の入った筒が登場する。
取り返しのつかないような事態になった場合、とりあえず誰かを悪者にして、頭蓋骨を晒さねばならないのがこの国の文化なのだろう。
さらに、その地位に恋々とする態度は潔くないとされ、桜のように潔く散る方がカッコいい、という文化なのか。

今回の一件が、警備のトップの2人のクビで収拾するとはとても思えない。
2人のクビが飛んだところで、政治家と宗教団体の関係が改善するとは考えにくいのだが、それでも誰かをクビにせねば収まりがつかないというのが、何ともやるせない思いになるのである…