古老はいう。
「今年はトンボがいないだ。今年は田んぼに水がないから孵化できなかったんだ」
「草ぼうぼうになって、化け物の村になってしまった。ここは何でも採れていい所だったんだ」
●庄司良明(80)、その妻(77)
「俺か、どん百姓だ。百姓が一番だ。今は仕事をしていない。だって米つくれないんだもの。セシウムという東京電力のばい菌くるんだもの」
飯舘村でできたものは全部ダメなんだ。米、牛、野菜、みんな売れない。
でも、家で作った大根は食べている。米は古いのがあるけれど、おかずは買いに行く。二人だからちっとしか食べない。
「うらみはいっぱいあるよ。東京電力には」
朝は早起き。起きてすぐトラックに乗り、川俣の新聞配達魅せに行く。6月いっぱいで新聞屋が来なくなった。郵便も来ない。農協も避難した。
「おら避難しねぇ」
●細川徳栄(60)、多美子(64)
「離れたくてもここを離れられないよ。動物百頭くらい飼っているので」
国でも何でも移動する所を見つけてくれればいいんだが、やっぱり無いって。
昔から馬喰だった。ここらには十何軒あったが、今ではうちだけだ。馬は観光用に使っていた。でも、被曝してからはどうにもならない。
牛は売れない。餌代だけでも大変だ。募金をやりくりしている。
「もう収入がないから募金が来なけりゃやっていけないんだ。募金は全国から来る。動物好きな人から募金がくるだ。もう7千万も来たよ。外国からも、2千万来たよ」
●佐藤義明(60)、ひろ子(56)
「東電が賠償請求書を送ってきた。俺は絶対に書かねぇんだ。領収書を付けろ、ふざけんじゃないよ。家族バラバラになったのは『認めない』と言うんだ。うちだって4ヵ所に避難しているだ。原発事故の前は皆ここでくらしていただ。孫も一緒に、ここを走り回っていただ」
放射能のことはもっと早く教えてほしかった。それが一番悔しい。3月12、13日は子どもは知らないで外で遊んでいたのだから。ここに電気が来たのは3月13日。テレビを見て事故の恐ろしさを知った。17日に避難した。それが腹立つ。もっと早く情報がほしかった。
「バーアンと爆発したとき、県や市のお偉いさんは我々を置いて逃げたんだって。知らなかったのは我々だけだ」
●多田宏(64)
一応伊達市に避難しているので時々帰るが、普段はここで寝起きしている。時々連絡なしに来る氏子もいるから常駐している。
「私が去ったら村の支えが無くなりますからね」
みんなストレスが溜まっているので相談相手をしている。
「子供たちがいなくなっちゃうのが問題ですね。これから村が先細りになりますから、人口を増やす算段をしなくてはならない」
ここで作ったものは、いくら除染しても売れない。
「私だって嫌だもの。畜産、飯舘牛は準ブランドだからね、畜産農家は大変だと思うよ」
「神社に明かりが灯っていると人々はほっとするんですね。檀家と違って氏子というのは神との信頼関係で成り立っています。ここに私が居るということで安心していると思います。この前、伊達市の仮設住宅に行ったら『宮司さんはどこにいるんだ』と声を掛けられました。『神社を守っている』と答えておきました」
●佐藤強(84)、ヒサノ(87)
飯舘は米の産地だ。米を作らなかったのは初めてだ。
今年はトウモロコシと馬鈴薯は蒔いた。トウモロコシは食べてしまった。馬鈴薯はまだ掘っていない。
これからはキノコだ。マツタケ、イノハナ、シメジ。ヤダタイ山に採りに行く。飯舘のマツタケは最高だ。イノハナはマンマにして食うのが一番だ。香りがいいんで、煮てはダメだ。
「でも今年は出荷できねんだ。俺は自分で作ったものを食べているだ。放射能なんか関係ねぇんだ。放射能で80過ぎてガンになったというが、日本全国ガンのないところねぇんだから」
「同級生もだいぶ死んで、避難しなくても話す相手がいねぇんだ。地区でも上から6番目の年配になった。カカァは3番目の長生きだ。長生きはみんなババァばかりだ。爺様はゴロリゴロリとみんな死んでしまうわ。『避難してくれ』と役所の人が4、5回来たよ。でももう残り時間は短いんだから」
以上、飯田勇「飯舘村の叫び」(「週刊文春」2011年10月13日号)に拠る。
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「今年はトンボがいないだ。今年は田んぼに水がないから孵化できなかったんだ」
「草ぼうぼうになって、化け物の村になってしまった。ここは何でも採れていい所だったんだ」
●庄司良明(80)、その妻(77)
「俺か、どん百姓だ。百姓が一番だ。今は仕事をしていない。だって米つくれないんだもの。セシウムという東京電力のばい菌くるんだもの」
飯舘村でできたものは全部ダメなんだ。米、牛、野菜、みんな売れない。
でも、家で作った大根は食べている。米は古いのがあるけれど、おかずは買いに行く。二人だからちっとしか食べない。
「うらみはいっぱいあるよ。東京電力には」
朝は早起き。起きてすぐトラックに乗り、川俣の新聞配達魅せに行く。6月いっぱいで新聞屋が来なくなった。郵便も来ない。農協も避難した。
「おら避難しねぇ」
●細川徳栄(60)、多美子(64)
「離れたくてもここを離れられないよ。動物百頭くらい飼っているので」
国でも何でも移動する所を見つけてくれればいいんだが、やっぱり無いって。
昔から馬喰だった。ここらには十何軒あったが、今ではうちだけだ。馬は観光用に使っていた。でも、被曝してからはどうにもならない。
牛は売れない。餌代だけでも大変だ。募金をやりくりしている。
「もう収入がないから募金が来なけりゃやっていけないんだ。募金は全国から来る。動物好きな人から募金がくるだ。もう7千万も来たよ。外国からも、2千万来たよ」
●佐藤義明(60)、ひろ子(56)
「東電が賠償請求書を送ってきた。俺は絶対に書かねぇんだ。領収書を付けろ、ふざけんじゃないよ。家族バラバラになったのは『認めない』と言うんだ。うちだって4ヵ所に避難しているだ。原発事故の前は皆ここでくらしていただ。孫も一緒に、ここを走り回っていただ」
放射能のことはもっと早く教えてほしかった。それが一番悔しい。3月12、13日は子どもは知らないで外で遊んでいたのだから。ここに電気が来たのは3月13日。テレビを見て事故の恐ろしさを知った。17日に避難した。それが腹立つ。もっと早く情報がほしかった。
「バーアンと爆発したとき、県や市のお偉いさんは我々を置いて逃げたんだって。知らなかったのは我々だけだ」
●多田宏(64)
一応伊達市に避難しているので時々帰るが、普段はここで寝起きしている。時々連絡なしに来る氏子もいるから常駐している。
「私が去ったら村の支えが無くなりますからね」
みんなストレスが溜まっているので相談相手をしている。
「子供たちがいなくなっちゃうのが問題ですね。これから村が先細りになりますから、人口を増やす算段をしなくてはならない」
ここで作ったものは、いくら除染しても売れない。
「私だって嫌だもの。畜産、飯舘牛は準ブランドだからね、畜産農家は大変だと思うよ」
「神社に明かりが灯っていると人々はほっとするんですね。檀家と違って氏子というのは神との信頼関係で成り立っています。ここに私が居るということで安心していると思います。この前、伊達市の仮設住宅に行ったら『宮司さんはどこにいるんだ』と声を掛けられました。『神社を守っている』と答えておきました」
●佐藤強(84)、ヒサノ(87)
飯舘は米の産地だ。米を作らなかったのは初めてだ。
今年はトウモロコシと馬鈴薯は蒔いた。トウモロコシは食べてしまった。馬鈴薯はまだ掘っていない。
これからはキノコだ。マツタケ、イノハナ、シメジ。ヤダタイ山に採りに行く。飯舘のマツタケは最高だ。イノハナはマンマにして食うのが一番だ。香りがいいんで、煮てはダメだ。
「でも今年は出荷できねんだ。俺は自分で作ったものを食べているだ。放射能なんか関係ねぇんだ。放射能で80過ぎてガンになったというが、日本全国ガンのないところねぇんだから」
「同級生もだいぶ死んで、避難しなくても話す相手がいねぇんだ。地区でも上から6番目の年配になった。カカァは3番目の長生きだ。長生きはみんなババァばかりだ。爺様はゴロリゴロリとみんな死んでしまうわ。『避難してくれ』と役所の人が4、5回来たよ。でももう残り時間は短いんだから」
以上、飯田勇「飯舘村の叫び」(「週刊文春」2011年10月13日号)に拠る。
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