その日は内閣官房長官として最後の日のはずだった。翌日には改造内閣が発足するはずだった。
ところが、10時35分、大事故が発生したのだ。茨城県東海村で。核燃料加工会社JCO東海事業所の転換試験棟で。
ウラン溶液を沈殿槽に入れる作業の最中、臨界事故が起きたのだ。臨界は、通常は原子炉内で制御された状態でのみ起きる現象だが、核分裂が燃料混合の最中に起きてしまったのだ。
1999年9月30日12時半過ぎ、官邸に連絡が入った。官邸の首相秘書官に電話で科学技術庁から一報が入り、秘書官はすぐ小渕恵三・首相に報告。野中広務・内閣官房長官にも彼の秘書官を通じて連絡が入った。
この時、野中は、後任官房長官の青木幹雄と官邸地下の小食堂にこもり、大臣や政務次官の選考作業に没頭していた。事故の知らせ聞いたのは、12時55分頃だった。ただ、その時の報告では、事故は起きたものの処理は済んだ、という話で、「3時頃には終熄する見こみです」と言っていた。
小渕首相は、念のため秘書官を通じて「事態の把握につとめ、逐一情報を上げること」と科学技術庁に指示した。
野中は組閣作業を続けた。
15時過ぎ、科学技術庁から原子力安全局長が飛んできた。とっくに停止したと思っていた臨界が止まらず、今も周囲に放射線が撒き散らされている、云々。
JCOの周囲は住宅地だった。
東海村は、12時過ぎに災害対策本部を設置していた。12時半から住民広報を開始し、専門家の助言を受けて、15時に現場から半径350m圏内の住民に避難を指示していた。
一方、科学技術庁は、ようやく14時半に対策本部を作ったところだ、という。そして、有馬朗人・科学技術庁長官は、文部大臣室にいた。
野中は、総理室に駆けつけ、小渕首相に改造を延ばそう、と進言した。小渕首相は承諾した。
そして、すぐに官邸連絡室を設置した。科学技術庁に連絡要員を派遣し、関係省庁からは連絡室に連絡要員を派遣するよう指示した。
16時過ぎ、定時会見で、原子力事故について発表。たちまち大騒ぎになった。
野中は、同じ廊下に面した官房長官室と総理室を行ったり来たりしながら、現地の情報を収集した。廊下に出るたびに、ぶら下がりの記者がくっついてきた。
19時過ぎ、原子力安全委員会は、事故現場の中性子線量が高く、臨界が継続していて、早急に抑止する必要がある、と言ってきた。「10時間たってもまだ核分裂が収まらず、放射線が撒き散らされているのだ。大変な事態である」
20時過ぎ、内閣に政府対策本部の設置を決めた。本部長は首相、指揮を執るのは官房長官だ。官邸はようやく臨戦体制に入った。
21時から第1回政府対策本部会議が開催された。周辺住民の避難、緊急医療体制の準備が決まった。
「避難区域を広げろ。あとからどんな非難を受けてもいいから、避難区域を広げろ」と、野中は会議で主張した。現地の茨城県と協議し、ただちに住民の避難を開始するよう指示した。・・・・最終的に10km圏内の住民が避難し、事業所周辺の道路は封鎖され、電車も止められた。
21時半過ぎ、野中は緊急記者会見を行い、対策本部の設置、避難などの措置を発表した。
事故現場では放射線が放出され続け、作業員の防護が十分できず、現場に近づけない状態だった。JCOのベテラン作業員たちが「自ら志願し、被曝覚悟で」(と野中は書く)臨界停止作業に入った。
10月1日3時、住民の避難完了を待っていた現場は、冷却水の水抜き作業を開始した。
6時過ぎ、臨界が停止した。事故発生から約20時間後のことだった。
9時過ぎ、原子力安全委員会は、臨界状態は終熄した、と判断した。
11時、定時会見で野中は、当面の危険は去った、と発表した。
15時、正式に10km圏内の屋内避難措置を解除した。ただし、半径350m圏内については、安全を期して避難措置を継続し、最終的には10月2日18時半に避難を解除した。
この事故で、放射線を浴びた作業員3人は急性放射線症を発症し、病院に担ぎこまれた。被曝量は重大で、2人が病院で死亡し、残り1人もあと少しで死に至るところだった。被爆者600人余り。避難した周辺住民は31万人。「日本原子力史上最悪の事故となってしまった」
JCOと行政に非難が殺到した。
JCOは、濃縮ウラン溶液の濃度を一定にする工程で、正式の作業手順である混合装置「貯塔」を使うと時間がかかる、という理由で、人の手でバケツを使って混合作業していた。独自に手作業用の裏マニュアルまで作っていた。作業手順に違反する行為が社内で公認されていたのだ。しかも、作業を急いだ現場の作業員は、裏作業マニュアルさえ破って、小分けして沈殿槽に投入するべき高濃度ウラン化合物を一度に大量に投入したため、核分裂反応が発生したのだ。
行政の対応も、十分ではなかった。問題の事業所は中性子検出器を備えていなかった。当初すぐに停止すると思われていた臨界が継続していることが分かるまで時間がかかり、そのため政府の対応も後手に回ってしまった。
JOCが科学技術庁へ事故の第一報を入れたのは、事故発生から40分後(11時15分)だった。茨城県と東海村への通報は、さらに20分後だった。安全協定のなかった隣の那珂町には、JCOは通報していない。
科学技術庁から官邸に連絡を入れるまで、1時間以上かかっている。
JCOは東海村消防本部へ119番通報で出動要請しているが、原子力事故であることを伏せていた。ために消防本部は通常の救急出動として対応し、救急隊員は防護服を着用しないまま作業員の救出にあたり、被曝した。
東海村が災害対策本部で避難要請を検討している時点で、政府にも科学技術庁にも事故対策本部が設置されていなかった。東海村は独自の判断で350m圏内の避難要請を決断した。
関連官庁以外の政府機関、交通機関、周辺の公共施設などには、政府からの直接の連絡が行き渡らず、テレビで初めて事故を知ったところも多かった。しかも待避勧告について茨城県と政府が協議している最中に、NHKが「10km圏内屋内退避」とフライイングで報道し、大騒ぎになってしまった。
事故後の「金銭的な損害などについては原子力損害賠償法によってある程度補償されることになったが、住民のみなさんの恐怖を考えれば、決して十分だとは思っていない」
以上、野中広務『老兵は死なず -野中広務全回顧録-』(文言春秋社、2003。後に文春文庫、2005)に拠る。
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ところが、10時35分、大事故が発生したのだ。茨城県東海村で。核燃料加工会社JCO東海事業所の転換試験棟で。
ウラン溶液を沈殿槽に入れる作業の最中、臨界事故が起きたのだ。臨界は、通常は原子炉内で制御された状態でのみ起きる現象だが、核分裂が燃料混合の最中に起きてしまったのだ。
1999年9月30日12時半過ぎ、官邸に連絡が入った。官邸の首相秘書官に電話で科学技術庁から一報が入り、秘書官はすぐ小渕恵三・首相に報告。野中広務・内閣官房長官にも彼の秘書官を通じて連絡が入った。
この時、野中は、後任官房長官の青木幹雄と官邸地下の小食堂にこもり、大臣や政務次官の選考作業に没頭していた。事故の知らせ聞いたのは、12時55分頃だった。ただ、その時の報告では、事故は起きたものの処理は済んだ、という話で、「3時頃には終熄する見こみです」と言っていた。
小渕首相は、念のため秘書官を通じて「事態の把握につとめ、逐一情報を上げること」と科学技術庁に指示した。
野中は組閣作業を続けた。
15時過ぎ、科学技術庁から原子力安全局長が飛んできた。とっくに停止したと思っていた臨界が止まらず、今も周囲に放射線が撒き散らされている、云々。
JCOの周囲は住宅地だった。
東海村は、12時過ぎに災害対策本部を設置していた。12時半から住民広報を開始し、専門家の助言を受けて、15時に現場から半径350m圏内の住民に避難を指示していた。
一方、科学技術庁は、ようやく14時半に対策本部を作ったところだ、という。そして、有馬朗人・科学技術庁長官は、文部大臣室にいた。
野中は、総理室に駆けつけ、小渕首相に改造を延ばそう、と進言した。小渕首相は承諾した。
そして、すぐに官邸連絡室を設置した。科学技術庁に連絡要員を派遣し、関係省庁からは連絡室に連絡要員を派遣するよう指示した。
16時過ぎ、定時会見で、原子力事故について発表。たちまち大騒ぎになった。
野中は、同じ廊下に面した官房長官室と総理室を行ったり来たりしながら、現地の情報を収集した。廊下に出るたびに、ぶら下がりの記者がくっついてきた。
19時過ぎ、原子力安全委員会は、事故現場の中性子線量が高く、臨界が継続していて、早急に抑止する必要がある、と言ってきた。「10時間たってもまだ核分裂が収まらず、放射線が撒き散らされているのだ。大変な事態である」
20時過ぎ、内閣に政府対策本部の設置を決めた。本部長は首相、指揮を執るのは官房長官だ。官邸はようやく臨戦体制に入った。
21時から第1回政府対策本部会議が開催された。周辺住民の避難、緊急医療体制の準備が決まった。
「避難区域を広げろ。あとからどんな非難を受けてもいいから、避難区域を広げろ」と、野中は会議で主張した。現地の茨城県と協議し、ただちに住民の避難を開始するよう指示した。・・・・最終的に10km圏内の住民が避難し、事業所周辺の道路は封鎖され、電車も止められた。
21時半過ぎ、野中は緊急記者会見を行い、対策本部の設置、避難などの措置を発表した。
事故現場では放射線が放出され続け、作業員の防護が十分できず、現場に近づけない状態だった。JCOのベテラン作業員たちが「自ら志願し、被曝覚悟で」(と野中は書く)臨界停止作業に入った。
10月1日3時、住民の避難完了を待っていた現場は、冷却水の水抜き作業を開始した。
6時過ぎ、臨界が停止した。事故発生から約20時間後のことだった。
9時過ぎ、原子力安全委員会は、臨界状態は終熄した、と判断した。
11時、定時会見で野中は、当面の危険は去った、と発表した。
15時、正式に10km圏内の屋内避難措置を解除した。ただし、半径350m圏内については、安全を期して避難措置を継続し、最終的には10月2日18時半に避難を解除した。
この事故で、放射線を浴びた作業員3人は急性放射線症を発症し、病院に担ぎこまれた。被曝量は重大で、2人が病院で死亡し、残り1人もあと少しで死に至るところだった。被爆者600人余り。避難した周辺住民は31万人。「日本原子力史上最悪の事故となってしまった」
JCOと行政に非難が殺到した。
JCOは、濃縮ウラン溶液の濃度を一定にする工程で、正式の作業手順である混合装置「貯塔」を使うと時間がかかる、という理由で、人の手でバケツを使って混合作業していた。独自に手作業用の裏マニュアルまで作っていた。作業手順に違反する行為が社内で公認されていたのだ。しかも、作業を急いだ現場の作業員は、裏作業マニュアルさえ破って、小分けして沈殿槽に投入するべき高濃度ウラン化合物を一度に大量に投入したため、核分裂反応が発生したのだ。
行政の対応も、十分ではなかった。問題の事業所は中性子検出器を備えていなかった。当初すぐに停止すると思われていた臨界が継続していることが分かるまで時間がかかり、そのため政府の対応も後手に回ってしまった。
JOCが科学技術庁へ事故の第一報を入れたのは、事故発生から40分後(11時15分)だった。茨城県と東海村への通報は、さらに20分後だった。安全協定のなかった隣の那珂町には、JCOは通報していない。
科学技術庁から官邸に連絡を入れるまで、1時間以上かかっている。
JCOは東海村消防本部へ119番通報で出動要請しているが、原子力事故であることを伏せていた。ために消防本部は通常の救急出動として対応し、救急隊員は防護服を着用しないまま作業員の救出にあたり、被曝した。
東海村が災害対策本部で避難要請を検討している時点で、政府にも科学技術庁にも事故対策本部が設置されていなかった。東海村は独自の判断で350m圏内の避難要請を決断した。
関連官庁以外の政府機関、交通機関、周辺の公共施設などには、政府からの直接の連絡が行き渡らず、テレビで初めて事故を知ったところも多かった。しかも待避勧告について茨城県と政府が協議している最中に、NHKが「10km圏内屋内退避」とフライイングで報道し、大騒ぎになってしまった。
事故後の「金銭的な損害などについては原子力損害賠償法によってある程度補償されることになったが、住民のみなさんの恐怖を考えれば、決して十分だとは思っていない」
以上、野中広務『老兵は死なず -野中広務全回顧録-』(文言春秋社、2003。後に文春文庫、2005)に拠る。
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