この衰残をきわめた地方を何としよう
火田民の嵐が立ち去ったあとのように
赤茶けた土塊はぼろぼろとくずれるばかり
喬木には鳥さえもなかず
疎らなる枝々はひたすら大地をねがう
ああこの病みほけた岸辺に立って潟を望めば
日没はあたかも天地の終焉のごとく
あるいは創世の混沌のごとく
--------------
中村稔「ある潟の日没」の前半部だ。
中村の長い詩業のうちでも、もっとも初期に属する一編だ。この作品は1945年に書かれた。原口統三(1927年1月14日~1946年10月25日)の入水の前年であり、終戦の年だ。
ちなみに、中村は1927年1月17日生まれ。46年に『世代』に参加し、50年に第一詩集『無言歌』を刊行した。大学在学中に司法試験を通り、50年に卒業し、その2年後に弁護士登録をしている。
「ある潟の日没」は、『鵜原抄』(思潮社 1966)に、後に『中村稔詩集 1944-1986』(青土社、1988)【注1】に、さらに後に『中村稔著作集 第1巻』(青土社、2004)に収録されている。
震災の翌々日【注2】から「【震災】」というヘッダを付けた文章をアップしてきた。書いている間にしばしば念頭を去来したのが、上に引用した詩句だ。
【注1】この詩集には加藤周一の評がある。「『加藤周一自選集8 1987-1993』」参照。
【注2】「【震災】東日本巨大地震、専門家は・・・・」
↓クリック、プリーズ。↓

火田民の嵐が立ち去ったあとのように
赤茶けた土塊はぼろぼろとくずれるばかり
喬木には鳥さえもなかず
疎らなる枝々はひたすら大地をねがう
ああこの病みほけた岸辺に立って潟を望めば
日没はあたかも天地の終焉のごとく
あるいは創世の混沌のごとく
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中村稔「ある潟の日没」の前半部だ。
中村の長い詩業のうちでも、もっとも初期に属する一編だ。この作品は1945年に書かれた。原口統三(1927年1月14日~1946年10月25日)の入水の前年であり、終戦の年だ。
ちなみに、中村は1927年1月17日生まれ。46年に『世代』に参加し、50年に第一詩集『無言歌』を刊行した。大学在学中に司法試験を通り、50年に卒業し、その2年後に弁護士登録をしている。
「ある潟の日没」は、『鵜原抄』(思潮社 1966)に、後に『中村稔詩集 1944-1986』(青土社、1988)【注1】に、さらに後に『中村稔著作集 第1巻』(青土社、2004)に収録されている。
震災の翌々日【注2】から「【震災】」というヘッダを付けた文章をアップしてきた。書いている間にしばしば念頭を去来したのが、上に引用した詩句だ。
【注1】この詩集には加藤周一の評がある。「『加藤周一自選集8 1987-1993』」参照。
【注2】「【震災】東日本巨大地震、専門家は・・・・」
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