(1)国立社会保障・人口問題研究所が、今年4月、人口動態の将来推計を発表した。一人暮らしの増大を指摘し、これを悲劇的な状況と呼び、日本滅亡を予言する。
現代日本人は、一人で生きる、一人で立つ、一人で暮らすことを否定的に捉えるばかりで、その本質的な価値を忘れ去ろうとしているようだ。
人口がどんどん減少していけば、一人で生きる領域が空間的にも時間的にも広がる。そのとき、「一人で生きるとは何か?」という新しい哲学や倫理学が必要になる。人間の基本的な教養として、「一人」の意味と価値を考えるべきだ。
(2)歴史を見ると、社会の危機や動乱の時代には「一人の人間のあり方とは何か?」が問われた。その問題を内面化し、血肉化し、ライフスタイルの上で実践した典型の一人が鴨長明だった。
長明はこれまで「二流の知識人」「中途半端な世捨て人」と見られてきた節がある。かかる評価は間違いだ。一人で生き、一人の価値を追求した長明の人生を追うことによって、我が国における「一人で生きる」ことの内面的な意味をつかんだり、捉え直すことができる。
そのことに日本人が気づいたのは、東日本大震災だった。『方丈記』の冒頭を読んだだけで、「ああ、我々には『方丈記』があった、と慰められた。『方丈記』が時間や空間を超えた広がりを持っていることに気づいた。
長明を一人の世界観の表現者として捉えるならば、長明に先立つ西行、時代を下って芭蕉や良寛も同じ隠遁者の系譜として位置づけることができる。そこから日本の文化、思想の豊かな伝統に入っていける。それは尾崎放哉や種田山頭火に続く。
(3)方丈庵があったところ(石碑「方丈石」が立つ)は、登るに難儀する山奥だが、かつて小さな渓流があった。<行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず>の文章は、観念的に見れば無常を表しているかもしれないが、一方では、水が流れていることの現実的な清潔感をも書いている。水のあの清涼感があって、困難な庵の生活を耐えることができた、と実感される。
鴨長明は、隠退生活に入った後も、鎌倉まで旅し、源実朝・三代将軍に会って歌の問答をしている。好奇心旺盛、長い旅も厭わず、新しいものは何でも知っておこう、という人物だった。天変地異に対する関心も非常に高かった。災害があると現場へ行って子細に被害の状況を写し取った。すぐれたジャーナリストの目を持っていた。長明には、そういう二面性がある。
(4)『往生要集』は、いかに死ぬかに関する当時最高のテキストだ。これを座右に置いて、朝晩よく読んだ。やはり「死」の問題がいつも立ち向かっているということが、当時の知識人にとって非常に重要な教養だった。源信は、栄華を極めた藤原道長が二度正式に屋敷に招待して教えを聞こうとしたが、二度とも行ってない。そんな気骨のある坊さんで、隠者生活に進んで行こうとした長明にとって尊敬すべき人物だった。
しかし、長明は源信の下に就こうとしていない。源信の生き方を完全に認めていたわけではないからだ。
(5)鴨長明には、隠遁者の説話集『発心集』がある。当時の「往生伝」や「高僧伝」から、坊さんのライフストリーを長明の見識に基づいて集めた本だ。その冒頭に出てくるのは、高僧として知られながら、その地位を捨て、まさに「一人」の生き方を追求した3人の人物だ。
(a)玄賓(玄敏)僧都・・・・興福寺で修行していたが、あるときフッと姿を消し、十何年か後に北陸の辺境の地で乞食坊主をしているのを発見された。
(b)平等供奉・・・・比叡山で高僧と呼ばれていたが、やはりス~ッと姿を消す。十年か二十年して、四国の伊予で庵生活している乞食坊主として発見された。
(c)増賀上人・・・・名声を嫌い、奈良の多武峰の山中で姿をくらまし、ほとんど狂人のごとき生活を送った。
発心して、世を逃れて、辺境で乞食の生活をする。そんな人物たちを『発心集』の冒頭で紹介している。長明が、比叡山や高野山で修行をして学問を積み、多くの人に尊敬されるような生活を拒否した人物であることがわかる。こうした隠者の中の隠者こそ、長明が憧れた聖の生き方ではなかったか。それは源信の生き方とは違う。
一方の極に「狂」にも似た「聖」の世界に惹かれながら、他方、念仏をサボったりする、その自己の弱さを見つめている。長明には二面性があった。
(6)方丈庵もまた、二つの空間から成っている。一つの空間を二つに分けて使っていた、とも言える。
(a)芸術空間・・・・美の世界。琵琶と琴。歌を詠んだり文章を書く。
(b)宗教空間・・・・信仰の世界。経典を読んだり念仏を唱える。源信『往生要集』を置く。
鴨長明は、神官の家の出で、仏教の世界に惹かれて出家した。しかし、(a)と(b)のどちらも最後まで手ばなさなかった。ここが長明のすごいところだ。
(7)芸術と宗教の二面性は、西行も同じだった。良寛もそうだ。芭蕉も。
時代は下って、尾崎放哉や種田山頭火も隠者の系譜を継ぐ人物だ。
日本人の基本的な教養は、芸術一本槍あるいは宗教一本槍ではない。両方に足を置いて人生を考え、世界を考えていく。この複線的、複眼的な生き方に日本人は魅力を感じるのではないか。単なる芸術家、単なる宗教家では満足できないところは、贅沢な民族だ。その二股膏薬的柔軟な教養が、伝統として我々の血肉に流れていることを思い返さなければならない。
「一人暮らしが大量に発生するから、事態は危機的だ」と短絡的に叫ぶのはおかしい。教養の原点を探り出す上で、これは障害になるのではないか。
(8)敗戦時、旧制中学2年生だった者の戦後は、3期に分かたれる。
(a)貧乏暮らしの時代。学生時代、結婚した頃。
(b)景気暮らしの時代。高度成長期以降、リーマンショックを含む。
(c)一人暮らしの時代。これから。
(b)から学ぶものは何もない。学ぶとすれば(a)からだ。
鴨長明から良寛に至る隠遁者たちの生活は、徹底した貧乏暮らしから始まり、一人暮らしへとなだらかにつながっていた。貧乏暮らしと一人暮らしを重ねるところから、新しい価値、人間としての本当の教養を引き出すことができるのではないか。
貧乏とは、実は豊かな言葉だ。「プア」とは違う。「誰かのために、あえて我が身を捨てる」というニュアンスがある。
古今亭志ん生の落語は「黄金餅」「お直し」などで自らの経験がにじみ出たような凄まじささえ感じさせるが、その究極は彼の自伝『びんぼう自慢』だ。その貧乏暮らしの語りから浮かび上がるのは、鴨長明であり『方丈記』だ。そこには、人間が苦難を迎えたり、危機的な状況を迎えたときに生き抜いていく力になる教養の源泉が横たわっている。長明は、現実世界の地獄を見ていた、
(9)日本史上、3つの危機的な時代があった。それは同時に過渡的な時代でもあった。
(a)13世紀。親鸞、道元、日蓮が出た時代。吉田兼好や鴨長明もいた。
(b)明治維新。どうやって近代国家を作っていくか。
(c)戦後。・・・・13世紀に学ぶべきではないか。そこで「一人」という問題が出てくる。当時の隠遁者の生き方は、日本の歴史を貫く「一人で生きること」の伝統継承の大切さを浮かび上がらせている。
(10)貧乏暮らしの基本と考えている心構え3つ。
(a)出前精神。何処へでも自分から出て行く。自分を「出前」する。
(b)手作り。足りないものは自分で作る。自分の手足を使う。
(c)身銭を切る。貧乏は貧乏なりに身を切る。
誰かに来てもらう、出来合いのものを使う、会社の経費や税金のサービスをあてにする・・・・ここから何も生まれない。
もう一つ大切なのは、「一人のライフスタイル」だ。一人で立つ、一人で歩く、一人で坐る、一人で考える。歩く、坐る、考えるを絶えず意識していないと、一人の生き方、一人出生きることの意味を確かめることはできない。
震災後「絆」「助け合い」が強調された。それ自体では悪いことではないが、強調されすぎた。まず一人で立つ、一人で生きる姿勢があって、はじめて助け合いや絆が生まれてくる。「自助、共助、公助」・・・・の前に「自立」があるべきだ。
志ん生は『びんぼう自慢』で言う、「貧乏はするものではない。味わうものだ」と。
してみれば、「一人暮らしはするものではない。味わうものだ」。
□山折哲雄(宗教学者)「少子高齢化時代を生き抜く「方丈記」の叡知」(「文藝春秋」2014年7月号)
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現代日本人は、一人で生きる、一人で立つ、一人で暮らすことを否定的に捉えるばかりで、その本質的な価値を忘れ去ろうとしているようだ。
人口がどんどん減少していけば、一人で生きる領域が空間的にも時間的にも広がる。そのとき、「一人で生きるとは何か?」という新しい哲学や倫理学が必要になる。人間の基本的な教養として、「一人」の意味と価値を考えるべきだ。
(2)歴史を見ると、社会の危機や動乱の時代には「一人の人間のあり方とは何か?」が問われた。その問題を内面化し、血肉化し、ライフスタイルの上で実践した典型の一人が鴨長明だった。
長明はこれまで「二流の知識人」「中途半端な世捨て人」と見られてきた節がある。かかる評価は間違いだ。一人で生き、一人の価値を追求した長明の人生を追うことによって、我が国における「一人で生きる」ことの内面的な意味をつかんだり、捉え直すことができる。
そのことに日本人が気づいたのは、東日本大震災だった。『方丈記』の冒頭を読んだだけで、「ああ、我々には『方丈記』があった、と慰められた。『方丈記』が時間や空間を超えた広がりを持っていることに気づいた。
長明を一人の世界観の表現者として捉えるならば、長明に先立つ西行、時代を下って芭蕉や良寛も同じ隠遁者の系譜として位置づけることができる。そこから日本の文化、思想の豊かな伝統に入っていける。それは尾崎放哉や種田山頭火に続く。
(3)方丈庵があったところ(石碑「方丈石」が立つ)は、登るに難儀する山奥だが、かつて小さな渓流があった。<行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず>の文章は、観念的に見れば無常を表しているかもしれないが、一方では、水が流れていることの現実的な清潔感をも書いている。水のあの清涼感があって、困難な庵の生活を耐えることができた、と実感される。
鴨長明は、隠退生活に入った後も、鎌倉まで旅し、源実朝・三代将軍に会って歌の問答をしている。好奇心旺盛、長い旅も厭わず、新しいものは何でも知っておこう、という人物だった。天変地異に対する関心も非常に高かった。災害があると現場へ行って子細に被害の状況を写し取った。すぐれたジャーナリストの目を持っていた。長明には、そういう二面性がある。
(4)『往生要集』は、いかに死ぬかに関する当時最高のテキストだ。これを座右に置いて、朝晩よく読んだ。やはり「死」の問題がいつも立ち向かっているということが、当時の知識人にとって非常に重要な教養だった。源信は、栄華を極めた藤原道長が二度正式に屋敷に招待して教えを聞こうとしたが、二度とも行ってない。そんな気骨のある坊さんで、隠者生活に進んで行こうとした長明にとって尊敬すべき人物だった。
しかし、長明は源信の下に就こうとしていない。源信の生き方を完全に認めていたわけではないからだ。
(5)鴨長明には、隠遁者の説話集『発心集』がある。当時の「往生伝」や「高僧伝」から、坊さんのライフストリーを長明の見識に基づいて集めた本だ。その冒頭に出てくるのは、高僧として知られながら、その地位を捨て、まさに「一人」の生き方を追求した3人の人物だ。
(a)玄賓(玄敏)僧都・・・・興福寺で修行していたが、あるときフッと姿を消し、十何年か後に北陸の辺境の地で乞食坊主をしているのを発見された。
(b)平等供奉・・・・比叡山で高僧と呼ばれていたが、やはりス~ッと姿を消す。十年か二十年して、四国の伊予で庵生活している乞食坊主として発見された。
(c)増賀上人・・・・名声を嫌い、奈良の多武峰の山中で姿をくらまし、ほとんど狂人のごとき生活を送った。
発心して、世を逃れて、辺境で乞食の生活をする。そんな人物たちを『発心集』の冒頭で紹介している。長明が、比叡山や高野山で修行をして学問を積み、多くの人に尊敬されるような生活を拒否した人物であることがわかる。こうした隠者の中の隠者こそ、長明が憧れた聖の生き方ではなかったか。それは源信の生き方とは違う。
一方の極に「狂」にも似た「聖」の世界に惹かれながら、他方、念仏をサボったりする、その自己の弱さを見つめている。長明には二面性があった。
(6)方丈庵もまた、二つの空間から成っている。一つの空間を二つに分けて使っていた、とも言える。
(a)芸術空間・・・・美の世界。琵琶と琴。歌を詠んだり文章を書く。
(b)宗教空間・・・・信仰の世界。経典を読んだり念仏を唱える。源信『往生要集』を置く。
鴨長明は、神官の家の出で、仏教の世界に惹かれて出家した。しかし、(a)と(b)のどちらも最後まで手ばなさなかった。ここが長明のすごいところだ。
(7)芸術と宗教の二面性は、西行も同じだった。良寛もそうだ。芭蕉も。
時代は下って、尾崎放哉や種田山頭火も隠者の系譜を継ぐ人物だ。
日本人の基本的な教養は、芸術一本槍あるいは宗教一本槍ではない。両方に足を置いて人生を考え、世界を考えていく。この複線的、複眼的な生き方に日本人は魅力を感じるのではないか。単なる芸術家、単なる宗教家では満足できないところは、贅沢な民族だ。その二股膏薬的柔軟な教養が、伝統として我々の血肉に流れていることを思い返さなければならない。
「一人暮らしが大量に発生するから、事態は危機的だ」と短絡的に叫ぶのはおかしい。教養の原点を探り出す上で、これは障害になるのではないか。
(8)敗戦時、旧制中学2年生だった者の戦後は、3期に分かたれる。
(a)貧乏暮らしの時代。学生時代、結婚した頃。
(b)景気暮らしの時代。高度成長期以降、リーマンショックを含む。
(c)一人暮らしの時代。これから。
(b)から学ぶものは何もない。学ぶとすれば(a)からだ。
鴨長明から良寛に至る隠遁者たちの生活は、徹底した貧乏暮らしから始まり、一人暮らしへとなだらかにつながっていた。貧乏暮らしと一人暮らしを重ねるところから、新しい価値、人間としての本当の教養を引き出すことができるのではないか。
貧乏とは、実は豊かな言葉だ。「プア」とは違う。「誰かのために、あえて我が身を捨てる」というニュアンスがある。
古今亭志ん生の落語は「黄金餅」「お直し」などで自らの経験がにじみ出たような凄まじささえ感じさせるが、その究極は彼の自伝『びんぼう自慢』だ。その貧乏暮らしの語りから浮かび上がるのは、鴨長明であり『方丈記』だ。そこには、人間が苦難を迎えたり、危機的な状況を迎えたときに生き抜いていく力になる教養の源泉が横たわっている。長明は、現実世界の地獄を見ていた、
(9)日本史上、3つの危機的な時代があった。それは同時に過渡的な時代でもあった。
(a)13世紀。親鸞、道元、日蓮が出た時代。吉田兼好や鴨長明もいた。
(b)明治維新。どうやって近代国家を作っていくか。
(c)戦後。・・・・13世紀に学ぶべきではないか。そこで「一人」という問題が出てくる。当時の隠遁者の生き方は、日本の歴史を貫く「一人で生きること」の伝統継承の大切さを浮かび上がらせている。
(10)貧乏暮らしの基本と考えている心構え3つ。
(a)出前精神。何処へでも自分から出て行く。自分を「出前」する。
(b)手作り。足りないものは自分で作る。自分の手足を使う。
(c)身銭を切る。貧乏は貧乏なりに身を切る。
誰かに来てもらう、出来合いのものを使う、会社の経費や税金のサービスをあてにする・・・・ここから何も生まれない。
もう一つ大切なのは、「一人のライフスタイル」だ。一人で立つ、一人で歩く、一人で坐る、一人で考える。歩く、坐る、考えるを絶えず意識していないと、一人の生き方、一人出生きることの意味を確かめることはできない。
震災後「絆」「助け合い」が強調された。それ自体では悪いことではないが、強調されすぎた。まず一人で立つ、一人で生きる姿勢があって、はじめて助け合いや絆が生まれてくる。「自助、共助、公助」・・・・の前に「自立」があるべきだ。
志ん生は『びんぼう自慢』で言う、「貧乏はするものではない。味わうものだ」と。
してみれば、「一人暮らしはするものではない。味わうものだ」。
□山折哲雄(宗教学者)「少子高齢化時代を生き抜く「方丈記」の叡知」(「文藝春秋」2014年7月号)
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