語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】原発>福島のレジャー施設の損害 ~「ムシムシランド」とゴルフ場~

2011年10月16日 | 震災・原発事故
 福島第一から30km離れた「こどもの国ムシムシランド」は、カブトムシ自然観察園や2,000匹の標本を展示したカブト屋敷など、昆虫をメインテーマとするレジャー施設だ。自然観察園内にある2棟のカブトムシ・ドームは、雑木林を20m四方まるごとネットで覆った中に数千~数万匹のカブトムシが放たれている。
 子どもには大人気だったが、3・11がすべてを変えた。
 4月22日、「ムシムシランド」を含む山根地区全域が自主避難区域となった。「ムシムシランド」は臨時休園を余儀なくされた。
 
 「ムシムシランド」は、幼虫とケースやエサが一式となった飼育観察セットを通販している。毎年100~200セット売れる。3月後半に購入予定だった幼虫を8万匹から4万匹に半減させて販促を再開した。
 ところが、4月中旬、販売窓口となった都内の郵便局に問い合わせが殺到した。「安全なのか?」
 福島大学の放射線計測チームが検査した。幼虫が食べている腐葉土や破砕木は、ヨウ素131、セシウム134、セシウム137のすべてが検出限界値以下だった。昨秋、集めた腐葉土を農家が屋内に保管していたことが幸いした。幼虫の体や糞からも放射能は検出されなかった。
 この時期、「ムシムシランド」のスタッフは、ほぼ毎日スクリーニングを受けた。スタッフのみならずカブトムシの安全をアピールするためだった。
 そんな努力もあって、飼育セットは680セット売れた。だが、各地で開催されるイベントなど大口受注は激減した。1万数千匹は、原価で昆虫関連施設に買い取ってもらった。

 「ムシムシランド」は、4軒の農家と契約を結び、幼虫を羽化させてきた。しかし、今年は15,000匹に数を絞ったため、飼育の一番の達人(兼業農家)にだけ依頼した。
 ところが、彼の勤務先である食品容器製造業会社が被災し、埼玉の本社に出向くことになった。やむなく妻が6,000匹の飼育を担当した。だが、数多く羽化させるには熟練のテクニックが必要で、達人ならば80%以上の羽化率が、今年は33%に終わった。
 「ムシムシランド」で飼育した分と併せて5,000匹の大部分がドームに放たれた(一部は首都圏の復興関連イベントで販売した)。しかし、夏になっても、緊急時避難準備区域の指定は解除されず、子どもたちの目にふれることはなかった。

 以上、安藤“アン”誠起(写真家)「福島第一から30キロのムシムシランド カブトムシも被害者だ」(「AERA」2011年10月17日号)に拠る。

    *

 福島県は、茨城県や栃木県と並んで、東日本ではゴルフ場が多い地域だ。ゴルフ場は、全国に約2,800施設があり、うち福島第一原発から80km圏内には県ゴルフ連盟に加盟する施設が33ある。うち、休業中のゴルフ場は6施設だ。
 もっとも福島第一に近いのは、9.7km南方に位置する「リベラルヒルズゴルフクラブ」だ。現在休業中。

 これに継ぐのは、32.2km南方に位置する「いわきプレステージカントリー倶楽部」だ。現在休業中。
 7月末現在、ひまわりのような黄色い花があちこちに咲き、雑草が生い茂る。フェアウェアーとラフの区別もつかない状態だ。ティー・グラウンドにも雑草が覆う。バンカーは砂が土のようになった上に、固まって亀裂だらけだ。グリーンは芝生が完全に剥げ落ち、表土があらわになっている。
 放射能は、4月18日現在、9番ホールのグリーン近くで5μSv/時。7月2日現在、5.39μSv/時。7月15日現在、4.88μSv/時。
 7月28日現在、1番ホールのフェアウェイらしき場所で0.82μSv/時、最終18晩ホールもティーグラウンドで1.01μSv/時、グリーン上は0.61μSv/時。
 同じ7月28日、いわき市が計測した久之浜・大久支所の空間放射線量は、地上1mで0.20μSv/時だから、比較すると確かに高い。
 適度に水分がある草、排水されない水たまり、木の根元、凹凸のあるコンクリート、植え込み、側溝・・・・ゴルフ場は、放射性物質が溜まりやすい条件をことごとく満たしている。
 ゴルフ場全体を除染するには、もっとも安い見積もりを出した業者でも、18ホールのコースの除染に68億円かかる。ここまで荒れてしまった場合、新しいゴルフ場を一から造成するのと同じことになるのだ。しかも、災害廃棄物の後始末が大変だ。
 修復費用を東京電力に請求したが、弁護士を通じて交渉せよ、と木で鼻をくくる東電の対応だった。
 年会費は、今年1月から12月まで2,500万円を見込んでいたが、入金が滞り、7月に入っても682万円しか払い込まれていない。会員に東電社員72人がいるが、震災後は誰も払っていない。

 ちなみに、福島第一から70.3kmに位置する「茨城パシフィックカントリー倶楽部」は、震災前には3割いた首都圏からの客が来なくなった。全体の来客数は、前年同期比で、4月は2割、5、6月は2割から4割と大きく落ち込んだ。
 放射能は、7月28日現在、1番ホール前で0.21μSvだった。それでも、天気予報が雨だと、キャンセルが相次ぎ、客がゼロの日もある。
 7月に入って前年比5割程度に回復したが、水戸から北の客は戻っているものの、東京方面からの客は少ない。
 極端な値下げはしない。コースの維持、管理ができなくなるからだ。とはいうものの、土・日曜日と祝日の料金h15,000円から8,900円に下げている。

 以上、澤田晃宏(編集部)「『放射能』ゴルフ場の悲惨」(「AERA」2011年8月15日号)に拠る。
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【中村稔ノート】凧 ~戦禍の記憶~

2011年10月16日 | 詩歌
 詩人論『宮沢賢治』で中村稔は言う。賢治に惹かれる理由は、彼が詩人であったからではなく、農業技師であったからでもなく、「詩人であると同時に農業技師であることがなんら矛盾していなかった、そういう人物の精神の奇怪な眺望がぼくを把えるのである」。
 中村は、ここで詩人であると同時に法律家である自分自身をも語っているのだ。自分自身 中村は、ここで詩人であると同時に法律家である自分自身をも語っているのだ。自分の精神についても、「奇怪」と感じていたに違いない。賢治にしても稔にしても、いずれか一方が切り捨てられるべきものではなく、彼(ら)の精神の中で両方とも同じ重みをもって存在していた。そして、精神の奇怪さは、「日常」と「脱日常」との落差の激しさによって、際だつ。
 例えば「凧」。この作品は1953年に書かれた。弁護士登録をして1年経るか経ないかの頃だ。神武景気(1956~57)はまだ先で、世相はまだ厳しい。世に出たばかりの中村は、その厳しい世相に立ち向かうだけの気負い、または倨傲とともに、幾分の怯えがあったはずだ。しかも、戦さはまだ遠い過去ではない。折ふし戦禍が記憶の底から甦る。

   夜明けの空は風がふいて乾いていた
   風がふきつけて凧がうごかなかった
   うごかないのではなかった 空の高みに
   たえず舞い颶(アガ)ろうとしているのだった

   じじつたえず舞い颶っているのだった
   ほそい紐で地上に繋がれていたから
   風をこらえながら風にのって
   こまかに平均をたもっているのだった

   ああ記憶のそこに沈みゆく沼地があり
   滅び去った都市があり 人々がうちひしがれていて
   そして その上の空は乾いていた

   風がふきつけて凧が動かなかった
   うごかないのではなかった 空の高みに
   鳴っている唸りは聞きとりにくかったが

 言葉は4行あるいは3行で1連となり、4連が全体を構成している。14行詩、いわゆるソネット形式だ。この詩人が偏愛するもので、強烈なストイシズムが要求する形式である。堅固な外形のうちに、溶岩のように沸き立つ情念が閉じこめられている。形式で抑制されるがゆえに、かえって内圧が高まる。この危うい、微妙な均衡を端正な日本語がくるむ。からみつくような粘りがあり、のびやかで、しかも引き締まった言葉。そう、詩は言葉である。言葉の奥行きの深さと簡潔を知るには、詩にまさるものはない。
 第1連。起承転結の「起」、導入部。夜明けの空、風、吹きつけられる凧、一見不動に見えながら舞いあがろうとしている。遠方から見た、映像的な、やや軽いスケッチだ。
 第2連。「承」で、カメラ・アイが接近する。風に流されるならば何処へか飛び去ってしまうでだろうが、動かない。いや、動かないのではなくてこまかに平均を保っている。それは細い紐で地上につながれていたからだ、と情景の微細な面が明らかになってくる。
 第3連。ああ、という絶句で「転」となり、隠され抑制されていたものがいっきょに噴き出す。足もとから沈みゆく沼地がある。滅び去った都市は、戦後まもなく発表された作品であることを念頭におくと、戦中の東京大空襲を踏まえたものかもしれない。あるいは、ローマ帝国に滅ぼされた古代ユダヤ民族の首都であるかもしれない。そのいずれでもあり得る。歴史の至るところにある滅び去った都市が重層的にイメージされる。うちひしがれた人々も空襲下の東京のそれだけではない。記憶のその空は乾いていて、現在の空と重なってくる。
 第4連。瞬時、熱く噴き出た記憶は、現在の情景へ立ち戻ることによって、表面的にはぬぐい去られる。最初の二行は、第一連の二行が繰り返される。しかし、読者はひとたび「記憶」にふれたがゆえに、高みへ舞いあがろうとしてあがらず、細い紐でつながれて均衡をたもっていることの、背後に横たわる歴史を知っている。表層では無知なままで入りこんだ第一連と同じ情景だが、その深層がダブって見えてくる。最後の一行は、見事な「結」である。表層と深層を同時に見つめる詩人の、抑制された、乾いた空に応じた乾いた悲しみがかすかなため息のように漏れている。

 いうまでもなく、凧は詩人その人だ。凧、すなわち詩人自身を語りながら、個を越えたものへのまなざしを複雑なレトリックで表現している。視点の二重性は、近代詩から脱却するもので、中村稔の詩業は近代詩と現代詩の架け橋となるものと評される所以だ。

□中村稔「凧」(『中村稔著作集 第1巻』、青土社、2004)
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【中村稔ノート】ある潟の日没 ~震災と戦災~

2011年10月15日 | 詩歌
 この衰残をきわめた地方を何としよう
 火田民の嵐が立ち去ったあとのように
 赤茶けた土塊はぼろぼろとくずれるばかり
 喬木には鳥さえもなかず
 疎らなる枝々はひたすら大地をねがう
 ああこの病みほけた岸辺に立って潟を望めば
 日没はあたかも天地の終焉のごとく
 あるいは創世の混沌のごとく

  --------------

 中村稔「ある潟の日没」の前半部だ。
 中村の長い詩業のうちでも、もっとも初期に属する一編だ。この作品は1945年に書かれた。原口統三(1927年1月14日~1946年10月25日)の入水の前年であり、終戦の年だ。
 ちなみに、中村は1927年1月17日生まれ。46年に『世代』に参加し、50年に第一詩集『無言歌』を刊行した。大学在学中に司法試験を通り、50年に卒業し、その2年後に弁護士登録をしている。

 「ある潟の日没」は、『鵜原抄』(思潮社 1966)に、後に『中村稔詩集 1944-1986』(青土社、1988)【注1】に、さらに後に『中村稔著作集 第1巻』(青土社、2004)に収録されている。

 震災の翌々日【注2】から「【震災】」というヘッダを付けた文章をアップしてきた。書いている間にしばしば念頭を去来したのが、上に引用した詩句だ。

 【注1】この詩集には加藤周一の評がある。「『加藤周一自選集8 1987-1993』」参照。
 【注2】「【震災】東日本巨大地震、専門家は・・・・
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【震災】原発>廃炉を提案した東海村長 ~危なかった東海第二原発~

2011年10月15日 | 震災・原発事故
 このたび、福島第一原発から110km南南西に位置する茨城県東海村にも、大量の放射性物質が降り注いだ。
 実は、日本原子力発電東海第二原発も危なかった。3月11日、東海村は震度6弱の大きな揺れに襲われ、電気・水道は止まり、あちこちで道路が陥没した。村役場の建物は一部破損し、建物の周囲も陥没して段差ができた。
 原発(沸騰水型軽水炉1基)は自動停止した。近くの変電所は機能不全になり、外部電源をすべて喪失した。3台の非常用ディーゼル発電機がすぐに稼働した。
 しかし、地震発生から30分以上経過後、津波が次々に押し寄せ、最高5.4mに達した。原子炉建屋(標高8m)は直接の被害を免れたものの、海側の低い位置にある非常用ディーゼル発電機用海水ポンプ(冷却用)3台のうち1台が、浸水によって機能不全に陥った。原子炉建屋内の非常用ディーゼル発電機3台のうち1台が停止した。数日間にわたって冷却不十分な状態が続いた【注】。
 ポンプ室の水かさがあと少し高かったら、津波があと1mでも高かったら、他の2台のポンプも停止してすべての発電機が機能不全になり、福島第一原発1~4号機と同様に全電源喪失に陥るところだった。
 また、津波の浸水高が8mを超えていたら、原子炉建屋の地下に置かれた非常用ディーゼル発電機自体、機能喪失していたかもしれない。
 幸い、ほぼ53時間で外部電源が復旧したが、単に運が良かった、というだけのことだ。

 東海第二原発の20km圏内には水戸市と日立市の中心部も入る。70万人が居住し、30km圏内には100万人が居住する。
 村上達也・東海村長はいう。
 「そういった住民を安全に避難させれることができるのか? 政府の対応を見ていると、できやしないと思う。そんなところに原発を造るべきじゃない」
 事故後の政府の対応は、「後手後手で、詳細な汚染データが公表されず、福島第一原発周辺の住民避難体制が組めなかった。そのため、住民は無用な被曝を強いられた。国民保護という観点が完全に欠落している」。
 「こういった国には原発を持つ資格はない」
 「この地震列島に54基もの原発を造って平然としている。その神経がおかしい」
 原発に緊急安全対策の改修が施されたが、運転再開は「東海村だけで決めるには難しい話だ。現在のようないい加減な安全規制体制のままでは、ただちに廃炉だ」。
 「村には使途自由な財政調整基金が約70億円ある。『だから脱原発』と言っているわけではないが、カネに困って運転再開を認めることはあり得ない。村民の安全を第一に考えて判断する」
 村上村長は、「脱原発」発言を繰り返すが、村内の原子力関連事業すべてに否定的なわけではない。震災前に発表した原子力センター(仮称)構想は撤回していない。が、徐々に「脱原発」へ軌道修正しつつある。
 原発を止めようと言っても、一発で「きれいに」なるわけではない。原子力の安全性に係る基盤づくり、原発廃止後の問題解決がより一層求められるようになった。これまで培った技術力と人材を生かして、東海村を原子力研究国際都市にしていきたい。【村上村長】

 他方、村議20人の大多数は、原発推進派だ。
 また、東海村内の世帯には、原子力関連や日立製作所に勤務する人が1人以上いる。原子力に否定的な意見を表だっては言いにくい。
 東海村民の意向は掴みにくいが、周辺自治体の住民には運転再開に反対の声が増えている。反対の署名運動は、9月末現在で13,000筆集まった。

 【注】海水ポンプ室手前にある側壁/防潮壁(標高4.9m)に加え、2年前に6.1mの側壁が新設されたが、封止工事が未完了だったため、ポンプ室に浸水した・・・・というのが、原電側の説明だ。

 以上、星徹(ルポライター)「茨城県東海村は「脱原発」へ向かうのか? ~危なかった東海第二原発~」(「週刊金曜日」2011年10月7日号)に拠る。

   *

 10月14日、村上達也・東海村長は、村議会原子力問題調査特別委員会において、細野豪志原発担当相に対する東海第二原発の廃炉提案について説明し、「村がこれから先も原発に依存していくことには限界がある」と述べ、「私の考え方は福島第一原発事故後、一貫して脱原発だ」と明言した。
 さらに、圷(あくつ)常美・委員/会派「新和とうかい」代表の批判に対し、「地震津波対策に万全ということはありえない。万全だというなら国が保証することが必要だ」と述べた。

 以上、記事「東海村長 原発廃炉提案 議会委で説明」(2011年10月15日 asahi.com)に拠る。
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【震災】原発>プルトニウムとストロンチウムの飛散範囲 ~100km圏超~

2011年10月14日 | 震災・原発事故
 9月30日、文科省は発表した。6~7月、半径80km圏内の100ヶ所で土壌を採取したところ、原発から45km離れた飯舘村を含む福島県内6ヶ所でプルトニウムが検出された、と。
 最高値は、浪江町の1平米当たり4.0Bq。土壌1kg換算で0.062Bqになる。
 このほか、飯舘村、双葉町を含む計3町村で1平米当たり0.55~2.3Bqを検出した。

 測定結果の公表まで、時間がかかりすぎている。データを寝かせてきた政府の対応は、まったく理解できない。プルトニウムが検出された飯舘村北部は、事故当時から放射線量がさほど高くはなかったため、油断した住民がプルトニウムを吸い込み、被曝した可能性がある。プルトニウムは毒性が強く、セシウムやヨウ素の何万倍もの厳しい規制値が必要なのだ。【上昌広・東大医科学研究所特任教授】
 
 原子力安全・保安院の試算によれば、今回の文科省の調査対象となったプルトニウム238、プルトニウム239、プルトニウム240の放出量は、計254億Bqだ。
 プルトニウムは、米国西海岸やハワイでも検出された。
 海洋への流出も否定できない。

 現状では、プルトニウムの拡散を予測するにはデータが不足している。プルトニウムが粒子、ガスなどどんな状態で放出されたかを知ることが飛散範囲や沈着量を逆水系するための第一歩だ。放出量の時間変化データを加えれば、より再現性の高いシミュレーションが可能だ。【大原利眞・独立行政法人国立環境研究所地域環境研究センター長】

 プルトニウムはアエロゾル(霧状)化して飛散した。ウラン・プルトニウム混合酸化物(MOX)燃料が使われていた3号機のメルトダウン、メルトスルーによって核燃料が格納容器基部のコンクリートと化学反応を起こし、プルトニウムが大気中に超微粒子になって放出された。アエロゾル化したプルトニウムは、少なくとも半径100km圏に到達した。首都圏から検出される可能性は十分にある。【佐藤暁・インターナショナル・アクセス・コーポレーション上級原子力コンサルタント】
 100km圏内には、北は仙台市、南は茨城県日立市、内陸方面は福島県会津若松市、栃木県那須塩原市が入る。

 プルトニウムがガス化するほど原子炉が高温になったとは考えにくい。遠くまで飛散したとは思えない。だが、半径20km圏の警戒区域ないではプルトニウムのホットスポットが形成されている可能性がある。【小出裕章・京都大学原子炉実験所助教】

 以上、記事「最凶プルトニウム254億ベクレルはどこまで飛んだのか」(「サンデー毎日」2011年10月23日号)に拠る。

   *

 9月30日、文科省が発表した土壌の汚染マップによれば、80km圏はストロンチウムに汚染され、原発の北西にはプルトニウムの汚染帯まで広がっていた。
 核燃料の温度が異常に上昇した場合、ヨウ素やセシウムなど融点・沸点の低い物質から順に放出されるが、このたびの事故では炉心溶融が生じたためプルトニウムも放出された。全放出量は数g程度だとはいえ、本来原子炉にあるべき核物質が45km離れた飯舘村で検出されてしまった。【高木直行・東海大教授】

 半減期は、ストロンチウム89が50日、ストロンチウム90が29年。ともにカルシウムと似た性質があるので、体内に入ると骨に付着してなかなか排出されない。白血病や骨癌の原因となる可能性がある。【伊藤伸彦・北里大教授】
 透過力の強いγ線を出すヨウ素やセシウムなら、ホールボディカウンター(WBC)で内部被曝のチェックができる。しかし、プルトニウムの出すα線やストロンチウムが出すβ線は、透過力が弱くて体外まで到達できないため、WBCでも計測できない。今回は飛散した範囲を調べたわけではないから、さらに広い範囲に飛び散っている可能性がある。セシウムが検出されている場所には、微量のストロンチウムやプルトニウムが存在し得る。【松田尚樹・長崎大教授】
 今回検出されたのは、プルトニウム238が最大で4Bq、ストロンチウム89は同22,000Bqで、それほど心配する値ではない。【伊藤教授】。

 6月2日、福島第一原発の周辺から採取した海底土から、ストロンチウム89が140Bq/kg、同90は44Bq/kg検出されている。
 「濃縮係数」は、セシウムが30~100倍であるのに対し、ストロンチウムは0.03~20倍と低い。
 しかし、濃縮係数が低いといっても、骨は他の部位と比べて高いので、骨まで丸ごと食べる魚は注意が必要だ。特に、淡水は海水に比べて濃縮しやすいので、少なくとも淡水魚のワカサギは検査したほうがよい。【広瀬勝己・上智大客員教授/元気性研究所地球化学研究部長】
 8月末には、赤城大沼(前橋市)で基準値を超えるセシウムが検出されている。ストロンチウムは、水産庁が骨まで食べる魚を中心に、これまで6種類を検査しているが、ワカサギは含まれていない。ゴマサバ、マイワシ、カタクチイワシ、アカガレイ、イカナゴは検出限界を下回った。マダラからのみ、0.03Bq/kgのストロンチウム90が検出されている。
 プルトニウムの検査は、魚に関しては、これまで一度も実施されていない。

 海の幸は上記のとおりだが、山の幸はどうか。
 食品によって、ストロンチウムの吸収率は違う。ピーナツや栗などの種実類、大豆などの豆類、じゃがいもなどは土中のストロンチウムを吸収しやすい。一律に「ストロンチウムの量はセシウムの量の1割程度だ」と推定して済ませるわけにはいかない。【白石久二雄・元放射線医学研究所内部被ばく評価室長】

 以上、記事「原発の敷地外からプルトニウム検出 ストロンチウムは80キロ圏外に拡散」(「週刊朝日」2011年10月21日号))に拠る。

   *

 8月に横浜市港北区のマンション屋上の堆積物から、195Bq/kgの放射性物質ストロンチウム90が検出された。
 単純には比較できないが、4~5月に福島市内の土壌から検出された77Bq/kgと比べても高い値だ。
 横浜市は250km離れている。100キロ圏外でストロンチウムの検出は初めてだ。文部科学省の調査では、福島第一原発から100km圏内の福島県で5月に土壌から最高250Bq/kgのストロンチウムを検出している。宮城県でも検出された。
 なお、くだんのマンションの同じ堆積物から、63,434~105,600Bq/kgのセシウムも検出された。

 ストロンチウムが離れた場所に飛ぶのは分かっていた。原発事故に伴い、横浜で検出されても不思議ではない。値は高いが、高濃度のセシウムが出ている場所なら納得できる。濃縮されたのだろう。【小出裕章・京都大学原子炉実験所助教】

 以上、記事「横浜でストロンチウム検出 100キロ圏外では初」(2011年10月12日3時32分 asahi.com)、記事「横浜でストロンチウム検出 原発100キロ圏外に拡散か」(2011/10/12 12:12 【共同通信】)に拠る。
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【震災】原発事故を招いた裁判官の罪 ~東芝に天下りした最高裁判事~

2011年10月13日 | 震災・原発事故
 四国電力伊方原発1号炉訴訟は、原発設置許可の是非を問う初の訴訟だった。72年に国が設置を許可し、翌年、住民が取り消しを求めて松山地裁に提訴した。その主張は・・・・
 (1)原発技術の抱える欠陥や危険・・・・(a)配管の破断などで冷却水が抜ける「冷却材喪失事故」の危険がある。冷却水が抜ければ炉心溶融事故が起きる。(b)全電源喪失が起きる可能性があり、やはり炉心溶融を引き起こす。(c)大事故発生時には炉心に水を大量に注入する緊急炉心冷却装置(ECCS)が作動して炉心溶融を防ぐとされるが、ECCSの性能は実証されていない。(d)ECCSが作動したとしても、急激な冷却で鋼鉄製の圧力容器が破損する危険性がある。(e)使用済み燃料の処理は見とおしが立っていない。(f)予定地は地震地帯だが、地震の影響を考慮していない。断層付近の海底ボーリング調査すらしていない。
 (2)原子力委員会によるズサンな安全審査手続き・・・・(a)住民へ情報公開や公聴会などが一切行われていない。(b)安全審査会議に肝心の審査員がいつも欠席している。(c)欠席者の穴埋めとして規定にない「代理出席」が横行。(d)「原子炉施設」「立地」など班別で行った「審査」の実態は、議論など行わず一部メンバーの意見どおりに結論を出した。
 要するに、いい加減で甘い設計、ズサンな審査だ。国の設置許可は違法だ・・・・。
 この時点で福島第一原発事故がすでに予見されていた、とも言える。

 1978年4月25日、松山地裁は判決を下した。住民側敗訴。
 地震については、原発が壊れるほどの大地震は絶対にこない、と判決は太鼓判を押す。

 住民側は控訴した。
 1984年12月14日、高松高裁は判決を下した。請求棄却。
 控訴後、スリーマイル島原発事故が起きた(79年3月28日)が、この事故原因は運転操作の誤りであって、設計に瑕疵がない以上、「本件安全審査の合理性に影響を及ぼすものではない」と切り捨てている【注】。

 住民側は上告した。
 1992年10月29日、最高裁第1小法廷は、「国の設置許可に違法性はない」と住民側敗訴の判決を下した。同じ日、東電福島第二原発1号炉に対する設置許可処分取り消しを求めた上告にも同じ判決が下った。
 上告後、チェルノブイリ原発事故が起きた(86年4月26日)が、判決にはチェルノブイリのチの字もない。

 ところで、最高裁判決を下した5人の判事のうち味村治は、その後、原発メーカーの東芝に天下った。東芝は、福島第二原発1号炉にもプラントを納入している。
 味村は、戦後1期目の司法修習を終えて検事となり、東京高検検事、内閣法制局長官を経て90年に最高裁判事となった。90年に定年退官し、弁護士登録。98年6月に東芝社外監査役に就いた(01年6月まで)。03年死去。
 原発メーカーや電力会社に天下った判事や検事は、味村の他にも少なくない。

 野崎幸雄(元仙台高裁長官) ⇒ 北海道電力社外監査役(98年6月~)。
 清水湛(元広島高裁長官) ⇒ 東芝社外取締役(04年~09年)
 小杉丈夫(元釧路地裁・家裁判事補) ⇒ 東芝社外取締役(09年~)
 筧榮一(元検事総長) ⇒ 東芝社外監査役・取締役(01年~04年)
 上田操(元大審院判事) ⇒ 三菱電機監査役(49年~)
 村山弘義(元東京高検検事長) ⇒ 三菱電機社外監査役・取締役(00年~)
 田代有嗣(元東京高検検事) ⇒ 三菱電機社外監査役(94年~)
 土肥孝治(元検事総長) ⇒ 関西電力社外監査役(03年~)

 【注】しかし、過去の世界の原子力施設の事故は、実はその多くが①技術的要因によって起こっているのではなく、②人的要因、③組織的要因、④制度的要因、⑤文化的要因によって起こっているのだ。JCO事故(1999年)もそうだ。【【震災】原発>国民の信頼を失った日本の原子力行政 ~7つの疑問~

 以上、三宅勝久(ジャーナリスト)「安全にお墨付きを与えた最高裁判事が東芝に天下っていた」(「週刊金曜日」2011年10月7日号)に拠る。
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【震災】原発>核燃料サイクル・バックエンド問題 ~脱原発とは何か(3)~

2011年10月12日 | 震災・原発事故
 核燃料サイクル・バックエンドの諸事業整備は、いかなる核燃料サイクル路線を選ぶにせよ、避けて通れない課題だ。
 再処理路線を放棄すれば、電力業界は再処理工場の莫大な建設費・運転費を支払わずに済み、バックエンド・コストを大きく減額できる。さらに、再処理事業が円滑に進まなかった場合に発生する巨額の追加コストのリスクを免れることができる。そのためには、核燃料再処理を中止し、直接処分を前提とした核廃棄物最終処分への取り組みを進めればよい。

 六ヶ所村再処理工場が着工された1990年代前半は、電力会社は地域独占、総括原価方式によって利益を約束されていた。まだ余裕があった。
 しかし、日本経済の構造改革の気運を背景に電力自由化が進み始めた1990年代半ば以降、六ヶ所再処理工場問題が電力事業にとって重大な関心事になった。
 計画を中止または凍結するならば、稼働前に(高濃度の放射能で汚染される前に)決断しなければならない。これが2000年代初頭の状況だった。
 
 六ヶ所村再処理工場を稼働させるには、コスト見積もり→支援策決定→政府による電力業界へのリスクの肩代わり・・・・が必要だった。
 経産省総合資源エネルギー調査会電気事業分科会にコスト等検討小委員会が設置され、2004年に「バックエンド事業全般にわたるコスト構造、原子力発電全体の収益性等の分析・評価」が報告された。
 割引率3%の場合、全操業期間(40年)で均等化した原価(設備利用率80%とする)は、原子力5.1円(再処理路線でのバックエンドを含む)、石炭5.7円、天然ガス6.2円となった。コストの絶対値が示された点が新しい。六ヶ所村再処理工場操業開始予定の20年7月から40年間の総事業費は、18兆8,900億円。うち再処理費は、11兆7,200億円。
 こうして着々と電力業界への支援策作りの準備が進められた。

 しかし、多様な人々【注】が反対論や慎重論を唱えていた。
 その基本的理由は、高速増殖炉とセットでなければ再処理のメリットはほとんどないが、世界中で高速増殖炉の実用化のめどが立っていないことだ。軽水炉に再処理したプルトニウムを使ってもほとんどメリットはない。そんな事業に巨額の資金を投入するのは経済的に無駄だ。そのコストは電気料金に転嫁されるか、税金に転嫁されて、国民に経済的損失をもたらす。しかも、再処理工場が快調に稼働しなければ、コストは大幅に跳ね上がる。国民は多大な損失を被る。
 こういう認識が、反対論者や慎重論者において一致していた。
 
 2004年6月、原子力委員会は、新計画策定会議を設置し、長期計画改定作業を開始した。再処理路線の継続が決定された。
 2004年12月、六ヶ所村再処理工場は「ウラン試験」に踏み切った。さらに2006年3月、プルトニウムを用いた「アクティブ試験」を開始した。しかし、深刻なトラブルが発生し、2001年夏現在、解決の糸口は見えていない。

 (a)エネルギー派と(d)エコノミー派の対立関係は、核燃料バックエンド問題をめぐる論争によって、世に知られるようになった。
 原子力開発利用への賛否をめぐる対立は、政治的な右翼と左翼の対立ではなく、エコノミーとエコロジーの対立でもないことが、これによって明らかになったのだ。

 【注】①反原発論者・脱原発論者、②電力産業にとっての経営リスクを懸念する電力関係者、③原子力事業のなかの不合理な部分を見直そうとするインサイダーの合理化論者、④古い利権構造の解体を唱える政治家・官僚、⑤電力自由化を唱える新自由主義的な経済学者、⑥公共事業による無駄な税金支出を批判する行政改革論者。・・・・原子力発電は賛成ないし容認するが、再処理路線には反対ないし慎重の姿勢をとる人々が多いことが2004年頃の時期の特徴だった。ちなみに、2003年には電気事業法が改正され、電力自由化はストップしている。

 以上、吉岡斉「脱原発とは何だろうか」(「現代思想」2011年10月号 ~特集「反原発」の思想~)の「三 核燃料サイクルバックエンド問題」に拠る。

 【参考】「【震災】原発>吉岡斉の、「脱原発」とは何か
     「【震災】原発>「脱原発」論におけるエコノミー派の台頭 ~脱原発とは何か(2)~
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【震災】原発>「脱原発」論におけるエコノミー派の台頭 ~脱原発とは何か(2)~

2011年10月11日 | 震災・原発事故
 中山茂は、原発論争に参加する人々を3つのグループに分類している【注1】。
 (a)エネルギー派・・・・経済成長を維持するためにはエネルギーは絶対に確保する必要がある。この前提から出発し、石油などの化石エネルギーは枯渇するから、それに代わるものとして原発をどんどん建設していく。【推進派:官僚機構や産業界など体制側の人々】
 (b)サイエンス派・・・・原子力の科学的研究は長期的には絶対必要だが、原発はまだ実用的団塊に達していない。多くの技術的不備がある。原子力災害が起こる心配があるので、もっと研究を積むべきだ。【批判派:批判的な科学者たち】
 (c)エコロジー派・・・・原発は生命、環境に対する重大な脅威である。また、中央集権的な管理社会を強化するものだ。廃止すべし。【反対派:原発反対運動をになう科学者や市民たち】

 この分類はいささか紋切り型だ。また、「自主、民社、公開」の立場からインサイダーとして原子力批判を随時行う人々を(b)としている点に弱点があって、高木仁三郎のような原子力に対してより本質的な批判意識をもつ科学者をカバーしていない。
 にもかかわらず、原子力論争に参加する人々の特徴をそれなりによく表現している。
 しかし、中山茂が整理してから30年経るうちに、エコノミー派とでも呼ぶべき一群が台頭した。
 (d)エコノミー派・・・・【市場原理を重視する人々(新自由主義を含む)】

 (d)の観点からすると、原発推進は非常にリスキーだ。
 理由・・・・自由な電力市場においては、電力会社は競争力の観点から余分な発電施設(種類を問わない)の建設を控えるようになる。確実に顧客が獲得できる見こみがなければ、発電施設の新増設は経営リスクが高いからだ。競争相手の電力会社によって顧客を奪われる可能性さえある。小規模・分散型の発電設備の普及によって、顧客が減少する可能性もある。特に最近、再生可能エネルギーの普及は急速だ。
 こうした新増設抑制要因はあらゆる発電施設に共通するが、原発はさらに、次のような経済的弱点を抱えている。
 ①原発は、火力・水力発電に対して、発電過程だけを見ればライフサイクル・コスト【注2】において同等または優位にあるが、インフラストラクチャー・コスト(揚水発電施設など)が高くつき、これを加えれば火力・水力発電コストより劣位になる。
 ②核燃料事業を含めた原発システム全体としての最終的なコストが不確実だ。特に核燃料サイクル・バックエンド・コストは、使用済み核燃料の再処理路線を採用した場合、費用の絶対額と、その不確実性の幅が共に格段に増える【注3】。
 ③原発は、火力発電より高い経営リスクを有する。ライフサイクル・コストにおいて原発と火力発電とがほぼ同等だとしても、原発は初期投資コストが格段に高い。そのため投資に見合う電力販売収入が得られなかった場合の損失が大きい。また、立地地域住民の反対で中止になったり、10数年遅れる可能性も高い。そして、事故・事件・災害や政治的・社会的環境変化に脆弱だ。これらは直接的に、あるいは安全性強化などの政策変更を媒介として、重大な打撃を事業関係者に及ぼし得る。
 ①~③の経済的な弱点ゆえに、電力会社は原発事業を忌避しがちだ。政府の手厚い指導・支援があってはじめて商業原発の成長・存続が可能になる。ところが、1990年代以降、世界的に(日本も)電力自由化の流れが強まり、原発の成長・存続条件を脅かしている。

 以上のように原発は資本主義市場経済に対する適合性が低い。かくて、(d)エコノミー派は決して原発の味方ではないことが明らかになった。そして、(a)エネルギー派は必ずしも体制側の多数派ではなく、原子力開発利用に関連する利権を得ている少数派にすぎないかもしれないことが浮き彫りにされた。
 この事実は重要だ。政治的に左翼か右翼か、は原発への賛否と直接関係がないことが改めて立証されたのだ。
 (d)エコノミー派は必ずしも経済合理性至上主義者ではなく、金融業界や財政当局の利害を背負っている。そうした組織の利益を侵害する形で経済合理性を貫徹できないが、それでも基本的には経済合理性を重視する立場に立っている。

 【注1】中山茂『科学と社会の現代史』(岩波書店、1981)の「第10章 「原子力論争」」。
 【注2】建設から廃止までの総コスト。
 【注3】再処理路線をとった場合、直接処分より1~2割高くなる。しかも、再処理工場が順調に動かない場合、コストは大幅に跳ね上がる。こうしたコスト面の不確実性が原発にはつきまとっている。

 以上、吉岡斉「脱原発とは何だろうか」(「現代思想」2011年10月号 ~特集「反原発」の思想~)の「二 「脱原発」論におけるエコノミー派の台頭」に拠る。
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【震災】原発>吉岡斉の、「脱原発」とは何か

2011年10月10日 | 震災・原発事故
 1980年代半ばまでは、原子力発電にネガティブな立場を表す言葉は「反原発」しかなかった。しかし、その後、多様化が進んだ。
 1986年のチェルノブイリ原発事故を契機として、「脱原発」という新語を高木仁三郎が日本に広めた。電車やバスを降りるとき使われる独語のアウスシュティークAusstiegを日本語に置き換えたものだ。
 「反原発」は、核兵器に係る「反核」と同様に、無条件で原発をネガティブな存在と見なす立場を表す。
 「脱原発」は、すでに原子力発電が社会の中で一定の役割を果たしているという事実を認めた上で、原子力発電からの脱却を図っていくことを是とする意味が込められている。核兵器に係る「非核化」と語感が近い。
 2011年、「脱原発依存」という言葉を菅直人・前首相が発明した。こちらは核兵器に係る「核軍縮」に近く、「原発縮減」と言い換えることもできる。

 「脱原発」の中には多様な立場が含まれている。大きく分けて、(a)「反原発」の立場に近い「脱原発」と、(b)非「反原発」からの「脱原発」の2つがある。ただし、境界線は必ずしも明瞭ではない。
 (a)からすると、反原発は絶対に揺るがしてはならない原則であり、脱原発はそれをできるだけ早く実現するための戦略だ。
 (b)からすると、現時点では実現すべき目標だが、技術的・社会的条件が将来大きく変化した場合には見直しの余地を残す。彼らは、必ずしも原子力発電に無条件反対の立場をとるものではない。また、脱原発のスピードについても、早期実現に伴うデメリットが大きいと見込まれる場合には、原子炉の寿命の範囲内で柔軟に対応することを認めるだろう。まだ十分に使える原発を廃止させるためには電力会社への損失補償が必要となるし、総設備容量の減少を補うために原発以外の発電施設を多少なりとも建設しなければならず、そのためには一定の時間的猶予が必要となるからだ。構造上の欠陥があったり、自然災害被災の可能性大の場合を除き、既存の原発が老朽化するまでの運転を当面認め、ただし原発の新増設を止めさせて、10数年以上の時間をかけて段階的に原発を全面廃止すればよい、という柔軟な判断に傾きやすい。

 かつて「反原発」を唱えるには相当の決意を必要としたが、「脱原発」ならば、将来の状況変化による改宗の可能性を残した現時点での判断なので、さほど気負わずに表明できる。それが、「反原発」の最大の魅力だ。

 世界的に見て、1980年代末以降、発電用原子炉の基数と総設備容量は、ほぼゼロ成長となった。新増設基数と廃棄基数とがほぼ拮抗するようになったのだ。つまり事実上の新増設停止に近い状態となった。原子力産業は構造不況産業と化した。
 日本は世界の趨勢にほぼ10年遅れて1990年代末以降、同様のゼロ成長状態となった。
 福島第一原発事故以降、多くの原子炉が廃止され、少なくとも今後当分は原発の新増設が行われる可能性がきわめて小さいので、日本は「原発縮減」時代に入る可能性が高い。
 「脱原発依存」が国民世論の多数派を占めるようになっているらしいが、それは現状肯定の立場に立ち、「脱原発」との間に一定のギャップがある。

 以上、吉岡斉(九州大学教授・副学長)「脱原発とは何だろうか」(「現代思想」2011年10月号 ~特集「反原発」の思想~)の「一 「脱原発」とは何か」に拠る。
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【政治】国会議員はヤジの質も落ちた

2011年10月10日 | 社会
 9月13日、衆院本会議場。野田佳彦・新首相の所信表明演説は、ひっきりなしに飛び交うヤジでかき消された。東日本大震災からの復興について語るときも、雑音は止まなかった。
 ただ声を張り上げるだけの野党議員たち。
 ただし、野田首相の演説にも人を魅了する力はなかった。野田首相らしさが出たのは、福島の高校生が郷里への愛をこめて演じた創作劇のエピソードだけで、政策の部分は各省から政策を寄せ集めた「短冊原稿」にすぎなかった。聴く側にもそれが伝わってしまった。

 かつては、知性に富んだヤジが野党議員席から威勢よく飛び、浴びた本人も段上から小気味よい反撃を繰り出した。
 大正時代、「ダルマさん」の異名をとった高橋是清・蔵相が、海軍拡張案を説明したときのこと。
 「難きを忍んで長期の計画とし、陸軍は10年、海軍は8年の・・・・」
 ここで、すかさず、
 「ダルマは9年」
 ヤジったのは自由民主党結成の立役者の一人、三木武吉。「ヤジ将軍」のあだ名をもつ。達磨大師の面壁9年の故事にかけたヤジだ。議場は呵々大笑。高橋蔵相は話の腰を折られてしまった。
 うまいヤジは、歌舞伎の掛け声と同じだ。絶妙なヤジには、演説者もたじろぐ。

 吉田茂の受け答えには、味があった。
 「お前が総理をやるのか」
 とヤジられれば、切り返す。
 「あなたが代議士をやっているのと同じです」 

 ヤジは国会の潤滑油でもあった。「こいつ、やるな」と議場全体がニヤリとすれば、中だるみした国会に活が入り、会議は進む。
 1990年、大野明・運輸大臣(自民党)がリニアモーターカーの実験線について説明していると、ヤジが響いた。
 「迂回するな」
 大野明の父、伴睦は自民党の初代副総裁だった。政治力で東海道新幹線のルートを変更させ、「岐阜羽島」駅を設置させた。
 この一件を踏まえたヤジに、大野明、ちっとも騒がず、
 「迂回(鵜飼)は長良川だけです」

 最近のヤジは、語彙は乏しく、知性のカケラもない。言葉に力がない。セリフとして響かない。名語録として後輩議員に語り継がれるようなヤジの応酬は、皆無だ。

 以上、後藤謙次「国会 議員のヤジ、うるさくて演説聞こえない 知性なく、語彙の乏しい叫び」(「週刊朝日」2011年10月7日号)に拠る。
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【震災】原発>除染費用100兆円を10兆円に圧縮する法

2011年10月09日 | 震災・原発事故
 本気で全土を1mSv以下にしようとすれば、数百兆円かかる。
 それを10兆円以下に押さえる方法が一つある。一定の区域を国有化するのだ。そこは立入禁止区域にし、作業を簡略化し、それ以外を20mSv以下にするべく全力を挙げるのだ【注1】。

 国有化にいくらかかるか。
 (1)5月末に開催された原子力委員会で、岩田一政・日本経済研究センター理事長は、原発から半径20km圏内を政府が買い上げる場合、4兆3千億円要する、という試算を発表した【注2】。これは、公示価格に基づく数字だ。

 (2)一方、文部科学省が米国エネルギー省と作成した「汚染地図」によれば、チェルノブイリ事故で強制移住対象となったレベルまで汚染されている地区は、800キロ平米(琵琶湖の1.2倍に相当)となる。山林と田畑が中心の地区なので収益還元法で算出すると、1メートル平米あたり約2,000円となるから、単純計算すれば1兆6,000億円だ。
 さらに、住宅費用や移転費用も国家が補償する場合、2,000万円×5万戸(避難世帯)で1兆円となる。
 従来の仕事や生活権を奪うわけだから所得補償も必要だ。日本経済研究センターによれば、10年分を見込んで6,300億円だ。
 以上を合計すれば、約3兆2,000億円となる。

 (1)または(2)の方法で国家の買い上げを想定したところ、概算で3兆~5兆円となった。
 最も困難な地区を省力化することにより、除染は数百兆円から数兆円の規模に押さえられる。
 ・・・・財務省にとっては魅惑的な、避難民にとっては悪魔的な試算だ。

 【注1】「【震災】原発>兆円単位の除染に群がる海外企業
 【注2】「【震災】震災復興と原発事故賠償の費用 ~60兆円以上~

 伊藤博敏(ジャーナリスト)「福島原発事故処理の最重要課題に浮上した『除染ビジネス』に海外企業が群がっている」(「SAPIO」2011年10月5日号)に拠る。
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【旅】港まつり

2011年10月09日 | □旅
 境港市は、長さ20kmの大砂州で、面積28.79キロ平米、人口35,895人(2011年4月現在)だ。
 JR境港駅の玄関口から「水木しげるロード」が伸びる。路傍に139体の妖怪像が並ぶ。船着き場が駅に隣接する。そこを発着するフェリー・ボートの船体にも妖怪が描かれている。

  

 フェリーの船着き場に近い「海とくらしの史料館」には、魚介類の剥製が700種類、4,000点展示され、なかなかの迫力だ。

  

 シロナガスクジラのヒゲ板の大きさは、長さ1m、幅60cm。そのヒゲ板が1頭につき、320~330枚ある。ちなみに、これまで知られている最大のシロナガスクジラは、体長33m、体重170トンだ。

  

 「史料館」の中庭には、ナゾの彫刻が展示されている。埴輪とも、ディズニー映画のダンボとも、ミミズクとも見える妖怪だ。どことなくく岡本太作的だ。

  

 「史料館」を出ると、目前に「境台場公園」だ。その象徴となる「境港灯台」は、美保関灯台より3年早く、明治28(1895)年11月に開設された木造六角洋式灯台。高さ9.09mで、不動白光電灯3,500燭光は、23kmの沖合まで届いた。昭和9(1934)年に消灯。平成3(1991)年に復元された。

  

 昭和57(1982)年以来、この季節には「境港水産まつり」が開催されている。今年は10月9日に開催された。
 茹で蟹の大盤振る舞いもある。例年、大人気で、長い行列が並ぶ。カニ水揚げ日本一の旗がたなびいている。

   

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【震災】原発>政権中枢が反省する事故処理の不手際 ~自民党の場合~

2011年10月08日 | 震災・原発事故
 その日は内閣官房長官として最後の日のはずだった。翌日には改造内閣が発足するはずだった。
 ところが、10時35分、大事故が発生したのだ。茨城県東海村で。核燃料加工会社JCO東海事業所の転換試験棟で。 
 ウラン溶液を沈殿槽に入れる作業の最中、臨界事故が起きたのだ。臨界は、通常は原子炉内で制御された状態でのみ起きる現象だが、核分裂が燃料混合の最中に起きてしまったのだ。

 1999年9月30日12時半過ぎ、官邸に連絡が入った。官邸の首相秘書官に電話で科学技術庁から一報が入り、秘書官はすぐ小渕恵三・首相に報告。野中広務・内閣官房長官にも彼の秘書官を通じて連絡が入った。
 この時、野中は、後任官房長官の青木幹雄と官邸地下の小食堂にこもり、大臣や政務次官の選考作業に没頭していた。事故の知らせ聞いたのは、12時55分頃だった。ただ、その時の報告では、事故は起きたものの処理は済んだ、という話で、「3時頃には終熄する見こみです」と言っていた。
 小渕首相は、念のため秘書官を通じて「事態の把握につとめ、逐一情報を上げること」と科学技術庁に指示した。
 野中は組閣作業を続けた。

 15時過ぎ、科学技術庁から原子力安全局長が飛んできた。とっくに停止したと思っていた臨界が止まらず、今も周囲に放射線が撒き散らされている、云々。
 JCOの周囲は住宅地だった。
 東海村は、12時過ぎに災害対策本部を設置していた。12時半から住民広報を開始し、専門家の助言を受けて、15時に現場から半径350m圏内の住民に避難を指示していた。
 一方、科学技術庁は、ようやく14時半に対策本部を作ったところだ、という。そして、有馬朗人・科学技術庁長官は、文部大臣室にいた。
 野中は、総理室に駆けつけ、小渕首相に改造を延ばそう、と進言した。小渕首相は承諾した。
 そして、すぐに官邸連絡室を設置した。科学技術庁に連絡要員を派遣し、関係省庁からは連絡室に連絡要員を派遣するよう指示した。

 16時過ぎ、定時会見で、原子力事故について発表。たちまち大騒ぎになった。
 野中は、同じ廊下に面した官房長官室と総理室を行ったり来たりしながら、現地の情報を収集した。廊下に出るたびに、ぶら下がりの記者がくっついてきた。
 19時過ぎ、原子力安全委員会は、事故現場の中性子線量が高く、臨界が継続していて、早急に抑止する必要がある、と言ってきた。「10時間たってもまだ核分裂が収まらず、放射線が撒き散らされているのだ。大変な事態である」
 20時過ぎ、内閣に政府対策本部の設置を決めた。本部長は首相、指揮を執るのは官房長官だ。官邸はようやく臨戦体制に入った。
 21時から第1回政府対策本部会議が開催された。周辺住民の避難、緊急医療体制の準備が決まった。
 「避難区域を広げろ。あとからどんな非難を受けてもいいから、避難区域を広げろ」と、野中は会議で主張した。現地の茨城県と協議し、ただちに住民の避難を開始するよう指示した。・・・・最終的に10km圏内の住民が避難し、事業所周辺の道路は封鎖され、電車も止められた。  
 21時半過ぎ、野中は緊急記者会見を行い、対策本部の設置、避難などの措置を発表した。
 事故現場では放射線が放出され続け、作業員の防護が十分できず、現場に近づけない状態だった。JCOのベテラン作業員たちが「自ら志願し、被曝覚悟で」(と野中は書く)臨界停止作業に入った。

 10月1日3時、住民の避難完了を待っていた現場は、冷却水の水抜き作業を開始した。 
 6時過ぎ、臨界が停止した。事故発生から約20時間後のことだった。
 9時過ぎ、原子力安全委員会は、臨界状態は終熄した、と判断した。
 11時、定時会見で野中は、当面の危険は去った、と発表した。
 15時、正式に10km圏内の屋内避難措置を解除した。ただし、半径350m圏内については、安全を期して避難措置を継続し、最終的には10月2日18時半に避難を解除した。

 この事故で、放射線を浴びた作業員3人は急性放射線症を発症し、病院に担ぎこまれた。被曝量は重大で、2人が病院で死亡し、残り1人もあと少しで死に至るところだった。被爆者600人余り。避難した周辺住民は31万人。「日本原子力史上最悪の事故となってしまった」
 JCOと行政に非難が殺到した。
 JCOは、濃縮ウラン溶液の濃度を一定にする工程で、正式の作業手順である混合装置「貯塔」を使うと時間がかかる、という理由で、人の手でバケツを使って混合作業していた。独自に手作業用の裏マニュアルまで作っていた。作業手順に違反する行為が社内で公認されていたのだ。しかも、作業を急いだ現場の作業員は、裏作業マニュアルさえ破って、小分けして沈殿槽に投入するべき高濃度ウラン化合物を一度に大量に投入したため、核分裂反応が発生したのだ。

 行政の対応も、十分ではなかった。問題の事業所は中性子検出器を備えていなかった。当初すぐに停止すると思われていた臨界が継続していることが分かるまで時間がかかり、そのため政府の対応も後手に回ってしまった。
 JOCが科学技術庁へ事故の第一報を入れたのは、事故発生から40分後(11時15分)だった。茨城県と東海村への通報は、さらに20分後だった。安全協定のなかった隣の那珂町には、JCOは通報していない。
 科学技術庁から官邸に連絡を入れるまで、1時間以上かかっている。
 JCOは東海村消防本部へ119番通報で出動要請しているが、原子力事故であることを伏せていた。ために消防本部は通常の救急出動として対応し、救急隊員は防護服を着用しないまま作業員の救出にあたり、被曝した。
 東海村が災害対策本部で避難要請を検討している時点で、政府にも科学技術庁にも事故対策本部が設置されていなかった。東海村は独自の判断で350m圏内の避難要請を決断した。
 関連官庁以外の政府機関、交通機関、周辺の公共施設などには、政府からの直接の連絡が行き渡らず、テレビで初めて事故を知ったところも多かった。しかも待避勧告について茨城県と政府が協議している最中に、NHKが「10km圏内屋内退避」とフライイングで報道し、大騒ぎになってしまった。
 事故後の「金銭的な損害などについては原子力損害賠償法によってある程度補償されることになったが、住民のみなさんの恐怖を考えれば、決して十分だとは思っていない」

 以上、野中広務『老兵は死なず -野中広務全回顧録-』(文言春秋社、2003。後に文春文庫、2005)に拠る。
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【読書余滴】野中広務の健康法 ~金槌で叩く~

2011年10月08日 | 医療・保健・福祉・介護


 朝、腹筋を30回。
 それから足の裏を金槌で叩く。政治家をやっていると移動は車が多くなり、どうしても歩く距離が不足する。そこで、代わりに小さな突起のついた肉叩き用の金槌で足裏を叩くのだ。爪先、土踏まず、踵をそれぞれ50回。以上を1セットとして、2セット合計300回を朝晩やる。
 また、入浴時、足を風呂の縁にかけ、両腕を挙げて指の屈伸を100回。それから、足を上げて足指の屈伸を100回。これらは20回を1セットとして、手と足を交互に5セットずつ行う。
 それから、腹を上から下にこするマッサージを50回。同じく胸を50回。耳も30回。最後に湯の中で足の屈伸を100回。

 風呂の中の運動は野中の考案だが、朝の腹筋と金槌で足を叩くことは、腰を痛めたときに若い研修医から教えてもらった。
 以前、ゴルフ場で腰が痛くなり、旧知の整形外科の病院に行った。いつもの院長がいなくて、若い研修医が診てくれた。
 「先生、これはね、うちの院長が言うて注射したり、薬を飲んだって、膏薬貼ったって、だめですよ。もうしばらくしたら痺れてきて、そのうち動かんようになります」
 「何を言うんだ」
 「それなら私の言うことを、騙されたと思ってやりなさい」
 以来、20年以上続けている。おかげで足は今もしっかりしている。

□野中広務『老兵は死なず -野中広務全回顧録-』(文言春秋社、2003。後に文春文庫、2005)
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【震災】原発>アポカリプス、ナウ ~飯舘村に今も暮らす人々~

2011年10月07日 | 震災・原発事故
 古老はいう。
 「今年はトンボがいないだ。今年は田んぼに水がないから孵化できなかったんだ」
 「草ぼうぼうになって、化け物の村になってしまった。ここは何でも採れていい所だったんだ」

●庄司良明(80)、その妻(77)
 「俺か、どん百姓だ。百姓が一番だ。今は仕事をしていない。だって米つくれないんだもの。セシウムという東京電力のばい菌くるんだもの」
 飯舘村でできたものは全部ダメなんだ。米、牛、野菜、みんな売れない。
 でも、家で作った大根は食べている。米は古いのがあるけれど、おかずは買いに行く。二人だからちっとしか食べない。
 「うらみはいっぱいあるよ。東京電力には」
 朝は早起き。起きてすぐトラックに乗り、川俣の新聞配達魅せに行く。6月いっぱいで新聞屋が来なくなった。郵便も来ない。農協も避難した。
 「おら避難しねぇ」

●細川徳栄(60)、多美子(64)
 「離れたくてもここを離れられないよ。動物百頭くらい飼っているので」
 国でも何でも移動する所を見つけてくれればいいんだが、やっぱり無いって。
 昔から馬喰だった。ここらには十何軒あったが、今ではうちだけだ。馬は観光用に使っていた。でも、被曝してからはどうにもならない。
 牛は売れない。餌代だけでも大変だ。募金をやりくりしている。
 「もう収入がないから募金が来なけりゃやっていけないんだ。募金は全国から来る。動物好きな人から募金がくるだ。もう7千万も来たよ。外国からも、2千万来たよ」

●佐藤義明(60)、ひろ子(56)
 「東電が賠償請求書を送ってきた。俺は絶対に書かねぇんだ。領収書を付けろ、ふざけんじゃないよ。家族バラバラになったのは『認めない』と言うんだ。うちだって4ヵ所に避難しているだ。原発事故の前は皆ここでくらしていただ。孫も一緒に、ここを走り回っていただ」
 放射能のことはもっと早く教えてほしかった。それが一番悔しい。3月12、13日は子どもは知らないで外で遊んでいたのだから。ここに電気が来たのは3月13日。テレビを見て事故の恐ろしさを知った。17日に避難した。それが腹立つ。もっと早く情報がほしかった。
 「バーアンと爆発したとき、県や市のお偉いさんは我々を置いて逃げたんだって。知らなかったのは我々だけだ」

●多田宏(64)
 一応伊達市に避難しているので時々帰るが、普段はここで寝起きしている。時々連絡なしに来る氏子もいるから常駐している。
 「私が去ったら村の支えが無くなりますからね」
 みんなストレスが溜まっているので相談相手をしている。
 「子供たちがいなくなっちゃうのが問題ですね。これから村が先細りになりますから、人口を増やす算段をしなくてはならない」
 ここで作ったものは、いくら除染しても売れない。
 「私だって嫌だもの。畜産、飯舘牛は準ブランドだからね、畜産農家は大変だと思うよ」
 「神社に明かりが灯っていると人々はほっとするんですね。檀家と違って氏子というのは神との信頼関係で成り立っています。ここに私が居るということで安心していると思います。この前、伊達市の仮設住宅に行ったら『宮司さんはどこにいるんだ』と声を掛けられました。『神社を守っている』と答えておきました」
  
●佐藤強(84)、ヒサノ(87)
 飯舘は米の産地だ。米を作らなかったのは初めてだ。
 今年はトウモロコシと馬鈴薯は蒔いた。トウモロコシは食べてしまった。馬鈴薯はまだ掘っていない。
 これからはキノコだ。マツタケ、イノハナ、シメジ。ヤダタイ山に採りに行く。飯舘のマツタケは最高だ。イノハナはマンマにして食うのが一番だ。香りがいいんで、煮てはダメだ。
 「でも今年は出荷できねんだ。俺は自分で作ったものを食べているだ。放射能なんか関係ねぇんだ。放射能で80過ぎてガンになったというが、日本全国ガンのないところねぇんだから」
 「同級生もだいぶ死んで、避難しなくても話す相手がいねぇんだ。地区でも上から6番目の年配になった。カカァは3番目の長生きだ。長生きはみんなババァばかりだ。爺様はゴロリゴロリとみんな死んでしまうわ。『避難してくれ』と役所の人が4、5回来たよ。でももう残り時間は短いんだから」

 以上、飯田勇「飯舘村の叫び」(「週刊文春」2011年10月13日号)に拠る。
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