
城 名:戸崎城(とさきじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:平安末期~鎌倉時代?
築城主:戸崎右馬允国延
城 主:戸崎氏
遺 構:土塁・堀跡
指 定:―
現 状:農地
所在地:埼玉県加須市戸崎(旧・騎西町)
戸崎城は、竜宝寺から諏訪神社までの対角線上で東西400m、南北400mの方丈形の範囲が城域とされます。
築城期など詳細は定かでないようですが、鎌倉期には戸崎氏の居館として使用され、室町時代から戦国期にかけて館から城郭
へと変化していったものと考えられています。
また、戸崎右馬允国延は、建久5年(1195)の源頼朝の東大寺供養にも武藏武士の一人として随兵に加わっていることが記録
に残っているとのことです。
そんな戸崎城跡を訪ねてみました。

戸崎城跡探訪の目標地に定めたのがこの竜宝寺。お寺さんが遺構ではありませんが、まずはいつものようにお寺参り(どうも
こちらが主体になってしまうのが常です)

門前に設置された「竜宝寺」説明板
当寺についての説明でありながらも この周辺は”戸崎城”の跡といわれ・・・ と城跡についても触れています。
お城好きの方には嬉しい一言です。

やはり城跡とは関係ないのですが、お約束の六地蔵尊を発見

何かと思えば仁王像のお住いでした。無論、両側にありますがガラスが光ってしまい肝心の仁王像のお姿が撮れませんでした。

緑の間から本堂を

本堂

山号「金桂山」の扁額
ガラス戸に入っているのは、曹洞宗の二つの宗紋(左:五七桐〔総持寺〕・右:久我龍胆〔永平寺〕)

立派な竜の石像です あ、ここの寺号は竜宝寺でしたね

鐘楼

初代伊勢の海の墓 墓地の中を2周半位探し歩いてみましたが・・・たまたま地方巡業に出かけていたようで

諏訪神社に向かいます 本当は竜宝寺から諏訪神社に至る一帯の地形を確認しながら向かうべきなのでしょう。
松本清張の作品に「点と線」というのがありますが、城館跡探訪は点と線に加えて面も見なければいけないのです。ある意味、
面が一番重要なのかも知れません。しかし、ついつい線と面をおろそかにして、点(諏訪神社)に向ってしまいました。
とは言っても、先のほうに見えるのが諏訪神社との確信がありませんでしたので、農作業をしていた男の方に確認してしまい
ました。

この土塁様の高まりは竜宝寺の南東に位置する田んぼの中にありましたが、土塁ではないでしょう。
ただ、諏訪神社にある説明板の「明治時代の戸崎城周辺図」の南側のL字型の土塁のようにも見えないでもありません。

諏訪神社に着きました

社号標の石柱には 村社 諏訪社 とありますが、社格制度が廃止されたため村社の部分をコンクリートで埋めて消した状態にし
ていますが逆に目立っています。ここに限らずこうしたケースがあちこちの神社で見られます。

社殿

「諏訪神社」扁額

社殿前に設置されている「諏訪神社」説明板
後半の約半分は明治時代の周辺図まで入れた戸崎城の説明が記されています。

周辺図をアップで (周辺図部分をアップで撮るのを忘れたので、説明板写真から切り取りしましたので粗くなっています)

諏訪神社から竜宝寺方向に見ています、この一帯が戸崎城の城域と言われているようです。
我が愛馬を繋いである竜宝寺まで戻る途中にも土塁ような高まりがいくつかありました。写真右側に点線で印した所に10m
前後の長さの土塁状のものがあります。
そこには諏訪神社へ向かう途中で、諏訪神社の確認をさせてもらった農作業中の男の方がいる場所ですので、同所に再び赴き、
それが土塁かどうか聞いてみました。
「これはゴミ捨て場だよ」「みんな田んぼにしてしまったから土塁は残っていないな」とのことでした。
後日調べたところによると、昭和14年に土地改良事業が行われて削平されてしまったようですので、土塁は遺っておらず、田
畑の造成等から生じたものが土塁状に見えるものと思われます。
散策日:平成30年(2018)4月17日(火)