四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

皿尾城(埼玉県行田市)

2018年05月20日 | 100名城以外の城館跡


城 名:皿尾城(さらおじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:永禄4年(1561)戦国時代
築城主:上杉謙信
城 主:木戸監物入道玄斎忠朝
遺 構:土塁・堀
指 定:―
現 状:久伊豆神社大雷神社合殿
所在地:埼玉県行田市皿尾(旧・行田市)

上杉謙信が忍城の向城として築き、家臣の木戸監物入道玄斎を入れて成田氏を監視させた城とする説、成田氏により忍城の支
城(出城)として築かれたと推定する説、その成田氏の支城を謙信が攻略して再築城し木戸氏を置いた説等もある歴史が今ひ
とつはっきりとしないそんな皿尾城跡を訪ねてみました。




フェンス前に「皿尾城跡」の石碑が建つ農村センターの東側にある久伊豆神社大雷神社のある場所が皿尾城の城域でしょうか?




久伊豆神社大雷神社合殿
皿尾を拠点としていた成田五郎長景が伊豆国三嶋社を勧請して文治4年(1188)に久伊豆社として創建したと伝えられます。
その後大雷神社が合祀された陽ですが、時期は不詳。境内社として生駒神社、神明社など6社があります。




久伊豆神社大雷神社合殿社殿




「久伊豆神社大雷神社」扁額




神社東側にある民家との境に窪みが遺っていまますが堀(水堀)跡ではないかと考えます




社殿の北東角から南方にかけても少し土塁が遺っているのが分ります




社殿背後にある土塁を東方から西方に見ています  
ほとんど痕跡がありませんが、かつては土塁外側(北側)を水堀が流れ、神社東側にある民家との境にある堀に続いていたの
ではないかと考えます。




土塁上を東方から西方に見ています




土塁を西方から東方に見ています




土塁を境内側から見ています




社殿に正対する鳥居とは向きが90度違いますが、この道が参道で、この鳥居が一の鳥居ででしょう。
鳥居前を南北に水路が走っています。




今はU字溝の水路になっていますが、かつては水堀であったと考えます。
右(西方)に向きをを変えた水路は農業用水路に流れ込んでいます。




農民センター東側の水堀  水堀の面影が消えてしまっています
最近、U字溝の水路に変えたようですね。フェンスも新しくなっていますし、コンクリートも打って間もないという感じです。
U字溝のカーブした辺りから西方にかけても堀があった(南側の堀)と推定されていますが、現状は痕跡もありません。




農民センター「ふるさと館」 建て替えたばかりのようですから、これに併せてフェンスや空堀も工事したようです。




参道鳥居前の水路の水も、農民センター「ふるさと館」東側の水路もここに流れ込んでいますが、この水路は堀跡ではなく農
業用水路として設けられたものでしょう。




石碑の裏面に説明文がありました。しかし、この通りフェンスとの間が僅かです。全体を撮ろうとしても網が邪魔します。網
の目の隙間からでは近すぎて一部分しか入りません。仕方なしに上からフラッシュを焚いて撮ってみました。




その結果がこれですがこれ以上のアングルは望めません。、読みづらいうえに判読できない部分が数か所ありましが、下記の
ように記されています。解読に誤りががあるかもしれません。

永禄4年(1561年)上杉謙信輝虎は再参忍を攻め皿尾の地に築城し 木戸監物入道玄斉に守らせたが 成田氏と通じた為 
謙信は怒って城を焼き払うと『北越軍記』等にあるが 今は外張りの地名を残すのみ ここから忍城は谷※沼地たつ
 昭和54年3月            建立 行田ライオンズクラブ  協賛 新井福次




北方からの遠景




北方からの遠景をズームしてみました  神社社殿背後(北側)にある土塁がはっきりと見えます




南方からの遠景  田んぼに水が張られれば水に浮かぶ島といった感じになるでしょうね

散策日:平成30年(2018)4月26日(木)