四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

二体地蔵塚古墳(群馬県太田市)

2018年12月12日 | 古墳


名 称:二体地蔵塚古墳
別 称:二体地蔵塚
所在地:群馬県太田市世良田町(旧新田郡尾島町)

太田市世良田町(旧尾島町世良田)の、この辺は以前は「世良田四十八塚」と呼ばれた古墳群が、明治以降に開発され、今は
3基しか残っていないそうです。そのうちの1基が二体地蔵塚古墳と呼ばれるこの古墳とのことです。




二体地蔵塚説明板  だいぶ古いもので読めるかどうか




説明文の部分をアップにしましたが読みにくそうなので転記しておきます

〈冒頭部は省略〉
 元弘3年(1333)北条高時は西国(近畿地方)の乱を鎮めるため、弟泰家を大将として、10万の兵を京都へ派遣すること
になった。その戦費を調達する必要から、関東地方の国々から臨時の税金を取り立てた。特に、世良田には裕福な者が多いと
して、出雲介親連と黒沼彦四郎入道の二人が使者になって、多勢の家来を引き連れて乗り込み、5日のうちに6万貫の税金を
差し出せと強く要求した。これを聞いた新田義貞は法に過ぎた仕打ちであると怒り、直ちに家来に命じて出雲介を捕え、黒沼
彦四郎の首をはねてさらし首にした。即ちここがその遺跡である。
 この塚について次のような伝説がある。昔、この塚の辺で人の争う異様な声が聞こえてくるので、村人は恐れをなし、石地
蔵を建立して供養したところ、その後、怪しい声は止んだという。もとは一体であったが、後に普門寺にあった一体の地蔵を
移し二体とした。その後、二体地蔵と呼ぶようになったのである。
  昭和54年3月

新田義貞が鎌倉幕府討伐の旗揚げをするに至ったにはこうしたことも要因のひとつであったのかもしれません。




墳丘部に建てられている「黒沼彦四郎入道梟首遺跡」の標柱




二体の石地蔵




二体の石地蔵  どちらが普門寺から移されたものでしょうか




近年建立された五輪塔




五輪塔建立記 寄贈者は黒沼彦四郎入道の末裔の方でしょうか?

散策日:平成30年(2018)9月23日(日)

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