四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

寄居北條まつり2018

2018年05月13日 | まつり・イベント


豊臣秀吉による小田原攻めが始まったのは1590(天正18)年のことである。本城である小田原城は10数万余の兵に囲
まれ、支城は次々と落とされていった。
北條氏邦の鉢形城も同年5月13日、豊臣方の前田利家・上杉景勝ら北国勢35000(その後、加勢を得て50000)に
包囲され、鉢形勢は城兵3500をもって籠城したが、1か月後の同年6月14日、城兵・領民の助命を条件に開城し、氏邦
は前田利家の預かりの身となり、金沢の地で没した。

奇しくもそ豊臣方から攻撃を開始された同じ日である本日、豊臣軍と鉢形勢の攻防戦を再現した戦国絵巻「第57回寄居北條
まつり」が開催されましたので見学に行ってきました。
山梨県や群馬県で開催される戦国まつり・武者行列等に出かけることがなくなって数年、戦国まつり見学といえばこの寄居北
條まつりだけになってしまいました。
こんな日は当らなくもよい天気予報が当たってしまい、後半は小雨降る中での見学となってしまいました。迫力ある写真は撮
れませんでしたが何枚か紹介させていただきます。




鉢形城跡笹曲輪に建つ「第57回寄居北條まつり」の大きな看板




合戦場となる玉淀河原  川向こうの急崖の上に鉢形城本曲輪跡(伝御殿曲輪跡)があります




武者隊パレードの出発です  パレードでは雰囲気が出ませんので行軍と言い換えておきましょう
馬上の武者は主役の鉢形城主北條氏邦公です
氏邦役は寄居町議会の議長さんが毎回務めているようですが今回は副議長のようです。議長が女性の方のためかと思います。




寄居町議員団隊 先頭でプラカードを持っているのが議長さんのようです
なお断っておきますが私は寄居町とは何の繋がりもありませんから、町議員さんのお名前もお顔も存じませんので調べてみた
ところの結果です。
某県の武者行列に参加している議員軍団の方たちは全員武将で雑兵は一人もいないという不自然な編成をしています(他の軍
団は武将と雑兵をきちんと分けているのに)が、ここ寄居町の議員方々はそんな見栄ははらず2名ほどの武将以外は雑兵役を
やっています。




小田原北条手作り甲冑隊の皆さん




同上




これも小田原北条手作り甲冑隊の皆さん ちょっと自信がありませんが




どこの隊かわからなくなってしまいました




郵便局隊 井上三河守は永田城城代ですね




寄居金融団隊 大将は秩父孫次郎  秩父氏館の館主です




細川紙甲冑隊(小川町議会・東秩父村議会)
あれ! 乾(いぬい)という家臣が氏邦にいたかなと思ったら、これは名前ではなく、【乾坤一擲】(けんこん-いってき)と
いう四字熟語で、運を天にまかせて、のるかそるかの大勝負をするの意味のようでした。




剣道連盟一番隊 大将は諏訪部遠江守 日尾城主ですね
河原での合戦は、この剣道連盟一番隊のこの子たちと、豊臣方前田利家軍に回った剣道連盟二番隊の子たちが中心になって行
われます。




「大将は旗持ちを従えてご登壇召され」ということで、大将全員が登壇




そのあとを現代のお偉い方々が登壇




「早く挨拶を終わらせて合戦させろよ 飽きちゃった」などと言っていたかどうかは分りませんが、来賓の方々の長~い挨拶
が終わるのを待つ武将や雑兵。幼子は飽きてしまい駄々をこね泣き出していました。




三献の儀




三献の儀の長柄所役を務めたのは三鱗会のお嬢さんとのこと




攻防戦開始が近づきました  敵方を倒せるか倒されるか 期待と不安とが入り混じります



 
ご注進 ご注進 我が鉢形城 豊臣連合軍に包囲されました・・・などと始まり、プロの方の演出上の殺陣があったりとうで
攻防戦に入りますが、あとは順不同で合戦の場面を少しばかし




大砲が火を吹きます   とは言っても煙しか撮れず




槍による一騎打ち




同じく槍による一騎打ちですが こちらは女武者同士




行け 行け 行けー




合戦を楽しんでいるようです  実際の合戦だったら楽しむどころではないでしょうが




合戦で頑張っているのは剣道連盟の方たちが主体   あとは後方支援  早く言うところの見学です




中にはそれらしく倒れ込む兵たちも




川に落ちるのもお約束事  そのために架けた橋ですから



見学した場所が合戦場所から少し離れていましたからこんな場面ばかりが目に入ります




大将は後ろで見守るだけ  間違っても「率先垂範」なんて言葉は口に出せません




こちらの大将も・・・




外人部隊です 一番元気だったようです  




煙の中で戦っています 
隣りにいたカメラマン「煙が少ない 煙で見えないくらいがいいのだが」なんて贅沢、いや、我儘なことを言っていました




これだけの煙なら十分でしょう




この画像は10数工程を費やして造った画像です。
小田原市・八王子市・寄居町は、北条氏政・氏照・氏邦の北条三兄弟がそれぞれ居城を構えたという縁で、平成6年にそれぞ
れの観光協会が「北條三兄弟三領共同宣言」を結び、甲冑姿の市民・町民が互いの祭りに参加するなどして交流を深めていま
すが、昨年11月、全国で初めてという3市町のマンホールの蓋交換が行われました。寄居町にあっては寄居北條まつり会場
に通ずる道路に設置とのことでしたので、探して撮ったものです。撮ったままの写真を掲載すれば簡単なことなのですが、そ
れでは面白くないので、遊び心で、設置されている道路の写真の上に三つ鱗を重ね、更にその上に円形に切り出したマンホー
ルの蓋を重ねてみたものです。
上が小田原市、左下が八王子市、右下が寄居町のマンホールの蓋です。

見学日:平成30年(2018)5月13日(日)

須賀城(埼玉県行田市)

2018年05月11日 | 100名城以外の城館跡


城 名:須賀城(すがじょう)
別 名:須加城
形 態:館(平城)
時 期:鎌倉時代
築城主:須賀氏
城 主:須賀氏
遺 構:―
指 定:―
現 状:須加小学校・長光寺・宅地等
所在地:埼玉県行田市須加

吾妻鏡に登場する鎌倉御家人・須賀弥太郎の居館と伝えられている須加城跡を訪ねて来ました。

なお、須賀城・須加城や須賀弥太郎・須加弥太郎といった具合に「須賀」なのか「須加」なのかどちら正しのか、どちらも使われる
のかなど詳しいことは分りませんので、城郭本に使われていた須賀城を標題にさせて頂きました。現地の石碑には「須加」が使われ
ておりますし、「須加城」として訪問記を書かれている方も多数おり、「須加」を否定するものではありません。




須賀城は、須加小学校から長光寺の間にかけての一帯と推定されているようですので、須加小学校入口あたりから長光寺まで
歩いてみることにしました。無論、遺構はないことは承知でしたがあたりの雰囲気だけでもと、表通りではなくひとつ中に入
った地元の方たちの生活道路を。




長光寺参道入口の少し手前の風景です 北方に向けて撮りました この辺りにあったのかなと思いながら




電柱の東側に見える細い道が歩いてきた道です  参道入口にある大きな石灯篭の脇の方に「須加城石碑」を発見です




折角ですから長光寺をお参りしていきましょう 長い参道の両側に石灯籠が並んでいます




石灯籠と石灯籠の間にあるのは句碑です




山門  山号「松雲山」の扁額が架かっています
この山門前から北東方向に須加小学校の体育館が見えました




鐘楼



本堂




寺号「長光禅寺」の扁額  
浄財(箱)の宗紋を見ただけで何宗のお寺か分りました。多分、他の宗紋では分らな方が多いですが。
お寺さんに寄付するのが「浄財」 神社で投げ入れるのが「賽銭」




長光寺の西方に見える須加小学校の体育館  下に見えるのは切岸でしょうか? 当寺より高い所にあるのが分ります。
と言うことは小学校のある場所が須賀城の中心地(主郭)だったとのでしょうか。
今回は行きませんでしたが、須加小学校・長光寺の北側には利根川が流れています。




須加城跡石碑の裏面に説明文が刻まれています。しかし、冒頭の写真でもお分かりのように石碑背後は草叢ですので正対して
の撮影はできません。斜めからどうにか撮ってみましたが、撮ったままの状態の写真では文字が見えませんのでちょっと加工
していくらか見えるようにしてみました。文章を読み取るには苦労しました。写真を拡大したりスクロールしたりなどと・・

『吾妻鑑』承久3年(1221年)伏見宇治橋で奮戦したことが出ている須加弥太郎の裔 須加修理大夫が 忍の成田氏の家
門侍として天正年間に(1550年頃)館を築き『成田記』に須加城とある 地形 古文書より この一帯と推定される
 昭和54年3月
                           建立 行田ライオンズクラブ  協賛 川島 清

と刻まれています(判読しにくい個所もあり、間違いがあるかも知れませんことをお断りしておきます)

散策日:平成30年(2018)4月26日(木)

大越城(埼玉県加須市)

2018年05月10日 | 100名城以外の城館跡


城 名:大越城(おおごえじょう)
別 名:館山・大越館
形 態:館
時 期:戦国時代?
築城主:―
城 主:大越彦四郎 小山小四郎 関根氏(伝承)
遺 構:土塁
指 定:―
現 状:八幡神社
所在地:埼玉県加須市大越字馬場

大越城は、歴史不詳の城館です。戦国時代に羽生城の支城として、忍城主成田氏家臣の大越彦四郎の居館であったと推測され
ています。また天正11年(1583)7月、小山小四郎が北条氏政に敗れて、大越に一時住んだとも言われています。
古くは平安時代末に小山朝政が居を構えたという伝承もあるようです。
大越城は、徳性寺の西側にある八幡神社付近にあり、八幡神社西側に土塁が残っている。更に徳性寺の東側にある八坂神社の
脇に小山朝政の墓があり、この地と小山氏との関係を推測させます。




この辺りが大越城跡のようです。最初にここだろうと目星をつけて来たのですが、思っていたのとイメージが違いましたので
引き返してしまいました。帰宅後、確認するとやはりここでしたので、後日、再訪問。まあ、こんなもんでしょう。




八幡神社鳥居
扁額には「八幡宮 新田之末裔源朝臣徳純 謹書」とあります。源朝臣徳純=岩松徳純 そんなに古い鳥居なのでしょうか?




社殿




社殿西側にある土塁(北面)です  堀跡らしき痕跡もありますがだいぶ浅くなっています。 
すぐ前は民家が並んでいますので不審者扱いされないように少しだけの探索




竹藪の中に土塁が見えますが入り込むことはさすがに避けました




櫓台もあるとのことですがこの藪状態では確認できません




徳性寺 徳性寺は小山判官朝政の祈願所で、後に小山義政の再興したもの




徳性寺山門




参道




鐘楼




本堂




徳性寺の東側にある大越公民館の裏手にある小山朝政の墓




八坂神社




「加須市指定史跡 小山朝政の墓」説明板 
宝篋印塔を墓としているものの、建立年と小山朝政の没年に隔たりがあるため供養塔の可能性が高いとあります。
往々にして墓と言われるものは供養塔の可能性がありますし、それを承知で墓と称していることもあるようです。




「加須市指定史跡 小山朝政の墓」標柱
この標柱に記された指定年月日は〔昭和34年6月16日〕となっており、説明板にある〔昭和38年9月〕と相違がありま
す。このことをもって小山朝政の墓自体に影響を及ぼすものではありませんがちょっと調べてみました。
加須市のHPによれば、小山朝政の墓の史跡指定は、昭和38年9月17日
昭和34年6月16日には、「大越三耕地の獅子舞」、「大越前田耕地の獅子舞」の2件が無形民俗文化財指定なっています
ので、標柱作成の際に誤ったものと思われます。(小さなミスよりも本題の城館跡探訪の方にもっと関心を注げとお叱りを受
けそうですね)




「史蹟 小山朝政墓 埼玉縣」の標柱が大きくて一瞬こちらが墓石かと間違う(そんな奴はいない)




小山朝政の墓とされる宝篋印塔




同上




先に見える堤防は利根川の堤防




徳性寺の墓所外側に咲いていたルビナス




たまにはこうして季節の花も撮って記事末尾に載せています

散策日:平成30年(2018)4月21日(土)・26日(木)

花崎城(埼玉県加須市)

2018年05月09日 | 100名城以外の城館跡


城 名:花崎城(はなさきじょう)
別 名:―
形 態:平城
時 期:不明なるも16世紀頃か?
築城主:不明
城 主:細萱泰秀?
遺 構:郭・水堀・空堀
指 定:市指定史跡(但し花崎遺跡として昭和56年〈1981〉8月11日)
現 状:花崎城山公園
所在地:埼玉県加須市花崎北2(旧・加須市)

花崎城の築城時期や築城者は定かではないが、戦国時代には、栗原城の細萱氏の支城であったとされる。
細萱氏は後北条氏に従属していたため、永禄4年(1561)上杉謙信の小田原攻めの時に、栗原城とともに花崎城攻められ 、
小田原にいた細萱光仲に代わり、光仲の子で当時11歳泰秀が守備したが落城した。

花崎城跡は住宅地にあり、一部が花崎城山公園として残っています。昭和55年から56年にかけて行われた発掘調査では障
子堀等が発見されたとのことです。障子堀等は埋め戻し保存されてしまいましたが、公園内には水堀や空堀が遺っており中世
城郭を偲ばせてくれます。




既成の地図に公園内の建造物を加筆してみました。なお、水堀の現状は既成図通りではありません。また、この図では南側に
ある空堀が表示されておりません。




南側にある公園出入口  花崎城山公園と入ったコンクリート擬木の標柱が両側に建っています




「加須市指定史跡 花崎遺跡」の標柱  
花崎城跡単体に対する指定ではなく、花崎城跡と縄文遺跡に対する史跡指定ということです。それにしてもフェンスが邪魔で
見づらいし、写真も斜めからどうにかといった状態です。




郭南側のある空堀 南側にある土橋から西方へ見ています




上の写真の空堀を反対方向から見ています (西 → 東)




郭西側の水堀




同上の水堀  (南 → 北)




同上の水堀の北西部




西側の水堀前から郭の中央部方向を 




西側の橋から郭の中央部方向を  真ん中に見えるのが四阿




西方から南側出入口付近と空堀を見ています




南側の橋から南側の空堀の東寄り部分を見ています




北側の水堀と南側の空堀の間にある廓の部分 (西 → 東)




東側の公園出入口




同上 向きを変えて  やはり両側にコンクリート擬木の標柱が両側に建っています




羽場崎遺跡の説明板




説明板の中の発掘調査時の写真をアップにしてみましたが、説明板設置から年数が経っているいるためか鮮明さに欠けます




郭南東角にある祠  花崎城と関係あるのかどうかは分りませんが郭内にあったものですから




城跡の北側を走る道路  ここもかつての城跡の一部なのでしょう




東武伊勢崎線の線路 この線路が花崎城跡を分断しています
矢挟間から敵を狙うが如く金網フェンスの穴から馬出跡を狙ってみました。馬出郭跡は「城跡公園」となっているようですが、
遺構はなく単なる公園のようです。




更にズームして撮ってみましたが、やっぱりただの公園のようですね。




東側出入口から再び郭内に入りました。祠の斜め後ろにある四阿です。この辺りも馬出郭だったようです?




郭北側を東方向から西方向に見ています




先の方に水を湛えた堀部分が見えます




北側の橋の方に回り込んでみます




橋まで来ました




水堀です




ちょっとアップで




堀が浅くなったせいか雨量のせいかわかりませんが水量が少ない気がします。(期待すべきとではありませんが)大雨でも降れ
ばもっと水を湛え、広い範囲での水堀が期待できるかもしれません。
まあ、水堀の筈が干されて空堀状態の所を何か所か見ているだけに、こうして水堀を見ることができたことに感謝しましょう。

散策日:平成30年(2018)4月21日(土)

油井城(埼玉県加須市)

2018年05月08日 | 100名城以外の城館跡


城 名:油井城(ゆいじょう)
別 名:鐘撞山・鐘撞山城・油井ヶ島城
形 態:平城
時 期:戦国時代
城 主:猪俣小平六範綱
遺 構:郭・土塁・水堀・空堀
指 定:市指定史跡(鐘撞山 昭和31年(1956)9月24日指定)
現 状:山林
所在地:埼玉県加須市油井ケ島

加須市指定史跡 鐘撞山
鐘撞山は南東に沼を控えた平城で要害の地となっていた。約2万6千4百平方メートルの面積を残し、土塁・空堀・水堀の一部
が現存している。『新編武蔵風土記稿』に「相伝ふ猪俣小平太則綱が城蹟と云、鐘つき山と呼ぶ、今は山もなく、陸田となりて、
城跡のさまは見えず」とあり、築城した人物や年代等は明らかではない。鐘撞山の攻防については永禄6年(1563)、上杉
謙信が松山城救援のため出陣したがおよばず、転じて北条方の騎西城を攻めた時、この鐘撞山も同時に攻撃された。攻撃が急だ
ったので、館中の兵はしきりに鐘を鳴らし騎西城に救いを求めたが、騎西城も謙信の本隊に攻められていたので鐘撞山を救援す
ることができず、館兵は甲冑兵器を丘に埋めて逃れたという(「鐘撞山之記」)。さらにここから矢の根・鉄砲の玉・大身槍・
陣鍋が掘り出された。 
昭和56年12月1日    加須市教育委員会                        (現地説明板より)

油井城(鐘撞山)は、加須地内でも掻き上げ田地帯の「浮島」で名高い水深地内に存在し、周辺一帯は深田地帯となっている。

城跡の土地・屋敷は、平成16年6月に地主さんが「史跡を生かした整備をして欲しい」と、加須市に寄贈しています。
しかしながら、整備がなされた様子は見られず(14年も経過した現在も、整備活用計画を検討中でしょうか?)、周囲は杭と
ロープで立ち入り禁止の措置をとっているだけで、遺構の堀や土塁は荒れたままの藪状態です。




地図に色付けした部分が城跡(正確ではありませんが)の範囲です。更に記号等を加筆してあります。
方位が45度ほどずれているため便宜上標柱のあるNからDのラインを北側として写真の説明して行きたいと思います。
なお、立ち入り禁止のため、すべてロープの外側からの撮影であることは言うまでもありませんし、記憶不確かなため説明地
点に間違いがあるかもしれないことを先に断っておきます。




標柱 色褪せて文字が見えなくなっていますが、城館跡を訪ねる際の目標物ですからあるだけでもましです。 (A)




標柱の所から空堀を南方に見ています (A → B)




上掲の写真の逆方向  (B → A)




碑が建っている山(丘にも満たない)のある郭跡を  (Bから)




説明板  この内容を冒頭に記載しました




説明板のある郭跡と北側の田んぼの境にある空堀  (B → C)




上掲の写真の逆方向  (C → B)




北側の空堀  西方から東方に見ています  (A → D)




北側の空堀 上掲の写真の逆方向  (D → A)




北側の藪の中にちょっとだけ見える土塁




東側の土塁と水堀  北方から南方に見ています  (D → E)




東側の土塁と水堀  掲の写真の逆方向  (E → D)




土塁と住宅の間の切れ目から少しだけ見える元の屋敷内  建物は朽ちているようです




屋敷門   (Fから)




上氏から寄贈を受けた土地建物についての説明板




屋敷門をアップで  門の前まで行けば屋敷内が覗けたかもしれませんが、そこまで気が回りませんでしたし、近づいてはい
けないとも思いましたので。




東側 (門の右側)  (F → G)




立ち入り禁止の立札  (G)




立ち入り禁止の立札のある所から見た水堀




GからH方向へ2~3m程いった地点から見た水堀




HからD方向へ延びる水堀 写真左側が碑が建っている郭跡、右側が屋敷のある郭跡 郭と郭の間に橋が見えます。 




HとIの中間あたりから見た碑が建っている場所




西側から見た碑が建っている場所  (Jから)




Jから若干C方向に移動して碑を撮ったものの碑文が読めるどころか形さえも満足に撮れませんでした。




更にC方向に進んで撮ってみましたが、今度は木立に隠れて碑自体が見えません。




城跡の周りから離れて  南側から見た遠景  写真右端が門入口 (Kから)




同じく南側から見た遠景 (Lから)




北西から見た遠景 碑が建っている郭跡方向を中心に (Nから)




北側から見た遠景 (Oから)




北西から見た遠景 屋敷のある郭跡方向を中心に (Nから)

今残る縄張や遺構が鐘を鳴らして騎西城に援軍を求めた当時のものかは分りません。その後ここに居を構えた者の時代のもの
かもしれませんが、何れにせよ近世のものではなく中世期の遺構であることは間違いないでしょう。

この油井城跡(鐘撞山)の東方僅かなところ油井ケ島集落の中心部に神宮寺や八幡社があります。これら社寺と油井城との関
係はないようですが訪ねてみました。




神宮寺 参道左側に「神宮寺」の社号標の石柱が建っています。神宮という名のお寺 更に山号は八幡山 併せて八幡神宮 
一瞬神社かと(は思いませんでしたが)  隣には八幡神社がありややこしい(勝手にややこしくしたいだけですが)




「加須市指定有形文化財 神宮寺の青石塔婆」標柱




山門と「あみだ堂」




山門脇の青石塔婆が納められた「あみだ堂」




「神宮寺の青石塔婆」説明板
中に油井城に触れた記述がありますが、神宮寺との関係についてはありません。




あみだ堂の小さな窓から中の青石塔婆を




本堂




八幡社  神宮寺とは地続きですので神宮寺を参拝しここちら八幡社を参拝しないわけにはいかないでしょう。




二の鳥居と社殿

散策日:平成30年(2018)4月15日(日)

種垂城(埼玉県加須市)

2018年05月07日 | 100名城以外の城館跡


城 名:種垂城(たなだれじょう)
別 名:種足城
時 期:室町時代
築城朱:佐々木氏
城 主:佐々木氏、小田顕家
遺 構:―
指 定:―
現 状:城址公園
所在地:埼玉県加須市上種足(旧・騎西町)

城址公園として整備されたこともあり、狭いながらも駐車場が確保されています。




「種足城址公園」としての看板と「種誰城跡」としての説明板の二つが並んでいます。




「種足城址公園」としての看板




「種誰城跡」説明板
市町村合併により自治体名が変ったため末尾は加須市教育委員会とシールで書き換えてありますが、説明文の中の、〔雲祥寺
(現川里村)に葬られとの箇所についてはこのままのほうが良いでしょう。
川里村とは北足立郡にあった村で、町制施行で川里町になりましたが、5年半後には鴻巣市に編入されたため川里村(町)は
消滅しています。
かと言って、(現川里村)の部分まで(現鴻巣市)と変えるよりも歴史を語る上ではこのままが良いと思うのです。




周辺図のアップ




種垂城址の石標  よくある標柱や石碑などとは趣が異なりますね  公園と言うことを意識しての造形物でしょうか




公園内です  遺構はありませんし城跡を思わせる雰囲気も遺っていません




公園らしく四阿と遊具のブランコが設けられています
以前は櫓を模したような滑り台があったようですが見当たりませんでした
 



木立もあります




八幡社はこの辺りにあったようです




周囲の田園風景です  これだけ土地改良がされていては遺構は認められないでしょう
種足城址公園の遠景を撮りたかったのですが、丁度いい角度にトラックが止まっていて絵になりませんでしたので(言い訳)




説明板にある小田顕家が葬られている鴻巣市(旧川里町)の雲祥寺




小田顕家の墓(右)と息女の墓(左)

散策日:平成30年(2018)4月21日(土)・26日(木)

騎西城(埼玉県加須市)

2018年05月06日 | 100名城以外の城館跡


城 名:騎西城(きさいじょう)
別 名:私市城・根古屋城
形 態:平城(沼城)
築城年:康正元年(1455)?
廃城年:寛永9年(1632)
築城主:不明
城 主:小田氏、成田氏 等
遺 構:土塁
指 定:市指定史跡(騎西城土塁 平成4年〔1992〕3月16日指定)
現 状:郷土資料展示室・学習センター・住宅地・農地
所在地:埼玉県加須市根古屋(旧・騎西町)

騎西城の歴史については「享徳の乱」あたりから語らなければならないようですし、そんな難しい話は私にはできませんので、
いくつか現地の説明板を載せておきますので参考にしてください。




模擬天守前に設置の「騎西城跡」説明板(案内板)




説明板の中から騎西城復元図(縄張図)をアップ
案内板・標柱のある●印の部分を歩いてみました。遺構があるわけではありませんので場所の確認だけです。30分もあれば廻
れますよと某施設の方の話でしたが、私の場合は倍以上の時間を費やしてしまいました。




「天神曲輪」標柱   曲輪範囲については上掲の騎西城復元図(縄張図)を参照ください(以下同じ)
戦国時代の障子堀を埋めて造った曲輪のようです 




「二の丸」標柱  
生涯学習センター駐車場から北側の住宅地辺りが二の丸の範囲か
発掘調査では建物跡や、矢尻、鎧の部分党等が見つかっている




遺構として唯一残る土塁 高さは3m この土塁が市指定の史跡となっています




反対方向から




土塁の上に「私市(きさい)城阯」の石標




土塁脇に設置されている「武州騎西之絵図」




同じく土塁脇に設置されている「騎西城土塁跡」説明板




騎西城土塁跡説明板の中から「明治・大正期の騎西城」




土塁南側の道路  この道路も外堀の一部だったようです




「騎西城 障子堀跡」説明板  




外濠は道路右側(東側)の住宅街辺りまで続いていたようです




「御蔵屋敷跡」標柱
米などの穀類を貯えた蔵があったのであろうといわれます
戦国時代は障子堀に囲まれていて、戦略上重要な区域だったようです




道路を含む標柱両側から東側一帯が御蔵屋敷跡の範囲  (標柱は道路標識柱の脇にあります)




「騎西城 的場跡」標柱  植木で的場跡の文字が隠れてしまっていますが・・・




「騎西城 的場跡」標柱の側面
戦に備え、城内で火縄銃の練習をした場所とされています




「騎西城 大手門跡」標柱
この道路入口あたりに門は建っていたのでしょうか 絵図には冠木門が描かれているようです




「騎西城 大手門跡」標柱の側面
標柱の向こうにある農地も曲輪跡のようです




前玉神社  玉敷神社が元あった場所
境内には菅原社(天神社)も祀られています




前玉神社説明板 




鳥居と社殿




二の鳥居は両部鳥居  形が分るように斜めから撮ってみました




社殿  




周りの田んぼとの段差が当時を偲ばせています




遺構ではありませんが「中宿公園」




再び騎西城天守 もともと騎西城には天守はありませんでしたから、復元天守でも復興天守でもありません。婦人会館として
建てたものが天守の形をした建物だっただけですが、模擬天守として今では騎西城跡のシンボルです。
まあ、これを見て騎西城を見てきたと言えるわけでわけですから、その価値は十分にあります




天守左側面 (模擬、模擬とあまり付けては可哀相なので外しました。と言いながら模擬という言葉を使っています)




背面と右側面




正直、出入り口の写った写真は使いたくないのですが(天守のイメージが崩れるので)
婦人会館として建てられたこの模擬天守は、ほどなくして郷土資料展示室に変りましたが、常時開館しているわけではなく、
特定の日のみ開館するようです。




天守裏にある水堀
往時のものではないと思いますが雰囲気があります




騎西城周辺年表
パンフレット「戦国から江戸時代へ 騎西城跡」の中に掲載のものです。実際には縦一列ですが横2列に加工しました。

初めて騎西城を訪ねたのは、平成22年1月30日で、周辺の加須市・北川辺町・大利根町と合併し新設の加須市となる前の騎西
町時代のことでした。と言ってもこの約2か月後の3月23日に新・加須市になりました。
それはさておき、訪ねたといっても見てきたのは、婦人会館(のちに郷土資料展示室となる)として建てられた模擬天守だけ
で、他は一切見て来ずだったのです。かと言って、遺構としては土塁が僅かに遺る程度のものですが。
今回は、模擬天守の目の前にありながらも目に入らなかった土塁と城域とされる部分の一部を歩いてきました。




騎西城跡散策とは日を変えて訪れてみた鴻巣市(旧・川里町)の雲祥寺です。その理由は、騎西城主小田顕家の墓を見ておこ
うとのことからでした。




その前にいつものお約束の六地蔵尊にお会いしました。
普段見ているのは立像の六地蔵ですが、当寺のは蓮華座に座った坐像です。




小田家墓所についての説明板




右側の宝篋印塔が小田顕家のもの 左側が息女のもの


散策日:平成30年(2018)4月21日(土)・26日(木)

門井館(埼玉県加須市)

2018年05月05日 | 100名城以外の城館跡


埼玉県加須市南大桑にある『門井館』を訪ねて来ました。
門井館についての歴史は定かではありませんが、【加須市史】では、天正10年(1582)に足利義氏が家臣の石川信濃守
に宛てた書状に、「御代官所は、南大桑に前々の如く仰せ付けられ候」とあり、このことから門井館は、石川信濃守に関連す
る館跡ではないかと推定されているようです。
東西100m程、南北130m程の広大な館跡の周囲は今も土塁や水堀が廻っておりま。屋敷にはご子孫の方が現在もお住ま
いとのことであり、周囲の路上から見学させていただきました。


加須市史によれば天正10年(1582)に足利義氏が家臣の石川信濃守に宛てた所領安堵状に「代官所は南大桑に云々」と
の一文があることに着目しており、南大桑に置かれていた代官所こそが門井館ではないかとし推定しているようです。



北側からの遠景 
土塁が遺っているようですが、ここからでは確認できませんでした。かと言って傍まで行くのは躊躇しました。




東側の水堀 




南側東寄りの堀跡 浅くなってはいますが堀であることは確認できます




屋敷入口  長屋門が見えます 




南側西寄りの水堀 (東 → 西)




同上の水堀を反対方向から (西 → 東)




郭南西部に起伏がありますが土塁跡でしょうか?




西側の水堀 (南 → 北)
フェンス左側の道路は埼玉県道370号(北中曽根北大桑線)




西側から郭を見ています




西側の水堀 (北 → 南)  このあたりでU字溝はなくなっているようです




更に続いている西側の水堀 竹林の前が広くなっていますが・・・



広くなっている部分で西側の水堀と郭内の長屋門の端辺りから外に向かっている水堀と合流しています




合流した水堀は更に北側へと続いているようでしたが、これ以上水堀に沿って進むのは不可能のようでしたのでここで終了




県道370号沿いから北東方向に門井館を見ています

散策日:平成30年(2018)4月21日(土)

荒川氏館(埼玉県加須市)

2018年05月04日 | 100名城以外の城館跡


埼玉県加須市阿良川地内にある「荒川氏館」(阿良川氏館)跡を訪ねてみました。
荒川氏館は、鎌倉時代に荒川太郎が築いた居館と伝わります。館跡と推定される玉泉寺は太田道灌の父・太田道真が開基した
との伝承ですが詳細は不明のようです。




玉泉寺境内は周囲の水田面より微高地にあります。自然堤防なのか、館跡の名残りなのか、水害対策なのかはわかりません。
ただ、水田面が道路や民家宅地などと同じ高さということは物理的にあり得ませんからどちらかに手が加えられていることは
確かでしょう。




玉泉寺側から見ていますが、参道を含め道路も水田面より高くなっています。当然のことです。




境内入り口




何でしょうか? 鐘衝台の跡かと思われる土壇の上にある建物は。鐘撞台にしては中途半端な感じもします。




本堂




本堂背後の竹林




玉泉寺南側にこのような水路があります。館の水堀跡と見る方もありますが、私は後世の農業用水路と見ました。




水路を逆方向に見ています。




水路は玉泉時本堂背後にある竹林の脇を通り、民家に突き当たったところで右に折れますが、また民家に沿って左に折れて続
いています。つまり、鍵の手の形をしているのです。仮にこの水路が館跡の水堀跡であったら、そのまま玉泉寺を囲むように
竹林に沿って流れると考えられます。
しかし、この写真のように民家の脇を流れていますのでやはり農業用水路かと思うわけでした・・・(何を言いたいのか上手
く表現できないでごめんなさい)

散策日:平成30年(2018)4月26日(木)