四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

トラス橋と桜

2019年04月10日 | 花・鳥・風景


今年もまた、埼玉県小川町腰越地内を流れる槻川に架かるトラス橋「矢岸歩道橋」周囲の桜が満開となりました
ので花見に行ってきました。
このトラス橋の歴史については、機会を見て話すことにして、今回は桜を中心に・・・




矢岸歩道橋の北詰




矢岸歩道橋下流左岸から
最近、護岸工事がされてようで、フェンスが設けられた遊歩道になっていました




同じく下流左岸から




同上




矢岸歩道橋の南詰




右岸の堤の下から矢岸歩道橋を




橋の若干上流右岸の河原から




橋のほんの僅か上流右岸の堤から




下流右岸から




堂平山、笠山方向を




橋の上から下流左岸の桜を




同上




再び上流右岸の堤から




再び下流左岸から

散策日:平成31年(2019)4月9日(火)

甲斐国分寺跡(山梨県笛吹市)

2019年04月07日 | 官衙・国分寺・廃寺跡
■ 国指定史跡 甲斐国分寺跡



名 称:甲斐国分寺跡
創 建:天平13年(741)
遺 構:塔跡、講堂跡礎石
指 定:国指定史跡(大正11年〔1922〕10月12日指定)
所在地:山梨県笛吹市一宮町国分(旧東八代郡一の宮町)

天平13年(741)に聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に発した「国分寺建立の詔」により、
全国68ケ所に建立された国分寺と国分尼寺の1ケ所が この甲斐国分寺跡、甲斐国分尼寺跡です。
甲斐国分尼寺跡については近くにありながらも足を運んでいませんでしたので写真はありませんが、昭和24年(19
49)7月13日に国史跡の指定を受けています。




史跡甲斐国分寺跡の看板と標柱




駐車場脇に設置されている「国指定史跡 甲斐国分寺跡・甲斐国分尼寺跡」説明板




同じく「国指定史跡 甲斐国分寺跡」説明板




石碑と碑文




塔基壇跡




塔中心の柱の礎石




金堂跡




「金堂跡」説明板




「中門」の礎石




「塔跡」説明板




塔相輪の露盤




同上




現地で頂いたパンフレット  

これらの写真は、丁度6年前の平成25年(2013)4月7日(日)に笛吹市の「桃の花まつり」で訪ねた3会場の
うちの1か所がここ甲斐国分寺跡であったことから、桃の花を撮った序でに撮ってきたものです。
この時の主体は桃の花で、甲斐国分寺跡はその副産物でしたので数枚の写真しかありません。うち何枚かは桃祭りの
記事に使用したものですが、ここにきてネタ切れになりましたので、未掲載のものと合わせて、「史跡・文化財」カ
テゴリーで再アップです。

散策日:平成25年(2013)4月7日(日)

吉見百穴 桜まつり

2019年04月06日 | まつり・イベント


本日6日、「国指定史跡 吉見百穴 桜まつり」に行ってきました
あちらこちらで桜まつりが開催されていますが、メインの日に丁度満開になって天候も好いということはなかな
かないことですが、今年はうまい具合に行ったようです。

この吉見百穴の桜まつり見学は予定していなかったのですが、他所の桜まつりからの回り込んできたら、何とイ
ベント開催日でした。




埼玉県比企郡吉見町にあるこの「吉見百穴」は、ここ数年ほぼ毎年訪れています。




吉見百穴の説明板




園外では物産展が開かれており、吉見町のマスコットキャラクター「よしみん」もお出ましになっていました。
カメラを向けたらポーズをとってくれました。胸に書かれたの数字は、鴻巣市と吉見町の間を流れる荒川の川幅
日本一の2537mの数字




沢山の方が桜と百穴を見学に来ていました  本日6日は入場料無料








崩れている所にはシートが覆われています。
軍需工場跡の穴は崩壊が激しく一部立ち入り禁止になっています。






天然記念物 ひかりごけ  説明板




覗き穴からどうにか撮ったひかりごけ




吉見百穴の前を流れる市野川の堤の桜が見事です






ここも夜間になるとライトアップされるようです




散策日:平成31年(2019)4月6日(土)

高坂丘陵の鎌倉街道跡碑(埼玉県東松山市)

2019年04月02日 | 鎌倉街道


東松山市高坂地内に「鎌倉街道跡」碑があると知ったのは1年ほど前のことでした。
そこは、東武東上線「高坂駅」の西方にあたり、関越自動車道を超えたところにあります。
この付近における鎌倉街道上道の道筋といえば、現在の毛呂山町・鳩山町・嵐山町・小川町・寄居町と続く上道
の本道が知られています。
無論、本道と分岐したり繋がったりする多くの支道(枝道)があるわけで、この高坂地内の田木と岩殿の境を通
っていた鎌倉街道跡と伝わる道も支道の一部なのでしょう。
所用で付近まで行くことはあっても、中々、碑を訪ねるまでには行きませんでしたが、やっと行ってきました。
写真中央の三角地帯のこんもりした所に鎌倉街道跡碑はあります。左側の道路が鎌倉街道跡とされるれっきとし
た古道のようです。




「高坂駅」はこの地図の右方向にあります いとう小児科の右の赤二重丸が鎌倉街道跡碑のある場所です
オレンジ色の●で印した道路が鎌倉街道跡ですが、南側の丘陵地は住宅団地に変貌しており、かつての街道跡が
どこを走っていたかもわからない状況です。
この地図では不明瞭ですが、●で印した道路の左側が岩殿、右側が田木で、その昔は岩殿村、田木村でした。




南方から北方に鎌倉街道跡を見ています




道路(鎌倉街道跡)から生垣越しに「史跡 鎌倉街道跡」碑を撮影
ここに碑があることを知っていない限りは生垣に遮られて気付くこともなく通り過ぎてしまうでしょう
碑は、鎌倉街道跡の道路を向いて建立されています。
また、碑の左に見えるのは、舟形後背のお地蔵さんの側面です




石碑には次のように刻まれています

史跡 鎌倉街道跡

この街道は鎌倉より武蔵国の中央を南北に走り入間川を渡り 上戸 広谷 石井 吉田 田木を通り青鳥 村岡 熊谷 妻沼
を経て上野国新田方面に至る古道で通称鎌倉街道と言う 応永年間別府入道代内村勝久到着状承元四年小代八郎
行平譲状には「吉田村の四至として西にだいどう古道北はたむきの境をかぎる」と記されて古道と集落の存在を
示している 文治三年奥州平泉に源義経の後を追いし熊野の豪族鈴木三朗重家は洪水のため閻魔堂に一夜の宿を
求め今に鈴留川の地名を残せり、閻魔堂とは北の台地にてこの付近は山門跡なりと言い伝う 中世文書に館跡寺
院跡とうの所在を窺わせ大道と言う名称を用いられていたが近世五街道制の整備と共に消滅し伝承を残すのみで
ある 今や急激なる都市化が進みその姿を失うに至ったのでここに同志相計り 碑を建設し後世に伝えるもので
ある 
 昭和五十九年四月十日

裏面には、鎌倉街道伝承保存会 とあり、会員のお名前が刻まれています。

碑文にある上戸、広谷は現在の川越市 石井、吉田は坂戸市 田木はここ東松山市高坂 青鳥は東松山市 村岡、
妻沼は熊谷市になります。
では、この鎌倉街道は本道のどのあたりで分岐したしたのかとなると、入間川を渡りとあるだけで、その場所は
特定されていないようです。
一応、色々と調べてはみたところ、三ツ木(狭山市)あたりから分岐しているような街道図がありましたが、三
ツ木はあくまで推定地であって、三ツ木から高坂の間は破線で表示されておりましたので経由地も不明のようで
す。
なお、碑の右側に枯れた大きな切り株がありますが、これはこの場所の象徴であった松の木のもので、5年ほど
前に枯れたので切ってしまったようです。




三角地帯の北辺です。




「普門品供養塔」(ふもんぼんくようとう)とある舟形光背の北向き地蔵尊です。
宝暦四年甲戌天正月吉日とあります。宝暦四年は、西暦1754年ですので265年経っています。そんな長い間、街道
を行き来する人を見守り続けていることになります。




お地蔵さんの右側にある桧(?)の幹に竹が縛り付けられています。「ふせぎ」と言われる伝統行事のようです。
「ふせぎ」とは集落の入り口や外れで、魔除けや悪い病などが入ってくるのを防ぐために竹に藁の飾り物などを
付けたものを辻に立てたり、木の幹に縛り付けたりして魔除けをするという行事で、飾り物等は地域によって異
なるようです。この桧(?)の幹に縛り付けられているものも元はもう少し飾り物が付いていたのではないでし
ょうか。
なお、松の木が枯れるまでは松の木に縛り付けていたようですが、まさにここはかつては岩殿村と田木村と言わ
れたころの集落の外れであり、入口でもあったわけです。

散策日:平成31年(2019)3月11日(月)

さくら

2019年04月01日 | 花・鳥・風景


所用からの帰り道、嵐山町の都幾川桜堤の桜の咲具合はどんなものかと回り込んでみました。
見てきた所は、都幾川桜堤とは言っても、菜の花とのコラボが楽しめる学校橋付近よりも上流に架かる千騎沢橋
から二瀬橋方向への途中までのほんの僅かな距離でした。




全体では三分咲くらいでしょうか?




この桜の木に数羽の小鳥が・・・




メジロでした。枝に隠れて姿を捉えるのは難しいので、枝が疎らの高い所に止まったのを狙って撮ってみました。












人や車がなるべく入らないように撮りましたので、花見客がいないように見えますが、それなりに来ていました。










散策日:平成31年(2019)3月31日(日)