「心はデジタル」は言い過ぎだと思う。
偉い禅僧のことだぜ。(ワシも書いたけど・・・)
でも高僧は言い過ぎくらい気にしない。
知っての嘘だから、確信犯だ・・・。
高僧の言葉は冗談(嘘)9割だ。
イチローなんて目じゃない。
苦しみからの解放法に固定概念の転覆がある。
だが固定概念をひっくり返すのは大変だ。
優しく説明してひっくり返るわけがない。
言い過ぎくらいで、ちょうどいいんだ。
だから、ワシの言い過ぎも責めないで・・・
心についての説明はどう書いても充分じゃない。
ワシもメンドウになってきた。
でも乗りかかった船。
乗りかかった美女。
もう少し、付き合ってみようか。
(注:美女に乗りかかったのはワシではない。
ワシに乗りかかってきたのは美女だ。
誤解は止めようね。
ワシが船に乗り込んでも問題ないが、
船がワシに乗りかかってきたら・・・困る。
ワシが美女に勝手に乗りかかったら問題だが、
美女がワシに勝手に乗りかかっても問題ない。
日本語はいろいろあるのだ・・・)
閑話休題・・・
心の仕組みはデジタルだが、
仕組みを活かして使う人は少ないのだ。
使い方は「意思」による。
仕組みは「意識」によるのだ。
つまり「意識」はデジタル。
「意思」はアナログなのだ。
意識と意思の両方を「心」とするならば、
心はデジタルとアナログの混合世界だ。
だから・・・迷う、迷いがちになる。
デジタルのカケラに意味をもたせるからだ。
デジタルのカケラをアナログと履き違えるからだ。
明鏡止水の人も・・・タマにいる。
「意思」の使い方を自然体にすると、
相手の仕組みに逆らわないからだ。
禅僧はそれを言ったんだなぁ・・・。
「ウ○コするのに飯をもちだすな!」
(高僧なら、このくらいの下品は言うと思う)
わかりづらいよねぇ・・・
心のデジタルとアナログの話。
明日は例え話でいってみよう。
そうねぇ・・・
失恋の話でいってみよう。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」