(東)島田駅発行 普通入場券

いまからちょうど38年前の、1986(昭和61)年10月30日に、東海道本線の島田駅で発行された普通入場券です。


   

白色無地紋のB型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたもものです。
この当時の国鉄では、硬券の需要の縮小に伴って各印刷場の受け持ち範囲に変更がなされており、従来は名古屋印刷場が受け持っていた静岡県内の各駅分については東京印刷場に移管され、欠札になり次第東京印刷場で調製された券に移り変わっていきました。
ただし、名古屋印刷場から引き継がれた静岡県内用の硬券は、東京印刷場が調製してはいますが、券面のレイアウトについては名古屋印刷場のものにできるだけ準拠させており、小児断片内の記載が縦書き(東京印刷場では横書き)であったり、一番下の行に発行駅名を挿入(東京印刷場では、普通入場券に発行駅名の表示はしない)したりしてあり、首都圏で見かけるものとは体裁が異なっていました。

御紹介の券は東京印刷場が名古屋印刷場のレイアウトに倣って調製したものになります。
島田駅は、静岡県にある東海道本線の島田(しまだ)駅の他に、山口県内の山陽本線にも島田(しまた)駅があるため、線名符号を付ける必要があったことから、「(東)島田 駅」という表記になっています。

東京印刷場で調製された島田駅の普通入場券は、御紹介の券が初ロットのもので、発注された時期が来年のJR民営化を控えた時期であったことから、民営化以降に使用する見込みのない特活を新たに作成することはしなかったか、もしくは単に作成が間に合わなかったという理由から、本来であれば「(東)島田 駅」と特活を使用するべきところ、「(東)島田 駅」と通常の活字を組んで作成された可能性があります。

ただし、発行駅名と小児断片の部分には「(東)」の特活の在庫があったのでしょうか、こちらについては特活が使用されています。

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胆振線 壮瞥駅発行 普通入場券

いまからちょうど38年前の1986(昭和61)年9月10日に、胆振線の壮瞥(そうべつ)駅で発行された普通入場券です。


   

白色無地紋のB型大人・小児用券で、札幌印刷場で調製されたものです。

胆振線はかつて国鉄が運営していた路線で、室蘭本線の伊達紋別駅から函館本線の倶知安駅までを結んでいて、国鉄再建法の制定に伴って、1984(昭和59)年に第2次特定地方交通線として路線の廃止が承認され、御紹介の券が発行されて1ヶ月と20日後の1986(昭和61)年11月1日に路線が廃止され、同線の廃止にともなって壮瞥駅も廃駅になっています。

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荻窪駅発行 普通入場券 ~その4

前回エントリーまで、中央本線荻窪駅のマルス端末で発行された普通入場券を御紹介いたしましたが、同駅には印刷発行機も設備されていましたので、縦型様式の券も発行されていましたので御紹介いたしたいと思います。


   

1985(昭和60)年12月に荻窪駅の印刷発行機で発行された普通入場券です。
若草色国鉄発券機用特殊地紋券紙の券で、図示いたしませんが、裏面の磁気情報は無く、白色になっていました。

この券は本屋にある窓口で発売されたもので、ここには2窓ありましたが、向かって左側のみどりの窓口でない窓口に設備されていたものです。
本屋の窓口が2窓あったものの、印刷発行機が設備されていました左側の窓口では指定券類の発売ができなかったため、右側のみどりの窓口はいつも人が並んでおり、長距離乗車券と自由席特急券等だけを購入する場合には、左側の窓口に並んだ方が早く購入できたことが多かったように記憶しています。

その後、いつの間にか印刷発行機は同駅から撤去され、2窓ともマルス端末になり、どちらの窓口でも指定券類を購入することができるようになりました。

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荻窪駅発行 普通入場券 ~その3

前回エントリーで、国鉄最終日に中央線荻窪駅で発行された,マルス端末で発行された普通入場券を御紹介いたしました。
マルス端末で発行される券は、現在では改ざん防止のために独特な書体の数字が使用されていますが、登場したばかりの頃は、現在のものと字体が異なっておりました。


   

1984(昭和59)年3月に荻窪駅のマルス端末で発行された普通入場券です。
若草色国鉄発券機用特殊地紋券紙のマルス券で、図示いたしませんが、磁気情報の無い時代のものです。

この券は本屋にある窓口で発売されたもので、ここには2窓ありましたが、向かって右側のみどりの窓口設備されていたものです。たしか、同駅で従来の連帳型券紙が使用されていたN型端末から301型端末に変更された当日に購入したものです。


   

再掲いたしますが、券面のレイアウトはさほど変更されていませんが、数字の字体が大きく更新されており、初期の様式はかなり雰囲気が異なっていました。

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荻窪駅発行 普通入場券 ~その2

前回エントリーで、中央本線荻窪駅の国鉄最終日に発行された普通入場券を御紹介いたしましたが、当日はマルス券による普通入場券も購入しておりましたので御紹介いたしましょう。


   

国鉄最終日である、1987(昭和62)年3月に、中央本線荻窪駅で発行された普通入場券です。
若草色国鉄発券機用特殊地紋券紙のマルス券で、図示いたしませんが、磁気情報の無い時代のものです。

この券は本屋にある窓口で発売されたもので、ここには2窓ありましたが、向かって右側がみどりの窓口になっており、左側の窓口は印刷発行機のみの窓口になっていました。

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荻窪駅発行 普通入場券 ~その1

前回エントリーで、JR東日本の中央本線荻窪駅で発行された普通入場券を御紹介いたしました。
同駅では、国鉄最終日にも普通入場券を購入しておりましたので御紹介いたしましょう。


   

国鉄最終日である1987(昭和62)年3月に発行された、荻窪駅の普通入場券です。
白色無地紋のB型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。

当時の同駅は、地下になっている本屋の、みどりの窓口のあったあたりに窓口が2窓あり、橋上駅舎になっている西口の、今はハンバーガーショップになっているあたりに窓口が1窓ありました。西口の窓口は◯B窓口となっており、長距離乗車券や急行券類・指定券類などの発売はありませんでしたが、入場券と連絡乗車券を硬券で発売しており、近隣では硬券の宝庫のような存在でした。
しかし、JR化後の平成初頭に窓口が閉鎖され、硬券の発売が無くなってしまっています。

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京都駅発行 普通入場券

新年から数えて7日目の1月7日は「人日(じんじつ)の節句」といわれ、「人を大切にする日」という意味合いを持つ日だそうです。そして、1月7日には七草がゆを食べてほっとおなかの調子を整えるという風習があります。七草は早春にいち早く芽吹くことから邪気を払うといわれたことから、無病息災を祈って七草がゆを食べた習慣が江戸から広まっていったようです。

さて、今回は1984(昭和59)年3月に、東海道本線の京都駅で発行された普通入場券を御紹介いたしましょう。


   

白色無地紋のB型大人・小児用券で、大阪印刷場で調製されたものです。


   

裏面です。大阪印刷場で調製された硬券の入場券は、「旅客車内に立入ることはできません。」の文言が裏面に印刷されている独特な様式になっています。
この様式は国鉄が民営化された後のJR西日本となってもそのまま継承されておりましたが、広島印刷場が閉鎖されて大阪印刷場に統合されてからは、この様式とは異なり、広島印刷場の様式に則ったような様式の券が登場しています。

今年のNHK大河ドラマは源氏物語がテーマの内容であるということですので、京都の観光需要がますます高まりそうですが、観光産業とは関係のない京都の方々にとっては、いろいろと困りごとがありそうな一年になりそうです。

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辰野駅発行 普通入場券

 新年あけましておめでとうごさいます。

本年も昨年同様、御贔屓のほど、よろしくお願い申し上げます。

昨年はも隔日ながら、なんとか1年間更新を続けることができました。これはひとえに皆様の暖かい御支援の賜物であります。
ありがとうございました。
本年も変わらぬ御支援のほど、よろしくお願いいたします。

さて、本年1番目の記事は、毎年恒例の干支に因んだ券を掘り出した話題にしたいと思います。

発行年はだいぶ古くて新年とは関係ないですが、1983(昭和58)年12月に中央本線(東線)辰野駅で発行された普通入場券です。


   

白色無地紋のB型大人・小児用券で、民間印刷場で調製されたものです。

この券が発売された当時は、国鉄では合理化が進み、長野および新潟・山形・秋田各地域の硬券を印刷していました新潟印刷場が閉鎖され、その業務は民間の印刷会社に委託されておりました。民間印刷会社で印刷された硬券は「民間印刷券」と呼ばれており、その印刷方法は当時の最先端の方法が採られており、オフセット印刷による大変券面がきれいと言うか、こざっぱりとしたものが設備されていました。
いまでことオフセット印刷で印刷された硬券が地方民鉄で採用されていますが、当時としては画期的なもので、従来の活版印刷のものとちがい、一目で判別できました。

登場した当初は「すごくきれいでいいな」と思ったものですが、今となっては活版印刷と違って「味」がなく、管理人としては、なんとなく残念な様式です。

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肥薩線 真幸駅発行 普通入場券

肥薩線の「山線区間」と呼ばれる人吉駅~吉松駅間には途中駅が3駅あり、内2駅は前回および前々回エントリーで御紹介いたしました、熊本県人吉市にある大畑駅と矢岳駅になります。3駅目が今回御紹介いたします真幸(まさき)駅です。


   

1984(昭和59)年12月に真幸駅で発行された普通入場券です。白色無地紋のB型大人・小児用券で、門司印刷場で調製されたものになります。
同駅は肥薩線の中で唯一の宮崎県内にある駅で、宮崎県えびの市に位置しています。矢岳駅側には熊本県との県境の山があり、そこを貫く矢岳第一トンネルがあります。
日本の鉄道の初期の頃に建設されたこのトンネルは、建設工事の最中に多数の犠牲者を出したほか、異常出水によって資材運搬用の馬が荷物ごと押し流されてしまったという話が残されています。また、管理人のハンドルネームとして取らせて戴きました観光列車「いさぶろう・しんぺい」の名前の由来となった山縣伊三郎と後藤新平が、それぞれの筆による「天険若夷」(てんけんじゃくい)と「引重致遠」(いんじゅうちえん)の扁額がトンネルの出入り口に付けられています。この意味は、「天険、夷の若し(てんけんいのごとし;天下の険しい難所を平地のようにした)」というものと、「重きを引きいて遠きに致す(おもきをひいてとおきにちす;重い物を引いて遠くへ至ることが出来る)」という意味になります。

矢岳駅を過ぎるとこんどは鹿児島県との県境の山があり、そこを貫く第二山ノ神トンネルがあります。このトンネルを抜けると鹿児島県になりますので、同駅は熊本県と鹿児島県の県境の間にあり、3駅連続で県が変わる非常に珍しい区間になります。

この第二山ノ神トンネルにも悲しい歴史がありました。
戦後すぐの吉松駅では帰郷の列車を待つ多くの旅客(復員兵)でごった返していたそうです。駅周辺で1万人くらいの復員兵が、民家に泊めてもらったりしながら列車に乗れる日を待っていたそうです。
1945(昭和20)年8月22日の午前10時30分、客車5両と8両の客車代用の無蓋貨車で組成された混合列車は、最先頭の本務機関車に引かれ、最後部から補助機関車が押す形で、吉松駅を熊本県人吉駅方面に出発しました。列車は満員の復員兵のためにかなり重量が重かったようで、重量に耐えかねて空転を連発しながら第二山神トンネルに進入していったそうです。ところが、最後部の補助機関車がトンネルに入って八合目付近まできたとき、列車は品質の悪い石炭の影響で力尽き、ストップしてしまいます。
先頭の本務機はトンネルから出たものの、機関車の吐き出す石炭の黒煙や蒸気を帯びた高温と息苦しさに耐えかねた大勢の復員兵は、列車が「火事になった」などうわさが飛び交ったため、あわてて線路に飛び降りて歩いてトンネルの外に出ようと、トンネルの入口に向って線路を歩き出しました。当時は車内放送設備がないため車掌から線路に降りないようにという注意喚起をすることは不可能であり、また後部補助機の乗務員は呼吸困難のため意識もうろうの状態にあって阻止することができず、また先頭の機関士に連絡するすべもありませんでした。
悲劇はこの時に起こりました。先頭の本務機関車はすでにトンネルを抜け出していましたが、当時は無線による乗務員間の連絡手段などというものは無かったため、トンネル内でストップしている後部補助機関車を一刻も早くトンネルから出してやらなければ窒息すると思った本務機の機関士が、トンネル内を復員兵が歩いて避難しているという事実を知らなかったため、列車をバックさせたのです。
暗く狭いトンネル内に降りた大勢の復員兵は、後部補助機関車に次々に轢き殺され、あるいは負傷してしまい、死者49人、負傷者50余人を数える惨事となりました。

旧吉松町(現湧水町)の郷土史には、「戦争終結によって、やっと命をとりとめた、夢にまで見た故郷の土を踏む前に、肥薩線第ニ山神トンネルの枕木を赤く染めてはかなく散っていった兵士たちの心情を察するに余りあるものがある」と書かれており、17回忌の1961(昭和36)年に、地元の有志によって慰霊塔が建設され、毎年8月22日には欠かさずその供養が行われているとのことです。

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肥薩線 矢岳駅発行 普通入場券

1984(昭和59)年12月に肥薩線の矢岳駅で発行された普通入場券です。


   

白色無地紋のB型大人・小児用券で、門司印刷場で調製されたものです。
前回エントリーで御紹介いたしました大畑駅とともに、肥薩線の「山線」と呼ばれる険しい区間にある駅で、同駅も熊本県人吉市にあります。1面1線の小さな駅ですが、かつては木炭や木材の積み出しで賑わっており、貨物側線のある駅であったそうです。

駅正面から約100メートル程度離れた場所には明治時代に建てられた矢岳駅の駅長官舎が残されています。これは、肥薩線開通に伴って建てられたものと言われていて、建物財産票には明治42年11月と記載されていますが、実際の完成はそれより早かったとも言われています。1980(昭和55)年に地元の公民館に転用され、さらに2002(平成14)年には個人所有になり、住居として使われていたようです。
しかし、全国的に残存例が少ない明治期の鉄道官舎として貴重なものであるとして、2003(平成15)年7月に国の登録有形文化財に登録され、現在はどのようになっているのかが不明ですが、2019(令和元)年より、ホテル「星岳」として生まれ変わっているようです。

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