趣味で蒐集した「きっぷ」を見て考えたこと、とか…
JR直営の印刷場名は国鉄時代の印刷場名を使用します。
古紙蒐集雑記帖
上田交通 上田駅発行券売機券 (~その2)
前回エントリーで上田交通の一般式券売機券を御紹介たしましたが、同券売機には矢印式となる口座もありました。
昭和61年3月に国鉄側の券売機で発行された、赤坂上および上田原ゆきの片道乗車券です。水色無地紋のA型券で、キレート式券となっています。
この券売機では、前回エントリーのような着駅が1つしかない区間については一般式券となっておりましたが、御紹介のように着駅が複数ある区間についてはこのような矢印式券となっていました。
当時、趣味的に硬券の方が鉄道愛好家には歓迎されていたことと、国鉄から乗換えて乗車する旅客が多かったからでしょうか、券売機券の発行枚数はそこそこあったものの、コレクションとして残されているものはあまり見かけないような気がいたします。
当時としては日影的な存在の券売機券でしたが、今となってはこちらの方が絶滅してしまっており、コレクション的には貴重な券とも言うことができるかもしれません。
上田交通 上田駅発行券売機券 (~その1)
昭和61年3月に上田駅の券売機で発行された片道乗車券です。
水色無地紋のA型券で、一般式券となっています。
当時の上田駅は地上駅となっており、現在のお城口の方にしか駅出口はありませんでした。駅業務は国鉄が行っておりましたので、上田駅から上田交通に乗車するには国鉄の出札で上田交通の乗車券を購入し、国鉄の改札口を通って跨線橋を渡ってホームへ向かいました。
上田交通のホームに着くと、上田交通の駅事務室があり、国鉄から乗換える旅客はここで国鉄の乗車券を出して上田交通の乗車券を購入するようになっていました。
上田交通の出札口は硬券のみが設備されていましたが、国鉄の出札には早くから専用の券売機が設備されていました。この券は国鉄出札口にある券売機で発行されたものです。
印板式の旧型券売機ですがインクはキレート式となっており、国鉄のキレート式券売機と印字方法を共通化することにより、インクの補充等のメンテナンスを簡易にさせていたものと考えられます。
昭和60年代の上田交通別所線の有人駅は、上田駅の他に当時車庫のあった上田原駅と終着の別所温泉駅となっており、現在車庫がある有人駅である下之郷駅は無人駅でした。
有人駅各駅では乗車券の発売は行われておりましたが、当時別所温泉駅には券売機は設備されていなかったと記憶していますので、上田駅のものが同社唯一の券売機券であったと思われます。
鉄道作業局 レプリカ乗車券
前回エントリーで国鉄が作成した帝國鉄道廰のレプリカ硬券を御紹介いたしましたが、同時に鉄道作業局時代のレプリカ券もございますので、御紹介いたしましょう。
桃色鉄道作業局地紋のA型券です。やはり、昭和47年の鉄道100年を記念して、国鉄東京印刷場で作成されたレプリカ券です。
「富士登山回遊乗車券」というこの券は企画乗車券の元祖のような券と思われますが、中央本線の飯田町駅から大月駅までの乗車券と、東海道本線(現・御殿場線)御殿場駅から新橋までの環状乗車券となっており、途中大月~御殿場間を富士登山で走破するものです。
「回遊乗車券」とは環状の乗車券である、という記述のサイトを見かけたことがありますが、ここでの回遊乗車券は企画乗車券の一種と考えられます。
この時代ですと尋常小学校ではひらがなではなくカタカナから教育をしたからでしょうか、ひらがなは一切なく、漢字とカタカナで券面が印刷されています。
そして、面白いことに運賃の表記が「賃金ハ掲示ヲ見ラルベシ」と記載されており、もしかすると季節によって運賃が変動していたのかもしれません。
地紋部分を拡大してみました。
鉄道作業局という文字を中心として、帝國鉄道廰のもの同様に紙幣のような文様が描かれています。
鉄道作業局は帝國鉄道廰の前身で、明治30年に逓信省鉄道局の現業部門が分離された時にできた部署で、鉄道局が監督行政のみを所管していたのに対し、鉄道作業局は現業部門全体を管理していました。
鉄道作業局は発足してから10年後の明治40年に、帝國鉄道廰に改組されています。
帝國鉄道廰 レプリカ乗車券
昭和47年10月に国鉄東京印刷場が作成した、帝國鉄道廰(帝国鉄道庁)時代の乗車券のレプリカです。
東京印刷場で調製されたA型の一般式券で、帝國鉄道廰地紋の当時の様式を再現したものとなっています。
帝國鉄道廰は、明治40年に逓信省(後の運輸通信省。現在の国土交通省の母体。)鉄道局から分離された逓信省外局である鉄道作業局から改組された組織で、鉄道を運営する現業部門として設けられましたが、監督部門と現業部門が分かれていることによる混乱から、翌41年には鉄道局と統合されて鉄道院に改組され、実質1年足らずの組織であったようです。
そのため、帝國鉄道廰時代の乗車券は明治40年から41年の1年間に発行されていたこととなり、発行期間が極端に短かったことから実物はさほど現存していないものと思われます。
国鉄東京印刷場では、鉄道100年を記念して、このレプリカ乗車券を作成し、乗車券見本帳に添付して関係者に配布されましたが、縁あってその中の1枚が私のコレクションとして手元に保管されています。
御紹介の券は、志ながは(=品川)からおほさか(=大坂。現、大阪)までの3等常備片道券で当時の様式が再現されています。当然ながら、明治40年から41年の間に発行されたものが原型となっているものと思われますので、当時の乗車券はこのようなものであったのでしょう。
地紋は桃色で、真ん中に「帝國鉄道廰」を配置し、放射状に現在でも紙幣や有価証券等に描かれている文様のような地紋になっています。
「帝國鉄道廰」部分の拡大です。「國」と「廰」の文字が旧字体となっており、明治時代ですから右側から読むようになっています。
当時の券は、注意書き等は漢字が使用されておりますが、発駅および着駅についてはひらがなが使用されておりました。これは当時はまだ日本人の識字率が低かったためにひらがなが使用されたのではないかと考えられます。
JR東日本 快速フェアーウェイ号座席指定券
昭和63年9月に宝積寺駅で発行された、快速フェアーウエィ号の座席指定券です。
緑色JRE地紋の料金専用特別補充券(料補)で発行されています。まだ民営化初期の様式で、現在の料補よりも国鉄時代の料補に近く、指定欄が横に連なっています。
快速フェアーウェイは民営化後の昭和62年9月から運転開始された定期快速列車で、快速ムーンライト(後のムーンライトえちご)の間合運用として、沼垂区の165系電車を使用して新宿~黒磯間の1往復に設定された、全席指定の快速でした。
列車名の通り、沿線のゴルフ場への足として誕生したようですが、平日の利用率の低さから平成5年に休日および多客時のみの運転の不定期列車となり、485系電車に置き換えられてからは会津若松まで延長運転もされています。しかし、その後平成20年代になってから運転されていませんので、事実上廃止されてしまったものと思われます。
当時、宝積寺より普通列車で東京へ帰る予定でしたが、次の列車が快速フェアーウェイ号の新宿ゆきであるということでしたので、駅窓口で座席指定券を購入して乗車した次第です。
当時の宝積寺駅のマルス端末の有無などの記憶が定かではありませんが、ホームにある事務室で座席指定券を発売している旨の案内があり、特に補充券でとお願いしたわけではありませんでしたが料補での発券となったように記憶しています。
着地の新宿では列車ホームに到着し、当時階段下にあった中間改札口で、裏にボールペンで「無効」と書かれています。
JR東日本 荻窪から1540円区間ゆき券売機券
昭和63年2月に荻窪駅で発行された、1540円区間ゆき券売機券です。
桃色こくてつ地紋の自動改札非対応の裏面が白いサーマル式券で、国鉄民営化から1年間の暫定期間内に発行されたものです。
どこへ行くために購入したものであったのか失念してしまいましたが、着駅が無人駅であったのか、そのまま手元に残されたまま現在に至っております。
当時、国鉄民営化によって国鉄は6つの旅客鉄道会社に分割のうえ民営化されましたが、硬券および券売機券の券紙については国鉄末期に印刷納入されたものが大量に在庫されておりましたため、民営化1年間については国鉄時代のものを使用することが許されました。ターミナル駅等では順次JR地紋の新券紙に切り替えられてゆきましたが、中小の駅によっては期限ぎりぎりまで旧券紙が使用された駅もありました。
荻窪駅も国鉄末期に大量の券紙が納入されていたのでしょうか、民営化から10カ月経過しても旧券紙が使用されていました。
自宅での保存はきっぷ用のコレクター台紙に入れて保存しておりますが、サーマル券はビニール等の可塑剤に触れると化学変化が速まって印字が不鮮明になりやすいため、トレーシングペーパーで包んで保存しておりましたが、さすがに26年近く経過しておりますので、印字が不鮮明になってきてしまっています。
JR東日本 品川から静岡までの自由席特急券
平成17年9月に、特急東海号車内で買い求めた自由席特急券です。
橙色JRE地紋のレシート券で、東京車掌区乗務員にて発行されています。
この券は勤務中に静岡のお客様のところへ打ち合わせに赴く際に使用したもので、いずれ廃止されてしまうであろう「東海」号に乗車すべく、新幹線で行くより少々早く自宅を出発して乗車しました。
指定席ではありませんので残念ながら「東海」号の文字はありませんが、東海号が廃止された現在では静岡までの自由席特急券を購入することはできませんし、「31M」という列車番号が記載されていることで、辛うじて東海号の特急券であることが判る次第です。
阿武隈急行 第1種特別補充券
昭和62年9月に発行された、阿武隈急行の第1種特別補充券です。
緑色阿武隈急行自社地紋で、カーボン紙を挟んで記入する様式となっています。
発行日については月日のみを記載するようになっており、年号の記載はありません。また、発行箇所名については列車名および駅名の双方の欄があり、出札補充券・車内補充券の双方に使用することができます。
この券は列車内で車掌氏から買い求めたものですが、購入した頃の同線は旧国鉄丸森線部分のみの暫定開業の状態であり、国鉄からリースされたキハ22型気動車でツーマン運転されておりましたので、列車名の末尾に「D」が付いており、気動車列車であったことが判ります。
当時の車掌氏はこの第1種特別補充券の他、駅名式の補充券を携帯しており、通常社線用として発行するときは駅名式券を使用していましたが、お願いすれば第1種特別補充券での発行をして戴くことも可能でした。
この券を購入した10ヶ月後に阿武隈急行は全線が開通し、その際にはワンマンの交流電車に置き換えられておりますので、車内で車掌氏から補充券を買い求める機会はなかなかないものと思われます。
裏面です。
ご案内は同社オリジナルのもののようですが、同社の開業は昭和61年7月でしたので、国鉄連絡乗車券など、「国鉄」の記載があります。
情報によりますと、国鉄民営化から26年が経過した今でも、この券が使用されているとのことです。
東京都区内から燕三条・西燕・東三条間ゆき乗車券
昭和60年4月に西日暮里駅で発行された、燕三条・西燕・東三条間ゆき硬券乗車券です。
青色こくてつ地紋のA型券で、東京印刷場で調製されたものです。右上に「(615)」という表記があることから、この券は口座管理されたものであり、都区内各駅ではこの請求番号で請求することによってこの券を取り寄せることが出来ました。
乗車経路は「東北線~高崎線~上越線~弥彦線」という経路ですが、券面に表記されている経由は「上越線(新幹線)経由」となっており、国鉄時代の長距離硬券乗車券において、新幹線経由を明記している券は比較的珍しい存在であったように思います。
ジェイアールバス関東 さようならJRバス常野線記念乗車券
平成23年3月31日限りで廃止された、ジェイアールバス関東常野線のさようなら記念乗車券です。
乗車券の表紙部分です。都心では殆ど見かけなくなったいすゞ自動車製の「キュービック」が烏山駅駅舎と共に写っています。
宇都宮支店の発行でしたので「宇都宮支店」の表記がありますが、この券は東京駅のJRバスターミナルにある出札窓口で購入いたしました。
裏面には常野線と言うより、常野線の運行を担当していた宇都宮支店烏山営業所の沿革が書かれています。
では、中の券を御紹介いたしましょう。
中には2枚の硬券が入っており、1枚目は馬頭停留所から小川辻町停留所ゆきの一般式乗車券で、
2枚目は烏山駅から藤沢停留所ゆきの相互式乗車券です。烏山と藤沢はどちらもJR東日本の鉄道線に存在する駅名と同一ですので、パッと見鉄道の乗車券のように感じられてしまします。
双方とも桃色JRB地紋のB型券で、東京印刷場様式の硬券となっています。印刷されたところは不明ですが、関東交通印刷あたりで印刷されたのでしょうか?
それぞれの裏面です。ワンマンバスの乗車券ですので、料金機で裏返しになっても良いように裏面にも区間が印刷され、平成23年3月31日まで有効である旨の記載があります。
面白いことに、裏面についても一般式券と相互式券を使い分けて印刷されています。
宇都宮支店烏山営業所は昭和9年に鉄道省の烏山自動車所として開設され、昭和11年には烏山自動車区になります。
戦時中に烏山自動車区宇都宮派出所が宇都宮支区に昇格し、戦後宇都宮自動車区に分離昇格され、その直後に2つの区はそれぞれ烏山自動車営業所および宇都宮自動車営業所になりましたが、昭和62年の国鉄分割民営化によって東日本旅客鉄道関東自動車事業部管轄となり、それぞれ烏山自動車営業所と宇都宮自動車営業所に改称されます。
翌年のJR東日本の自動車部門分割子会社化によってジェイアールバス関東の烏山営業所と宇都宮営業所となり。その後ジェイアールバス関東の組織改正により烏山支店と宇都宮支店に改組となりますが、平成16年に烏山支店は宇都宮支店烏山営業所に降格され、さらに平成18年には宇都宮支店の烏山車庫と再度降格され、常野線廃止の平成23年に車庫はとうとう閉鎖されてしまいました。
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