JR直営の印刷場名は国鉄時代の印刷場名を使用します。
10年以上前に御紹介した券も再度御紹介しようかと思います。
古紙蒐集雑記帖
YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE '89
題名を見て「なんぢゃ、こりゃっ?」と思われるかもしれませんが、「YOKOHAMA EXOTIC SHOWCASE '89」よりも「YES '89」と言えばピンとくる方もおられると思います。
これは、1989年3月25日から同年10月1日までの191日間、横浜市政100周年および横浜港開港130周年を記念してみなとみらい21地区で開催された、横浜博覧会のことです。
期間中、鉄道好きにはたまらないアトラクション(?)として、1911年に開通した貨物線(通称;高島線)の一部区間である山下臨港線跡を利用し、桜木町駅に隣接していた「日本丸駅」からマリンタワー前にあった「山下公園駅」間を、気動車による列車の運転が行われていました。
これが当時の乗車券です。
大人用は片道400円で、グリーンの「汐風號」の写真が、小児用は片道200円で、マルーンの「浜風號」の写真が、それぞれ印刷されています。
日本丸駅と山下公園駅のどちらからも乗車することができましたが、私の記憶では、どちらの駅できっぷを購入しても、全く同じ券だったと思います。
博覧会閉幕後、一時は山下公園へのアクセス路線としての復活話もあったと聞いておりますが、それが実現されなくなってしまった現在、レールは撤去され、山下公園に隣接した高架部分は「景観を損ねる」という理由から解体されて姿を消してしまい、残された一部区間は「山下臨港線プロムナード」という遊歩道になって、その面影をとどめているに過ぎません。
また、当時の車輌は2編成とも三陸鉄道に引き取られ、「レトロ調車輌」として活躍しましたが、老朽化による後継車輌への代替のため、2005年と2006年にそれぞれ引退してしまいました。
蒲原鉄道の東京都区内ゆき連絡乗車券
1999年10月4日、磐越西線五泉駅と村松駅を結ぶ、全長4.2キロというミニ路線である、蒲原鉄道が廃止されました。
もともと同線は、五泉駅~村松駅~信越本線加茂駅間21.9キロの路線でしたが、1985年4月1日、村松駅~加茂駅間17.7キロが一部廃止されています。
これは、村松駅から五泉駅で国鉄線に接続し、磐越西線・上越線・高崎線経由の東京都区内ゆき硬券乗車券です。券番は0030番とかなり若い番号ですが、常備券を設備するくらいですから、そこそこ東京都区内までの連絡運輸の需要があったものと思われます。
まだ部分廃止されていなかった頃、村松駅には、五泉経由の他に加茂駅で国鉄線に接続し、信越本線・上越線・高崎線経由の東京都区内ゆき券も設備されておりました。
1982年に上越新幹線が開業するまでは、新潟から東京へ行くには、信越本線・上越線・高崎線経由のL特急「とき」号が一番最速な列車であったため、加茂駅までの蒲原鉄道線の乗車区間が長く時間がかかっても、利便性と時間的な理由により、加茂駅経由の需要の方に軍配が上がったと思われます。
それにしても、中小私鉄において、東京都区内までの連絡常備券を2ルート用意していたということに驚かされます。
次にアップいたしますのは五泉駅経由で、上越線渋川駅ゆき準常備連絡硬券乗車券です。東京都区内ゆきほどの需要は見込めないため、準常備での設備になったようです。渋川の下はなんとなく「高崎」と読めるような気がします。
加茂駅経由の準常備連絡券は未見ですが、同じように設備があったか、高崎駅クラスの駅については別途常備券での設備があった可能性があります。
水浜軌道様のブログ「海辺のきっぷ館」2月26日エントリーの「幹線経由」にこちらからもトラックバックさせていただきました。
指定席特急券
見本券ですが、あまり見たことの無い様式ですのでアップします。
在来線特急券の場合、通常、「特急券」というのは『指定席の特急券』を示し、『自由席の特急券』については、敢えて「自由席特急券」という名称がついています。
これはJR東日本中央本線竜王駅発行の繁忙期指定席用の特急券ですが、通常、題字が「特急券」とあるべきところ「指定席特急券」となっており、乗車日と座席指定については新幹線のように裏面に記入するようになっています。
券番が0334となっており、あたかもかなりの枚数が出たような感じですが、実使用のもので同様式のものを見たことがありません。
新幹線のように途中出場しなければ乗継自由であるものを除き、指定欄を裏面に表示する例はあまり無いと思います。
なんでこんな券になっちゃったんでしょう?
故意にこの様式にしたのでしたら、その理由はなんだったのでしょうか?
こちらからも、菅沼天虎様のブログ「菅沼天虎の紙屑談義」2月25日エントリー「『特定の特急料金』適用の指定席特急券」にトラックバックさせていただきました。
「消え去る」きっぷ
鹿島鉄道が廃止される4月1日まで、残すところあと40日となりました。
鹿島鉄道はもともと鹿島参宮鉄道という会社でしたが、1965年6月、常総筑波鉄道と合併して関東鉄道鉾田線となりましたが、1979年4月、再び関東鉄道から分離され、鹿島鉄道となっています。この日はちょうど、廃止される30年前の日でした。
1979年4月の分離の時、鹿島鉄道と運命を共にしたのは、関東鉄道筑波線であった筑波鉄道です。
筑波鉄道を取り巻く環境はかなり厳しく、鹿島鉄道の航空自衛隊百里基地への航空燃料輸送などという大黒柱になるような収入源は無く、1981年8月には細々と営業していた貨物輸送が廃止されてしまいます。その後、1984年11月には沿線自治体へ事業廃止が申し入れされ、ついには1987年4月1日、国鉄の解体劇の影でひっそりと消え去っていきました。皮肉にも、鹿島鉄道が廃止される、ちょうど20年前の日の出来事でした。
これは、筑波鉄道筑波駅で発行された券売機券です。機械の調子が悪いのか、印字がぶれていますが、水性インクを使用しているため、20年経っても保存状況は良好です。
次は、関東鉄道時代の筑波駅で発行された券売機券です。筑波駅には券売機は1台しかありませんでしたから、恐らく同じ機械による発行と思われます。
しかし、当時はキレート式インクを使用しており、一旦は真っ白に退色してしまいました。この時は大変あせりましたが、国鉄券売機末期に都内のある駅にて分けて戴いたキレート剤をスプレーし、なんとか復活させております。
これは、1番目の券と同じ日に購入した、国鉄土浦駅発行の筑波鉄道乗車券です。
土浦駅は国鉄管理駅となっており、筑波鉄道オリジナルの乗車券類の発売はありませんでした。
やはり、22年も経過しますと、感熱式券は思いっきり退色します。ましてや、当時の感熱式券は現在のものより印字が細く、「持ち」もあまり良くなかったようです。
今は購入してすぐスキャンすれば感熱式券の長期記録が可能ですが、当時はそんな芸当は無く、鉄道の記憶と共に、きっぷまで消え去ってしまうと言うのは大変悲しいことです
実は1番目のきっぷには「オチ」がありまして、よくよく見ると、土浦駅発行のものと発行日が1ヶ月違っています。当時、単純な設定ミスと思われますが、筑波駅の券売機は1ヶ月日付がずれていました。もし、そのまま廃止時まで気づかれずにずれていたとしたら、廃止後の日付の乗車券が発行されてしまうことになり、それはそれで興味が尽きません。
いったい、このあと、いつまで1ヶ月ずれたままの日付の券が発売されたのでしょうか?
東急なのに東急じゃない!?
横浜高速鉄道こどもの国線は、横浜高速鉄道が第三種鉄道事業者として施設と車輌を保有し、東京急行電鉄(東急電鉄)が第二種鉄道事業者として運行をしています。
この路線はちょっと変わった経歴を持つ路線で、そのルーツは鉄道省長津田駅からの旧大日本帝国陸軍田奈弾薬庫への引込み線から始まります。
敗戦後は旧弾薬庫とともに放置されていたとのことですが、昭和34(1959)年皇太子明仁親王(現在の天皇陛下)のご成婚を記念して昭和40(1965)年に旧日本軍弾薬庫跡地に開園したこどもの国へのアクセス線として昭和42(1967)年4月28日、長津田駅=こどもの国駅間が開業しました。
当初は途中駅の無い全線単線のスタフ閉塞方式で、社会福祉法人こどもの国協会が施設を保有し、東急に運行を委託する形態で運行されていましたが、昭和61(1986)年12月4日公布、昭和62(1987)年4月1日に施行された鉄道事業法に基づき、こどもの国協会が第三種鉄道事業者、東京急行電鉄が第二種鉄道事業者となりました。
その後、沿線の宅地化が進むにつれ、こどもの国線を通勤路線に転換する要望が高まり、平成9(1997)年より通勤線への改良工事が開始されることになりました。
しかし、通勤線に転用するということは、社会福祉法人であるこどもの国協会の趣旨から逸脱してしまうため、協会は平成9(1997)年8月1日、横浜高速鉄道に第三種鉄道事業免許を譲渡し、運営から手を引いて現在に至っています。
これは横浜高速鉄道に譲渡される以前のこどもの国駅で発売されていた長津田までの乗車券です。あまり詳細に記憶していませんが、東急の金額式千切り半硬券が設備されていました。この券を見る限り、実際にはこどもの国協会の路線ではあるものの、事実上「東急線の一部」として扱われていたように感じます。
しかし、当時の運賃は大人100円の単一運賃となっており、長津田乗換で東急田園都市線に乗り継ぐ場合は、「100円プラス長津田からの東急線運賃の合計」という、「東急線でありながら東急線ではない」独自の運賃体系が採られており、運賃面から見れば、東急線とは全く別の路線であることがわかります。
特記すべきこととして、長津田乗換国鉄線への連絡運輸は実施されていませんでしたが、大小一口座づつのみ、連絡券もどきの口座がありました。
こどもの国線から田園都市線の青葉台駅~すずかけ台駅間相互に跨って乗車する場合に限り、20円の乗り継ぎ割引が実施されているため、このような券が存在していたわけです。
この券をよく見ると、同じ東急線なのに長津田で東急線に乗り換えるような表記になっており、東急線なんだかそうでないのか、ますますわからなくなってきてしまいます。
昭和55(1980)年頃までは赤と白と黄色を厚塗りした旧3000系電車が充当され、東急の中古車輌を走らせている地方の中小私鉄という独特な雰囲気を醸し出していましたが、車輌の老朽化によってステンレスカーが走るようになり、東急の一支線的な雰囲気に変わりました。
今や、横浜高速鉄道の新型電車が走り、当時の面影は全然ありません。
長野・新潟局管内の観光記念入場券
国鉄時代の末期、長野鉄道管理局管内と新潟鉄道管理局管内の観光地を控えた主要駅では、新潟印刷所製のD型硬券の観光記念入場券が発売されました。
表面は民間に印刷させたのでしょうか、新潟印刷所らしからぬ雰囲気を醸し出しています。
しかし、裏を返せば、活字が思いっきり新潟印刷所製であることを主張しています。
私の記憶では、木曽福島駅のほか、長野管内では長野駅や飯山駅、上田駅などに設備されており、上田駅は地紋入りの上田城の絵柄のものと、地紋なしの駅舎の絵柄のものがありました。新潟管内では越後湯沢駅や十日町駅などにあったと思います。
これらは私の記憶している限りであり、もっと他にも設備されていたと思われます。
そして、当時かなりの駅でよく見かけた光景ですが、券箱にはD型券を入れるホルダーが不足していたのか、A型のホルダーに無理やり斜めに入れられていた駅が多かったと記憶しています。
この券が発売された2ヵ月後には国鉄は民営化されてJRになりましたが、これらの観光入場券はJR東日本に引き継がれました。
ですが、木曽福島駅だけはJR東海の駅になってしまいました。
JR東海になった後も、地紋はJRC地紋になったものの、様式そのままで発売が引き継がれました。表面を見る限りでは、国鉄時代の版をそのまま流用しているようです。
しかし、裏を見ますと、印刷場が名古屋印刷場に変更され、こんどは思いっきり名古屋印刷場を主張しています。
木曽福島駅の分だけが他の駅と旅客会社が分かれてしまったわけですが、JR東日本になった駅のものも、JR化後は地紋なしになったものの、やはり表面の版はそのまま引き継がれて発行されました。
やはり、裏を見ますと、印刷場が東京印刷場に変更され、こちらは思いっきり東京印刷場を主張しています。
長野・新潟局管内で発行されていた観光記念入場券はしばらくの間残っていましたが、しばらくすると東京印刷場分は改版され、東京印刷場の活字を組んだカラー写真入りのものにとってかわり、国鉄時代から引き継いだ様式は消滅したようです。
また、木曽福島駅のものも、いつしか消滅した模様です。
Tatsumi様のブログ「切符展示館 ブログ版」12月6日エントリーの「信州観光入場券シリーズ」にトラックバックさせていただきます。
東京急行電鉄の硬券券売機券
拙ブログにて前回投稿させていただきました「京王帝都電鉄の硬券券売機券」において京王帝都電鉄の硬券券売機券をご紹介いたしましたが、東京急行電鉄(現・東急電鉄)にも硬券券売機券が存在しました。
正確に言うと、多能式の券売機は、国鉄よりも早く東京急行電鉄(=東急)が日本で初めて導入しており、昭和38(1963)年6月1日に登場しています。
これは東急が日本で初めて渋谷駅と大岡山駅に設置した硬券式の多能式券売機券で、渋谷駅に設置されて一ヶ月半経ったころのものです。
京王帝都電鉄のものと同じく、表面に地紋が予め印字してある硬券カット紙を機械にセットし、発行の都度券面表示事項と日付を印字して発行する方式が採られていますが、こちらには券番が全くなく、裏面も京王帝都と同じく無地です。
また、券面の字体が統一されていますので、京王帝都の多能式券と違い、金額ごとに印判が変換される方式が採られていたのかもしれません。
東急の場合も京王帝都と同じく、昭和31(1956)年には、四つ穴式の単能式軟券券売機が登場しています。やはり、予め印刷された軟券のロール紙を機械にセットする様式で、発売都度日付が印字されます。硬券の券売機券と違い、裏面には券番が入っています。
京王帝都の券をご紹介したときに裏面をアップしませんでしたが、京王帝都の軟券も、東急の券の裏面と同様の字体で券番が振られています。
京王帝都電鉄の硬券券売機券
このたび、MV999様のブログ「叩け!マルス 2」とリンクを張らせていただきました。副題には「初心者」と謳われていますが、結構マニアックな内容で面白いです。
さて、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)の面白い券売機券が出てまいりましたのでご紹介いたします。
これは、昭和43年に調布駅で発行された硬券の券売機券です。予め京王帝都電鉄の自社地紋を印刷した硬券の券紙に、発行都度券売機内臓のゴム印と日付印およびナンバーリングを捺印して発券するものです。
なぜだかわかりませんが、「30円区間」の表記が左側にレイアウトされており、右側にレイアウトされた「調布から」の文字との調和がとれていない券面です。また、日付と券番の向きがお互いに内側(?)を向いていて、現在の券売機のレイアウトと異なります。
それと、券紙が微妙に歪んでカットされていて、ちょっと薄くて見づらいかもしれませんが、地紋のラインが斜めになってしまっています。
京王帝都電鉄は私鉄としては日本で初めて券売機を導入した鉄道で、昭和28(1953)年に手動式券売機が導入されています。
硬券の券売機券は券売機史上比較的初期に見られた方式で、当初は窓口で発売するものと同じ硬券にダッチングで予め日付を入れておいたものをセットしておいて発売した程度のもので、単能式(1種類の券しか発行できないもの)でした。
今回ご紹介しましたものは、予めカットされた硬券券紙を機械にセットしておき、発売都度印刷して発券するもので、多能式(いくつかの種類の口座を1台で発売することができるもの)の初期型です。
ただ、軟券のものと違い、どの金額で発売しても券面のゴム印は共通で、金額部分だけが必要に応じて変換されている方式が採られていました。
しかし、ゴム印に対して券紙が硬すぎたために印判の磨耗が大変早く、軟券ロール紙の券売機へ発展していったようです。
京王帝都では、昭和33(1958)年ころから、単能式ですが、軟券式の券売機も存在していたようです。これは新宿駅のもので、予め地紋の他に券面表示事項がすべて印刷されたロール紙が機械にセットされていて、発売時に日付のみ印字されてカットされて出てきます。
四隅に丸い穴が開いていますが、これは機械が紙送りをするための穴で、ストックフォームの穴と同じような役割をします。
これと同じような四つ穴の券売機券は、京王の他、東急や営団地下鉄にも設置されていたようです。
平壌(ピョンヤン)市電の乗車券
近くて遠いくにである北朝鮮の核開発問題をめぐる6者協議が、中国の北京にある釣魚台国賓館で再開されました。
北朝鮮の正式名称は朝鮮民主主義人民共和国(Democratic People's Republic of Korea)といい、朝鮮半島の北部の社会主義国家です。
朝鮮半島は何度も国が分裂、統一する歴史を繰り返してきましたが、1910年の日韓併合により、朝鮮半島全域を支配していた大韓帝国は日本による支配を受け、日本の領土となりました。しかし、太平洋戦争が終戦を迎えた1945年、日本がポツダム宣言の条項を履行することを約束した降伏文書に署名したことにより、北緯38度線以南をアメリカが、以北をソ連が占領し、その後1948年には南部が大韓民国(韓国)、北部が北朝鮮となり、現在に至っています。
世界史の時間みたいになってしまいましたが、本日のお題は「平壌(ピョンヤン)市電の乗車券」です
北朝鮮の首都は平壌で、市内には市電(路面電車)とはじめとして、地下鉄やトロリーバスが公共交通機関として走っています。
もともと、日本統治時代の朝鮮には平壌の他、釜山と京城(現在のソウル)にも市電が走っていましたが、釜山と京城の市電は1968年にモータリゼーションにより廃止され、平壌の市電も1951年の朝鮮戦争で破壊されてしまい、そのまま廃止されてしまっているため、現在の平壌市電は、1991年に開業した、日本統治時代のものとは別物です。
これは日本統治時代の平壌市電の一区間用の乗車券です。紙質は藁半紙のような茶色っぽいものですが、券紙には中心に印刷されているものと同じ「マーク」の透かしが入っています。ご存知の方ならイメージが涌くと思いますが、近鉄の出補のような感じの透かしです。
日付がないのでいつごろのものであるのかは不明で「1910年~1945年の間のもの」としかわかりません。
「○上」と「○下」の文字があって上り電車と下り電車を区別していることから、恐らく車内で発券されたものと思われます。また、裏は全くの無地であり、券番もありません。
運賃は「金五錢」となっており、朝鮮半島の貨幣単位である「ウォン」とは違い、日本が統治していたことが伺えます。
また、北朝鮮は1948年の建国当初より漢字を廃止し、建国前の公用語である朝鮮語が現在も公用語となっており、そのことからも、この乗車券が日本統治時代のものということがわかります。
平壌市電の乗車券は、北朝鮮が日本国と国交が無いことに関係しているのか、また、車内で発売・回収が徹底されていたのかわかりませんが、満鉄(南満州鉄道)の乗車券ほど残っていないようであり、お目にかかる機会はあまり多くないようです。
小田急電鉄の端末発券された特急券
小田急の特急券は、他の大手私鉄同様、昭和50年代後半の頃から指定券予約端末による発券をするようになりました。しかし、当時はまだ主要駅にしか端末がなく、硬券による発券が頻繁に行われていたため、収集家の間ではあまり話題にされることはなかったと思います。
今回はそんな「日の目を見なかった」特急券をご紹介します。
これは、一代目の予約端末により発券されたものです。乗車券を一葉にして発券することもできたため、左上の題字欄に「乗車券」の文字があり、右上には乗車券の有効期間を記載する欄がありました。
この券は特急券のみとして発券されているので、「乗車券」の文字を「XXX」で消去してあります。
当時、あさぎり号は急行列車であったため、あさぎり号の急行券として発券された場合は、題字の「特別」の文字も「XX」で消去されました。また、あさぎり号は乗車する車両のみが指定されていたため、席番指定の欄にも横線が引かれています。
また、券の右側には縦の線が引かれていて、いかにも小児用として発券したときには断片を切り取るようになっていますが、実際に小児用として発券されて右端を切り取られたものを見たことはありません。
右端の券には、さがみ号→「2」、あさぎり号→「4」の数字と列車番号を組み合わせた3桁の数字が打たれ、その下には、新宿駅→「0」、本厚木駅→「5」という、駅名コードが打たれています。
平成になると、予約端末は二代目に更新されました。ご紹介いたしますのは乗車券が一葉に発行されたものです。二代目もやはりドットインパクトによる印字ですが、一代目の商用ドットインパクトのような文字から、NECのパソコン用ドットプリンターに変更されています。
そして、今までのカタカナと数字しか印字できなかったものから、漢字表記が可能となり、また、左下に19桁の取消符号が入るようになりました。
平成10年代になると、予約端末は三代目に更新され、自動改札対応の感熱式に変わりました。文字の並びは二代目のものとあまり変わりはありませんが、取消符号は21桁になり、右上に移動しています。
平成10年代後半になりますと、やっと現行の四代目の特急券に変更されました。
字体が丸ゴシック体から角ゴシック体に変更され、ローマ字表記が追加されました。また、発車時刻の次に到着予定時刻が、列車名の次には車両の種類がそれぞれ追加で記載されています。
取消符号は三代目同様21桁で変わりませんが、新型ロマンスカーの座席番号が従来の「3桁」から「2桁+アルファベット」に変更されたため、座席番号を示す16桁目にアルファベットが挿入されるようになりました。
この取消符号は、拙ブログにて2月3日にエントリーさせていただきました「小田急電鉄あさぎり号のJR東海発行特急券」に画像をアップさせていただいておりますが、JR東海のマルスにて発行されたあさぎり号の特急券(指のみ券)にも同様に記載されております。
今回購入した際、特急券と同区間の乗車券も同時に購入いたしましたが、なぜか乗車券は一葉券ではなく、別途発券されました。
金額式の大型券という近鉄によくありそうなタイプです。今の端末では一葉券が出せないのか、敢えて分けて発券されたのか、真意はわかりません。
現在、小田急には5種類の特急ロマンスカーがありますが、その斬新さと快適さを最大の「売り」としているからでしょうか、特急券に使用される車両の種類が記載されるのは全国的にも大変珍しい例であると思われます。
http://www.odakyu.jp/romancecar/line_up/index.html ←ロマンスカーラインナップ(小田急電鉄ホームページより)
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