JR直営の印刷場名は国鉄時代の印刷場名を使用します。
10年以上前に御紹介した券も再度御紹介しようかと思います。
古紙蒐集雑記帖
国鉄バス 厚別自動車営業所発行 事故証明書
昭和50年代に、国鉄バス北海道地方自動車部厚別自動車営業所乗務員が発行した、ワンマンカー乗車区間 事故証明書です。
横10センチ、縦2.5センチの無地紋券で、営業所の角印が捺印されています。
御紹介の券はバスが遅延した際に交付される遅延証明書として使用されていたもので、券紙右側の角が丸くなっていることから、乗務員が携帯していたものと思われます。
空知線・長沼線・長恵線を担当していました厚別自動車営業所および、同、長沼支所・恵庭支所で使用されていたものと思われますが、その他の営業所でも使用されていたかどうかは不明です。
甲府機関区長発行 ◯職 急行券代用証
1971(昭和46)年4月に、甲府駅構内にありました、甲府機関区長名で発行された急行券代用証です。
桃色こくてつ地紋のA型券で、活字の感じから東京印刷場で調製されたものと思われます。
急行券代用証は、国鉄職員が公務で急行列車を使用する際に発行されるもので、本社や鉄道管理局などの事務所や、駅や電車区・機関区・保線区などの現業箇所で発行されていました。
御紹介の券は、管理人の親戚で、国鉄職員を定年退職した人から戴いたものです。
裏面です。券番の他に注意書きの記載があります。「この代用証は、◯職 普通乗車券と同時に使用する場合で、普通急行列車の指定席以外の座席に限って有効です。」と記載されており、自由席であれば、座席に着席することは構わなかったようです。
一番下には発行箇所名を記入することになっており、現業箇所であればその現業長名での発券とされていたようです。
甲府機関区は中央本線の甲府駅北側にあった機関区で、中央本線用にEF64やED61、身延線用にEF10やEF15が配属されていましたが、 国鉄末期の1985(昭和60)年に国鉄合理化の影響により、ダイヤ改正により機関車の配置が無くなっています。 国鉄分割民営化後、JR貨物新鶴見機関区に吸収され、同区の派出のみが残った状態になっています。 そして、当時の機関区や線路は撤去され、その跡地は甲府駅北口の再開発に利用されています。
西国分寺駅発行 120円精算書
1984(昭和59)年8月に中央本線西国分寺駅で発行された、120円の精算書です。
桃色こくてつ印刷発行機用特殊地紋のA型券になっています。
当時、同駅の精算所脇には精算用の券売機が設置されており、旅客は不足額分の精算券を券売機で購入し、券面にも「ご出場の際係員にお渡しください」とありますように、原券と一緒に改札口で渡して出場する方法が採られていました。
当然、複雑な国鉄の運賃は一般客では分かりづらいので、券売機を利用する旅客は定期券を併用して精算額が予め分かっている旅客などに限られ、一般の旅客は精算所で精算をして出場していました。
この当時は自動改札機や自動精算機等はまだ普及しておらず、旅客が自分で差額を計算して精算券を購入する方法には些か無理があったと思いますが、何か、試験的な要素があったものと思われます。
ちなみに、この券の券売機は出札用の券売機と全く同じもので、精算所の横に券売機がある風景は、なおさら違和感がありました。
国鉄時代 乗車券入れ ~その2
前回に引き続き、国鉄時代の乗車券入れ(乗車券袋)の話題を。
1984(昭和59)年頃に釧路駅のみどりの窓口で貰ったものです。前回御紹介したような、現在でも使用されている、広告で使用されているようなツルツルの紙ではなく、白い上質紙が使用されています。そして、写真は一切なく、文字とイラストのみです。
袋を開いてみますと、スポンサーは無いようで、フタの部分は真っ白です。
裏面には「ひがし北海道」というエリアの地図が書かれており、エリアとしては当時の釧路鉄道管理局と旭川鉄道管理局の一部となっています。恐らく、釧路鉄道管理局が作成したのではないかと思われます。
表面には1984年に開始された国鉄最後の大型キャンペーン「エキゾチック・ジャパン」のロゴがあります。このキャンペーンはそれまでの「いい日旅立ち」キャンペーンの次に打たれた国鉄最後の大型キャンペーンですが、「いい日旅立ち」のキャンペーンガールであった山口百恵さんがキャンペーン期間中に引退してしまい、急遽作成されたキャンペーンだと聞いたことがあります。
しかし、世の中はすでに1978(昭和53)年に新東京国際空港(成田空港)が開港し、「いい日旅立ち」的なコンセプトが時代遅れになっており、かつて「ディスカバージャパン」のターゲットとなっていた、アンノン族と言われた世代の女性たちの旅行への欲求は海外へとシフトし、国内旅行への需要が減っていた時代でした。
このような状況下、国内旅行しか企画することのできない当時の国鉄では、次期キャンペーンを「日本は異国である」という意味合いでアピールすることとし、「エキゾチック・ジャパン」というキャッチコピーが生まれたということです。
国鉄時代 乗車券入れ
国鉄時代に配布された、乗車券入れです。
乗車券入れ(乗車券袋)は、JRとなった現在でもみどりの窓口のカウンターや指定券券売機の前に置かれていますが、この習慣は国鉄時代からありました。いつ頃から配布されるようになったのかは調べておりませんが、昭和40年代にはあったような気がします。
当時のものは特急や新幹線などの国鉄を代表する車両の写真が多く使用されており、新幹線と富士山の写真は定番であったように記憶しています。
御紹介の乗車券入れは国鉄末期の1985(昭和60)年に地元の駅で貰ったもので、確か今のように窓口に置かれていて自由に取って行くものではなく、購入した乗車券とともに、窓口氏が1枚くれるような配布の仕方でした。当時の駅の窓口では、駅員さんが普通にたばこを吸っていて、袋がたばこ臭かったりしたものです。
袋を開けてみますと、券を入れる袋の部分には当時駅の至る所に掲示されていた「トクトクきっぷ」のPRがあり、「フタ」になる部分にはスポンサーの広告が入っておりました。
この袋にはありませんが、確か、トクトクきっぷのラクダの絵のちかくに「ラクだラクだ」といった言葉が入っていたものもあったように記憶してます。
袋の裏面になります。スポンサーの広告が印刷されています。
最近のJRの袋には、このようなスポンサーの広告のあるものは少ないように感じます。
上野駅発行 トラベラーズ・キャリー切符 ~その2
上野駅で発行された、トラベラーズキャリー切符の話題の続きです。
前回エントリーで台紙部分を御紹介いたしましたので、今回は切符の部分を御紹介いたしましょう。
最初にお断り致しておきますが、拙ブログでは乗車券や指定券などの「乗車券類」については「きっぷ」、手回り品切符などの「諸料金切符類」については「切符」と表記させていただいております。
1985(昭和60)年12月に上野駅で発行されたトラベラーズ・キャリー切符です。桃色こくてつ地紋のD型券で、東京印刷場で調製されたものと思われます。
日付や「上野駅➡協定店」の表記、金額、「昭和61年3月31日までの間に1回限り使用できます。」の文言、発行箇所名については乗車券類でよく見られる体裁ですが、特殊な券であるためか、ぎこちなく活字を組んだ「トラベラーズ・キヤリー」という題字が印象的です。
裏面です。
券番が片券番になっており、注意書きが記載されています。
内容に拠るとこの券は上野駅限定のようで、指定された区間につき、荷物1個を託送することができるようです。「託送」という言葉は最近あまり聞き慣れない言葉ですが、運輸機関が手荷物を旅客から預かって輸送することを指し、一般に「チッキ」と呼ばれていました。
話は変わりますが、前回エントリーの時に御紹介した表紙の写真を再掲します。
前回エントリーの時は触れませんでしたが、下に「JAPANESE NATIONAL RAILWAYS」と記載されています。これは「JNR=国鉄」ということであることは想像できますが、管理人はかつて、国鉄の英文表記は「JAPAN NATIONAL RAILWAYS」であると教わってきました。
JAPAN NATIONAL RAILWAYSであれば「日本国有鉄道」と訳すことができますが、JAPANESE NATIONAL RAILWAYSですと「日本の国有鉄道」になってしまいます。しかし実際、外国で日本の国鉄を紹介するときには「日本の国有鉄道」という意味でJAPANESE NATIONAL RAILWAYSと紹介されていることが多く、この切符はそれに倣っていたものと思われます。
上野駅発行 トラベラーズ・キャリー切符 ~その1
先日、新宿駅西口地下で開催されていた「古本市」で見つけたもので、200円で買ってきたコレクションです。
白い袋に入れられたもので、1985(昭和60)年12月に国鉄上野駅で発売された「UENO STATION TRAVELERS CARRY SERVICE TICKET」というものです。和訳すると「上野駅旅行者用運搬切符」という具合になりますでしょうか?
見たことないし、良くわからなかったので、取り敢えず200円という大枚をはたいて購入してみました。
袋を開けてみると中から、かつて管理人が小学生くらいの頃の日本人用のパスポートに良く似た冊子が出て来ました。
冊子を開いてみると、こんな感じです。
そして、冊子の中身はこんな感じです。
右下にメインである切符があり、左上には「国鉄を、ご利用されている本切符の所持者に、無事ご旅行を完了されるようつとめ、かつ同人に必要な保護扶助を与えられるよう、関係者に要請する。」という上野駅長名での指示文書があり、駅長印がの陰影が印刷されています。
そして見開き右側には、「祈 旅行安全」という第28代上野駅長の自筆と思われる言葉が印刷されています。
また、左下に案内のような文章が日本語と英語で書かれており、これを見る限り、上野駅から都区内の宿泊施設まで、もしくは都区内の宿泊施設から上野駅までの「赤帽」サービスの切符であったことが推測されます。
当時の国鉄が外国人旅行者向けのサービスを積極的に行っていたかどうかと言うと定かではありませんが、恐らくインバウンド用としての役割があったものと思われます。
ただし、この切符がどのような方法で、どのような場所で発売されていたのか、よくわからないことが沢山あります。
それでは次回、切符部分について仔細を御紹介致しましょう。
きょうは鉄道の日
本日10月14日は鉄道記念日、今で言う「鉄道の日」です。
本日、2018年10月14日は鉄道が開業した1872年の今日から数えて146年目となるわけで、ということは、管理人がまだ幼稚園生であった昭和47(1972)年に国鉄の駅に「鉄道100年」のロゴが貼られていたのを見て「そうなんだ」と思ってからはや46年が経過しているわけで、今更だけど歳取ったなと思う今日この頃です。
鉄道記念日(現・鉄道の日)は日本の鉄道開通を記念する日で、明治5(1872)年10月14日とされています。日本で初めて鉄道が開通したのは、明治5年6月12日の品川~横浜間ではありますが、これは仮営業であったそうで、新橋~横浜間全線が開通した同年10月14日に明治天皇の臨席のもと、新橋(後の汐留駅、昭和61年廃止)~横浜(現・桜木町)駅両駅で盛大な開業式典が挙行され、翌日から正式営業に入ったことを記念し、大正11年に鉄道省が10月14日を鉄道記念日に制定し、この日を鉄道が開業した正式な日としたのが始まりだそうです。昭和62年に国鉄は分割民営化されましたが鉄道記念日はそのまま引き継がれ、平成6年に「鉄道の日」と改名されています。
御紹介の券は昭和47年の鉄道記念日の際、国鉄東京印刷場が復刻版として作成した当時の新橋から横浜ゆきの2等片道乗車券です。券紙は国鉄の硬券を作成する硬券用紙が使用されていますので本物とは雰囲気はかなり異なるものと思われます。
裏面です。上から英語は分かりますが、恐らくフランス語・ドイツ語で注意書きが書かれています。管理人はフランス語とドイツ語はできないので和訳しませんが、英語は「Issued subject to the Railway Regulations.」と書かれており、和訳すると「鉄道規則に従う」となりますので、フランス語とドイツ語もそのようなことを意味していると思います。
当時、この版は昨年の鉄道記念日である2017年10月14日エントリーの「きょうは鉄道記念日」で御紹介いたしました昭和47年10月14日に東京駅で発行された、鉄道100年記念の乗車券にもこの版が使用されています。
当時御紹介いたしました券を再掲します。真ん中の青い2枚の券がそうです。
裏面も忠実に再現されていますが、きちんと版を作成したのでしょう、記念乗車券の方が文字が鮮明です。
JR東日本 阿佐ヶ谷駅周辺に残る国鉄マンホール蓋
今回はちょっと趣向の違う鉄分多い話題を。
JR阿佐ヶ谷駅は昭和40年代の中央本線複々線化によって高架駅となっていますが、下を通る「中杉通り」付近の歩道および道路に面白いものを見つけてしまいましたので御紹介いたしましょう。
阿佐ヶ谷駅北口を出てすぐのところの歩道です。何でもない歩道ではありますが、手前にあるマンホールの蓋に注目です。
年代が古そうですが、電電公社(現・NTT)のものでもありません。東京都下水道局でもないし、NTTのものでもありません。
もっと近寄ってみるとわかります。
んっ!? なんと、「国鉄」の文字と「工」のマークです。
詳細は不明ですが、どうやら、国鉄時代からの鉄道ケーブルの地下壕か何かのマンホール蓋のようです。
よくよく調べてみますと、先にあります横断歩道を渡った三菱UFJ銀行脇の道路にあと2か所確認できます。
これが駅から2か所目の蓋です。車が頻繁に入って来る場所ですので、信号が赤で車が入って来ないタイミングでの観察をする必要があります。
その先、約5mくらい先に3か所目の蓋が確認できます。3か所目のものは「工」マークのみで「国鉄」の文字がありません。もしかすると、この蓋は国鉄末期に国鉄民営化を見据えて作成されてものであった可能性があります。
いずれにせよ、どの蓋もかなり摩耗していますので新しいものに交換されてしまう日が近いかもしれません。
御紹介の写真は1か所目の蓋を平日の夕方、2か所目および3か所目の蓋を土曜日の早朝に撮影しました。
いい歳こいた大人が道にしゃがみこんでマンホールの蓋を眺めている姿は、他人の目からすれば大変異様に見えると思いますので、観察される際にはなるべく時間をかけず、そして交通の妨げにならないようお楽しみください (;´Д`)
片道乗車券の往復代用発行印のあれこれ
現在のように乗車券類を発券機で発行するようになると往復乗車券は専用の様式で発券されますが、まだ硬券乗車券が現役であった頃は、片道乗車券に往復印を捺印して往復乗車券として代用発売することが認められていました。
昭和55年12月に荻窪駅で発行された、田中~西上田間ゆきの片道乗車券を使用した往復乗車券と、昭和51年8月に山科駅で発行された、東京都区内ゆきの往復乗車券です。「往復 有効期間は片道の2倍です。」というゴム印を捺印して発売されています。
有効期間が片道の2倍なのですから、発売日共2日間のものは発売日共4日間、発売日共4日間のものは発売日共8日間ということになります。
片道乗車券を往復乗車券として発券する場合は同じ券を2枚発券し、この印を双方に捺印することによりその代用とすることができました。この印は「往復」としてのみの表記となっており、往路と復路の区別はなく、どちらを先に使用しても良いことになっていました。
この印は比較的一般的なものと思われます。ところが、いろいろと癖のある印が存在したようです。
次は昭和52年2月に広駅で発行された、徳山~(陽)戸田間ゆきの往復乗車券と、昭和52年9月に飯塚駅で発行された、名古屋市内ゆきの往復乗車券です。「有効期間は片道の2倍です。」の文言は前出のものと同一ですが、「往復」の代わりに「ゆき」となっています。「ゆき」ということは当然「かえり」もあるわけで、この印の場合は往路用と復路用がきっちりと分けられていることになります。
この様式ですと窓口に往復印が「ゆき」用と「かえり」用の2種類設備されなければならないですし、旅客の側からすれば、少々使い勝手が悪くなります。
このような変わり者も存在します。
昭和49年9月に田端駅で発行された、大屋・上田~坂城間ゆきの往復乗車券です。こちらは「かえり」用ですが、「有効期間は片道の2倍です」の文言はなく「4日間有効」となっています。
有効期間を単に2倍と記載するよりも「4日間」と明記したほうがわかりやすいと言えばわかりやすいですが、これでは「ゆき」用および「かえり」用、「4日間」用および「6日間」、「8日間」、「10日間」、「12日間」用と往復印だけでも相当の種類を設備しなければならないわけで、窓口での発券業務の際には間違えて捺印してしまう例が多数あったのではないかと考えてしまいます。
字体が違えど私のコレクションのなかではこのような種類のものが多くありますが、ほかにもまだまだ違う様式があるものと思われます。
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