趣味で蒐集した「きっぷ」を見て考えたこと、とか…
JR直営の印刷場名は国鉄時代の印刷場名を使用します。
古紙蒐集雑記帖
期間外無効!?
関東バスは、東京の中野・杉並を中心とする城西地区と武蔵野・三鷹周辺の多摩地区に路線網を持つバス会社です。
最近は国土交通省標準タイプのノンステップバスが増備されていますが、従来型の3扉のタイプのバスも健在で、中扉は終点以外締切り扱い、前扉から乗車し、降車時は一番後ろの扉から降りるという独特な方式が採用されています。
これはバスから降りた乗客が万一転倒しても後輪で轢いてしまう事故を防止するためだという話を聞いたことがありますが、本当かどうかは定かではありません。
同社ではPASMOやSuicaに書き込みする「IC定期券」を発行していますが、まだまだ従来からの紙定期券もあります。
この定期券は使用開始日(8月4日)の前日である3日に購入したものですが、右上に赤の四角いスタンプで「期間外無効」と捺されています。
使用開始前に購入されたため、通用期間外に定期券を使用することはあってはならないことですが、恐らくそのような不正防止の為に捺印されたものと思われます。今まで何回も購入していますが、こんなゴム印を捺されたのは初めてです。
この定期券は実際に私が通勤時に使用しているものですが、乗車券蒐集を趣味としている私にとって、このスタンプは使用済の切符に捺される「無効印」に見えてしまい、毎回乗車時にドライバーさんに見せる際、なんだか違和感を感じます。
こんなこと考えてしまうのは私だけでしょうか?
関東バスホームページ http://www.kanto-bus.co.jp/
オリンピック特殊往復乗車券
今夜、2008年Beijingオリンピックの閉会式を迎えました。8月8日の開会式から17日間、実に様々なドラマが繰り広げられた今回のオリンピックは如何だったでしょうか?
さて、今回はオリンピックにちなんで、44年前の東京オリンピックの時に発行されたオリンピック特殊往復乗車券をエントリーしましょう。
これは東京オリンピックの開会式が開催された、昭和39年10月10日、東京駅で発行されたオリンピック特殊往復乗車券です。東京オリンピックの開会式は、千駄ヶ谷駅に近い、国立霞ヶ丘陸上競技場で行われました。
オリンピック期間中、最寄り駅である信濃町・千駄ヶ谷・代々木の各駅の混雑による混乱と、集改札現場の混乱回避するため、国電区間の各駅では着駅にて往路券を回収しない様式の特殊往復乗車券が発売されました。
当時はまだ等級制の時代であったため、2等乗車券(現在の普通乗車券に相当)の地紋は青地紋であったため、地紋の色はそれに準じていましたが、オリンピックの五輪エンブレムを影文字にあしらった独特の様式となっています。
裏面の注意書きによりますと、往路・復路共途中下車はできないようになっており、往路の着駅では改札掛員に見せるだけのシステムです。
当時の東京駅から信濃町駅までの大人片道運賃は20円でしたから、特に割引の特典は無かったようです。
ここでちょっと気になることがあります。
拙ブログ2006年12月9日エントリーの「万博中央駅の硬券入場券」で取り上げました硬券入場券には科学万博のシンボルマークの使用を承認する承認番号が記載されておりますが、オリンピック特殊往復乗車券にはそのようなものの記載がありません。
当時は今ほど厳密なものではなかったのかも知れませんが、JOC(日本オリンピック委員会)のHPには、エンブレム等を商業活動に使用する場合は事前に承認を受けることを定めています。
いったい、国鉄は承認を受けていたのでしょうか?
品川駅のクモユニ74
たまには古紙以外の話題を…
私が毎日通勤に使っている品川駅構内には、エキナカのエキュートの開業を記念して、平成17年10月より、郵便荷物電車「クモユニ74」を模した郵便ポストが立っています。
いつも「いつか写真を撮ってやろう」と思っていたのですが、人通りの多い品川駅構内でカメラを構えるのが恥ずかしくて躊躇し、なかなか実現に至りませんでした。
このたび、土曜日の朝の出勤時に人通りが少なかったので、念願叶って(?)カメラに納めることができました。
元は街中でよく見る普通のポストですが、良くぞここまでしてしまったものです。
横には品川駅を基点として鶴見駅までを結ぶ品鶴線0キロポストまで立っていて、遊び心満載です。
差出口を見ると普通のポストだったんだということが良くわかりますが、屋根にはベンチレーターまで付いていて本格的です。(ただし、実車は押込型ベンチレーターではなく、グローブ型だったです。)
確か、クモユニ74の方向幕は荷物を表す「荷」という表示だったと記憶しておりますが、一般の利用者が分かり易くするために「郵〒便」としたのでしょう。
ステンレス製でピカピカ光るため写真が撮りづらいですが、横には一般の人にもわかるよう、説明板まであります。
今度は運転席側から見た下回りです。密着連結器と車輪が付いています。
また、ATS-S型を示す「□S」のマークと、国鉄時代には存在しませんでしたが東京総合車両センターを示す「東トウ」の表記、第2エンドを示す「②」の文字、クモユニ74のトップナンバーである「クモユニ74001」の車番まであります。
今度は反対側から見た下回りです。運転席側同様のレタリングが施されていますが、こちらは第1エンドを示す「①」と表記されています。
また、裏側には「JR東日本」と「東京総合車両センター 平成17年」という銘板が光ります。
ところで、「荷重4.0t」というのは「郵便物を4トンまで突っ込むことができる」という解釈で良いのでしょうか?
今やその姿を見ることはできませんが、似たような車両として、今でも長野総合車両センターにはクモユニ143-1という郵便荷物電車が事業用として残されています。
三菱鉱業大夕張鉄道の地図式券
三菱鉱業大夕張鉄道(のちの三菱石炭鉱業大夕張鉄道)は北海道内の私鉄としては、第三セクター化された北海道ちほく高原鉄道と公営交通を除き、最後まで残った私鉄でした。しかし、大夕張炭鉱の閉山に伴い、昭和48年12月に南大夕張~大夕張炭山間が廃止され、昭和62年7月には、残された清水沢~南大夕張間の全線が廃止されてしまっています。
今回御紹介いたしますのは、南大夕張~大夕張炭山間にあったシューパロ湖駅発行の地図式硬券乗車券(廃札券)です。
シューパロ湖駅は昭和37年6月に開業しましたが、7年後の昭和44年10月、合理化によってあっけなく廃止されてしまった駅でした。
同鉄道は臨時駅の農場前駅を含めて10駅ありますが、なぜかシューパロ湖駅の20円券だけが地図式となっていたようで、その他の駅発の地図式券は未見です。
北海道交通印刷製と思われる地図式券ですが、活字を巧みに組み合わせ、なんとも涙ぐましい努力の伺える秀作です。
表面はにぎやかですが、国鉄の地図式券と違って注意書きの類は表に記載されていますので、裏は大変シンプルです。
同時期に発行された、最遠の着駅である大夕張からシューパロ湖ゆきの券は、同社では一般的な一般式の券でした。
この中で、「通用発売日共1日」という表現は常備硬券としてどうかと思う節がありますが、これは同社の他、夕張鉄道などの北海道交通印刷券によくある表現のようで、内地ではなかなかお目にかからない独特なものでした。
この記事は菅沼天虎様のブログ「菅沼天虎の紙屑談義」8月22日エントリーの「道南バス 地図式乗車券」および8月24日エントリーの「大夕張鉄道の有効当日の表記」からトラックバックを戴きましたので、こちらからもトラックバックさせていただきました。
伊豆急行の車内補充券
昭和50年代前半に発行された、伊豆急行の第二種車内補充券です。
同社は、特急停車駅という縛りはありますが、現在でも全国的に珍しく、JR6社の各駅と連絡運輸を結んでいます。
そのため、着(発)駅名欄は実に広いエリアに跨っており、北は大宮あたりまでしかありませんが、南は福岡市内まであります。
当然ながら、いくら主要駅とはいえ、全国に数百の国鉄主要駅を記載するのは無理がありますので、比較的需要の多い首都圏の主要駅と東海道・山陽新幹線停車駅を中心とした駅名が予め印刷され、それ以外の駅が着(発)駅の場合は記事欄に手書きで記載して対応したようです。
裏面の注意書きを見ますと、北は札幌市内から南は福岡市内までの特定市内駅の記載があり、いかに連絡運輸の範囲が広いかが伺われます。
また、面白いことに良くある既製の注意書きを採用せず、あくまでも伊豆急線を起点とした独自のものになっているため、必要のない東京都区内や横浜市内(川崎・鶴見線内)の記載がないのが特徴です。
今や、同社の車内補充券はハンディ端末に変更されており、このような壮観な車内補充券も過去のものとなってしまったようです。
富士号のA個室寝台券
昭和56年に国鉄東京印刷場が発行した、「硬券乗車券見本帳」に収録されている、東京駅発行の寝台特急富士号用完全常備A個室寝台券です。
タイトル欄は「富士号 特急券・A寝台券」となっており、一瞬見ただけでは個室寝台券とは判別しづらい様式です。
指定欄を見ていくと、「乗車日/号車/個室番号」となっていて、A個室のものだとわかります。
同じ見本帳に収録されているA寝台券(こちらは列車名および区間補充式)を見てみますと、こちらの指定欄は「乗車日/号車/寝台番号/段」となっており、開放式A寝台(プルマン式と言うらしい)用のものと判別できます。
硬券のA個室寝台券というものは現役ではお目にかかったことない様式ですが、ただでさえ需要の少ないA個室寝台券の完全常備券などというものが実際に発行されていたのか、少々疑問に思えるところです。
戦時特別運賃
今日は63回目の終戦記念日です。これにちなんで、戦時中ネタをひとつ。
これは戦時中の昭和18年3月に上野駅で発行された3等10銭の地図式乗車券です。
当時の地図の原版は手書きで、文字の字体に独特な風情のようなものが感じられます。
地紋も「てつだうしゃう」の文字がくっきりとし、堂々とした佇まいです。
ところが、同じ昭和18年9月に五反田駅で発行された地図式券を見ますと、地紋がありません。
このころになると戦局は悪化し、「ぜいたくは敵だ!!」のスローガンの下、硬券にも戦時色が見えてきます。その第一弾が地紋の廃止でした。
入場券を除く殆どの乗車券類には偽造防止対策として地紋が刷り込まれているのが一般的ですが、地紋を印刷する印刷工程を省略するため、当時、比較的偽造がしにくいと言われていた地図式券については地紋が廃止されました。
昭和19年4月5日に蒲田駅で発行された3等35銭の地図式券です。
戦局はますます悪化し、帝国議会に於ける、「戦時下ニ於ケル鉄道運営ノ現況並ニ一般経済ノ諸情勢二鑑ミ陸運ノ強化ヲ図リ併セテ購買力ノ吸収卜旅客輸送ノ調整二資スル為鉄道運賃ニ付左ノ措置ヲ講ズルモノトス」という決定により、昭和19年4月1日以降、普通運賃の他に3割を上限とする「戦時特別運賃」が加算されるようになりました。
それまで、左上に「(裏面注意)」と書かれていたところが「特別運賃共」となり、戦時特別運賃が加算されていることがわかります。
平和になった現在では考えられないことですが、これが60年以上前の日本が直面していた現実です。
博多駅発行東京都区内ゆき常備軟券
いよいよお盆の帰省ラッシュの時期となりました。
これは、JR九州博多駅発行の東京都区内ゆき片道乗車券です。
通常、博多駅からの長距離乗車券はマルス端末による発券が基本ですが、お盆の帰省ラッシュ時と正月の帰省ラッシュ時などに、常備軟券による臨時発売が行われます。
発売日は特に決められているわけではないようで、混雑してくると都度の判断によって「出店」がおこなわれるようです。
簡易委託駅などにはまだまだ長距離の常備券がある駅もありますが、一万円を超える高額券となると殆どが補充券による対応になっており、常備券の例は全国的に見ても珍しい存在になっています。
また、特定市内(都区内)相互の常備軟券となりますと、滅多にお目にかかれるものではないようです。
これも博多駅という新幹線のターミナル駅で発行される券であるからこそ実現できる様式であると言えましょう。
では裏面も見てみましょう。
裏面には補充券に準じた注意事項が書かれており、たとえ着駅が東京都区内であれ、札幌市内・仙台市内・大阪市内など、実際の区間とは無関係な特定市内駅についての記述まで書かれてあります。
ただ、面白いことに、この券には小児断片があるため、小児用として発券された際に注意書きがちょん切れないよう、行の配置に工夫が施されているのが補充券のそれとは違う特徴です。
副都心線開業後の地下鉄図補の改訂
東京メトロ副都心線が開通して1ヶ月以上が経過しました。
東京メトロの特定の乗換駅には出札補充券の他、図補の設備がありますが、当然ながら、副都心線の開業により、路線の追加改訂が行われました。
双方とも発行駅常備となっているため、発行箇所名こそ違いますが、図版は同一です。
(写真を再度クリックすると大きく表示されます。)
池袋から雑司が谷・西早稲田・東新宿・新宿三丁目・北参道・明治神宮前・渋谷に至る副都心線が追加されていることがわかります。
東京メトロの場合、なぜか補充券の発券にはとても寛大で、発売している窓口(改札)まで案内してくれるほどですので、敢えて発行駅名は伏せませんでした。
一方、都営地下鉄の方も、今回の開業を機に図補が改訂され、副都心線が追加改訂されています。
こちらは発行箇所名は補充式で、ゴム印で捺印されています。
都営地下鉄の方も図補は特定の乗換駅に設備されているようですが、東京メトロほど常用されているわけではなく、また、発券してくださった駅員氏の話によると一枚づつコンピューター管理(POSみたいなもの?)されているようで、理由が順当でないと発券はできないとのことでした。
着駅がすごく広範囲な乗車券
久しぶりにミス券ネタです。
廃札券ですが、沼津駅発行の富士経由内船・伊那大島ゆき乗車券です。
一見すると何の変哲も無い名古屋印刷場製の51km以上100km以下の区間に用いられる一般式券に見えますが、冷静に考えると何か変です。
沼津から東海道線を下り、富士駅にて身延線に乗り換える経路ですが、最短の内船駅は営業キロ57.5kmあり、運賃690円は昭和56年改定運賃の「51kmから60km帯」に該当します。
ところが、最遠の伊那大島駅は内船駅を過ぎ、身延線を完乗して甲府で中央東線に乗換え、岡谷・辰野経由で飯田線に至る、営業キロ246.8kmの長距離区間であり、当時の運賃帯によれば「241kmから260km帯」の運賃で3,100円になってしまい、着駅がとても広範囲になってしまいます。
これは完全なる誤植であり、本来「甲斐大島」とすべきところ、「伊那大島」としてしまったものと思われます。
甲斐大島駅は内船駅の次の駅ですので、沼津から東海道線を下り、富士駅にて身延線に乗り換える経路で営業キロ59.8kmであり、「51kmから60km帯」の690円に該当し、つじつまが合います。
恐らく誤植に気づいて廃札にされたものと思われますが、一部は実際に発売されてしまったものなのか、発売前に誤植に気づかれてすべて廃札になってしまったのか、たいへん興味深いところです。