趣味で蒐集した「きっぷ」を見て考えたこと、とか…
JR直営の印刷場名は国鉄時代の印刷場名を使用します。
古紙蒐集雑記帖
京浜急行電鉄 神奈川新町駅発行 普通入場券
2010(平成22)年6月に京浜急行電鉄(京急電鉄)神奈川新町駅で発行された普通入場券です。
白色無地紋のB型大人・小児用券で、山口証券印刷で調製されたものです。
同社は首都圏の大手私鉄の中では比較的最近まで硬券入場券を泉岳寺駅を除く全駅で通常発売しておりましたが、平成20年以降は殆どのダッチングが20年対応型ではありませんでしたので、日付の捺印はゴム印を捺印するようになっていました。
現在でも硬券入場券を全駅で取り扱っている大手私鉄は相模鉄道くらいしか思い当たらないくらいになってしまっています。
今月5日の11:40分頃、同駅の横浜方にある踏切で、青砥発三崎口行きの下り快特列車(8両編成)と出田町から輸入オレンジを積載した15トントラックが衝突し、列車の先頭から3両目までが脱線、一部が横倒しになった事故が発生しました。残念ながら、トラックを運転していたドライバーさんがお亡くなりになってしまい、多数のけが人が出てしまったようです。通常、快特列車は、現場を時速120km/h程度で走行しており、障害物を検知する装置作動して踏切近くの信号が点滅し、列車の運転士はブレーキをかけたが間に合わなかったということでした。
今回の事故は、高架化が進んだとはいえ、まだ首都圏にも踏切が多数残っているという問題や、トラック業界においても高齢化や慢性的な人手不足があるという、なかなか解決の目途が立たない、今の世の中に孕んでいる問題が改めて浮き彫りになったものであったと思います。
中野駅発行 急行券 上野から201km以上
1979(昭和54)年3月に、中央本線中野駅で発行された、上野から201km以上の急行券です。
桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、前回エントリーで御紹介いたしました荻窪駅のものと同じ、東京印刷場で調製された様式です。
この券は前回の荻窪駅のものと版が違っているようで、「201」の部分の活字がずれて踊ってしまっています。
この部分を拡大してみました。東京印刷場で調製された券は比較的活字が整然としていて綺麗ですが、この券の場合、「2」の文字が下にずれてしまっており、また、「1」の文字が若干太いように見えます。この券から見るに、「201」の活字はそれぞれ1文字の活版を拾って組み合わせたもので、特活ではなかったものと思われます。
このような印刷の仕上がりは、東京印刷場で調製された末期の券としては珍しい部類であるかと思われます。
荻窪駅発行 急行券 上野から201km以上
1980(昭和55)年4月に中央本線荻窪駅で発行された、上野から201km以上の急行券です。
桃色こくてつ地紋のA型大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。
乗車駅を記入する様式で、「記急③」と呼ばれる様式です。
この券は、どの駅から用として発売できる様式で、乗車駅名を空欄にしておき、発売都度、乗車駅を記入するようになっています。
小児断片にある③は「201km以上」を表し、①は「100kmまで」、②は「200kmまで」を表しており、小児用として発売した際の切り取られた小児断片が、売上精算時に解り易いようになっています。
帝都高速度交通営団 西船橋から120円区間ゆき片道乗車券
前回エントリーで、初期様式の帝都高速度交通営団西船橋駅から80円区間ゆき片道乗車券を御紹介いたしましたので、今回は営団地下鉄末期の券を御紹介いたしましょう。
1981(昭和61)年3月に帝都高速度交通営団西船橋駅で発行された、120円区間ゆきの片道乗車券です。緑色JPRてつどう地紋の金額式大人・小児用券で、やはり帝都交通印刷で調製されたものです。
営団地下鉄の初期の金額式券は、各口座において大人専用券と小児専用券が設備されておりましたが、昭和50年頃から、大人・小児用券と小児専用券が設備されるようになっています。
様式としては他駅と同じものが使用されていますが、同駅は国鉄が出改札業務を行っていたため、発駅上に国鉄千葉鉄道管理局を示す「〇千」の符号が付けられています。
この様式は国鉄民営化以後、在庫を売り切るまで国鉄千葉鉄道管理局の符号が付いた券が発売されていたようです。
2枚目の券は、国鉄民営化以後の1982(昭和62)年8月に発売されたものです。この券が管理人が実際に使用した最新の券になります。
その後、市ヶ谷駅などの発売枚数が多い駅ではJR東日本を示す「ロ東」の符号が付いた券が登場していますが、西船橋駅では硬券は臨時改札等でしか発売されないようになっていましたので、「ロ東」の符号になった新券に切替えられたかどうか、確認できておりません。
帝都高速度交通営団 西船橋から80円区間ゆき片道乗車券
1971(昭和46)年5月に帝都高速度交通営団(=営団地下鉄。現・東京メトロ)西船橋駅で発行された、80円区間ゆきの片道乗車券です。
緑色JPRてつどう地紋の金額式大人専用券で、山口証券印刷の姉妹会社である帝都交通印刷で調製されたものです。
様式としては昭和40年代後半ごろまで使用されていた旧様式の金額式券で、営団地下鉄末期にはこの様式は存在しませんでした。
同駅の出改札業務は、1969(昭和44)年の開業時より国鉄に委託されており、国鉄民営化となった後も、東京メトロと東葉高速鉄道でpasmoとSuicaの相互利用の開始によるJRとの改札分離が行われるまで、JR東日本が行っていました。
そのため、この券は国鉄の窓口で発売されていることから、右上に国鉄千葉鉄道管理局を示す「〇千」の符号が付けられています。
裏面です。窓口番号が「〇I西船橋駅」発行となっておりますが、この番号の窓口がどこにあるものかは特定できません。しかし、同駅の出札業務は国鉄が担当していたことから、国鉄の窓口であったことは間違いないと思われます。
親不知駅発行 普通入場券
前回エントリーで、JR西日本となってからの親不知駅で発行された普通入場券を御紹介いたしましたので、今回は国鉄時代に発行された普通入場券を御紹介致しましょう。
1981(昭和56)年4月に親不知駅で発行された普通入場券です。白色無地紋のB型大人・小児用券で、名古屋印刷場で調製されたものです。
同駅は新潟県糸魚川市に位置する駅ですが、国鉄時代は金沢鉄道管理局管内の駅であったため、新潟印刷場ではなく、名古屋印刷場の券が設備されていました。
同駅は天下の険として有名な親不知・子不知海岸にある駅で、同駅を中心とする青海駅~市振駅間約15kmを親不知・子不知海岸と言います。親不知駅~市振駅の間が親不知、親不知駅~青海駅の間が子不知と呼ばれています。
地名の由来はいくつかあるようですが、ここは北陸道最大の難所で、断崖絶壁と荒波が旅人の行く手を阻み、波打ち際を駆け抜ける際に親は子を忘れ、子は親を顧みる暇がなかったことから、親知らず・子知らずと呼ばれるようになったという説をよく聞きます。
また、1912(大正元)年に竣工し、1965(昭和40)年に複線化により廃線となった旧線に、断崖絶壁にあるレンガ積みのトンネルである旧親不知トンネルの遺構が、当時の土木工事の土木遺産として残され、公開されています。これは、北陸道最大の難所天険親不知の断崖絶壁を貫通させ、旅客輸送だけでなく、黒姫山から産出される石灰石の輸送に使用され、産業経済のみならず生活文化についても地域の近代化に貢献したことを称えるために整備されたとのことです。
JR西日本 親不知駅発行 普通入場券
1991(平成3)年7月に、JR西日本北陸本線親不知駅(えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインに移管)で発行された普通入場券です。
白色無地紋のB型大人・小児用券で、大阪印刷場で調製されたものです。
同駅は新潟県糸魚川市に位置する駅ですが、国鉄時代は金沢鉄道管理局管内の駅であったため、JR西日本に移管されています。そのため、国鉄時代は名古屋印刷場で調製された券が使用されていましたが、JR化後は大阪印刷場で調製された券に変更されています。
京浜急行電鉄 横須賀公郷から20円区間ゆき片道乗車券
1962(昭和37)年10月に、京浜急行電鉄横須賀公郷(現・県立大学)駅で発行された、20円区間ゆきの片道乗車券です。
桃色PJRてつどう地紋のB型金額式大人専用券で、山口証券印刷で調製されたものと思われます。
駅名は「横須賀公郷」ですが、活字の関係でしょうか、発駅名が「横須賀 公郷」と不自然なスキマがあります。
同駅は1930(昭和5)年に京浜急行電鉄の前身である湘南電気鉄道の駅として開業し、その後湘南電気鉄道と京浜電気鉄道が合併したことによって京浜電気鉄道の駅となり、さらに 京浜電気鉄道が東京横浜電鉄と合併し、東京急行電鉄の駅になります。そして、戦後の1948(昭和23)年に京浜急行電鉄が発足し、京浜急行電鉄の駅となります。
京浜急行電鉄となって以後の1963(昭和38)年11月1日、同社の電車が従来の赤と黄色のツートン車体から現在の赤に白帯の車体に変更されたのと同じタイミングで、横須賀公郷駅のほか、湘南富岡駅、湘南田浦駅、湘南大津駅がそれぞれ京浜安浦駅、京浜富岡駅、京浜田浦駅、京浜大津駅に改称され、1987(昭和62)年には「京浜」の文字が入った駅名をすべて「京急」と改めたことにより、京急安浦駅に2度目の改称がなされます。
そして2003(平成15)年4月、近隣に神奈川県立保健福祉大学が開学すると、2005(平成17)年になって京急安浦駅は県立大学駅に3度目の改称を受けることになり、現在に至っています。
現在でも「県立大学って何だ?」という感じですが、同駅の駅名の由来は神奈川県立保健福祉大学のことを指しています。
JR東日本 盛岡駅発行 東京都区内ゆき 片道乗車券
前回および前々回エントリーで、仙台印刷場管内で発行された東北本線完結の乗車券には、長距離券であるにも拘わらず、乗車経路の記載がないものが散見されていたことを御紹介いたしました。
今回は、JR東日本に民営化されて以後の同条件下で発行された券を御紹介致しましょう。
1988(昭和63)年8月に、JR東日本東北本線盛岡駅で発行された、東京都区内ゆきの片道乗車券です。青色JRE地紋のA型一般式大人・小児用券で、東京印刷場で調製されたものです。
仙台・盛岡地区で発行された硬券は、国鉄末期の仙台印刷場の閉鎖以後は民間印刷場に移管され、前回エントリーで御紹介させていただいたような民間印刷券となっておりました。そして次に国鉄が民営化された以後、民間印刷券の登場はなくなり、今度は東京印刷場へ再度移管されています。これは、窓口での発券業務の機械化によって硬券の需要が少なくなったことから、硬券の印刷業務を行う印刷場の業務が集約されたことも理由のひとつであるものと推測されます。
東京印刷場で調製されるようになっても、同区間の乗車券には、仙台印刷場の様式が踏襲されたのでしょうか、経由表記が無い券が登場した例が確認されています。
一戸駅発行 東京都区内ゆき片道乗車券
前回エントリーで、仙台印刷場で調製された、経由表記のない東京都区内ゆきの片道乗車券を御紹介いたしましたが、このような例はその後の民間印刷券にも見ることができました。
1985(昭和60)年8月に、東北本線一戸駅で発行された、東京都区内ゆきの片道乗車券です。
青色こくてつ地紋の一般式大人・小児用券で、民間印刷券となっています。
乗車券印刷業務を行っていた仙台印刷場は国鉄末期に硬券印刷業務を終了させ、その代わりとして民間の印刷会社に発注する方法に改められています。
移管を受けた印刷場では、現業現場の混乱を招かないようにでしょうか、なるべく従前の様式を踏襲した状態で調製されています。
そのため、新規に凸版を作成したうえで印刷が行われているものの、東北本線内の駅に設備された仙台印刷場の様式を引き継ぎ、経由表記がないものが多数存在していたようです。
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