先日、玄関脇に駐輪している自転車の前座席(子ども用)に
3才のおてんばの長女が乗って遊んでいたのだろう、
どしんと自転車ごと倒れて、彼女は大泣き。腕を軽く擦った程度で済んだ。
妻の電動自転車で、重量もあるから危ない。
そこで、今日の中学校の風呂敷講座の帰りにホームセンターに寄った。
口を開閉できるフックのナスカンと、綿ロープを求める。
自転車が倒れないように、脇にロープを張っておくためだ。
ロープの片側は、柵に外れにくい「もやい結び」でくくり、
もう一方の先にはナスカンを付けて、柵にはめたカードリング
(英単語など覚えるためのカードを束ねるリング)
に、フックをかける。
これでOKと思いきや、ロープに万が一子どもが首を引っかけて
遊んだら、窒息してしまう。
そこで、自転車全体ではなく、カゴ部分だけロープで
留めて、余分な隙間が無くなるようにした。
だけどもう1点。
自転車が出かけているとき、残されたロープを
きちんと整えないと、それもまた遊んで首を絞めかねない。
その対策もして、何とか落ち着いた。
綿のロープにしたのは、何かで火がついたとしても
有毒ガスが出ないようにするため。
安全対策は、多方向の視点やシミュレーションが問われる。
安全のためにと行なったことが、新たな脅威を生むこともあるからだ。
つくづく感じたのは、人類の技術文化は子育てを通して進化してきたということ。
子どもを危険から守るために、あれこれこと細やかに工夫する。
技術には、攻守があり、
子育ては守る技を、狩りは攻める技を進化させた。
戦争はそのどちらも含んでいるが、攻める技術の威力、加害力が
限度を超え、大自然の手のひらの上でのささいな喧嘩と
仲直り、という規模では済まなくなり、憎悪と報復の連鎖を起こしている。
今はっきり思うのは、もはや攻めの技術は要らない。
追いかけて、騙して、奪いとる、狩りや殺しの技術がなくても、
人は温帯~熱帯を中心に、ドングリやフルーツ、稲作、
鶏の卵拾い、潮干狩り等、その地にあった無理のない農業や
その場で拾える恵みが自然と湧くポテンシャルにあるから、
そういう環境を保持する、守りの技術の進歩に徹すればよい。
そして、土地からの恵みに乏しい、寒い地域は、素材を加工する
工業に力を入れて、南と交流、交易すれば、持ちつ持たれつの
協力関係となる。
守るというのは、決して鎖国的に閉じこもることではない。
車が危ないから子どもを室内で遊ばせる、ではなくて
子どもが外でのびのび遊んでも危なくないように対策することだ。
川に近づかないのではなく、誤って川に落ちても
助かるような川の在り方、助け方、浮かび方を思い慮り
形にしていくことも守りである。
どこかへ攻めることをやめて、今いる所を生かし楽しんで
存続させる意識が、新しい時代を築きゆく。
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