今は夜。
暗闇の中、植物はどんな色をしているのか、分からない。
光を当ててしまったら、光に反応した色でしかない。
やみの中、無彩色の葉っぱは
明け方の青い葉よりも、何かもっとやさしい。
まさに育っている時間。
昼間にやったことは、
畑を広げるために木を切ったり、
草を抜いてととのえて、野菜の苗を植え替えたり、
土を移動したり、太陽を浴びて汗ばんだシャツを
水で洗って、薄暗い路地に干したらやや臭うので、
熱湯に浸してから干しなおしたり、
横たわる切られた木に、水を注いだ。
そんな諸々の行動が、夜に熟成し、
朝に何らかの華とひらく。
明日はなるべく早起きしたい。
植え替えたエゴマの苗がすっくと立っているか、見たい。
きちんと塗り込められていない、数年前のコーキングをいったんはがして、
新たしく丁寧に、ヘラで塗って下の部屋の雨漏りをおわらせよう。
そういえば、昼間に深型番重のプランターに繁った
ユキノシタを抜いて、土を他へ移そうと整えていたら、
土中から亀が出てきた。
のこのこと、脚をパタパタする、動くような亀ではないけれど、
僕にとっては、生きている。
軽石か何かを彫ったような亀かな。
昔々、玄関に置かれていたものだ。
あれから30年近く経って、いつの間にか雪の下の下に眠っていた
門番の亀が、今日、穴より這い出て、そして、
水でざばんと洗われて、お店へ至る路地の石臼の上に置かれた。
同じ場所には、カエルの石像の半分風化したようなものもある。
カエルと、亀がならんだ。
いきものにあふれていた横山家が、また集まってきたみたいに。
いきもの、植物、人、街、そこに、忘れちゃならない存在は、
屋上から両手いっぱいに仰げる、大きな空。
狭いようで、どこまでも高くて深い、自分の宇宙に還ってきた。
そういうリズムで、特にその生まれ故郷に居ると、
あふれる応援を感じる。
その種は、10年前まで、この街、浅草や上野を歩いていた毎日。
何時間も屋上で土をいじっていたり、
部屋を掃除したり、怒ったり泣いたり笑ったりしながら
家族や友達、学校などとの日々において、
玄関を開けて階段を上って帰ったり、朝や夜に外へ出発したりしてきた
実家。その屋上だから、
地面じゃなくても、寄せ集めの土でも、
ふしぎにげんきに野菜がよく育ち、
草のあいだを行くダンゴ虫は僕が生まれる前から
この家の土に連綿と生命をつないできた者たちだろう。
何だか分らぬまま長文で申し訳ありませんが、
今いいたいと思うのは、
ふるさとはいつでも、そこで生まれ育った子の味方で、応援をしてくれているということ。
それは人ばかりでなく、家の建物そのものとか、土や石、植物やいきもの。
また、そこの水道で出てくる水、上から見ている空までも。
そんで、いちばん大きな応援って何かといったら、
過去の自分の思いや行動や出会いや経験の全て。
それらが全部、今への応援と協力に回っているのだから、
そういう意識をもって、何もかもを生かしてゆきたく思います。
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