借りとる、山の畑の片隅に以前、セリを数本植えておきました。
そこへ前回見てみたら、キアゲハの幼虫がついていた。
蝶ちょはアゲハと似ているが、幼虫はシマウマの白が緑になったような、
人によっては「ぎょ」としそうな模様である。
ちょびっとのセリがほぼ食い尽くされそうで、それは構わないけど
そのままでは餌が尽きて幼虫も生きていけないので、
持ち帰って、セリの出どころである我が家の裏庭の芹沢に放した。
そんな彼たちがすくすくと育ってきていて、嬉しい。緑のシマウマ。
普通のアゲハの幼虫は、みどりの新幹線のようです。
こういう、ちょっとした出会いとか発見とか、目のひらく新鮮な
よろこびの積み重ねが、日々の暮らしを豊かにし、
世の中の動向がどうこうとか、お金がある無いとかと
別次元の視点や心持ちを授けてくれる。
何しろ、テレビもネットも、自ら直に体験した情報ではないから
本当か嘘かは全く分からないので、初めから真実を期待せずに、
映画や漫画を見るように、自分なりに感じればよいが、
視覚情報は知らず影響を受けるから、そうならないように
達観の姿勢を多少は自覚しておくとよいと思う。
よい情報も、そうでないものも、自分ができることしかできないのだから、
あまり不安にかられ続けて、心配から遠ざかることばかり意識していると、
たとえ安心しても、楽しくてしあわせ、とはならない。
ちょいとひとこと発してみる。
「失敗しないことが成功ではない」
「安心=しあわせではない!」
世の中には、とにかく失敗しないこと、責任回避ばかりに
心を尽くしているビビリっちが多いのではと感じている。
また、問題のほとんどがお金由来に取りつかれていると、
お金があれば安心=幸福、で完結し、それ以外の無数のしあわせを
享受できない。たとえ他の楽しみに出会っても
「お金があるお蔭でこれを楽しめる」という
条件つきの楽しさになるので、ちっとも自由ではない。
何があっても全然大丈夫で、問題ではなく、何か問題が起こっても
つるんと解決できるという、自信でも不安でもない
揺るぎない平常心を、意識するでもなく保っている視界を抱くこと。
敵も味方もない、無敵(無味方?)状態でいれば、
敵(と相手は思っているかもしれない対象)にも愛をささやけるし、
味方(と相手は思っているかもしれない対象)にも苦言を伝えられる。
カマキリの赤ちゃんが何百と孵り、夏に無事成虫へまで成長できるのは
わずか1,2匹だけど、そうやって生き残ったカマキリだけが幸せなのか?
ただ、循環。死んだカマキリは、他のいのちとなって羽ばたき躍動し、
永遠のいまを輝きつづける。
どんな状況になっても、捨てる神があるから拾える神がいて、
好きな意味が与えられ、さらに意味を外して自由になれる、
それがいのちだ。
キアゲハの幼虫がセリの葉から落ちる。
僕はすくい上げるけれど、
そのままでいても、幼虫は葉っぱとは違う
土の上の新しい世界を経験し、そのうち
蟻に囲まれ、血肉を吸われる不思議な感覚とともに、
今も葉の上で次なる成長を遂げる兄妹に
子孫繁栄の夢をたくしながら、自らも蟻のいのちとなって
セリ沢の存続につながる生態系の役割に
一寸の悔いもなく、ただおもむろに環境と
フュージョンしてゆくばかりだ。
いのちの意味は、無条件にげんきで自由なこと。
それは三次元の領域を超えている。
病氣だから、不自由だから、つらいといっても、
その感覚を不幸に感じるのは自分なりのものさし。
もしも人に羽根があって飛べるなら、
羽根のない人、折れた人は不幸のどん底にあるかもしれない。
でも、羽根のない生きものとしての私たちは、そのことを不幸とは通常は思わない。
建物の出入り口が2階以上の窓であるとか、羽根ありきでできている世の中であったなら、
住みづらいかもしれない。
要するに障害は自分ではなく社会なので、
社会を変えれば、羽根のないままでも自由になれる。
そこへ向かって、もっと強氣になろう。
自分が社会に合わせるのではなく、自分に好都合の
社会を、思い切り創造する。
中身(人)にあわせて器(社会)が、臨機応変に、自由自在に
変化する、それが風呂敷の呼吸。
そのためには、先に、社会がこうあるべきだ、と規定してしまうと
自分が変化できなくなって苦しくなる。
人々の変化によって社会も都度変えていこう。
作られた社会に合わせちゃならない。
自分好みに、社会を結びなおそう!
そんな、ふろしき宣言(?)です。
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