カンピドーリオの丘の裏手の階段を降りると、すぐフォロ・ロマーノ。古代ローマの政治・経済・行政といった国家運営に必要な機能を一箇所に集めた場所である。目を瞑ると、皇帝の凱旋式が行われ、耳を澄ますと、古代ローマ市民の歓声が聞こえる、ここはそんな2000年もの時をタイムスリップできる場所でもある。
フォロ・ロマーノに降りる階段の上で、まず目に飛び込んでくるのは、セプティミウス・セヴェルスの凱旋門。
西暦203年にセヴェルス帝の功績を称えて建てられた凱旋門。両脇の二つの小アーチ部分には、2度のパルティア遠征での活躍が描かれている。日本人には、あまり馴染みのないセヴェルス帝だが、かの有名なカラカラ帝の父親である。大理石の化粧板の装飾は派手かつ豪華であり、後で見るティトスの凱旋門と比べると対照的でおもしろい。
すぐ右に見えるのが、サトゥルノの神殿。(写真左側の円柱)
奴隷や貧民階級に敬われた農耕の神サトゥルノに捧げる神殿だった場所。神殿の入り口を飾っていた8本の円柱とイオニア式の柱頭、それらを結ぶ上枠が残っている。
ユリウスのバジリカ
紀元前54年にユリウス・カエサルが着工した会堂で、アウグストゥス帝によって完成。司法・行政の場として使われ、中には4つの裁判所もあったという。
クーリア(元老院)
元老院が議会を開き、決定を下す公式の場として使われていた。この建物自体は、20世紀になって遺跡を元に復元したもの。今の日本でいう国会議事堂のようなものだろう。共和政ローマにおいて、もちろん主権者は、元老院並びにローマ市民であった。が、アウグストゥス以後帝政になって後も、皇帝は、彼ら有権者から統治を委託された存在であるため、主権者であることには変わりなかった。というわけで、ここは長年ローマの政治の中心となっていた場所なのである。ローマ市内を歩いていると、多くの公共物に「S・P・Q・R」の文字が刻まれているが、これこそ「元老院並びにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)」の略である。
カストルとポルックスの神殿
ローマを勝利に導いたという伝説の双子カストルとポルックスに捧げた神殿跡。この二人は、カンピドーリオ広場入り口に立てられていた像の二人ですね。
カエサルの神殿
カエサルの遺体が火葬された場所。初代皇帝で、カエサルの養子でもあったアウグストゥスが建てたもの。石壁のようなものが残る程度で、知らない人ならそのまま前を通り過ぎてしまうだろう。それでも献花が置かれてあり、カエサルの人気ぶりはうかがえる。
アントニヌスとファウスティーナの神殿
アントニヌスとは、五賢帝の一人アントニヌス・ピウス帝であり、彼が死んだ妻ファウスティーナのために建てた神殿。皇帝も、死後、ここに妻と一緒に祭られた。
ロムルスの神殿
マクセンティウス帝が、幼くして死んだ息子ロムルスのために建てた神殿。ローマ建国の伝説に出てきたロムルスとは無関係。帝がミルヴィオ橋の戦いで戦死したため未完成に終わったと考えられている。
マクセンティウスのバジリカ
フォロ・ロマーノ最大の建造物。マクセンティウス帝によって建設が始められたが、最後はミルヴィオ橋の戦いで彼を破った、コンスタンティヌス帝によって完成。コンセルヴァトーリ宮殿の中庭に一部があった、コンスタンティヌス帝の巨大な像はここに置かれていた。たしかにあの馬鹿でかい像にはぴったりの巨大さだ。
ティトスの凱旋門
ヴェスパシアヌスとその息子ティトスの、エルサレム攻略を記念して建てられた。慈悲深いと評判だったティトス帝の凱旋門らしく、セヴェルス帝やコンスタンティヌス帝のものと比べると、飾り気がなく、質素な感じまでするほどだ。彼の治世は2年という短いものであったが、その間に、ポンペイを埋没させたヴェスヴィオ火山の大噴火、首都ローマの大火事、イタリア全域の疫病発生といった大災害が起こっている。しかも度重なる災害に、彼は私財を投げ打ったとのことだ。「ローマ人の物語」で、塩野七生も書いているように、若い彼の死は、災難続きで心身ともに疲労が重なったのが原因かもしれない。
またこの凱旋門の下を抜け、セヴェルスの凱旋門からカンピドーリオの丘まで続く道は、聖なる道(Via Sacra)といわれ、皇帝たちの戦勝の凱旋行進はこの道を通り、丘の上にそびえていたローマの最高神であるユピテルの神殿まで続いたとのことです。
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