三津嚴島神社ブログ

愛媛県松山市神田町に鎮座する嚴島神社の神主の記録

三津浜・刈屋畑の合戦

2012年09月15日 | 日々のできごと

 「関ヶ原の戦いのさなか、三津浜でも戦が! こうして海賊衆は活躍の場を失った」

関ヶ原の戦いの混乱に乗じて伊予国での領土切り取りを謀った毛利氏は、現地で御家再興を狙う河野氏の旧臣や瀬戸内の水軍衆に働きかけて蜂起させた。

安芸国竹原から出陣した数百艘におよぶ舟の将は能島水軍の村上元吉、因島水軍の村上吉忠ら豊臣秀吉の定めた海賊停止令によって活動の場を失った海賊たちで、伊予国三津浜(現在の愛媛県松山市古三津)に上陸すると、現地の河野氏旧臣の平岡直房らと合流し正木城(松前城)へ迫った。

これに対して守将の加藤嘉明の弟加藤忠明や足立重信、佃十成らは女子供を城内より逃がしたいと偽って猶予を求める間に城下の民衆を使って、さも毛利氏の侵攻を歓迎するかのような流言を行い、また宇和島城主藤堂高虎に援軍を求める使者を密かに出した。

こうして油断しきって三津刈屋口に布陣していた敵陣に一気呵成に夜襲をかけ、あたり一面に火をかけると数で勝るはずの毛利軍はたちまち瓦解し、村上元吉をはじめほとんどの諸将を失ってしまう。
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その後も毛利軍は諸城に立てこもって抵抗を続けるものの、勢いに乗った加藤軍に各個撃破された。

この敗北により、河野氏のお家再興の望みは完全に絶たれ、海賊衆は活躍の場を完全に失うことになり、毛利氏は吉川広家らの画策した本領安堵の約束を反故にされる遠因ともなった。

なお、この一連の戦いには様々な文献や資料によって「三津刈屋口の戦い」「刈屋畑の合戦」「三津浜夜襲」「竹原崩れ」など、多くの呼称が伝わっている。

約400年前のこの合戦により当嚴島神社の前の社殿が燃え、今の鎮座地に遷った。

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