神田明神にて『伊勢の神宮写真展 ~神宮の四季と式年遷宮~』を行っています。


愛媛県の若手神主さんの集まりである愛媛県神道青年会の主催の事業として、
以前にも奉納いただいた大洲の大工の池田さんの協力ものと、
石川県輪島市に鎮座する重蔵神社に社殿を奉納しました。
先ず状況から説明しますと、1月1日に「令和6年能登半島地震」が発生し、多くの住宅とともに神社も被害を受けました。
そのなかで、輪島市の復興の拠点になっている重蔵神社にきちんと御霊の入ったお社があった方がいいという声があり、今回の社殿奉納に繋がりました。
5月26日に境内の瓦礫を移動させ、
基礎となる土台を置き、コンクリートを流し込んで設置しました。
27日にトラックで大洲から運んできた社殿を設置して
遷座祭を行い、社殿にお御霊をお遷ししました。
青森、福島、東京からも支援活動のために集い、計画通り社殿を奉納することができてよかったです。
また、周辺の様子ですが、地震発生から半年近く経過しましたが、
道路が通行できるようになったものの、瓦礫や倒壊した住宅はそのままになっておりました。
1月上旬に支援活動をした方によると、ほとんど景色は変わっていないとのことでした。
今回の復興支援活動を計画した際も、能登で宿泊できる施設は少なく、
バスは通るようになったものの、金沢市内から能登までは片道3時間程かかり、
始発で10時45分着、最後が15時発と
能登に4時間程しか居れないのが現状です。
現状だと作業時間を確保するのも大変に感じました。
のと里山海道と能越自動車道が7月末までにほぼ対面通行が可能になるようなので、
そうなるとまた変わってくるかもしれません。
被災地の復興を心より祈念致します。
日本はロシアより早く、北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)の存在を知り、
多くの日本人がこの地域に渡航するとともに、徐々にこれらの島々の統治を確立しました。
それ以前も、ロシアの勢力がウルップ島より南にまで及んだことは一度もありませんでした。
1855年、日本とロシアとの間で全く平和的、友好的な形で調印された日魯通好条約(下田条約)は、
当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の国境をそのまま確認するものでした。
それ以降も、北方四島が外国の領土となったことはありません。
しかし、第二次大戦末期の1945年8月9日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、
日本がポツダム宣言を受諾した後の同年8月28日から遅くとも9月5日までの間に北方四島の全てを占領しました。
当時四島にはソ連人は一人もおらず、日本人は四島全体で約1万7千人が住んでいましたが、
ソ連は1946年に四島を一方的に自国領に「編入」し、1948年までに全ての日本人を強制退去させました。
今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いています。
外務省HPより抜粋
尚、歯舞群島と根室の間で昆布漁を営なんでいる方は、以前に漁師がロシア国境警備局に撃たれて死亡したこともあり、
若手神主の会である神道青年全国協議会の役員就任報告参拝を伊勢の神宮にて行いました。
僭越ながら久爾大宮司、齊藤小宮司ともご挨拶させていただき、有難いお言葉をいただきました。
翌日、熱田神宮にも正式参拝させていただき、
伝統を守り、よりよい未来のために、決意を新たにしました。
若手神主の全国組織である神道青年全国協議会の総会が行われ、
この度、副会長に指名をされました。
75年ほど続く組織ですが、愛媛県からこの職に就いたのは14年ぶりで、私で3人目だそうです。
重責を担う大役を仰せつかり、身の引き締まる思いであります。
これも今までご指導ご鞭撻いただき、支えていただいている皆様のお蔭と心より感謝しております。
その後、明治神宮に正式参拝をし、就任の報告をしました。
大学生の時に研修生として4年間、研修寮で住み込みで奉仕させていただいた場所にこのような報告が出来て光栄です。
その後、明治記念館にて菊波の友垣会が行われ、
OBや会員と懇親を深めました。
令和4年10月28日
神道青年全国協議会と全国氏子青年協議会の会員40名が沖縄県豊見城市の旧海軍司令部壕にて遺骨収集を行いました。
戦時中、壕内には約4千人の兵士らがいたと言われており、
昭和45年6月11日、米軍による壕への総攻撃を受けて、司令部は最後の電報を発し「壕が玉砕した」と報告しました。
この壕の詳細な戦死者数は分かっていません。
今回はNPO法人空援隊による約150メートルに及ぶ未公開の坑道の徹底調査に参加しました。
作業は遺骨や遺留品を傷付けないように慎重に行い、土の表面を削り、ふるいにかけました。
壕内は狭く、泥まみれになり、全身から汗が吹き出しました。
当日も複数遺骨など発見されました。
収集された遺骨は厚生労働省によりDNA鑑定されて戦没者遺族の身元を特定してご遺族のもとへ返還される予定です。
今の日本があるのは、国の為に散華された英霊のお蔭だということを忘れてはいけません。
令和4年10月27日
若手の神主の全国組織である神道青年全国協議会が主催となり沖縄本土復帰五十周年記念事業として
沖縄県護国神社にて斎主の加治順人宮司をはじめ全国の神青協会員による祭員計54名にて沖縄戦全戦没者慰霊祭を奉仕しました。
ご来賓も含め66名の方々にご参列いただき、滞りなく執り行いました。
現在、若手神職の全国組織である神道青年全国協議会の役員を務めさせていただいており、
島根県神道青年協議会のご協力のもと隠岐島にある「竹島之碑」の現状視察と清掃奉仕を行いました。
初日、伊丹経由で隠岐空港に到着後、隠岐島文化会館にて役員会、竹島研修会、更に役員会。
竹島にて日本人がアシカ漁などを行っていた事実を学びました。
翌日、隠岐自然館にて隠岐諸島の歴史について教えていただき、
水若酢神社に於いて正式参拝を行った後に、
久見竹島歴史館を拝観し、竹島について更に理解を深めました。
そして「竹島之碑」が被害なく建っている現状を確認し、島根県神道青年協議会と共に清掃奉仕を行い、
碑についた汚れや周りに生えていた雑草等を取り除きました。
韓国に不法占拠されて70年ほど経過しました。
日本国民全体がこのことに対して声を上げていかないと問題は解決しません。
日本の領土である「竹島」が韓国に不法占拠されている事実を改めて認識してください。
令和4年5月11日
40歳以下の若手神職の集まりである神道青年全国協議会の役員として
日本最南端の有人島である波照間島にて沖縄本土復帰50周年奉告祭を斎行しました。
神道青年全国協議会は昭和33年より沖縄本土復帰運動に取り組んでおり、
昭和47年に友好諸青年団体と共に波照間之碑を建立し、各県より持ち込まれた銘石を埋め込みました。
昭和60年には昭和天皇御在位60年を記念して聖寿奉祝の碑を建立して、周年を迎えるごとに奉告祭や慰霊祭を斎行してきました。
本年は雨風が強く、石垣島から波照間島までの航路も物凄く揺れ、
一時ジェットコースターのように下腹部に違和感を覚えるほどでした。
例年は碑の前で行いますが、今回は聖寿奉祝の碑が見える屋根のある東屋にて奉告祭を行い、
神道青年全国協議会会長を始め役員参列のもと滞りなく奉仕し、私は伶人として篳篥を演奏いたしました。
貴重な経験を得ることができ、大変な思いをして行った甲斐がありました。
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