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アメリカ独立記念日、俗説の真相

2011-07-05 | 先住民族関連
ナショナルジオグラフィック ニュース
Brian Handwerk
for National Geographic News
July 4, 2011

 7月4日のアメリカ独立記念日には数多くの俗説が存在する。今回は、そのうち9つの真相を紹介しよう。
【 1. 独立宣言は7月4日に署名された 】
 独立記念日は本来、2日前に祝うべきだ。なぜなら、独立宣言が第2次大陸会議で可決されたのは7月2日だからである。第2代大統領となるジョン・アダムズは次のように妻へ書き送っている。「この後、幾世代を経ようとも、毎年この記念すべき日(7月2日)には盛大な祝祭が催されるに違いない」。
 アダムズは、ショーやゲーム、スポーツの試合、銃声やベルが鳴り響く通り、かがり火を焚いたセレモニーやパレードを正確に予測していたが、日付は読み違えていた。独立宣言が実際に成文化されたのは7月4日で、この日付が記された書面が全土に送付されたため、7月2日はすぐに忘れ去られてしまったという。
 独立宣言への署名も、1776年7月には一切行われていない。1人目のジョン・ハンコックは8月2日に有名な署名を大書し、全員の署名が終了したのは11月の終わりだった。
【 2. ポール・リビアは1人で騎行した 】
 愛国者ポール・リビアが1775年4月18日夜、イギリス軍の動きを知らせるため伝令に走ったのは本当だ。しかし何かに突き動かされた孤独な騎行というイメージは間違っている。原始的だが非常に効率的な早期警戒システムの一部としてリビアは働いた。
 そのシステムの一環として、ボストンにあるオールドノースチャーチの使用人ロバート・ニューマンは尖塔からランタンを2つ掲げて、イギリス軍の接近を知らせている。ただし4月18日の夜、リビアはその合図を見ていない。
 リビアともう1人の騎手ウィリアム・ドーズは、別々のルートでマサチューセッツ州レキシントンに無事たどり着き、サミュエル・アダムズとジョン・ハンコックに対して逮捕される可能性を警告した。
 リビア伝説の「後先顧みない」イメージは、事実が間違って伝わったのではない。詩人で大学教授だったヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩「ポール・リビアの騎行」で、リビアの活躍が誇張して描かれたことが原因である。
【 3. 1776年7月4日のパーティで自由の鐘に亀裂が生じた 】
 1776年7月4日、アメリカの独立を祝うパーティは確かに催されたが、愛国者がいくら喜んだと言っても、自由の鐘に亀裂が生じるまで鳴らしたりはしなかった。それどころか、「アメリカ植民地議会議事堂の鐘」とも呼ばれるこの鐘は、7月4日当日には一切使われていないという。独立宣言が初めて公に朗読された7月8日に、その前触れとして市内のその他の鐘と一緒に鳴らされたようだ。
 鐘の亀裂は、元々の鋳造不良が原因で、1752年の納入後すぐに生じていた。その後も再鋳造と亀裂の発生が繰り返されたが、独立戦争の間は無傷だったという。
【 4. 愛国者が集結し、自由を求めて戦った 】
 この根強いイメージは、独立戦争の初期については正しい。しかし、独立獲得への道のりは長く困難だった。多くのアメリカ人は次第に戦闘意欲を失い、農場経営など生活面への懸念を高めていった。
 当初は志願兵が殺到したが、多くの植民地では早くも1776年に金銭で入隊者を募り、1778年末には徴兵制に切り替わっていたという。
【 5. 独立宣言には秘密のメッセージが隠されている 】
 独立宣言に関する俗説の中には、最近流布されたものもある。例えば2004年の映画『ナショナル・トレジャー』では、独立宣言書の裏側に隠されたメッセージや地図が描かれていたが、実際には存在しない。ただし裏面に何らかの記述があることは、アメリカ国立公文書記録管理局も認めている。
 羊皮紙の裏面には、「Original Declaration of Independence, dated 4th July 1776(独立宣言書の原本、1776年7月4日)」との一文がある。独立宣言書はサイズが大きかったため、18世紀当時は持ち運びや保管の際にロール状に巻かれていたという。この記述は、ロール状態でも文書を識別できるように書かれたようだ。
【 6. ジョン・アダムズはトーマス・ジェファーソンのことを考えながら死んだ 】
 奇妙にも、ジョン・アダムズとトーマス・ジェファーソンは共に1826年7月4日に死去している。アダムズは最後にジェファーソンのことを考えていた、死の床で「ジェファーソンは生き残る」と言ったなどの俗説があるが、裏付ける確かな証拠はない。
【 7. アメリカは反イギリスで団結した 】
 独立戦争ではアメリカ人同士の大規模な戦闘もあった。イギリスの海軍博物館(National Army Museum)によると、アメリカ人の15~20%はイギリスを支持していたという。我関せずの姿勢で、戦争に巻き込まれないようにしていたケースも多い。
【 8. ベッツィー・ロスが最初の国旗を作った 】
 1777年にお披露目されたアメリカ国旗について、デザインや縫製にベッツィー・ロスが関わったという証拠はない。実際、この有名な女性裁縫師の話は、約1世紀後に本人の孫から広まった話であり、一家の伝承以外に根拠はない。
【 9. 先住民族はイギリス側に付いた 】
「(国王は)年齢、性別、身分を問わず無差別に殺害する非情で野蛮なインディアンを、辺境地帯の住人に対してけしかけようとした」。
 独立宣言書にはイギリス国王ジョージ3世に関するこのような記述があり、多くの先住民が最終的にイギリス側で戦ったことも確かだ。しかし、ダートマス大学の歴史学者コリン・ギャロウェイ氏によると、植民地側に付くか、争いに巻き込まれないようにしていた先住民も多いという。
http://www.nationalgeographic.co.jp/news/news_article.php?file_id=20110704001&expand&source=gnews

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登別でアイヌ語特別講座、30人が歴史や文化学ぶ

2011-07-05 | アイヌ民族関連
【室蘭民報 2011年7月4日(月)朝刊】

 アイヌ民俗文化財伝承・活用事業アイヌ用語学習講座(道教委主催、北海道アイヌ協会登別支部委託)の特別講座「アイヌ語地名をバスで巡る」が2日、登別市内で開かれた。参加者が実際の土地を歩き、アイヌの歴史や地名のルーツをたどった。
 「登別川について学ぶ」をテーマに、アイヌ語学者・知里真志保(1907~61年)の没後50年に合わせて企画。登別、室蘭、松前などから約30人が参加した。講師は登別郷土文化研究会員の街道重昭さん、案内役は「知里真志保を語る会」の小坂博宣事務局長が務めた。
 一行はバスに乗り、登別川の河口に向かった。小坂事務局長が「『登別』はアイヌ語の『ヌプルペッ』(濁った川)が由来となっている」と説明し、街道さんが川にまつわる逸話を紹介した。参加者は興味深そうに周辺を見学していた。
 この後、登別小学校前にある知里真志保の碑やカムイワッカ(中登別町)、新登別大橋などを巡り、大湯沼川へ。森林浴を楽しみながら地獄谷までウオーキングし、途中足湯で一休み。河村英二さん(55)=留寿都村=は「足湯の白く濁った水に感動しました」とアイヌ文化を肌で感じていた。
(粟田純樹)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2011/07/04/20110704m_05.html

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