先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

メキシコの村々の写真と民芸品展示

2016-09-01 | 先住民族関連
読売新聞 2016年08月31日
 「Mexico―メキシコ 自然と民芸―」展が秦野市立野台の「ぎゃらりーぜん」で開かれている。9月5日まで。
 東京在住の旅行収集家・紺栄太さん(34)と、秦野市出身の妻晴はるるさん(36)が、メキシコ・ユカタン半島のひなびた村々を訪ね、撮影した写真や手に入れた民芸品を展示している。黒色の巨体を誇る軍艦鳥やペリカンが飛び交う風景写真、先住民族が作った陶器、置物、ベルトなど約300点が飾られ、販売も行っている。
 夫妻はこれまでに、日本にあまり知られていない地域の自然や文化を求め、35の途上国を旅してきたといい、紺さんは「秦野も自然が豊かですが、またひと味、趣の異なる自然の魅力を味わってほしい」と話している。
http://www.yomiuri.co.jp/local/kanagawa/news/20160830-OYTNT50367.html


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久しぶりに公式来日したチェン・ヨウチェ監督

2016-09-01 | 先住民族関連
ASIAN CROSSING-2016/08/30
一番大事なものは何か 子どもたちに何を残していくかをアイデンティティと共に描く
 -チェン・ヨウチェ(鄭有傑)
 台湾ホットフォーカスでもご紹介した台北映画祭2015。観客賞を受賞したのは、チェン・ヨウチェ(鄭有傑)監督の6年ぶりの長編作品となった『太陽の子』(原題:太陽的孩子/Wawa No Cidal)でした。
 レカル・スミ(勒嗄・舒米)監督との共同監督による本作。台湾先住民アミ族の血を引くレカル・スミ監督が故郷に戻った時、母親が始めた棚田復活活動を記録したドキュメンタリー作品『海稲米的願望』を元に、劇映画として生まれ変わった作品です。そこには、故郷の伝統や自然を守り、自分たちのアイデンティティに誇りを持って生きていきたいという願いが込められています。
 この『太陽の子』に感動し、日本での上映を実現させたいという人々の手で、上映プロジェクトが立ち上がりました。そして、プロジェクト第一弾として、6月24日の夜、虎ノ門に新しくオープンした台湾文化センターにて、チェン・ヨウチェ監督を招いたプレミア上映会が開催されました。残念ながら、レカル・スミ監督は次回作の撮影中で来られませんでしたが、チェン・ヨウチェ監督への単独インタビューが実現。日本語も得意のチェン・ヨウチェ監督が、作品への思いと、監督業そして俳優業までと、通訳なしでたっぷりと語ってくれました。
●レカル・スミ監督との映画作り
Q:6年ぶりの長編映画ですが、この作品には元になったドキュメンタリー作品があります。映画にしようと思われたきっかけ、制作の経緯をお聞かせください。
 監督「この映画には二人の監督がいます。レカル監督、地元のアミ族の若手監督なんですが、彼が撮ったそのドキュメンタリー(『海稲米的願望』)を見て感動しました。ただ、ドキュメンタリーの中ではお米を作ってることしか撮ってないのです。同時にその周りで起きているたくさんのこと、例えばホテル開発のこととか、いろんな文化に関するものがなかった。そこでこの、お米を作る、畑を復活させることをテーマにして、もっといろんなことを取り込んでいこうという話になり、一緒にやりましょうとレカル監督を誘いました」
Q:チェン監督から誘ったのですね?
 監督「これをもっとたくさんの人に伝えたいというのがありました。まず、台湾の先住民の人口は2%くらいなんです。でも、先住民が当たり前と思っていることが、その他の、先住民ではない僕みたいな漢民族の人間には、ほとんどわからないのです。だから、こういう映画を作ってコミュニケーションを取ろうと思いました。そういうスタンスで一緒にやろうと。二人とも納得いくものだったら、きっと共通のものにできるからと」
Q:レカル監督は映画ではどの部分を担当されたのですか? 役割分担はあったのですか?
 監督「まず演出に関しては、主人公のパナイ以外はほとんど彼です。出てる方が彼の村の人たち、しいて言えば彼の親戚、村人なんですね(笑)。僕はアミ族の言葉がわからないし、村人の演出は彼に任せていました。僕は主人公のパナイの演出と、後は全体的な技術の方。彼はドキュメンタリーしか撮ったことがない。それも映画学校とかそんなんじゃなくて、ほんとに自分でカメラを持って、初めてそこから始めた。(彼の村は)台湾で一番辺鄙なところなんです。だから、彼の学問はすべて、インターネットから自分で学んで、自分で撮って、編集とかも全て自分でやりあげました。そのような監督なので、最大限、彼の良さを表わすことにしました。僕は技術の部分が多かったですね。カメラとか他の部分、それからプロデュース。今回は自分でプロデュースしたから」
●自然な演技の秘訣と畑作りのシーン
Q:レカル監督が演出をするのはじめてのことだと思いますが、演出や演技のし方なども教えたのですか?
 監督「実は今回はあんまり、演出みたいなことはしてなくて、この映画に出てくる人たち自身の話ですから、むしろ僕より彼らの方がストーリーに関しては詳しいんです(笑)。例えば、映画の中に出てくるおばあちゃんとかおじいちゃん。彼らの生活の中で、自分の土地を守ることは、実際にやってきたことだから、彼らの方がわかるんです」
Q:演技ではなくて、自然に出てくるんですね。
 監督「自分の人生を再現してるようなものだから。僕たちは指導するというよりも、再現できるような環境を作って、再現させるっていうスタンスなんです」
Q:主人公のパナイさんのストーリー、最初は都会で記者をやっていて、故郷の村へ帰ってくるというストーリーは創作で、それに沿って、本当の話がつながってくるのですね?
 監督「そうです。レカルのお母さんの話はそれを参考として撮ってるだけで、そのままのストーリーではないんです。彼のお母さんはテレビ記者じゃないし、子どももそんなに小さくないし。一応、畑を復活させるということだけが同じなんです」
Q:水路を作って、畑を復活させます。あの畑は最初は平地でしたが、実際に作ったのですか?
 監督「ちょうど、隣の村が同じ事をやり始めたんです。レカルの村は4年前にやっちゃってるんですよ。平地を畑に作りなおすと。それを見習って、隣の村がちょうど僕たちが撮影している時に、それを始めたんです。だから、こっちでも撮って、あっちでも撮ってと…」
Q:両方で、前後を?
 監督「そうそう。地形が似てるから、地元の人じゃないと見分けがつかないんです(笑)」
Q:時間をかけて作られたのかと思いました(笑)
 監督「でも、実際は8ヶ月くらいかかっています。土地を作りなおすところから、季節によって、いつ、何をする…というのがあるから、実際は8ヶ月くらいちょくちょく撮って、最後に1ヶ月半くらい集中して、ドラマの部分を撮りあげました。だから、半分はドキュメンタリーなんです」
●彼女ならパナイ役ができると確信していた
Q:主人公のパナイを演じたアロさん(アロ・カリティン・パチラル/阿洛・卞力亭・巴奇辣)は歌手ですよね? 演技は初めてなんですね?
 監督「はい。初めてです」
Q:とても上手く演じておられたと思います。
 監督「彼女はもともと、演技のできる方なんですよね。したことはないけど絶対できると、初めて会った時から、僕は確信してたんです。そのエネルギーがあるから。彼女自身の経歴とパナイはすごく似てるんです。テレビ局の記者であり、勉強がよくできて、アロ自身は博士なんです。それも、中国文学の博士なんです。司会もやるし、歌手もやるし。台湾の一般社会で成功しているけど、でもやっぱり、ほんとうの自分は誰か?という、自分のアミ族のルーツを辿りたいというのが常にあって。ほとんど、そのまんまなんですよ。だから、できないわけがない(笑)」
Q:自然に内面から出て来るんですね?
 監督「特に、あのスピーチ。小さい頃、自分の訛りのない標準語で賞をたくさん取っていて…それもまさに、彼女の経歴をそのまま脚本にして演出したんです。そのシーンだけは、絶対泣くなよって(笑)。絶対、泣けるシーンなのに、絶対泣くな、涙を流すなよって(笑)」
Q:撮影は難しかったですか?
 監督「でも、必死で堪えて、堪えながら立ち向かっていくっていうところが、僕は好きだったんです。だから、一発撮りでした。皆、一発撮りの覚悟を決めて、一発で撮りあげました」
●逃げ出しそうになったナカウ役のイェンズー
Q:娘のナカウ役を演じたウー・イェンズー(呉燕姿)もすごくよかったですね。最初から最後の走るところまで、だんだんよくなっていきますよね。
 監督「実は、映画を撮り始めると、すごく拒否反応を示したんです。映画はやりたくない!と。出てくれているのは皆、現地の子なんですが、最初は面白がって、夏休みに映画に出ようって、そういう感覚でやり始めて。ところが、実際に始まると、スタッフは大勢いるし、皆すごく真剣な雰囲気なので、怖じ気付いちゃって。やりたくない!って、そういう反応をしたんですね。撮り始めて半分くらいで、しくじっては、急にもうやりたくないと。そういうことがよくありました。自信をなくしちゃったんです。だから彼女の場合は、どんどん励まして勇気づけました。
 陸上で走るシーンは、最初は脚本になかったんだけど、彼女が得意だというのを知って、得意なものをやらせようと。それだったらいいだろうっていう感じで、それを取り込んでいって。最後に『お前は誰だ?』『パンツァ!』ていうシーンも、最初は脚本になかったんですが、イェンズーに自信をつけさせようと思って、そのシーンを書きました」
Q:走る試験に受かって、大学に進学できることになったのですよね?
 監督「そうです。そういうケースは多いです。先住民の子どもは」
Q:走るのが速いんですよね。
 監督「運動も音楽も、そういう才能に長けてるから」
Q:実は今回の取材の前に『ヤンヤン』を見直していたのですが、走るところが、ヤンヤンとリンクして見えてしまいました(笑)
 監督「そうですね。偶然にね。僕は皆から、走る少女が好きなおじさんと見られてるけど、たまたま、偶然なんです(笑)」
Q:タイトルも『太陽の子』で『ヤンヤン(陽陽)』ですもんね(笑)
 監督「そうですね。もう…どうしよう。弁解のしようがない(笑)」
 というわけで、深読みし過ぎました。最後のナカウが走るシーンは『ヤンヤン』を意識したのではなく、たまたま偶然にそうなったのだそうです。きっと似たような質問が多かったと思うのですが、監督、困らせてごめんなさい。(次頁へ続く)
●守りたいアイデンティティ
Q:この物語は原住民の話として作られているけれども、台湾自身が抱えている問題にも当てはまるとおっしゃっていますが、具体的にはどういう問題があるのですか?
 監督「台湾を1つの村とみたら、まったく同じなんです。今、台湾は自分が誰かっていうアイデンティティを探しているのに、外国からの資金、資本が入って来くると、自分のものを全部売ってしまう。すべてをお金に換えてしまう。そういうところは、まったく同じなんです」
Q:何かを失くしていっている?
 監督「そう。土地でも、どんどん外国の資本が入って来て、台湾の土地を買っているし、仕事のために家族と生活できなくて、中国に渡って仕事をしている人々がいて、そういう家族がすごく普通に、たくさんあるんです。今の大学生は、卒業したらまず中国へ行くか、と。それくらい、台湾を離れていってしまう。あっちの方がぜんぜん就職の条件がいいから。資本も多い、チャンスも多い。だから、皆、あっちへ行っちゃう。それで結局、台湾は村みたいに、年寄りと子どもしか残らない。台湾を1つの村とみると、その現状がまったく同じなんです」
Q:もう一度、台湾にちゃんと目を向けてみようというメッセージですね?
 監督「そうですね。一番大事なものは何か。それと、子どもたちに何を残していくか。このまま全部売ってしまったら、何も残らないから。お金だけが残っても、お金はいずれ使っちゃう。気がついた時には、自分の土地がない、自分の言葉もしゃべれない。自分の名前すら忘れてしまう。台湾は未だに、自分が誰かということが大きな声で言えません。国際社会は皆、台湾のことを見て見ぬふりをする。無視されてる。それは、台湾の中の原住民においても同じなんです。原住民映画、原住民に関しては、見て見ぬふりをすることが多い。だから、僕はまったく同じだと思うんですよね」
Q:日本で公開される台湾映画を見ていると、台湾人とは何か、台湾らしさとは何かを追求している作品が多いですね。
 監督「台湾はまだ、それが確立されていない。だからこそ、皆、それを追求してるんです」
 もどかしい思いを、監督は熱く語ってくれました。 ●実は監督より俳優業が好き?!
Q:監督ご自身について、お聞きします。映画監督をめざしたのは大学の頃だそうですが、最初は経済を勉強されてます。その頃から、映画をやりたかったのですか?
 監督「映画は小さい頃から好きでした。大学の時に、初めて映画祭というものを見て、こういう映画ってあるんだ、映画ってこういうことができるんだ、とういことを初めて知って、自分でも作りたいと。若い文芸青年によくあるようなパターンですけど。後……、かっこいい!(笑)『僕は映画作ってる』って言うだけでもかっこいいと、文芸青年気どりだった(笑)。それは最初の頃ですけど。
 経済もやりました。経済っていうのは目に見える価値を計算する学問ですよね。でも、この世には数字にできない価値というのがたくさんあると、僕は未だに信じてる。そうやって信じてきた方が、生きていて、僕は楽しい。だから、経済を習った上で、これが世の中の仕組なんだと、世の中の大体の経済の仕組、政治の仕組、国際社会の仕組はこういうやり方なんだとわかった。でも、それ以外にもっと大切なものがある。僕はそれを、そっちの方をやりたいと思った。だから、別に裏切ってるわけじゃないですよ(笑)」
Q:両方とも大事ですよね。映画を作るにはお金も必要ですし。
 監督「そうです。そういう、形にできるものと、形にできないものは、対立しているように見えるけど、神や仏様の目から見たら同じなんですよね。んー(と、言葉を探して、言いたいことの適切な表現がみつからなそう)…まあ、僕はわがままにやりたいんです」
Q:演じるのと監督するのと両方やってらっしゃいますが、監督の方がお好きだとは思いますが、俳優もけっこうやって…
 監督「いや、俳優の方が好き(笑)。でも、雇ってくれない。誰も(笑)」
Q:えー?! ドラマもたくさん出てますよね?
 監督「今はない。今は誰も声をかけてくれないから、し方なく映画監督をやってます。じゃなくて(笑)。もちろん、声をかけられてないのもあるけど、僕は面白い映画を作って、面白い映画を産み出す方が面白い。そっちの方がやりがいがある時が多い。でも、仕事としては、俳優の方が…なんていうかな…俳優の仕事でしかない面白みもある。それも好きなんです。ただ、あんまりチャンスがない」(冗談でよかった。でも、俳優業も好きなんですね)
Q:外国の映画に出てみたいというのはありますか?
 監督「はい。(でも今は)お金がないからお願いしますっていう感じで、台湾の若手監督の映画に出させてもらってる(笑)」
Q:でも、有名な監督さんの映画にもちらっと出てますよね?
 監督「そうですね。それはもう、声をかけられたら、はい!って。大体スタッフが同じなんです。『太陽の子』でも『KANO』でも、スタッフのリストを見たら大体同じ。台湾で映画をやっている人は一握りだから。大体同じような人がやってて、皆、僕が俳優をやりたがってるのを知ってて(笑)。だから、スタッフの方から声をかけられる」
Q:最近はお医者さんの役が多いと思いました。
 監督「そうですね。ワントン(王童)監督の作品(『風の中の家族』)とか、『一分間だけ』(チェン・フイリン監督)」
Q:エンターテイメントの映画にも出てみたいですか? たとえばアクション映画とか。
 監督「声をかけられたら絶対に行くけど、声をかけられてないから(笑)」
Q:ジョン・ウー監督の映画とか、そういうものにも出てみたい?
 監督「はい。いや、でも…ジョン・ウーは僕の存在すら知らないと思う(笑)。だからまあ、無理しないで、チャンスがあれば絶対やります(笑)」
監督業と俳優業をこなすチェン・ヨウチェ監督のお父さんは日本育ちの華僑。お父さんと会話するために、幼い頃から日本語を教えられていた監督は日本語が堪能です。
同時に、アイデンティティの問題にも直面。前作の『ヤンヤン』ではフランス人とのハーフである少女ヤンヤンの葛藤が描かれています。走ることで自分自身を取り戻すヤンヤンと『太陽の子』のナカウ。偶然とはいえ、やはり似てますね。 p2
●ディーン・フジオカと仕事をしたい
Q:日本の映画はどうですか? 日本語もできるし。
 監督「日本で何か撮りたい、もしくは、日本の映画を作っている人と一緒に何かやりたいという気持はあります。僕も日本の小説はほとんど読んでて」
Q:映画化したい小説はありますか?
 監督「ほとんどもう映画化されちゃってるし(笑)、これは!と思ったものはほとんど映画化決定と、調べたら出て来るんですよね」
Q:ドラマも撮ってますよね?
 監督「ミニドラマ。あまり長いのはちょっと無理」
Q:日本の俳優さんと一緒に仕事をするというのは?
 監督「もし、機会があれば。そうですね…ディーン・フジオカは台湾にいた頃の知り合いだったんです。ずっと一緒に仕事をするチャンスもなくて、日本に帰っちゃって。結局、日本で今…」
  大ブレイクしています。
 監督「そうですよね」
  惜しかったですね。もうちょっと前だったら
 監督「いや、でもまあ、それはそれでいいんじゃないかな」
  今は忙し過ぎて、ちょっと難しくなったでしょうか?
 監督「いや、大丈夫ですよ。大丈夫」
  そうですね。きっと、ディーンだったら出てくれますよ。
 監督「そういうチャンスがあれば、もちろん。彼は台湾にいた頃から、すごく勉強家というか、あの時は台湾で必死にギターの練習とか、曲を作ってたり。常に何かに没頭しているような方なんです。彼は実は、努力家なんです」
  ぜひ、合作をしてください。
 監督「もし、機会があれば」
Q:次回作はもう撮られていますか?
 監督「2ヶ月後に撮ります。レカル監督は、今撮ってます。僕は2ヶ月後にミニドラマを撮ります。『他イ門在畢業的前一天爆炸』というミニドラマがあって、5年前に撮ったやつですけど、それの続き。5年経って、高校生がもう大学生になって、社会に入る頃の続きです」
  それは面白そうですね。楽しみにしています。今日はありがとうございました。
 ということで、ドラマも映画も今後が楽しみなチェン・ヨウチェ監督でした。ディーンの話が出て驚きましたが、ぜひ合作が実現することを祈っています。この日はたくさんの取材を受けた後で、台湾文化センターでのプレミア上映会に出席。上映前に舞台挨拶があり、上映後にはトークイベントも開催されました。
 『太陽の子』の日本上映プロジェクトは始まったばかり。本作には、現地の人々だけでなく、ウェイ・ダーション監督の『セデック・バレ』(11)で花岡一郎を演じたシュー・イーファン(徐詣帆)、『KANO~1931海の向こうの甲子園~』(14)でショートの上松くんを演じたジョン・ヤンチェン(鐘硯誠)も、重要な役柄で出演しています。また、第52回台湾金馬奨で最優秀オリジナル映画主題歌賞に輝いた主題歌「不要放棄」を歌っているのは、先住民のバンド、トーテムで知られるスミン(舒米恩)。彼は音楽も担当しています。9月には『太陽の子』ウィークと称して、主演のアロ・カリティン・パチラルさんを招いての連続上映イベントを開催。9月10日から19日まで、東京、静岡、神奈川、福岡でのリレー上映が予定されています。(詳細は右記)青い海と降り注ぐ太陽の光に祝福された、美しい田舎町での一人の女性の奮闘物語と爽やかな感動を、ぜひ劇場で味わってください。
(取材:2016年6月24日 台湾文化センターにて単独インタビュー)
http://www.asiancrossing.jp/intv/2016/0828/

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映画『kapiw(カピウ)とapappo(アパッポ)~アイヌの姉妹の物語~』北海道阿寒湖生まれのアイヌの姉妹の2011年の物語。

2016-09-01 | アイヌ民族関連
CINEMA TOPICS ONLINE-(2016/09/01 02:15)

 2011年春。北海道阿寒湖生まれのアイヌの姉妹、絵美と富貴子。
姉の絵美は故郷を離れ東京の高尾に住みアイヌの歌や踊りを披露する日々、妹の富貴子は故郷、阿寒湖コタンで暮らし、家族と共にアイヌ料理店を営み、観光船でアイヌの歌を披露する。
ともに夫と3人の子を持つ母である。そんな性格も住む世界も違う姉妹が3・11の東日本大震災を経て、初めて姉妹でディオライブを目指して、動き始めた・・・。姉の絵美がに避難里帰りと子供の夏休みを利用してコタンに向かう、妹も戸惑いながらも母の応援もあり、初ライブに心ときめく。
2011年夏コタンの小さいライブハウスに姉妹の夢が叶うのか・・・
監督佐藤隆之は数々の映画に助監督として参加、そして、初のドキュメンタリーの本作で劇場デビュー。母として、アイヌの継承者として、歌を通して今伝えたいアイヌの姉妹の凛とした姿に魅かれた監督は実に5年もかけて編集し、遂に劇場公開にこぎつける。
2016年11月19日(土)~12月2日(金)
渋谷ユーロスペースにてレイトロードショー決定!
2016年11月23日(祭)
東中野・驢馬駱駝(ロマラクダ)にて
★Kapiw&Apappo★
4年ぶりの東京ソロライブ決定!
予告編::https://www.youtube.com/watch?v=eHVy-c0eSEQ
http://www.cinematopics.com/cinema/news/output.php?news_seq=32678

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米にもアイヌ民族遺骨か UCLA、1体の返還模索

2016-09-01 | アイヌ民族関連
北海道新聞08/31 05:00
 米国のカリフォルニア大ロサンゼルス校(UCLA)が、胆振管内洞爺湖町のフレナイで1909年(明治42年)に収集された男性の遺骨1体を保管していることが分かった。フレナイは、江戸期からアイヌ民族のコタン(集落)があると記録に残されてきた地域。遺骨を管理するUCLAの担当者は、アイヌ民族の遺骨の可能性があるとして返還したい考えを示している。
 海外に持ち出されたアイヌ民族の遺骨に関しては、今月、ドイツの首都ベルリンの国立新博物館が少なくとも9体の保管を認めたばかり。米国にも渡った可能性が出てきたことで、政府に海外での把握調査を求める声が強まりそうだ。
 この1体を管理するのはUCLAのフォウラー博物館。担当するウェンディ・ティーター博士によると、推定35~50歳の男性遺骨で、「イブリ地方アブタ・フレナイにおいてオタニベという人物が収集した」との英文記録が付されている。48年からUCLAで人類学を研究したジョセフ・バーゼル教授が同大にもたらしたが、由来を日本語で記した木箱が行方不明になり、同大が収蔵した経緯も分からないという。
 ティーター博士は「博物館は返還に前向きだが、大学本部の許可が要る事項。本部職員に手続きを照会している」としている。
 収集者の「オタニベ」について「虻田有珠のアイヌ物語」の著書がある同町の郷土史家川鰭(かわばた)定明さん(84)は「09年までフレナイで虻田実業補習学校の代表を務めていた小谷部(おやべ)全一郎とみて間違いない。姓の『谷』を『タニ』と読み間違えたのだろう」と推測する。
 補習学校は、尋常小学校を卒業したアイヌ民族の子弟に職を身につけさせるための私立学校で、04年に開校。米国の大学で哲学などを学んだ小谷部氏は開校当初から代表を務め、米国人医師ハイラム・ヒラーが01年、アイヌ民族の資料収集のため来道した際に虻田を案内し、以来、交流が続いたとされる。
 洞爺湖町によると、フレナイは行政上の地名としては既に使われていないが、現在のJR洞爺駅の周辺だったという。(報道センター編集委員 小坂洋右)
http://dd.hokkaido-np.co.jp/news/society/society/1-0310637.html

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