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先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

アイヌ語で話したい : 先祖を知ることは自己の回復

2020-03-28 | アイヌ民族関連
nippon.com 2020.03.27北原次郎太モコットゥナㇱ
樺太(サハリン)出身のアイヌの祖母を持つ筆者は、東京の高円寺生まれ・埼玉県上尾市育ち、子どものころはマンガとゲームで頭がいっぱいで、日常の生活の中にアイヌとは何かを感じたり、考えさせるものはほとんどなかったという。自らがアイヌであることが胸にストンと落ちたのは、中学2年生の時に、祖母にアイヌ語の名前があることを知ったことがきっかけだったそうだ。先祖の暮らしや文化について思いを巡らせることの意味、文化の多様性とは何かについて、じっくりと考えてみたくなるエッセイ。 
自己紹介をかねて
私はアイヌである。人からもそう見えることがあるらしい。ところが、東京都杉並区高円寺生まれ、埼玉県上尾市育ちだと告げると「あ、アイヌではなかったか」と思うのか、そこで会話が途切れてしまうことがある。今ではそうでもないのだろうが、20年ほど前は、関東地方に数千人のアイヌが暮らし、アイヌの団体もあるということはほとんど知られていなかった。

市民向け公開講座での講義風景(筆者提供)
私自身も、自分がアイヌだとは知っていたが、アイヌとは何かを感じたり、考えさせるものは周囲にほとんどなかった。朝、家を出て、学校から帰るまで、一度もウタリ(同族)に会うこともない。唯一、アイヌを思い起こさせるものといえば、近所の理髪店にアイヌの老夫婦をかたどった木彫りの人形があるだけだった。月に一度、髪を切りに行くときに、鏡ごしにその人形を眺めるのがなんとなく楽しみだった。
1980年に、母親たちが「関東ウタリ会」という団体をつくり、毎月例会を開いていた。その頃は集まりのための場所もなく、新宿区や板橋区の勤労福祉会館の会議室を借りていた。母たちは1940年代後半の生まれで、アイヌ語やいわゆる伝統文化からは少し遠ざかっていた世代だった。それでも、たまに年配の女性が例会に来ると、ウポポという歌のいくつかを教えてもらう機会があり、それは楽しい時間だった。
小学校2年生のとき、とある行事でアイヌの舞踊が披露されるのを目にした。それはわらび座という劇団員たちによるクリムセ(弓の舞)だった。躍動的で、勇ましさを感じる踊りに感激し、興奮したのを覚えている。「この踊りをどうしても覚えたい」と感じた。
その後、踊り歌を学ぶ機会を得たのは1年後、踊りを教わることができたのは3年後だった。今からは考えられないほど、情報を得ることは容易ではなかった。
アイヌ語に触れたころ
母たちは何度か、早稲田大学で開講されていたアイヌ語の講義に出席していた。そこで覚えた言葉を教えてもらうと、まるで外国語のような「自分たちの言葉」を知ったことが嬉しくて、面白がって使った。ただ、母たちも仕事をしていたので、思うように勉強は進まなかった。
小学校6年生の頃だと思うが、アイヌ語の研究者である中川裕先生(現千葉大学教授)が、関東ウタリ会のためにアイヌ語の勉強会を開いてくれるようになった。私も参加するにはしていたが、そのころはマンガとゲームで頭がいっぱいで、たいへん不真面目な生徒だった。
ただ、先生が早口言葉や歌、カムイユカラ(神謡)という物語などを取り入れて下さるのが楽しくて、何度も繰り返しては暗唱していた。もっとも、単語の一つ一つがまるで意味の取れない言葉ばかりなので、ただ音のつながりとして覚えていた。それらの意味が分かるようになったのは大学に入ってからだった。
祖母にアイヌの名前があった
中学2年生の頃、北海道の静内(現 ・新ひだか町)で、少数民族懇談会という団体が主催して、文化や言葉をよく知った年配者から話を聞く集いがあり、父とともに参加した。そこには母から知らせを受けた祖母も来ていた。
当時、祖母は平取町に暮らしていた。母の幼少期は、大人同士で話すときにはアイヌ語を使っていた記憶があるというが、祖母は家族に向けても外に向けても、アイヌについて一切話さない人だった。私が生まれる前には、母も祖母に家の歴史や言葉・習慣などを尋ねたことがあったようだが、祖母はなかなか口を開かなかったという。
静内での集いで、ひょんなことから祖母の前でカムイユカラを語ったところ、祖母はそれまでと打って変わって、私がアイヌについて学ぶことを応援してくれるようになった。
そこで私も学校の休みを利用して、祖母の所に話を聞きに行った。そこで、祖母にアイヌ語の名前があることや曽祖父母のアイヌ語名を聞いた。祖母のアイヌ語名はトーニンテマハという。乳をよく飲む子だったことにちなんでついた名だそうだ。曽祖父はアシケトク、曾祖母はチカスフパといった。祖母にアイヌ語の名前があるのは、考えてみれば当たり前のことだが、それまで考えたこともなかった。そして、それを知ったときに自分がアイヌであるということがストンと胸に落ちたような、アイヌの歴史と自分がつながって、しごく納得がいったような感覚になった。
樺太なまりのアイヌ語で知った、文化の多様性
もっとも、祖母とのやり取りは、あまり感動的な雰囲気ではなかった。アイヌについて語ることは、祖母にとって複雑な感情を起こさせるものであり、気分が乗らず語ってくれないことの方が多かった。そんな中、時々、聞かせてくれるアイヌ語が、ふだん学んでいる北海道のアイヌ語と違った響きを持っていることが不思議だった。
例えば「シーサン トゥンケ タ オカヤハチ(和人の中で暮らしてきたんだ)!だからアイヌ語も分からないの」と言う時の、長く聞こえる母音の音や、息が抜けるようなハの音など。そのことを祖母に言うと「うちは樺太だから、北海道とは違う」と聞かされた。このとき「樺太」という言葉を強烈に意識した。
それまでは、私もアイヌすなわち北海道という感覚を持っていたが、近代以前のアイヌは樺太(サハリン)の南部から、千島(クリル)列島、北海道、東北北部に暮らしてきた。全体としては共通する言葉・文化を持つ一方、その土地ごとの個性が表れるところもある。そのことを、祖母とのやり取りの中で実感したのだった。
それ以後、私の頭にはいつも樺太があった。先祖の暮らし・言葉を知りたいという気持ちはあったが、それは北海道のものとは違うかもしれない。そのことはアイヌ語・アイヌ文化の多様性を考えることにつながっていった。
悪意なき無関心によるダメージ
こうして、中学生のころからアイヌ文化への関心は高まっていったが、周囲にそれを話すことは減っていった。教員や同級生たちはアイヌの存在を知らないか無関心であり、アイヌを知るや好奇の目で見られたり、不本意な反応しか返ってこなかった。レイシズムの研究で使われるマイクロアグレッションという言葉がある。これは日々の些細なコミュニケーションを通じて、しばしば無自覚に軽視し、見下し、中傷が表現されることである。些細で悪意が無いので問題化しにくいが、それを向けられる者のダメージは大きい。私の経験をどう表現して良いか長年分からずにいたが、今にして思えば、それはマイクロアグレッションに当たるのだろう。私の先祖の言葉・文化、それらを生んできた人々そのものへの否定的な評価と無関心を含んでいた。
札幌市の大学の夜間部に進学し、アイヌの信仰や言葉を学んだ。大学の正課として学べる授業は2つだけ。あとは、もっぱら私的な勉強会に通った。学べば学ぶほど、世間に流布している情報は北海道のものばかりで、樺太について知るためには自分で調べなければならないことを痛感した。
大学院に進み、樺太アイヌの信仰に関する資料を集める中で、北海道アイヌの文化も決して一様ではなく、豊かな多様性を持つことを改めて感じた。そして、北海道にルーツを持つアイヌにも、私のように先祖をたどる上で苦労する人がいるのだと知った。幸い、2005年にアイヌ民族博物館に採用され、学芸員として勤務した。この博物館は学生時代から何度も通い、多くを学んだ場だった。そこで、私自身も、研究成果を多くのウタリに開いていくことを目指すようになった。
最近、同じく物質文化を研究するウタリの女性の言葉に気づかされたことがある。その人もやはり、生い立ちの過程で自分の文化・歴史に触れる機会はなく、ただアイヌに対する世間の否定的な雰囲気を感じ取ってきたという。社会に出てから伝統文化を学び、研究者となって復興や発信に携わるようになった。その人いわく、そのように自分自身の文化を知り、人に伝えることが自分にとっての「回復」にもなっているという。これを聞いて、私自身にとっての文化復興の意味が明確になった。
ウポポイをアイヌ、和人双方の「回復」の場に
アイヌの神話、信仰、工芸、音楽、どれをとってもそれぞれが魅力的だ。「自然と共生する」と言われるアイヌだが、乱獲や独占、食品ロスを戒める伝承が多くあると言うことは、かつてのアイヌ社会にも物質的な豊かさを指向する人々がいたということだろう。おそらくは実際に資源の枯渇を経験することもあり、それを戒め「足りるを知る」ことを文学や信仰によって教えてきたのだろう。そうした先祖の思索を知り、思いを巡らすことことそのものが喜びである。
それは知的好奇心を満たすことに加え、私自身の回復にもなっていると感じる。「伝統文化」を知ることによってアイデンティティが構築されるという意見もあるが、私自身はアイヌ語を知ることによってアイヌになったのではない。何も知らないうちから私はアイヌだった。では私に何が起こったかと言えば、言葉や文化や歴史を知ることにより、それを培ってきた先人たちへの自分なりの視点を持てたということだ。それはアイヌを過剰に美化することではない。アイヌに対する否定的な評価が、根拠のない不当なものでしかないと理解することだ。そこに自分で納得し、人に伝えられるようになることは、私にとっても回復なのだ。
2020年4月に、国立アイヌ民族博物館を含む民族共生公園「ウポポイ」がオープンする。ここが多くのウタリの回復の場となることを願ってやまない。また、虚栄心に駆られたり他者に不寛容になってしまうマジョリティも、やはり回復が必要なのだろう。アイヌ文化復興の営みに触れ、それを鏡に自らの内面を見つめれば、世間のいう画一的な価値観とは違う、自分自身の思いに気付くだろう。多様性の尊重は、そうした、人とは違う自分の価値観を大切にすることにもつながるはずだ。
バナー写真 : アイヌ民族の木製祭具「イナウ」。筆者の研究テーマであり、写真のものは筆者が自作したもの
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g00848/

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「ほほえみのアイヌ彫刻」北海道クローズアップ

2020-03-28 | アイヌ民族関連
NHK 2020年3月29日(日)午後5時10分 [再]
これまで一般の人の目に触れることのなかった、貴重な木彫りのアイヌ彫刻20点が、旭川の古美術店に保管されていることがわかった。動物像や優しくほほえんだ人物像は、高い技術に裏打ちされた傑作ばかり。作者は間見谷喜文。アイヌ随一の木彫り熊の名人としてしられ、彫刻家へ転身、だが50歳の若さで急逝し、作品が世に出ることはなかった。彫刻に込められた間見谷さんの思いとは?知られざるアイヌの彫刻家の足跡をたどる。
https://www.nhk.or.jp/hokkaido/program/b32/7e37f066b/

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森で光る菌を先住民と見よう=アマゾン研究所の石川さんが絵本=4言語「ひかるもり」刊行

2020-03-28 | 先住民族関連
ニッケイ新聞 2020年3月28日

 日英ポルトガル語の3カ国語と先住民のニェエンガトゥ語による絵本『ひかるもり』(全64頁)が、昨年11月に刊行された。出版記念のイベントで2月25日~3月7日まで訪日していた、アマゾナス州都マナウスの国立アマゾン研究所(INPA)で研究員として勤める石川カズエ・ノエミアさん(47、三世)は、本紙の電話取材に応えた。
 この絵本は、ノエミアさん、京都大学の池田威秀(いけだたけひで)さん、アルデヴァン・バニワさん、アナ・カルラ・ブルノさんの4人による共著。舞台はアマゾンで、物語はノエミアさんが先住民のバニワ族から「光る菌を見に行こう」と誘われる場面から始まる。実際に光る菌を見つけるまでを、ドナ・アブレウさんによる柔らかいタッチの絵で描いた。
 4つの言語になった理由は、「日本とインディオの子どもが読める本を作りたかったから」。2018年に日英ポルトガル語で刊行した絵本を読んだ日本の子どもから、「この本がブラジルでも読まれているのが面白い」と言われた際に「ブラジルでもインディオは読めない」と気づき、今回は先住民の言語を入れた。さらに、スペイン語と他の先住民の言語、トゥカノ語版をサイトで公開している。
 この本を持参して訪日したノエミアさんは、2月27日に東京都下北の『ダーウィンルーム』という本屋でトークショーとサイン会のイベントを開催。3月4日には、「ネギ王」で有名な斉藤ワルテル俊男さんの経営するブラジル人学校「TS学園」にも訪れ、絵本を寄贈した。
 さらに東山研修生移民の本橋幹久さんの推薦で、彼の母校である北海道大学を海外から支援するパートナーに就任した。挨拶と絵本の寄贈を兼ねて同大学の訪問も予定していたが、「新型コロナウイルスの影響で断念した」という。
 ノエミアさんは、「一番楽しかったのは、4つの言語で書いたこと。おかげでインディオの子どもに読んでもらうことができた」と喜び、「多くの日本人に読んでもらいたい」と語っている。
 絵本は、INPAのHP(https://ppbio.inpa.gov.br/publicacoes/livros)で無料ダウンロードが可能。もしくは、VALER出版社のHP(http://www.editoravaler.com.br/index.php?route=product/search&search=Brilhos%20na%20Floresta)から一冊54レアルで購入することができる。
□関連コラム□大耳小耳
 絵本『ひかるもり』を持参して2月25日~3月7日に訪日した石川カズエ・ノエミアさんだったが、新型コロナウイルスの影響が特に大きかった北海道と東京都を訪問予定だったため、「当初予定していた通りのスケジュールは進められなかった」と話す。北海道訪問は中止し、埼玉県にあるブラジル人学校『TS学園』で学生たちに絵本の読み聞かせを行う予定は、3月から学校閉鎖の措置が取られていたために実現しなかった。だが東京の本屋『ダーウィンルーム』でのイベントは、当初より規模を縮小して開催することができ、「皆に喜んでもらえた」とノエミアさんはほほ笑んだ。
    ◎
 ノエミアさんが東京都下北の『ダーウィンルーム』で開催したイベントでは、日本で最も有名な探検家・医師の関野吉晴(せきのよしはる)さんも一緒に登壇した。関野さんは1971年にアマゾン全域踏査隊長としてアマゾン川全域を下り、その後も南米での探検を続けているという。93年からは人類発祥の地、アフリカから祖先の拡散の足取りを辿る「グレートジャーニー」という旅を10年間行い、ドキュメンタリー番組としてテレビで放映されていた。さらに国立科学博物館で特別展が間催され、現在はインターネット上(https://www.museum.or.jp/modules/topics/?action=view&id=265)でその様子を見ることができる。ぜひ見てみては?
https://www.nikkeyshimbun.jp/2020/200328-71colonia.html

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アイヌ遺骨等地域返還連絡室札幌事務所の閉室について

2020-03-28 | アイヌ民族関連
文部科学省 2020年3月27日
 文部科学省では、平成30年12月に関係省庁が定めた「大学の保管するアイヌ遺骨等の出土地域への返還手続に関するガイドライン(※PDF内閣官房アイヌ総合政策室ホームページへリンク)」に基づき、アイヌの人々の御遺骨等の出土地域への返還手続を進めています。
 本手続の円滑な実施のため、文部科学省では、平成31年4月から、北海道札幌市にアイヌ遺骨等地域返還連絡室札幌事務所を設置していましたが、令和2年3月27日付けで当該事務所を閉室することとしました。
 当該事務所で行っていた事務手続については、引き続き文部科学省において実施してまいりますので、アイヌの人々の御遺骨等の出土地域への返還に関するお問い合わせについては以下の連絡先までお願いいたします。
   (文部科学省研究振興局学術機関課)
    〒100-8959
     東京都千代田区霞が関三丁目2番2号
    TEL:03-5253-4111(内線4296)
    FAX:03-6734-4086
    E-mail:chiikihenkan@mext.go.jp
https://www.mext.go.jp/a_menu/kagaku/ainu/mext_00533.html

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元外交官が教える「外国人にささる”日本史のツボ”」

2020-03-28 | アイヌ民族関連
PHP Online 衆知3/27(金) 11:54配信
山中俊之(やまなか・としゆき)氏は、外交官からキャリアが始まり、いくつかの職を経験されたあと、現在は株式会社グローバルダイナミクス代表取締役社長であり、神戸情報大学院大学教授でもあります。
「世界と日本」の歴史や文化について造詣は深く、主に世界に通用する人材を育てることを使命と考えています。少しでも多くの日本人に国際的に通用する教養を身につけて欲しい。そのためには日本史をいかに世界の人たちに伝えるかが重要だと考え、『世界96カ国をまわった元外交官が教える 外国人にささる日本史12のツボ』を上梓しました。
本稿では、作家エージェンシー代表でかつ自身も『花戦さ』などのヒット作品の著者でもある鬼塚忠さんが、山中さんに「外国人にささる日本史」を聞きました。
日本人は戦国、幕末が好きだが、外国人にとっては…
(鬼塚)今日はお越し頂きありがとうございました。山中さんは元外交官でエジプト、英国、サウジアラビアに赴任し、世界から日本を見てきましたよね。
世界の有識者の方々の日本史への興味の持ち方は、私たち日本人が持つ日本史への興味の持ち方と違うということですが、どこがどう違うのですか?
(山中)今日はお招きいただきありがとうございました。海外の視点で日本を見ると、日本の文化には日本人が思いもよらぬような驚くべき点があります。
日本人は、大河ドラマの題材でも分かるように、戦国時代や幕末維新の時代に興味があります。ところが外国人にとっては、戦国時代は単なる権力闘争の時代に過ぎず、世界のどこにでも転がっているような話です。
今年の大河ドラマのクライマックスにある本能寺の変も、世界のどこにでもあるような主君への裏切りにすぎない。むしろその手の話は世界の方がはるかに迫力あるのです。
幕末維新も、日本の近代化の契機になったという点では関心はありますが、寺田屋事件、薩長同盟などの個別の事象や、坂本龍馬、西郷隆盛などの登場人物についてはさほど関心がありません。
海外から驚かれる「天皇制」
(鬼塚)戦国時代と幕末維新はさほど興味がない。言われてみればそうです。山中さんは世界の国際会議や社交の場で有識者と頻繁に交流をされているという話ですが、では、彼らはどんなことに興味があるのでしょうか?
(山中)海外の方々に刺さるテーマは5つあります。
1つめは、外国人から見て唯一の日本の歴史と文化です。
例えば、太古の時代から現在まで継続している天皇制です。世界のどこを見渡しても同一の家系で少なくとも約1500年にわたり続く王族や皇室はありません。日本の皇族の歴史は世界で案外知られていないことであり、話すとみな興味を持ちます。
2つめは、日本が時代ごとに世界最高レベルを誇った歴史です。
外国人のほとんどは、日本が世界の経済大国になった理由に興味があります。日本が20世紀に経済大国として台頭する以前、近代以降で経済的に発展した国はすべて欧米諸国でした。
なぜそのなかに日本が割り込めたのか、ここに興味を示します。ここで、その戦後の日本が復興した期間だけを語るのではなく、江戸時代の教育や社会制度まで遡って説明したり、さらに禅思想との関係に言及したりすると外国人は目を見開いて聞いてくれます。
3つめは世界史に置ける日本の位置づけです。
知日派の外国人は日本の歴史を単体的には知っています。しかし、アジアとの関係性から語る日本の歴史はあまり知りません。
日本は古代より、中国や朝鮮半島から文化の影響を受け、積極的に学んできました。多くの渡来人が活躍した日本の古代は、多様な文化のるつぼとも言えるのです。そしてその文化を日本風にアレンジして新しいものを創ってきたのです。
日本と東アジアなどの他国との関係から日本史を語ることが出来れば、外国人から見るとそれだけで新たな視点を与えることになり、一目置かれます。また、キリスト教の欧州から日本への伝播やその後の広がりと潜伏キリシタンの話は関心を持って聞いてもらえるでしょう。
「日本の芸術」を知りたい世界の人々
4つめは芸術です。
芸術は、どんな国のひとと話をしても、政治や宗教のように対立することはありません。私は、現在の排外主義的な動きが高まる状況の中で、対立することが少ない芸術を通じた相互理解が必要なのではないかと思います。
実際、世界の人々の多くが日本の芸術について知りたいと感じます。しかも、日本の芸術は絵画にしても演劇にしても、世界で唯一のものであり、ある観点からは世界最高レベルのものでした。
世界的にこのように評価を得ているわけですから、私たち日本人はまず日本の芸術について深く知ることが重要です。
最後に、日本に対する固定観念を破るような話です。
たとえば、欧米社会には「日本は男性優位な社会である」という強い固定概念があります。エコノミストやニューヨークタイムスなど世界に影響を及ぼしうるメディアは日本の女性の地位の低さを頻繁に記事にしています。
政治や経済の重要なポストに女性が少ないのは事実であり、それは否定できません。しかし、歴史をみればそれは違います。室町時代までは世界的に見ても女性の活躍の度合いは世界に見劣りするものではありません。特に古代においては女性の活躍は目をみはるものがありました。
また日本は同一性が強いと思われていますが、言語は統一され、人々の習慣もある程度均一化していると思います。いま世界の潮流である多様性からは遠い社会であると。
しかし、室町時代以降は各地方の文化や産業が個性を持ちながら発展していきました。またアイヌや沖縄も独自の文化を持っています。日本は意外に多様性がある国なのです。
このように現代の海外から見た日本に対する固定観念を破るような話をすれば外国の方にささります。
(鬼塚)ありがとうございました。外国人にささる日本史を話すには、この5つのテーマに触れながら話すのがいいのですね。
(山中)はい。世界の有識者と話す時に、私の経験が少しでも皆様の役に立てばこの上ない喜びです。
山中俊之&鬼塚忠
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200327-00010000-php_s-bus_all

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北海道の鈴木知事、週末の東京へ「一律の自粛要請しない」

2020-03-28 | アイヌ民族関連
産経新聞 3/27(金) 21:11配信
 東京都で新型コロナウイルス感染者が急増する中、北海道の鈴木直道知事は27日、東京など首都圏を今週末に訪れる道民に対し、これまで北海道で取り組んできた感染防止策を継続するよう求め、「一律の自粛要請はしない」とした。
 北海道では、鈴木知事が2月28日に「緊急事態」を宣言し、感染リスクの高い場所への外出を控えるなどの要請を行ってきた。国の専門家会議は3月19日、道民が日常生活の行動を変えたことなどが急速な感染拡大防止に一定の効果があったとの見解を示している。
 27日に臨時記者会見を行った鈴木知事は、東京都への移動自粛を要請しない理由について「北海道の特徴として、不要な外出は少ないと思う。道民は東京にこのタイミングで行くことについて、正しい認識をもっている」と述べた。
 また、4月24日に北海道白老町(しらおいちょう)で開業する国立アイヌ文化施設「民族共生象徴空間(ウポポイ)」について、「国としてモデル的な感染拡大防止対策を徹底した上でオープンしなければならない」と述べ、予定通りの開業に向けて国に協力する考えを示した。
 道によると、道内の感染者数は169人で、このうち123人が陰性と確認されて治療を終えた。治療中の患者は39人。これまでに7人が亡くなった。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200327-00000597-san-hok

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マオリと交流 アイヌ高校生の夢

2020-03-28 | アイヌ民族関連
NHK 03月27日 19時13分
ニュージーランドの先住民の言葉・マオリ語はかつて、いまのアイヌ語のような消滅の危機にありました。
その危機をどう乗り越えたのかを知るために、アイヌの若者たちが現地を訪れました。
その旅に、苫小牧支局の中尾絢一記者が密着しました。
【マオリの歓迎】
アイヌの高校生や大学生など9人が訪れたのは、ニュージーランド北部の町、ムルパラ。
ここは、住民のほとんどがマオリの町です。
一行を迎えたのは、地元の部族学校「テ・クラ・カウパパ・モテュハケ・オ・ターフィウアウ(日本語で「神聖な山の近くの学校」)」の生徒たち。
ハカ・ポーヒリと呼ばれる特別な踊りで、歓迎の気持ちを表しました。
アイヌの訪問団も歓迎のお返しに伝統の歌を披露したあと、マオリの若者たちと額と鼻をつける「ホンギ」(マオリの伝統的なあいさつ)で交流が始まりました。
【アイヌ語の伝承を阻んできたもの】
織田瑞希さんは、高校3年生。
生まれ育った平取町は、アイヌの人々が多く住み、アイヌ文化が深く息づいた町です。
しかし、そんな平取町でもアイヌの独自の言語、アイヌ語を話せる人は、ほとんどいないのが現状です。
背景にあるのは、明治政府が進めた同化政策です。
アイヌの人たちは、法律で「旧土人」と位置づけられ、学校では日本語での教育が強制されました。
アイヌの人たちへの差別意識も強まり、いまでも、アイヌであることを隠さざるを得ない人たちは少なくないと指摘されています。
織田さんにも自分がアイヌであることを言えない時期がありました。
6歳の頃から地元のアイヌ語教室でアイヌ語を学び、当初は、自分がアイヌであることに恥ずかしさを感じることはありませんでした。
しかし、小学5年生の時に引っ越しに伴って町内の別の小学校に転校。
まわりにアイヌ語教室に通っている子は1人もおらず、周囲にアイヌであると明らかにすることに、初めて抵抗を感じました。
織田さんの母の久美子さんも、みずからがアイヌと打ち明けることができなかった時期が長年、続いていました。
まわりからアイヌだと言われるのが嫌になり、平取町を出て東京で働いていた時期もありました。
久美子さんの祖母や曾祖母は、アイヌ語を話すことができましたが、教わったことはなかったといいます。
「アイヌであることを隠したい」という意識がアイヌ語の伝承を阻んでいたのです。
【マオリとの出会いが変えた】
織田瑞希さんに転機が訪れたのは、中学1年生のとき。
海外の先住民族との交流事業で訪れたニュージーランドでのマオリとの出会いでした。
目にしたのは、ハカ。
その踊りに圧倒的な迫力と民族としての一体感、そして「誰にも負けない」という気持ちを感じたといいます。
気づけば涙を流していました。
その後も、町の事業でニュージーランドを訪れたり、平取町にマオリの人たちが留学でやってきたりと交流は続きました。
そのなかで、織田さんは大きな夢を持つようになりました。
「アイヌの学校をつくる」という夢です。
アイヌ語の伝承が、自分たちの世代で途絶えてしまうのではないか。
自分の好きなアイヌ語を消滅させたくないという思いが強くなっていきました。
【マオリ語でマオリの歴史を語るということ】
アイヌ語を後世に伝え、残すためにどうすればいいか。
織田さんは、ムルパラの部族学校を訪れました。
80人が通う学校での授業の様子に驚かされました。
ムルパラの部族は、人口およそ3500とマオリの中では非常に小さなグループです。
それでも、生徒たちは、みずからの部族の歴史や語り継がれてきた物語を通して、マオリ語を学んでいたのです。
カリキュラムや教材は、先生たちが手作りしたものでした。
マオリの子どもたちは、みずからの民族の歴史をすらすらとマオリ語で話して見せます。
10歳の子どもでも自分の祖先の名前を10代まで遡って話すことができるのです。
織田さんは、マオリ語を話すこと、マオリの歴史を受け継ぐことの大切さを、子どもたちは理解していると感じました。
織田さんは、部族学校を設立したペム・バード校長に、学校を設立した理由について尋ねました。
バードさんは、幼少期からの過去を語ってくれました。
「私たちの親の世代は、学校でマオリ語を話すと、耳をつねられたり、たたかれたりしました。ですから私たちを育てるときに、同じ苦しみを味わって欲しくないと、マオリ語を教えようとしませんでした」とバードさんは話します。
背景には、19世紀、イギリスによる植民地政策がありました。
マオリの子どもたちは「原住民学校」で英語での教育を強いられました。
さらに第2次世界大戦以降、マオリの人たちが都市に住むようになり、英語中心の都市生活の中でマオリ語を話す人が急激に減っていきました。
1960年代には、マオリ語は消滅の危機に瀕していました。
しかし、1970年代、マオリの人たちによって、マオリ語を取り戻そうとする署名活動などが国内で盛んに行われるようになりました。
1980年代には、マオリの人たちがみずからの手でマオリ語で教える学校をつくり、マオリ語復興の土台になりました。
今では、マオリ語でほとんどの授業を行う学校の数は、国内で114校に上ります。
バードさんもみずからの部族のことばを失いたくないと、学校を設立しました。
部族の人数は決して多くはありませんが、家族や親戚を中心にマオリ語を教える人材を探し、オリジナルの教材をつくりました。
「私たちは多くのものを失いましたが、マオリ語が話されるためには努力が必要なのです。自分を強く信じて、自分の判断を信じなさい。私たちはいつでもあなたたちの味方だ」とバードさんは織田さんに伝えました。
アイヌと同じく、言語の消滅という危機を乗り越えたバードさんの言葉に織田さんは、背中を押されました。
織田さんは、「マオリとアイヌは同じような歴史をたどっている。学校設立のハードルは高いと思うけど、バードさんやマオリの人たちもアイヌの学校の設立を応援してくれている。私ももっと勉強して、アイヌの歴史を、アイヌの言葉を子どもたちに教えたい」と話し、来月、札幌の大学に進学してアイヌ語を専門的に学ぶことにしています。
来月、オープンするウポポイでは展示物の紹介などでアイヌ語が優先的に使われるなど、明るい動きも出てきています。
アイヌ文化やアイヌ語をどう後世に伝えていくか、私たちひとりひとりが考えるきっかけになればいいと思いました。
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20200327/7000019547.html

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道立施設4月再開 知事、首都圏移動「注意を」

2020-03-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞 03/28 02:11
 道は27日、新型コロナウイルスの感染拡大に備える改正特別措置法(新型コロナ特措法)に基づく感染症対策本部会議を初開催し、道立施設や道の催しを、対策を講じることを前提に4月から順次再開すると報告した。鈴木直道知事は記者会見で、東京都などが外出自粛を要請していることに関し、道民に首都圏訪問の自粛を要請しない一方、首都圏の感染拡大防止に協力するよう呼び掛けた。
 知事は首都圏訪問について「一律の自粛要請はしない」とした上で、道民には「都などのメッセージに十分注意し、対策に協力してほしい」と訴えた。首都機能が止まれば北海道も影響を受けるとして、進学や就職などで首都圏に向かう人には、人混みを避けるなどの対策の継続を求めた。
 休止中の道立34施設のうち道立図書館、道立函館、帯広両美術館など27施設については、十分な換気などの対策実施を前提に4月1日から再開。道立近代美術館については同18日の再開を予定する。道の催しは密室に人が集まるのを避けることなどを条件に再開する方針だが、会議で具体的な行事名は示さなかった。
 知事は4月24日開業予定の胆振管内白老町のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」については「国として感染拡大防止のモデル的施設にしなければならない」と述べ、予定通り開業すべきだとの認識を示した。(村田亮、菊池圭祐)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/406824

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「アイヌの権利」会発足 自由な漁業など求める

2020-03-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞 03/28 00:59
記者会見する(左から)宇梶静江さん、貝沢耕一さん、萱野志朗さん
 アイヌ民族の漁業権回復などを求めて発足した「アイヌ(人)の権利をめざす会」は27日、札幌市内で記者会見を行った。紋別アイヌ協会会長らが道の許可を得ずに川でサケを捕獲したとして水産資源保護法違反などで書類送検されたことを踏まえ、自由に捕る権利を求める活動を展開する。
 同会はアイヌ民族有志により15日に発足した。アイヌ民族を司法の場で初めて先住民族と認めた1997年の二風谷ダム(日高管内平取町)裁判の原告だった貝沢耕一さん、萱野茂二風谷アイヌ資料館長の萱野志朗さん(同町)、古布絵作家の宇梶静江さん(埼玉県)ら5人が共同代表に就いた。
 発足時の声明文は明治政府が一方的にサケ漁を禁止した経緯に触れ、アイヌ民族が「圧倒的な数の差で日本の法律を押しつけられ、生業を変えていかざるを得なかった」と指摘。「紋別アイヌ協会の先住民族としての権利を求める行動に賛同し協力します」とした。
 漁業権回復に向け、既にインターネット上で始めた署名活動では200人以上の賛同を得ている。同会は年内にも取りまとめ、内閣官房や道に提出する考え。貝沢さんは会見で「先住民族の権利に沿った施策を求めていきたい」と訴えた。
 先住民族の水産資源権は、2007年採択の国連先住民族権利宣言にも明記され、儀式用に限らず、サケを捕る権利を認めている国もある。紋別アイヌ協会会長ら2人は昨年9月、サケ捕獲は先住民族の権利だとして実際に捕獲。道警は先月末、水産資源保護法違反などの疑いで2人を書類送検した。(斉藤千絵)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/406803

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中村一枝さん(アイヌ学校教師永久保秀二郎を紹介、札幌女性史研究会会員) 12月7日死去 88歳 弱い立場への共感が出発点

2020-03-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞 03/27 10:43
永久保秀二郎の最期を「クリスチャンとしての心の平安そのものであった」と自著に書き、自らも洗礼を受けた中村一枝さん=2019年10月、釧路市内で
 40代の時、釧路市でアイヌ民族教育に尽力した永久保秀二郎(ながくぼしゅうじろう)(1849~1924年)の日誌や資料と出合い、札幌市へ移り住んだ後も研究を重ね、2冊の本を書いた。「永久保秀二郎の研究」(釧路叢書(そうしょ)第28巻)と「永久保秀二郎の『アイヌ語雑録』をひもとく」(寿郎社)だ。
 永久保は明治、大正期、アイヌ民族の子供に読み書きそろばんを教えた春採アイヌ学校(釧路市)の教師で、日本聖公会の伝道師でもある。
 彼の日誌と資料を読み進めるうちに、永久保がアイヌ民族に対する教育制度上の差別に憤ったこと、一方で、美しいアイヌ語を書き留めていることを知る。「ごきげんよろしくお体を暖かに保ち行きなさい」という別れの言葉が目に留まり、感動した。
 自身は1931年(昭和6年)、釧路市生まれ。既に永久保はいない。だから教え子がエカシ(長老)になって語った「一生懸命やってこられたのは、先生の励ましが忘れられないから。先生は『勉強は大切だ。実力を付けて自立することが必要だ』と言われた」といった証言から、永久保の人となりを探った。
 永久保研究にのめりこんだのは、自らの戦時体験に一因があろう。女学生だった45年、学校では防空壕(ごう)を掘らされ、駆り出された援農先では草取りの合間に歌を歌った何人かが目の前でびんたされた。
 学ぶことすらままならず、歌うことも許されない。戦争が弱い立場の人間から奪ったものを直接知るだけに、弱い立場のアイヌ民族のために生きた永久保から、そして歴史から学ぼうとした。その凜(りん)とした姿勢は、故人を知る多くの人の目に焼き付いている。(釧路報道部 椎名宏智)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/406481

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