先住民族関連ニュース

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道立施設4月再開 知事、首都圏移動「注意を」

2020-03-29 | アイヌ民族関連
北海道新聞 03/28 02:11
 道は27日、新型コロナウイルスの感染拡大に備える改正特別措置法(新型コロナ特措法)に基づく感染症対策本部会議を初開催し、道立施設や道の催しを、対策を講じることを前提に4月から順次再開すると報告した。鈴木直道知事は記者会見で、東京都などが外出自粛を要請していることに関し、道民に首都圏訪問の自粛を要請しない一方、首都圏の感染拡大防止に協力するよう呼び掛けた。
 知事は首都圏訪問について「一律の自粛要請はしない」とした上で、道民には「都などのメッセージに十分注意し、対策に協力してほしい」と訴えた。首都機能が止まれば北海道も影響を受けるとして、進学や就職などで首都圏に向かう人には、人混みを避けるなどの対策の継続を求めた。
 休止中の道立34施設のうち道立図書館、道立函館、帯広両美術館など27施設については、十分な換気などの対策実施を前提に4月1日から再開。道立近代美術館については同18日の再開を予定する。道の催しは密室に人が集まるのを避けることなどを条件に再開する方針だが、会議で具体的な行事名は示さなかった。
 知事は4月24日開業予定の胆振管内白老町のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」については「国として感染拡大防止のモデル的施設にしなければならない」と述べ、予定通り開業すべきだとの認識を示した。(村田亮、菊池圭祐)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/406824

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「アイヌの権利」会発足 自由な漁業など求める

2020-03-29 | アイヌ民族関連
北海道新聞 03/28 00:59
 アイヌ民族の漁業権回復などを求めて発足した「アイヌ(人)の権利をめざす会」は27日、札幌市内で記者会見を行った。紋別アイヌ協会会長らが道の許可を得ずに川でサケを捕獲したとして水産資源保護法違反などで書類送検されたことを踏まえ、自由に捕る権利を求める活動を展開する。
 同会はアイヌ民族有志により15日に発足した。アイヌ民族を司法の場で初めて先住民族と認めた1997年の二風谷ダム(日高管内平取町)裁判の原告だった貝沢耕一さん、萱野茂二風谷アイヌ資料館長の萱野志朗さん(同町)、古布絵作家の宇梶静江さん(埼玉県)ら5人が共同代表に就いた。
 発足時の声明文は明治政府が一方的にサケ漁を禁止した経緯に触れ、アイヌ民族が「圧倒的な数の差で日本の法律を押しつけられ、生業を変えていかざるを得なかった」と指摘。「紋別アイヌ協会の先住民族としての権利を求める行動に賛同し協力します」とした。
 漁業権回復に向け、既にインターネット上で始めた署名活動では200人以上の賛同を得ている。同会は年内にも取りまとめ、内閣官房や道に提出する考え。貝沢さんは会見で「先住民族の権利に沿った施策を求めていきたい」と訴えた。
 先住民族の水産資源権は、2007年採択の国連先住民族権利宣言にも明記され、儀式用に限らず、サケを捕る権利を認めている国もある。紋別アイヌ協会会長ら2人は昨年9月、サケ捕獲は先住民族の権利だとして実際に捕獲。道警は先月末、水産資源保護法違反などの疑いで2人を書類送検した。(斉藤千絵)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/406803

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アイヌの権利回復へ 民族有志が署名活動開始 /北海道

2020-03-29 | アイヌ民族関連
会員限定有料記事 毎日新聞2020年3月28日 地方版
 アイヌの先住権を主張して道に申請せずサケを採捕した紋別アイヌ協会の畠山敏さん(78)らが道警に書類送検されたことを受け、畠山さんの行動を支持するアイヌ民族の有志でつくる「アイヌ(=ひと)の権利をめざす会」が27日、記者会見し、権利回復に向けた署名活動を開始したと発表した。署名は安倍晋三首相や鈴木直道知事へ届ける予定。
 会見した共同代表の貝沢耕一さんは、先住権に関して「日本政府も賛同した国連の『先住民族の権利に関する宣言』に沿った施策をとるべきだ」と訴え、「これまではアイヌが主導で活動することがほとんどなかった。今回、アイヌが団結すればこれだけ力があると示したい」と署名活動の意義を強調した。
この記事は有料記事です。
残り137文字(全文436文字)
https://mainichi.jp/articles/20200328/ddl/k01/040/042000c

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サケ漁の男性支援で署名活動へ

2020-03-29 | アイヌ民族関連
NHK  03月27日 21時31分

アイヌの男性が先住民の権利を訴えて、行政の許可を得ずに川でサケ漁をしたとして書類送検された問題で、有志の団体が男性を支援するために署名活動を始めることになりました。
「アイヌの(=ひと)の権利をめざす会」は、先住民の権利だと訴えて行政の許可を得ずに川でサケ漁をしたとして、先月に書類送検された紋別アイヌ協会の畠山敏さんを支援しようと設立されました。
共同代表の貝澤耕一さんや宇梶静江さんらは27日、札幌市内で会見し、安倍総理大臣や鈴木知事に向けたアイヌによるサケ漁の権利回復を訴える署名活動を始めると発表しました。
貝澤さんは「行政側は規則があるから従えというだけで、依然として何も変わらない。勇気ある行動に対して団結力をみせたい」と述べました。
アイヌのサケ漁をめぐっては、国連の委員会が天然資源などに関する権利が十分に保障されていないと指摘しているほか、去年施行されたアイヌ施策推進法でも特別な配慮を求めています。
道はサケ漁の申請手続きを緩和する方針を示していますが、許可が必要な状況に変わりはなく、先住民の権利の保障と法令の順守をめぐる議論は今後も続きそうです。
https://www.nhk.or.jp/sapporo-news/20200327/7000019565.html

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北海道)苦難の時代から「アイヌで幸せ」へ

2020-03-29 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2020年3月28日 10時00分

祖母・貝澤雪子さん、関根摩耶さん、母・関根真紀さん(左から)=平取町二風谷の雪子さんの工房
 「イランカラ●(小文字のプ)テ(こんにちは)」「イヤイライケレ(ありがとう)」
 自ら配信するユーチューブの動画「しとちゃんねる」で、流暢(りゅうちょう)なアイヌ語を披露するのは、慶応大学2年の関根摩耶さん(20)。平取町二風谷(にぶたに)出身で母がアイヌ民族。今は神奈川県に住む。
 動画は3~5分。クラスメートの男子大学生を相手に、アイヌ語で自己紹介したり、伝統楽器ムックリを奏でてみたり。気軽な雰囲気の映像だ。
 「へ~そうなんだ、くらいな感じで見てもらう。その方が気楽で私も楽しいんです」と摩耶さんは言う。
 2019年4月から始めた動画は50本を超える。海外の人が感想を書き込んでくれるのがうれしい。
 摩耶さんが育った二風谷地区はアイヌ民族の血を引く人の割合が7~8割と高く、中心部にはアイヌ民芸品店などが立ち並ぶ。母真紀さん(52)はアイヌ工芸家、その母である祖母貝澤雪子さん(79)は、樹皮で織ったアイヌの織物「アットゥ●(小文字のシ)」織りの第一人者だ。「当たり前過ぎてアイヌであることを意識しない環境」だった。
 葛藤があった時期もある。小学校低学年のときにアイヌ語弁論大会で最優秀賞を取り、周囲の期待が重く感じた。小学校の後半から高校2年生くらいまではアイヌ語やアイヌ関連のイベントからは距離を置いた。
 札幌の私立高校に進学して転機が訪れた。同学年が13クラスあるマンモス校で、外国にルーツを持つ生徒がいるなど、多様な仲間に囲まれた。「アイヌかそうじゃないかは関係ない。関根摩耶として存在すればいいんだ」と気がついた。
 高3のとき、アイヌ語とかかわり直そうと決めた。平取町内を走る路線バスで流すアイヌ語の車内アナウンスを引き受け、大学に入ってからは民放ラジオのアイヌ語講座の講師も務めた。
 大学では文化人類学のゼミに所属し、アイヌ文化を研究テーマにしている。博物館の中ではなく、普通に生活しているアイヌを身近に感じてもらい、アイヌ文化に接するハードルを低くしたい。そんな思いから始めたのがユーチューブの動画だった。祖母雪子さんに登場してもらい、アイヌ料理の作り方を紹介したこともある。
 「典型的なおばあちゃん子」と言う摩耶さんは、雪子さんから様々なアイヌの文化を教わった。
 ◇  ◇  ◇
 雪子さんが小さいころ、周囲にはまだアイヌ語をしゃべる人たちがいた。口の周りに入れ墨を入れた女性がいたのも覚えている。6人きょうだいで、幼いころは貧しかった。電気はなく、水は遠くまでてんびん棒を担いでくみに行った。水くみがたくさん必要なお風呂は嫌いだった。冬は水を少なめに入れて雪を溶かせばいいから、少し楽だった。
 小さい頃の家は、父がかやでこしらえた。小学校に入る頃から草取りなど働きに出た。学校に行けたのは作業がない雨の日と冬の間だけだった。「ここからここまで」と棒が立てられた場所の草を懸命にむしった。
 7歳年下の弟の子守も雪子さんの仕事。アイヌの儀式に出かけた母が、こっそり懐にしのばせて持って帰る「シト」(団子)を分けてくれるのが楽しみだった。
 学校には半分くらいしか通えなかった。勉強は好きだったが、「学校は嫌い」と先生に言うよう親から言われ、中学へは行かなかった。
 19歳でアイヌ工芸家貝澤守幸さんと結婚。1962(昭和37)年、守幸さん、しゅうとめとともに二風谷で民芸品店を始めた。
 守幸さんは42歳で他界。雪子さんは36歳で、真紀さんら子ども4人を抱えて残された。必死で働いた。作品は徐々に評価され、2019年には伝統的な手法を守りつつ実験的手法も採り入れているとして、文化庁長官表彰を受けた。
  ◇  ◇  ◇ 
 真紀さんは、そんな雪子さんの姿を間近で見てきた。「いろんなことを背中で教えてくれた。母のようになりたい、いつもそう思っています」
 真紀さんも、自身の出自に悩んだ時期があった。
 二風谷で生まれ育ち、小学校の同級生はアイヌ民族の子どもが多かった。実家の店で、父と母、父のもとで働く職人たちに可愛がられて育った。アイヌであることが当たり前だった環境が変わったのが、中学に入ったときだった。
 町なかの中学校では、アイヌの子どもは少数派だった。二風谷出身というと「アイヌだろう」と同級生に言われた。和人との違いを初めて感じ、進んで「アイヌ」ということはあまり口に出さなくなった。好きになった男の子に自分がアイヌと打ち明けたら、どう思われるだろう――。そんなことも考えた。雪子さんに「なんで私アイヌなの?」と訴えたこともあった。
 考えが変わったのは、父の存在だった。アイヌであることにいつも胸を張っていた。道庁に行くときにはアイヌ文様が入ったはんてんを羽織り、アイヌ刺繡(ししゅう)を施したアットゥ●(小文字のシ)の帽子をかぶって出かけた。ふだんもアイヌ文様を採り入れた服を着て仕事をしていた。周りにはいつも笑い声が絶えなかった。
 尊敬する父の思いを受け継ぎ、アイヌであることに誇りを持って生きて行こう。そう決めた。高校には進学せず、アイヌ工芸の道に入った。
 アイヌ文様をデザインしたネクタイやカード入れ、自動販売機――。今は雪子さんが織ったアットゥ●(小文字のシ)に刺繡を施している。伝統に現代風のアレンジを加えた作風が真紀さんの真骨頂だ。
 ◇  ◇  ◇
 若者らしい感覚でアイヌ語やアイヌ文化を発信する摩耶さんの姿は、雪子さんにも真紀さんにも頼もしく映る。
 摩耶さんは小さいころ、真紀さんや父健司さん(48)と一緒に、二風谷出身でアイヌ民族初の国会議員、故・萱野茂さんが開いていたアイヌ語教室に通っていた。萱野さんは亡くなる少し前、摩耶さんにアイヌ語で名前を付けてくれた。
 ポンノト。
 「小さい凪(なぎ)」という意味だという。摩耶さんの周りがいつも穏やかでありますように。萱野さんのそんな願いが込められている。「茂さんは摩耶の将来が楽しみだとも言ってくれた。せっかく始めたことをやり遂げる強さを持ってほしいと私も思っています」と真紀さんは娘を思いやる。
 若手アイヌとして、様々なイベントやメディアに登場する機会が増えてきた摩耶さん。祖母が経験した苦労や母の思い、アイヌ民族の苦難の歴史も胸に刻んでいる。
 「知らないまま楽しい文化だけ発信することは無責任だと思うし、できるだけ知った上で言動を考えるよう意識しています。その上で、アイヌとして幸せだということを伝えていきたい」(芳垣文子)
     ◇
 〈アイヌ民族の人口と意識〉 2017年に実施された北海道の「アイヌ生活実態調査」によると、アイヌの人口は道内63市町村に1万3118人(5571世帯)だった。自治体が「アイヌの血を受け継いでいると思われる人、また、婚姻・養子縁組等により同一の生計を営んでいる人」として把握している数字。アイヌ関係団体や専門家からは「少なすぎる」との批判がある。
 一方、北海道大学教育学研究院の小内透教授(アイヌ・先住民研究センター兼務)らが10年にまとめた調査によると、アイヌの血筋であるという5178人のうち、民族意識について「まったく意識していない」が最も多く48・0%だった。次いで「時々意識する」26・8%、「意識することが多い」11・4%、「常に意識している」は13・8%だった。年代別にみると、年齢が低くなるほど、意識している人は少なかった。
https://digital.asahi.com/articles/ASN3W6TFYN3SIIPE02P.html?pn=4

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人間・ムヒカのさまざまな側面を描き出す

2020-03-29 | 先住民族関連
フォーサイト 3/28(土) 12:00配信
 2012年6月20日、ブラジル・リオデジャネイロ。この日から3日間の日程で「国連持続可能な開発会議(RIO+20)」が開催された。188カ国3オブザーバーの97名の首脳と、多数の閣僚級を含む約3万人が参加した、最大級の国際会議だった。
 その日最後に登壇したのは、南米ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領(当時)だった。席もまばらな会議場で始まった、10分ほどのスピーチ。
 だがその内容は、世界にはびこる行き過ぎた「消費至上主義」に対する批判、“発展イコール幸福”という「観念」の否定、今人類に突き付けられている環境や貧困などの問題は政治が解決するべきだ、といった刺激的な内容に満ち満ちていた。
 かつて反政府運動の闘士として活動し、政治犯として13年にわたって全国の刑務所をたらい回しにされたムヒカ。解放後は国会議員や閣僚を経て2010年に大統領に就任したが、豪華な公邸に住むことをせず、暇を見つけては自らトラクターを運転して農作業に精を出し、大統領給与の90%を寄付するといった質素な生活をしていることから、就任当時から「世界でいちばん貧しい大統領」と呼ばれていたムヒカ。ところがこのスピーチが世界で報道されて以来、世界の彼を見る目は大きく変わった。
 1954年に旧ユーゴスラビアで生まれ、『パパは出張中!』(1985年)と『アンダーグラウンド』(1995年)で2度、カンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞した名匠エミール・クストリッツァ監督も、その1人だ。
「何年も前に、フランスにいた時、誰かがトラクターを運転する大統領がいる、と教えてくれたんだ。その写真を見て『次はこの映画を撮る』と決めた」
 という監督が、任期の終盤から退任式までのムヒカに密着したドキュメンタリー映画『世界でいちばん貧しい大統領 愛と逃走の男、ホセ・ムヒカ』が、3月27日からヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開される(アルバトロス・フィルム配給)。
 美しいタンゴの調べをバックに、人間・ムヒカのさまざまな側面を描き出したクストリッツァ監督に、レンズを通して何が見えたのか、本作が何を描き出したのかについて聞いた。
■退任式に凝縮された人間性
――本作の原題は『El Pepe:A Supreme Life』(Pepeはムヒカの愛称)ですが、邦題にもあるように、「世界でいちばん貧しい大統領」がムヒカの代名詞として定着しています。実際にムヒカと接してみて、この「貧しい」という言葉についてどう感じていますか。
 私たちが考える「貧しい」は、彼にとってはたぶん当たらない。間違ったものだと思います。
 彼の言う「貧しい」は、決して金銭的なことを指しているのではありません。身近に接していて感じたのですが、彼はマインドが豊かか貧しいか、つまりメンタルな部分で計っているのだと思います。彼はそういう人です。
――確かに2012年のスピーチでも、ムヒカはセネカやエピクロス、アイマラ族(南米の先住民族)の言葉を引用する形で、
「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
 と、心の重要性を説いていますね。
 ぼくもそうでしたが、アメリカ的な生き方をみんな模倣しているわけです。何かの物のために生きる、いろんな物をたくさん持つことが幸せだ、という生き方ですね。
 ところがこの映画を作る中で彼の姿を見ることができたのは、ぼくにとってとても光栄でした。それは、いろんな物を持つことが幸せということではないんだ、ということを常に見せてくれたからです。むしろ彼のような人こそが、自然と対話できたりするんです。
 今、世界の政治家を見ても、権力を手にするとそれを悪い形で使う人が多いわけですが、彼は一切そういうことがなかった。
 ウルグアイは、人口が約300万人で牛の数が800万から1000万頭という発展途上国です。その国を率いていく中で、非常に聡明でありつつ、一方で妥協する心の準備もできていた。彼はそういう人なんです。
 19世紀から20世紀にかけて、いろんな国や地域が社会主義の理想を求め、結局はうまくいきませんでした。たぶんですが、世界で唯一社会主義的な成功を収めたのが、ムヒカ大統領時代のウルグアイだったのではないかと考えています。そのくらい国民は、社会主義的な生活のスタンダードを共有していました。
 それはおそらく彼が、矜持といったもの――社会主義と言ってもいいかもしれません――を失うことなく、しかし状況に合わせていく力を持っていたからできたことなのかもしれません。
 ぼくがこの作品をまとめた時に一番達成感が大きかったのが、彼の生き方、人生というものを、大統領としての最後の日に凝縮できたことですね。それを枠組みにして、すべてを描くことができたことです。
 だって彼の退任の日、10万人もの人々が泣きながら彼の名前――愛称の“ペペ”を呼んでいるというような光景を、他の政治家で見たことがありますか? ないですよね。明らかに彼らによって選ばれ、彼らにそこまで惜しまれるという人物はとてもユニークだと思うし、そんな彼の最後の日を枠組みに、彼の深い人間性を描くことができたのではないか、と自負しています。
■内面をコントロール
――ムヒカ前大統領はもちろん有名人ですから、彼の柔らかい笑顔や丸い雰囲気などは、よく知られているわけです。
 ところが映画の中で、反ムヒカの市民とかなり激しくやり合うシーンがありました。これが、実はとても印象的だったんです。常に笑顔を絶やさないムヒカの、別の一面を見ることができたという思いがしました。
 そうしたムヒカの柔らかさと激しさは、密着取材を続ける中で違和感なく共存していたのでしょうか。また、それを作品の中でうまく表現できたと考えているでしょうか。
 ぼくは、人間が持つことのできる最もパワフルな道具とは、自分の苛烈な内面をうまくコントロールすることのできるキャパシティなのではないか、と思っています。
 彼について書かれた本はずいぶん読みましたが、すごく面白いなと思ったのは、彼は刑務所や軍事刑務所などでの経験が豊富なわけですが、彼はそういう中でもずっとリスペクトされ続けていた、ということでした。
 看守の中には、囚人を虐待するような人もいたようですが、彼らも唯一手を出さなかったのがムヒカだったのだそうです。
 しかし、そういうことを話したがらないのが彼なんですね。かつては銀行強盗もしたし、警察に撃たれて重傷を負ったり、脱獄したりしたわけですが、そういうこともあまり話したりはしません。
 でも10年15年経てば、こうした過去の活動がウルグアイという国の大義のため、国民みんなのためにやったことなのだと認められることを、彼はあらかじめ知っていたかのように振る舞っているんですね。
 1973年にウルグアイに軍事政権――これは最悪な社会構造ですが――が誕生し、85年に民政に移管するまでの間、彼はずっと獄中にいたのですが、そのせいで戦えなかったことを、彼は結果的に喜んでいたように思います。そういうところが、彼のオリジナルでユニークな部分だと思いますね。
 これだけの偉大な人物は、外の世界に対してどこか物議を醸しだすような感情というものを持っていると思うんです。
 でも彼はそんな感情を、自分の哲学や知性というものを持つことで、あるいは自分の原点に戻ることによって、自分の激しい側面をミニマルに収めることができたのだろうと思います。その原点とは、国のために、国民のためにという気持ちですね。
 だから苛烈な部分はもちろんありますが、それを抑える力も持っていて、それをコントロールしているのだと思うし、作品の中でも表現できていると思います。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200328-00546713-fsight-soci


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