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タイ少数民族 奪われる伝統 強制移住、農地没収に批判

2021-05-09 | 先住民族関連
北海道新聞 05/08 10:04
 タイの北部や西部国境に近い山岳地帯で暮らすカレン族などの少数民族が、先祖伝来の土地を追われ、伝統的な暮らしを奪われている。政府は「焼き畑農業などによる環境破壊の防止」を理由に挙げるが、隣国ミャンマーなどの少数民族との連携を警戒し、国境管理を厳格化したいとの思惑も透ける。
 ミャンマーとの国境にある「ケーンクラチャン国立公園」に入り、さらに四輪駆動車で山道を2時間半走ると、カレン族が住むバンクロイラーン村に到着した。のどかな農村風景だが、よく見ると迷彩服を着た国立公園職員や、軍人が目を光らせていた。
 「ここは私たちの村ではない。祖先から引き継いだ村に何度戻ろうとしても、暴力を振るわれ、引き戻されてしまう」。村のリーダーのアピシットさん(39)はカレン語で訴えた。村に暮らす約700人は、森林管理局により強制移住させられた人とその家族だ。
 「祖先から引き継いだ村」は、険しい山中をさらに国境に向かって5日間歩いた「ジャイペンディン」(タイ語で「心の土地」)と呼ばれる場所にある。村人は代々、伝統的な焼き畑農業で自給自足の生活をしていたが、1981年に一帯が国立公園に指定され、96年、政府から焼き畑の禁止と立ち退きを命じられた。
 当局は立ち退きに応じた世帯に約1.2ヘクタールの土地を与えると約束したが、実際に用意されたのは岩だらけの痩せた土地。面積も足りず、精霊にささげる儀式に不可欠な陸稲の栽培はできなくなった。
 生活に困窮した村人は故郷への集団逃走を試みたが、ヘリコプターで追われ、軍人や警官、公園職員によって、強制送還された。2014年には当局の行為を裁判所に訴えた村の活動家が連行され、その後、貯水池に沈むドラム缶から骨となって見つかったという。
 住民の一部が試みた今年1月の逃走も前回同様に強制送還された。アピシットさんは「故郷に残していた家や納屋はすべて焼かれてしまった」と肩を落とす。
 ケーンクラチャン国立公園の他にも、国境と接する山岳地帯には数多くの国立公園が設けられている。タイの人権団体「ピームーブ」によると、公園内の規制地域に住むなどしたとして、少数民族が当局に訴えられたり、先住していた土地を没収されたりするケースが各地で頻発。軍事政権となった14年からの5年間で約1万2千件に上った。
 山岳地帯の少数民族を強制移住させたり、農地を没収したりする理由について、国立公園局は「公園内の環境保護」と説明する。
 特に伝統的に行われてきた焼き畑農業をやり玉に挙げてきた。だが近年、化学肥料を使わず輪作で土地を回復させる焼き畑農業は、自然環境への負荷が小さく、むしろ持続的な農法として評価されてきた。
 タイ政府もこうした見方には逆らえず、昨年、北部で焼き畑農業を実践するモデル事業に着手した。それでも抑圧行為をやめないのはなぜか。
 「ピームーブ」の顧問バヨン・ドックラムヤイさんは「政府は、国境付近の少数民族に対し、ミャンマーからの不法入国を支援しているとの嫌疑をかけている」と指摘する。国内の少数民族がミャンマーの少数民族武装勢力と結び付き、国境管理が揺らぐことは政府が最も恐れる事態だ。ミャンマーで国軍のクーデターが起きた2月以降は、難民の流入に一段と神経をとがらせている。
 ところがタイの少数民族に対する抑圧政策は、思わぬところで注目を集めた。政府は15年以降、3回にわたりケーンクラチャン国立公園を含む森林地帯を世界自然遺産に登録申請したが、国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は「先住民族への人権侵害の解決が必要」などの理由でいずれも却下した。
 人権団体のクロス・カルチュラル財団の理事長で、カレン族を研究するスラポン・ゴンジャントゥク氏は「強制移住などの一連の行為は、先住民族からの権利剥奪に他ならない。タイも賛成票を投じた『先住民族の権利に関する国連宣言』に著しく反している」と批判する。
 政府は「タイの少数民族は先住民族ではない」との反論を繰り返す。だが、少数民族の抑圧政策に向けられた内外の視線は厳しさを増している。(タイ西部ケーンクラチャンで森奈津子、写真も)
<ことば>タイの少数民族 タイ国内にはカレン族、モン族、アカ族など30超の少数民族が山岳地帯で暮らす。計97万人と全人口の1.5%を占め、このうち最多のカレン族は約45万人。多くは200年ほど前に中国雲南省から南下し、ミャンマーなどを経てタイ北部や西部にたどりついた。主に焼き畑農業を生活の基盤とし、独自の言葉や宗教観を持つ。戦後の東西冷戦下では共産主義と結びつくことを警戒し、政府は、低地への定住を促すなど同化政策を進めた。現在でも無国籍者は多く「先住民族」としての権利を求める運動が活発化している。
<ことば>先住民族の権利に関する国連宣言 2007年の国連総会で日本やタイを含む144カ国の賛成多数で採択された。先住民族が伝統的に所有、占有してきた土地と資源に対する権利や、文化を継承する権利を認めた。法的拘束力はない。先住民族に厳密な定義はないが、単に「先に住んでいた人々」ではなく、独自の文化が否定され、土地や資源を奪われるなど抑圧された人々を指す。宣言を踏まえ、世界各地で権利回復へ向けた取り組みが本格化した。日本では19年施行のアイヌ施策推進法でアイヌ民族を先住民族と認めたが、土地や資源に関する権利は盛り込まれなかった。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/541443

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ラポロアイヌネイション総会、慰霊碑建立決める 浦幌

2021-05-09 | アイヌ民族関連
十勝毎日新聞 2021/05/08 20:00
建立を予定する慰霊碑の文案を示す差間新会長
 【浦幌】アイヌ民族団体「ラポロアイヌネイション」(会員11人)の今年度総会が1日、町内の浜厚内生活館で開かれた。アイヌ民族の遺骨103体が眠る浦幌墓園に慰霊碑を建立することなどを決めた。
 委任状を含む11人が出席。来賓の水沢一広町長、田村寛邦町議会議長があいさつした。
 議事では、今年度の事業として近隣のアイヌ協会との交流事業、カムイノミ・イチャルパの実施などを確認...
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https://kachimai.jp/article/index.php?no=532189

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道しるべ、墓…用途違えど石積む人の心理とこだわり

2021-05-09 | 先住民族関連
[ナショナル ジオグラフィック  2021/5/9
オーストリアのツィラー渓谷の山々を訪れた登山者は、ギンツリング村に近いペータースケフルの山頂付近で、石積みの群れを目にする(PHOTOGRAPH BY ANDREAS STRAUSS, ALAMY)
旅先で積まれた石を見ると、自分も同じように積みたくなってしまうが、やらないほうがいいことも多い。勝手に石を積んだために、ほかのハイキング客が道しるべと勘違いして、道に迷ってしまうかもしれない。また、高山植物などの繊細な生態系に害を与えたることもある。石積みをはがしたりすれば、その下の土はむき出しになり、雨に流されて浸食が起こることもあるだろう。
実用的にも精神的にも、また見た目にもきれいな石を積みたくなる気持ちは理解できないでもない。人間の本能にも近いと言えるかもしれない。
「私たち人間は、岩のある風景のなかで進化しました」と話すのは、『Cairns: Messengers in Stone(ケルン:石のメッセンジャー)』の著者デビッド・B・ウィリアムズ氏だ。「人は数千年前から石を積んできました。私はここにいた、生きていたのだ、と伝えるために」
とはいえ、石積みには道しるべ、墓、芸術作品など様々なものがあり、人々が石を積む理由も複雑だ。ここでは世界各地の石積みの例を紹介しつつ、その背景にあるものをひもといてみたい。
道しるべ
遊牧民族から農耕民族、古代モンゴル人から南米の山岳民族まで、石を積む文化は世界各地に存在した。植物があまり生えない場所で、安全に旅をするための道しるべとして石が積まれることも多い。
筆者の住む米メーン州では、森のなかを歩くときに松の枝を折って道を築くことは難しくない。しかし、砂漠や高緯度の北極圏など、踏みしめる草もなければ、枝を折る木も生えていないような場所では、石を積む以外に道しるべに使えそうなものは見つからないのだ。
かつて、携行する水がなくなる前に、次の集落へ到着しなければならなかった旅人たちにとって、石積みは重要な道案内役だった。チベット高原やモンゴルの大草原、アンデスのマチュピチュ遺跡へ続くインカ道などに、こうした石の道しるべが残されている。
18世紀から19世紀にかけて、米国西部の開拓地では、所有地の境界を示すために石を積んだ。モンタナ州やコロラド州の山には、その名残である巨大な石積みが残されている。先住民族や、スペインから移住してきた羊飼いの手によって作られたもので、「ストーン・ジョニー」と呼ばれている。
古代スカンディナビア人やケルト人、スコットランド人の船乗りたちは、石を積んで灯台を作った。こちらは大の大人が1日がかりで作るような大きな建造物で、人の背丈よりも高く、しっかりと積み重ねられていた。道案内という意味では、ひざ丈ほどしかないベイツ・ケルンと同じ発想だが、その他の点では大きく異なる。
記念碑、巡礼の証
護符や信仰の象徴として作られた石積みもある。
スペイン北西部からフランスまで伸びる約800キロの「サンティアゴの道」は、使徒聖ヤコブの墓があるとされるスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂までの巡礼路だ。その道端には、巡礼者たちが残した円すい形の石積みが立ち並ぶ。中世の巡礼者がしたように、今もひと月ほどをかけてサンティアゴまで旅するのは主にキリスト教徒だが、この道と石積みは、宗教を抜きにしても、人々がずっと往来してきたことを今に伝えている。
「ユダヤ教徒は、墓参りをしたとき、死者への敬意を表すために墓石の上に石を置く習慣があります」と、ウィリアムズ氏は言う。「米国南西部に住む一部の先住民族には、石に唾を吐き、それを石積みの上に置いて体内にエネルギーを取り込み、健康の回復を願う習慣があります」
死者を葬った場所に築かれる石積みもある。クラバ・ケルンは、英国スコットランドにある青銅器時代の墓で、周囲には墓を守るようにして石板が立ち、墓の上には石がうずたかく積まれている。葬られた人物はよほど崇敬されていたに違いないと思わせるような、装飾的にも機能的にも優れた構造物だ。
ヨルダンのジェベル・クルマ砂漠では、2017年に8000年前の埋葬塚が発見された。細長い「塔の墓」が頂上にあったとされる数百個の石を積んだ巨大な石積みが見つかり、話題になった
石の芸術
石を積み上げて作られた芸術作品もある。米ニューヨーク州ソーガティーズの森の中に隠されるように作られた巨大な石の構造物「オーパス40」は、彫刻家のハービー・ファイト氏が、建築用の砂岩を使って37年間かけて制作したものだ。面積2万6000平方メートルの土地に、アステカ遺跡とマヤ遺跡から学んだ技法を生かしつつ、高台や池、石積みが流れるように美しいカーブを描いて配置されている。
アイスランド西部のアルナルスタピ村のはずれに、ラグナル・キャルタンソン氏が手がけたバゥルズル・スナイフェルスアゥス像がある。一軒家ほどの大きさの石の像は、芸術作品であると同時に、村のシンボルにもなっている。バゥルズル・スナイフェルスアゥスは、半分トロールで半分人間の、村の守護者だ。
米ユタ州のグレート・ソルト湖に作られた桟橋は、コンセプチュアル・アーティストのロバート・スミソン氏による作品で、6万トンの玄武岩が使われている。1970年に完成し、「らせん状の突堤(スパイラル・ジェティ)」と名付けられた。
石の迷路へ
米メーン州ポートランドにあるニューイングランド大学のアートギャラリーには、花こう岩と砂、松の落ち葉など、簡単な材料を使って作られた迷路がある。地面に描かれた円のなかをくねくねと曲がりながら進むと、最後には円の中心にたどり着く。
石積みと違って、迷路を歩いても何も残らない。それでも、迷路は近ごろコロナのせいか、急に人気を集めているという。迷路ファンが結成したラビリンス・ソサイエティの会長デビッド・ギャラガー氏によると、「歴史的に見ても、社会情勢が不安な時期になると、迷路人気が復活するものです」という。
ラビリンス・ソサイエティのウェブサイトでは、世界中にある迷路を検索できる。南アフリカのアマトラ山脈に作られた全長1.6キロの迷路や、ドイツ、ニーダーザクセン州で修道院を改装して作られたホテル・クロスター・ダンメの迷路などは、いつか訪れてみたい。
ギャラガー氏は、迷路と石積みは同じDNAを共有していると信じる。どちらも旅の象徴であり、人生のはかなさを示す道しるべだと。
迷路を訪れるのは、平穏を見いだす小さな巡礼の旅に出るようなものだ。米ニューハンプシャー州ライのロック・スカルプチャー・ポイントや、アイスランドのロイフスカウラバルダへ旅行する人々も、同じ思いを抱いているのかもしれない。これら2カ所では、訪問者に石積みを築くことを奨励している。周囲の環境を傷つける心配なく石を積み重ねることができるとあって、既に数百個の石積みが築かれている。
多くの人の手で作られた石積みがずらりと並ぶ眺めは圧巻だ。その中に自分の作品も加えるには、信仰心も芸術的才能もいらない。ただ両手を安定させて、石が自然にバランスをとれる位置を根気よく探すだけだ。
(文 KATY KELLEHER、訳 ルーバー荒井ハンナ、日経ナショナル ジオグラフィック社)
[ナショナル ジオグラフィック 2021年4月11日付の記事を再構成]
https://style.nikkei.com/article/DGXMZO71218180R20C21A4000000?channel=DF260120166529

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米国立公園でバイソン殺処分計画、ボランティアに4万5000人応募

2021-05-09 | 先住民族関連
JIJI.COM 5/8(土) 13:29

【AFP=時事】米アリゾナ州のグランドキャニオン国立公園(Grand Canyon National Park)でバイソンが増え過ぎた問題に対処するため、12頭のバイソンを殺処分するボランティアを募ったところ、応募者が4万5000人を超えていたことが分かった。米国立公園局(US National Park Service)が7日、明らかにした。
 国立公園局の広報担当者、ケイトリン・トーマス(Kaitlyn Thomas)氏はAFPに、バイソンの個体数が増加し過ぎると、植生や土壌など公園内の生態系が損なわれるおそれがあると説明した。
 園内を保護するため、グランドキャニオン国立公園の職員らがバイソンを殺処分する計画に一般からボランティアを募ったところ、応募者は2日間で4万5000人を超え、抽選で第1段階として25人が選ばれた。この25人は、バイソンを殺処分するのに必要な射撃能力や体力を備えているか厳しく審査され、17日までの最終選考で12人が選ばれる。
 ボランティアの条件として、米国籍と狩猟用ライフルの保持は必須。1人につきバイソンを1頭殺してよいが、作業は車両の侵入が禁止されている区域で行われるため、域内を自動車で移動することはできない。
 トーマス氏によると、バイソンの死骸はボランティアの間で分けられ、「希望者がいない部位は、グランドキャニオン国立公園との縁が深い11の先住民族の部族政府に送られる」。
 トーマス氏は、「多数の応募があると思っていた」として、実際に殺処分計画を発表した際には「かなりの興味が寄せられた」と話した。
 バイソンの殺処分は、公園当局の管理の下で行われるため、正確には狩猟ではないと国立公園局は説明しており、レクリエーションのほか、公共の利益になるという。【翻訳編集】 AFPBB News
https://news.yahoo.co.jp/articles/1d4e04ef9cd2397308a010e422d417304177e5fb

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7月開幕の台湾国際バルーンフェス、主役は先住民の衣装着たハローキティ

2021-05-09 | 先住民族関連
中央フォーカス台湾 2021/05/08 13:06

(台東中央社)東部・台東県に居住する台湾原住民(先住民)ブヌン族の伝統衣装に身を包んだ人気キャラクター「ハローキティ」の気球が8日早朝、同県の空に舞い上がった。7月に開幕する恒例イベント「台湾国際バルーンフェスティバル」(台湾国際熱気球嘉年華)の目玉としてお披露目され、そのかわいらしさで見物客らを魅了した。
ハローキティの気球は高さ約32メートル。胸元などに施されたクロスステッチの花模様や頭のリボンなどにも、ブヌン族の要素が盛り込まれている。会場であいさつした饒慶鈴県長は、これは世界でただ一つの台東限定版だと強調し、気球を通じて世界に台東を知らしめたいと意気込んだ。
同市政府によれば、先月下旬にデザインを発表して以来、インターネット上ではハローキティ気球に関する検索が急増。イベント公式サイトや専用ダイヤルなどにも問い合わせが殺到しており、お披露目当日には夜が明けないうちから大勢のキティファン、バルーンファンらが詰め掛けたという。
同フェスは7月3日から8月16日まで、鹿野高台で開催される。(盧太城/編集:塚越西穂)
https://japan.cna.com.tw/news/atra/202105080001.aspx

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バラク・オバマ元大統領の回顧録──希望のあとに続くもの

2021-05-09 | 先住民族関連
GQ 5/8(土) 9:43
北米で発売初日に89万部超えのベストセラーとなった『約束の地 大統領回顧録l』(上・下)(集英社)が日本発売となった。バラク・オバマが同書に込めた思いとは。
他人の気持ちに寄り添う大切さ
全米図書賞受賞の黒人女性作家ジェスミン・ウォードがミシシッピ州の自宅から、不慣れなZoomで首都ワシントンにいるバラク・オバマにアクセスし、第44代大統領の新著『約束の地』について聞いた。
バラク・オバマ(以下、BO) あれっ、どこかへ隠れたの?
ジェスミン・ウォード(以下、JW) いえ、私はここにいる。でも、あなたが見えない。
BO 心配しないで。どうせ私の顔なんて見飽きてるでしょ。
JW ああ、やっと回復した。そちらからも見えるかしら?
BO もちろん。ずっと見えてるよ。
JW じゃ、これから本番ね。まず、あなたのユーモア精神について。今もそうだったけど、新しい回顧録『約束の地』を読ませてもらって、すごく驚いた。本当に笑ってしまう箇所がいくつもあった。私も創作教室ではユーモアの大切さを説いているけど、あなたの場合、これは意識的にやってるわけ? それとも自然に身についたの?
BO 正直言うと、(妻の)ミシェルのほうが私よりずっとユーモアの天才だ。自分でそう言ってるしね。すごく話がうまくて、うちでは彼女が私を笑うのはいいけど、その逆はダメ。それがルールなんだ。不公平だと言うと、「そうよ、文句ある?」って。私はやられっぱなし。娘たちにもね。
思うに、人がユーモアに頼るのは、ある意味、自分の立ち位置を確かめるためじゃないかな。すごくひどい状況に置かれたときも、それを笑い飛ばす術があれば、その痛みや苦難を乗り切れるかもしれない。そう考えると、この国で笑いの多くが黒人コミュニティから生まれている理由も理解できる。私たち黒人はいつも、ひどく理不尽で不公平、惨めで悲しいことを経験している。でも私たちは、そんなのを他人事のように笑い飛ばして、たくましく生きてきた。そうやって世の中を渡っている。
私自身、そうだった。大統領になりたい、大統領選に出るぞと決めたときも、どこか他人事みたいだった。もちろん本気だったけれど、あまり自分を追い込まずに済んだ。この本にも書いたけれど、例の医療保険制度改革法案を通そうとしていたときだ。スタッフに議会の様子を聞いたら、「厳しいです、あなたに運があれば勝てるでしょうけど」と言われた。それで私はこう返した。「ここがどこだか、知ってるよね?」「大統領の執務室ですが」「じゃ、私の名前は?」「バラク・オバマ……」「いや、バラク・フセイン・オバマだ。そしてフセインは、アラビア語で『恵まれし者』の意。だから運は、いつでも私の味方だ」って。状況が厳しく、ことが重大なときほど、こういうユーモアが効く。
JW そうね。ミシェルが笑いの名手だってことも知ってる。ほら、お子さんと一緒に海へ行ったときの話。でも彼女だけはビーチに出たがらず、ビキニ姿の写真を撮らせちゃいけない、それがファーストレディの役目でしょと言ったって。あれを読んだときは笑いが止まらなかった。
BO あれね、彼女は本気で言ったんだ。本当に真顔で「ファーストレディとして、私は誓ったの。絶対に水着の写真は撮らせないって」と言った。そして最後まで誓いを守りとおした。
JW 今度の本では共感力、つまり他人の気持ちに寄り添うことの大切さも、繰り返し説いていますね。読んでいて感心したんですけど、あなたは人物描写が抜群にうまい。いろんな人、ヒラリー・クリントンとか中南米系女性で初めて最高裁判事になったソニア・ソトマイヨールとか、すごい人物が次々と出てくるけど、みんなすごく生き生きしている。そうか、こんな人なのかって感覚的にわかる。
BO 政治家は、ふつうの人とは違うと思われがちだ。みんなとは違う世界に生きていると。でも私は、とくに若い読者に、そんなことはない、みんなと同じだよと伝えたい。この本はそのために書いた。みんなが日々の生活でやっている選択や決断、感じている希望や恐れを、後に大統領になる男も若いころは抱いていた。いろんな人に囲まれて、いろんなことをやり、ときには失敗もし、失望もし、いろんな疑問も抱いていた。そのことを伝えたい。私だって、もがいていた。生きるのに必死だった。でも、そのなかで公民権運動に出会い、政治家になろうと決意し、ついには大統領にもなった。
あなたの言う共感力、それは政治家としての私の原点だ。そもそも私が政治の道を目指したのは、こう思うからだ。人種差別とか奴隷制、先住民族の虐殺とか、この国にはつらい過去と厳しい現実が多々あるけれど、それでもまだ希望がある。「私たちはもっと上に行ける、もっと広い心を持てる。お互いをもっとよく理解すれば、憲法に言う『われら人民』の定義をもっと広げていける」とね。
JW その思い、きっと読者に伝わります。一目散に走らず、たまには速度をゆるめて、自分とは異なる人たちに目を向ける。それを促すのは文学の役割でもありますね。
BO ジェスミン、あなたの本がいい例だ。私もアメリカの黒人だけど、ミシシッピ州みたいな南部の暮らしは知らない。南部で育った黒人少女が若くして妊娠したらどんなに大変かも知らない。でもあなたの本を読むと、そうした女性の心の動きまでよくわかり、その人の身になって考えることができる。それで私自身の世界が広がる。うちの娘たちと接するときにも、それが役に立っている。たぶん、政治家としての活動にも。
たとえばドナルド・トランプだ。彼には彼の、この国についてのストーリーがあった。もちろん私には、それとは違うストーリーがある。大統領になったジョー・バイデンにも初の女性副大統領になったカマラ・ハリスにも、それぞれ別なストーリーがある。それでいい、この国にはいつもたくさんのストーリーがあって、互いに競い合っている。それに気づき、理解する知恵、受け入れる心の広さ。あなたの本は、そういうことの大切さを教えてくれる。本当は政治にこそ、そういう心の広さが必要なんだ。
そいつは白人男の考えだ、そいつはメキシコ女の言い分だ、そいつは金持ちの勝手だ、そいつは負け犬の遠吠えだとか、簡単に決めつけてはいけない。そういう決めつけが、私たちの心に偏見や恐怖を植えつける。それでみんな、他人に敵意を抱いてしまう。
JW 今度の本でも、あなたは人の悪口を言っていない。他人を白だ黒だと決めつけないで、この人にもこんな面があり、あんな面もあるんだと書いている。つまり、人間は単純じゃないってことを教えている。
BO そんなにほめられると照れちゃうな。まあ私は以前にも本を書いていて、まだ若い時分のことだけど、そこで父親との葛藤とか血筋のことは決着をつけた。あれから25年も経っているから、自分のことも冷静に見ることができて、それがよかったのかな。
JW それで今度は、すごく個人的ですごく傷ついた経験も書けたのかしら? 昔の負けた選挙のこととか、ミシェルとうまく行かなかった時期のこととか?
BO そうだね。確かにつらい時期もあった。それで私たちは傷ついた。でも、それで私たちは成長した。実際、誰にだって失敗はあるし、負けることも、悔しいこともある。思いどおりにならなくて沈んでしまうこともある。わかってほしいけど、それは政治の世界でも同じなんだ。
たとえば政治の世界で、「人種の問題について、もっと議論しよう」とかって聞くと、首をかしげたくなることがある。なんか、見えすいてるよね。本当に必要なのは、もっと突っ込んだ具体的な話なのに。
でも、そういうときに文学の力が役に立つ。(たとえ政治家の話は耳に入らなくても、ノーベル文学賞受賞の黒人女性作家)トニ・モリソンとかの小説を読めば、人の痛みが深く心にしみるじゃないか。
JW この本でも前の本でも、あなたは自分の気持ちを率直に語っている。自分の内面を、ほとんどさらけ出す感じで。そこまで書ける勇気がすごい。
BO たいしたことじゃない。もう私も59歳で、人生の山も谷も経験してきた。前にも誰かに話したことだけれど、大統領をやるとね、もう怖いものはなくなる。知ってのとおり、私が大統領になったのは世界金融危機の直後で、アメリカ経済は1930年代の大恐慌以来の悲惨な状態にあった。しかもアフガニスタンとイラクで2つの戦争をやっていた。私も必死だった。就任早々に、困難でリスクの高い決断をいくつも下した。それで、成功もあれば失敗もあった。当然だ。この地位についた人間の常として、時には手厳しく批判され、能力を疑われることもあった。
でも私は生き延びた。どうにか2期8年を務めあげた。うまく話をまとめたこともあれば、間違いを犯したこともある。挫折も、勝利の美酒も味わった。それで、見てごらん。髪はすっかり白くなったけれど、今もしっかり2本の足で立ってる。だからもう、自分の思ったことは何でも書いていい。そう思っている。
でも誰かと交わした会話、とくに相手の発言は別だ。これを書いていいかな、相手の人は気を悪くしないかなと、やはり考えてしまう。
たとえばミシェルとのこと。この本では私たちの愛情とか、彼女が私のためにはらってくれた犠牲とか、そんなことばかり書いたけれど、本当を言うと彼女は、私が政治家に転身するのを嫌っていた。だから私が選挙に出たときは、いろんな意味で傷ついたと思う。でもミシェルは私より先に本を出して、そのへんのことを吐き出していた。だから私は助かった。自分のことだけ書いて、さっさと幕を引けばよかった。
いちばん伝えたいこと
JW ところで、ジョー・バイデンが大統領選で勝ちましたね。
BO ハレルーヤ! 神様に感謝しなくちゃ。
JW 本当に。私もほっとした。これでアメリカの霧が晴れるといい。でも、大統領にすべてを期待しちゃうのも禁物ね。
BO そのとおり。実はそれも、今度の本で言いたかったことのひとつだ。もう少し、みんなにこの国の政治の仕組みを理解してほしい。大統領は自分たちの選んだ王様だから、なんでも願いをかなえてくれる、みたいな思い込みはやめてほしい。
もちろん大統領の権限は強大だけれど、議会も裁判所も同じくらいに強大だし、州政府にもすごい権限がある。だから大統領だけじゃ何もできない。変化を促すことはできる。でも実際問題として、具体的なことを決めるのは州政府だ。しょせん大統領はシンボル的な存在で、もちろん重要なシンボルだけれど、それだけでは何百年も続く差別や構造的な格差の問題を解決できない。
JW 今度の本で、いちばん読者に伝えたかったことは?
BO 読んでよかったと思ってほしいし、若い人たちの刺激になったらうれしい。「よし、自分も何らかのかたちで公務に関わろう、選挙に出るかどうかは別として、世の中を変えていくような仕事をやろう」。そんなふうに思ってくれたら本望だね。
そして何より、やっぱりアメリカは特別な国だと思ってほしい。いや、世界一お金持ちの国だから、強い軍隊があるから特別なんじゃない。歴史上の数ある大国と違って、この国は民主主義、それも多人種・多民族の民主国家だからだ。それは私たちが何百年もかけて勝ち取ってきたもの。私たちは闘って、合衆国憲法の掲げる「われら人民」に含まれる人を少しずつ増やしてきた。結果、今では黒人も貧しい人も、女の人も、LGBTQの人たちや移民も「われら」に含まれている。これが効いて、私たちが思いを一つにし、互いを尊重して生きることを学べば、そしてすべての子どもたちを大切に守っていけば、私たちは真に偉大な国になれる。世界の手本になれる。そういうアメリカの理念こそ大事だ。
ただし、これだけは忘れないでほしい。理念と現実は、必ずしも一致しない。だからこそ私たちは声をあげ、抗議し、不平不満を言い、そして闘う。ここがアメリカの素晴らしいところだ。そうやって一歩進むごとに、この国は少しずつ正しくて公平な国になっていく。もっと互いを理解し、もっと互いの声を聞き、もっと多くの人が政治に参加できる国になっていく。
みんな一緒に生きていくんだ。それを学べなければ、この国も終わる。気候変動の問題や、グローバルな格差の問題はアメリカだけじゃ解決できない。みんなが互いに目を向け、互いに語り合い、協力してやっていくことを学ばなければ、前へ進めない。
だから、この本を読んだ人にはこう考えてほしい。アメリカの理念に命を賭けようじゃないか。旧約聖書のモーゼが(エジプトを脱出して祖先の地へ戻ろうとしたときに)言ったように、そして故マーティン・ルーサー・キング牧師が殺される直前のスピーチで述べたように。私たちはそこへたどり着けないかもしれない。アメリカの理念を実現できないかもしれない。でも、それを見ることはできる。目標が見えるから私たちは闘いを続ける。愛する娘たちのため、世界中の子どもたちのため、これから生まれてくる子どもたちのために。たとえ私たちには無理でも、彼らが「約束の地」を踏めるように。
『約束の地 大統領回顧録l(上・下)』
ミシェル・オバマとの出会いから医療保険制度(オバマケア)確立への決意、オサマ・ビン・ラディン容疑者の殺害計画まで深い自己省察を繰り返しながらの半生を上下巻にわたって振り返る。集英社より刊行。
Words ジェスミン・ウォード Jesmyn Ward
Translation 澤田組 Sawadagumi
Words ジェスミン・ウォード Jesmyn Ward Translation 澤田組 Sawadagumi
https://news.yahoo.co.jp/articles/94d348d565d7366918ecfbe637ec6b89f01ba117

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「スクランブル」黒沢映画で先住民村おこし ロ極東、伝統復興に尽力 知名度生かし邦人客期待

2021-05-09 | 先住民族関連
WEB東奥 2021年5月8日
 故黒沢明監督が映画「デルス・ウザーラ」(1975年)で描いたロシア極東の先住少数民族が映画の国際的な知名度をてこに、衰退した伝統文化の復興に力を入れている。タイガ(針葉樹林帯)が広がる沿海地方ボグスラベツ村の少数民族ウデゲは3月、観光開発を見据え、若者が文化を学ぶ施設を開設。日本からの観光客も呼び込みたい考えだ。
 「古い暮らしを再現した村をつくるのが夢。映画の一場面になった川下りや、釣りもできるようにしたい」。公民館の一室にできた小さな施設の旗振り役で、村のウデゲ代表ワレンチナ・ガボワさん(62)が語った。
 映画では先住民猟師デルス・ウザーラが探検家アルセニエフに同行。先住民の知恵で天気や動物の動きを察知したり、枯れ草を集めて猛吹雪から命を守ったりし友情を深める。黒沢監督は厳しい撮影環境の下、アジア系先住民に焦点を当て素朴さや自然への畏怖を叙情的に描いた。「羅生門」(50年)以来の米アカデミー賞受賞で代表作となり、ロシア人にも広くその世界観が共感された。
 ボグスラベツ村はシベリア鉄道の駅から車で2時間、ウスリー川支流をさかのぼった場所にある。ロシア人に交じり周辺にウデゲ全体の1割に当たる約150人が住む。ソ連時代の30年代に集団化が進みウデゲも定住。ロシア語の教育や生活の中で伝統文化は廃れ混血も進んだ。集団化の基盤は70年代に崩れ、若者は仕事を求め村を出た。
 製材所で働くアレクサンドル・キャルンジガさん(50)は「漁の割り当ては少なく、家族分が精いっぱい。生計は立てられない」と話す。狩猟許可は高額で、シャーマン(呪術師)の太鼓に張るシカ革は買う方が安い。
 ガボワさんは「高齢者が亡くなり文化が滅びてしまう」と訴え続け、地元政府の支援を得た。施設には民具や資料、ミシンをそろえた。自らウデゲ語を教え、踊りや手芸の講座も開く。観光開発は緒に就いたばかりだが「国内や日本の観光客にも来てほしい」と話す。
 開設日は雨の中、広場の特設舞台で若者が歌い踊り、シカ肉や山菜の料理が振る舞われた。
 3年練習した成果を披露したワレンチナ・ククチェンコさん(16)は「親が守ってきた言葉や文化を若者が引き継ぐ。皆で努力すれば将来に残せる」と語る。家には神聖な場所があり、シャーマンが儀式を行う。「ウデゲ文化を守ることは世界の文化を守ること。そうしないと画一的な世界になってしまう」。映画が描いた先住民としての誇りを見せた。(ボグスラベツ共同=八木悠佑)
   ×   ×
 デルス・ウザーラ 黒沢明監督がソ連国営モスフィルムの招きで作り、1975年に公開された映画。米アカデミー賞外国語映画賞を受賞し、黒沢監督の復活作となった。20世紀初頭にロシア極東アムール川上流のウスリー川流域を調査したアルセニエフの探検記が原作。案内役の先住民猟師デルス・ウザーラとの交流を通じ、雄大な自然の中で生きる先住民の世界観を描いた。ソ連で全編撮影され、出演者やスタッフも大半が現地人だった。(ボグスラベツ共同)
https://www.toonippo.co.jp/articles/-/514015

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モンゴル語教育激減、中国が内モンゴルで「文化的ジェノサイド」

2021-05-09 | 先住民族関連
JBpress 5/8(土) 16:01配信
 (譚 璐美:作家)
 もう30年も前のことだが、中国の内モンゴルに行ったことがある。内モンゴル自治区政府が招請した日本の経済学者のチームに通訳として随行した。
 北京から列車で12時間かけて区都・フフホトに着くと、なにやら懐かしさを覚えた。街行く人々がみな穏やかな顔つきで善良そうだ。日本人と雰囲気がよく似ている。なるほど日本人は「モンゴロイド」に分類されるだけあって、ルーツはここにあるのかと感じ入った。
■ 内モンゴルで耳にした「さくらさくら」のメロディー
 伝統的な人類学では、20万~15万年前にアフリカ大陸で誕生したホモ・サピエンスが、アラビア半島、イランに出て世界へ拡散したうち、北ルートでアラカン山脈、ヒマラヤ山脈を越えて、ユーラシア大陸東部へと進出した人々が独自の遺伝的変異を遂げて、モンゴロイドが形成されたとされる。
 モンゴロイドは、さらに樺太を経て、日本の北海道に到達して、縄文人になった。遺伝子を解析すると、縄文人の遺伝子はアイヌ民族に強く受け継がれ、大和民族には影響が少ないとされる。日本には別ルートで到来した新モンゴロイドの弥生人もいるが、日本全体としては、北海道のアイヌ民族から沖縄の琉球民族まで含めて、少なからず縄文人の血を受け継いでいるのだという。
 モンゴロイドは黄色人種で、身長が低く、顔の彫りが浅く、一重瞼、体毛が少ないのが特徴だ。今でも新生児の中には、お尻に黒いアザのような「蒙古斑」がある子がいて、成長と共に消えるのも、そのなごりだろう。
 内モンゴルで経済学者たちのリサーチと講演は順調に進んだが、モンゴル語は私にはわからず、鳥のさえずりのように聞こえた。私が日本語を中国語に訳し、それを北京からの同行者がモンゴル語に訳すという、伝言ゲームばりの意図伝達だったから、果たしてどこまで正確に伝わっただろうかと、やや不安になった。
 数日後、夜の宴会に招かれ、モンゴルの人たちが歌を披露してくれた。歌詞はわからなかったが、メロディーに聞き覚えがあった。日本の小学校唱歌にある「さくらさくら」の曲なのだ。聞けば、モンゴルの伝統的民謡だという話で、ここにも日本との共通文化が根付いているのかと感慨を覚えた。この曲は、日本では幕末か江戸時代に子供の琴の練習曲として作られたとされているが、待てよ、もしかして近代の歴史的な関りから、内モンゴルに定着した日本のメロディーなのではないかと想像が膨らんだ。
■ モンゴルの文化を尊重した清朝
 モンゴルの歴史は長く、近代に入って日本とも深い関りがある。
 古くは、11世紀にチンギス・ハーンが中央アジアに分散していたモンゴルの遊牧民を統一し、イラン、東ヨーロッパ、中央アジアから中国まで征服して、モンゴル帝国を打ち立てたことはよく知られている。
 さらに1271年、チンギス・ハーンの孫でモンゴル帝国の第五代皇帝だったクビライ(フビライ)が、モンゴル高原と中国本土を中心にして国号を「大元」と改め、南宋を滅ぼして、元王朝を打ち立てた。だが、漢族の反乱が相次ぎ、1368年に朱元璋が起こした大反乱に負けてモンゴル高原に退き、元王朝は90年で終止符を打った。
 朱元璋は明王朝を打ち立て、漢族支配を高らかに宣言した。モンゴル高原でまた遊牧生活に戻ったモンゴル帝国の末裔たちは、その後の国際政治に翻弄されることになった。
 17世紀初め、中国東北部に住む満州族(女真)が、明王朝を滅ぼして清王朝を樹立すると、モンゴルの文化や伝統を尊重した。満州族は文字を持たなかったため、当初はモンゴル語を清王朝の公用文字として使ったくらいだ。清王朝は、モンゴルを青海 、チベット、新疆(ウイグル)とともに「藩部」(自治を認めて間接的に支配する地)と定めて、ゆるやかな関係性を保った。
■ 二分されたモンゴル
 清王朝は約300年の栄華を極めたが、1911年、孫文が「漢民族の国家を再興する」という旗印を掲げて辛亥革命を起こし、清王朝を崩壊させた。1915年、ソ連は中華民国・北京政府に提案して「キャフタ条約」を結び、独立を望んでいたモンゴル人の意思を無視して、モンゴルを二つに分けた。ソ連に隣接する外モンゴル(北モンゴル)に自治を認める代わりに、中国に隣接する内モンゴル(南モンゴル)を中華民国領に編入したのである。1924年、外モンゴルはソ連の影響を受けて社会主義国となり、モンゴル人民共和国として独立した。
 社会主義国・ソ連の影響力は強かった。中国に共産党を誕生させたばかりか、中国東北部に進出して鉄道を敷設して居座り、中華民国を揺さぶった。朝鮮半島にも影響力が及んだ。
 当時の日本は、ロシア、そしてその後のソ連が北海道まで進攻してくるのではないかという恐れを抱いていた。そのため先手必勝で、日露戦争(1905年)をしかけた。この戦争に勝利し、ロシアが清国から与えられていた大連と旅順の租借権、さらに東清鉄道の旅順-長春間支線の租借権を獲得することに成功した。これを足掛かりに、ロシア革命を経てソビエト連邦となっていた同国を中国・東北部から追い出し、そこに退位した清朝皇帝・溥儀をいただいて「満州国」(1932年)を樹立した。それと同時に、ソ連に対する“防共”戦線の最前線とみなす内モンゴルに進攻して占領。日本に協力する「蒙古聯盟自治政府」を樹立した。
 もしかしたら、「さくらさくら」のメロディーは、このとき進攻した日本軍の兵士が大和民族のルーツに触れて懐かしさを覚え、思わず口ずさんだものかも知れない。ほんとうのところはわからないが、私には内モンゴルで聞いた甘酸っぱい思い出のメロディーである。
■ 力づくで進められる漢民族への同化政策
 だが1945年、日本は第二次世界大戦に負けて、満州や内モンゴルから退去した。
 4年後の1949年、中国共産党が支配する中華人民共和国が誕生し、清朝政府の後継者を公言して、内モンゴルを自国領として引き継いだ。内モンゴルにとっては、また新たな試練に晒されることになった。試練は21世紀の今日になってもなお続いている。いや、前にも増して過酷になった。
 昨年秋から、内モンゴルの小中学校ではモンゴル語による授業が大幅に減らされ、漢語による授業が大幅に増やされた。習近平指導部による同化政策強化の一環だ。
 かつて私が聞いた鳥のさえずりのような美しいモンゴル語が、今や消滅の危機に瀕しているのだ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/d3e2c6d65cd55d533d562f459496b11ce62b465e

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