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緊急事態宣言16日発令 帯広市、公共施設の大半休館へ

2021-05-17 | アイヌ民族関連
北海道新聞 05/16 05:00
 北海道に緊急事態宣言が発令される16日を前に、休業やイベント中止の動きが十勝管内で広がってきた。帯広市は15日、図書館や動物園など公共施設の大半を原則として17日から31日まで閉館すると発表した。新型コロナウイルス感染の再拡大による事態の急変に戸惑いの声も出ている。
 帯広市が同期間に閉館するのは、ほかに児童会館、とかちプラザ、各種体育施設、市民ギャラリーなど。各種行事や講座も中止する。帯広競馬場は17~31日のばんえい競馬を無観客開催とする。小中学校は休校せず、学校行事は縮小や延期を検討し、体育祭や運動会も行う方向で協議する。
 道立帯広美術館は17~31日の休館を決定。道立十勝エコロジーパーク(音更町)も17~31日、屋内施設やキャンプ場などを休業する。浦幌町立博物館は16日の講座「写真・映像に見る1950年代釧路地域のアイヌの踊り」を延期した。
 帯広中心部の屋台村「北の屋台」を運営する北の起業広場協同組合は16~31日を全店休業すると決めた。8月13日に予定された第70回勝毎花火大会も主催者が中止を決めている。
 管内で新型コロナの流行が再拡大したのは大型連休明けから。事態の急展開に戸惑いも広がる。帯広市緑ケ丘公園の「みどりと花のセンター」で15日に予定された「みどりと花のフェスタ」は中止。来場した帯広・東小4年の北川太陽君(9)は「友達ともなかなか遊べないから楽しみにしていたのに」と残念がる。
 公園を散策していた帯広市の無職山崎正昭さん(71)は「ワクチン接種のめども立っていないので急な感染拡大は怖い」。小学生の息子がいる市内のパート従業員山形康子さん(39)は「(例年6月開催の)運動会はどうなるのか」と不安そうに語った。(三島今日子、水野薫、椎名宏智)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/544263

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私の台湾研究人生:「戒厳令は死に体に」——民主進歩党の誕生で台湾政治に新しい風

2021-05-17 | 先住民族関連
ニッポンコム 2021.05.16
1986年3月、筆者は日本国香港総領事館の専門調査員を辞して家族とともに帰国し、4月から東京大学教養学部外国語学科の助教授に採用された。それから2010年に早稲田大学政治経済学術院に移るまでここ通称東大駒場で教鞭を執ることになった。日本の論壇に台湾問題を提起するなかで、台湾で結党されたばかりの民進党から訪日団を迎えることになった。
香港から帰国、東大教養学部助教授になる
東大駒場では、一、二年生には中国語を、教養学科アジア分科に進学した三、四年生には「アジアの政治」といった科目名で台湾政治論を講義した。「台湾政治論」といっても、もちろん出来上がったものがあったわけではない、講義しながら自分のそれを作り上げていくというのが実情だった。
翌年からは、大学院総合文化研究科地域文化研究専攻の担当にもしていただいて、以後台湾研究を志す台湾人留学生の指導にあたることになった。しばらくして少数ながら日本人の学生もやってきた。最初の指導院生は台湾先住民族タイヤル族の青年林文正さんだった。これが当時の法律で義務付けられていた漢人式の公式の名前で、民族名はイバン・ユカンだと彼は名乗った。その後1990年代の法改正で民族名を公式の名前として届けてよいことになり、彼は今、Iban Nokan(漢字表記、伊凡・諾幹)と名乗っている。先住民族の名前ほど彼らが「諸帝国の周縁」を生き抜いてきたことを物語るものはない。Iban Nokanさんはその後、陳水扁政権で総統指名・立法院承認で任命される考試院の委員を、蔡英文政権(第一次)で行政院政務顧問を務めるほか、各種先住民族政策立案の諮問機関などで活躍している。
当時は政治的民主化の進展とともに台湾では学術の自由の情況も急速に改善して、台湾研究には一種の歴史的熱気が湧き上がっていた。今振り返れば、私は学生ととともにその熱気の中にいた。当時東大で台湾研究をしている人は、台湾文学の動向に着目し始めていた文学部中国文学科の藤井省三さんだけだったし、文学部は本郷キャンパスにあったので、東大駒場キャンパスでは私一人だった。その後もずっとそうで、私が離任したらゼロになった。
そんなわけだから、私の大学院ゼミは周囲の同僚からみたらちょっと変な熱気のあるグループだったのかもしれない。ただ、ちゃんと語学さえ教えていれば、後は好きにやってよいというモードの職場だったのはたいへんありがたかった。
「死に体」となった戒厳令と民進党の結成
前にも触れたように、私は香港誌の『九十年代』(月刊)を購読するとともに、80年代初めからいわゆる「党外雑誌」の『八十年代』系列(康寧祥系)と『前進』系列(林正杰台北市議会議員系)を購読していた。「系列」というのは長期戒厳令下の検閲で雑誌がしばしば発禁処分に遭うので、一つが発禁になっても次が出せるように別の名称の雑誌を当局に登録しておいたからである。これを「スペアタイヤ(備胎)」と称した。
助教授になって初めての夏休みも終わりに近づく頃自宅に届いた『前進』系列の『前進廣場』のページをめくって驚いた。林正杰の「収檻送別」活動の様子が、写真とともに大々的に報道されていた。『前進』主宰者の林正杰は、同誌の報道が国民党高官を誹謗(ひぼう)したとの疑いで懲役1年半の有罪判決を受けたが、林は控訴しないで入獄することになり、その「送別会」を台北の公園で行うと、支持の民衆が街頭に溢れ自然発生的なデモとなってしまった。そして同じ事が、西部平原の各都市で12日間にわたって繰り広げられた。交通整理の警官は出動していたが、当局はこれを取り締まることができなかった。『前進廣場』に掲載されていた写真では、林正杰が何とパトカーの屋根に登ってハンドマイクで演説している様子が写っていた。「戒厳令は死に体になっている」。まさにこの言葉でその写真の光景を受け止めたことを今でも鮮明に覚えている。

(出典:張富忠・邱萬興編著『緑色年代:台湾民主運動25年 1975-1987上冊』台北:緑色旅行文教基金会、2005年、202頁 )(筆者提供)
野党結成まであと一歩だった。後で分かったことだが、「十人小組」と呼ばれるようになるグループがすでに密かに新党結成準備を始めていた。この年の12月には立法委員と国民大会代表の「増加定員選挙」が行われる予定であった。「党外」は再び「選挙後援会」を組織し、その候補推薦大会を台北の圓山大飯店で開催したが、その最中に政党結成準備に当たっていた人々が突然「民主進歩党」(民進党、the Democratic Progressive Party: DPP)の結成を提案し、異議無く採択された。林正杰が支持者に見送られて入獄した次の日のことであった。
確かに戒厳令は「死に体」だった。蒋経国は結局新党の存在を容認するしかなく、まもなく関連法令を定めて新規政党結成を制限付きで合法化し、戒厳令も解除するという方針を打ち出した。権威主義体制のいわゆる「ブレークスルー」が台湾でも始まった。戒厳令体制を重要な支えの一つとする国民党一党支配体制に風穴が開いたのである。生まれたばかりの民進党は、準合法政党として86年末の「増加定員国会選挙」に臨んで国内デビューを果たした。
もちろん私も三度目の「選挙見物」に出かけた。1983年に意外な落選に見舞われた康寧祥は立法委員に返り咲いた。台北市議会議員だった旧知の謝長廷は立法院進出をはかったが果たせなかった。一説に「最後の立候補」を訴えた康寧祥に票が集まりすぎたのが落選の一因という。これが中選挙区制において結成したばかりでしっかりした政党組織を持てない「党外」の苦しいところであったと言えよう。
国民党一党支配体制下に野党が結成されたということで日本のマスコミも注目したらしく、帰国すると早速、週刊『朝日ジャーナル』で現代中国研究家の加々美光行氏、共同通信の坂井臣之助氏との鼎談(ていだん)に呼ばれた。その時の私の発言の一部が当時の同誌編集長筑紫哲也氏の目にとまったらしく、掲載号目次下の「今週の紙面から」欄に日本の台湾観に関して「いわゆる経済合作の対象、観光の対象を除いた台湾をどう見るか。そこのレベルの交流が少ない。そのアンバランスはグロテスクでさえあるということを何回も台湾へ行って感じます」との私の発言が引かれていた。
民進党の初の「政党外交」
台湾の権威主義体制のブレークスルーを日本政府や外務省が当時どう見ていたのか、私には知る由もないが、アメリカの動きは速かった。民主党系の国際関係民主協会(the National Democratic Institute for International Affairs)が民進党をその主催のシンポジウムに招待した。民進党はこれを機に21人の大型訪問団を組織してアメリカと日本を回り、新党に対する国際的認知を獲得しようとした。一行は2月初め訪米、2週間にわたり全米各地を廻ったあと、15人が2月17日に来日し19日まで日本の政党、学界、マスコミなどと精力的に接触した。確か東京到着早々17日の夕方ではなかったかと思うが、池袋のプリンスホテルで記者会見が開かれるというので私も出かけた。当時の党内急進派「新潮流」のリーダーの一人と目されていた若き日の邱義仁氏(現台湾日本関係協会会長)と初めて言葉を交わしたのを覚えている。
そしてその翌朝、当時東京外国語大学に客員教授で来ていたパリス・チャン教授の仲介で訪問団の一部メンバーを東大駒場に迎えることとなった。現代中国研究者の通称「二水会」と称する勉強会(横浜市立大学の矢吹晋教授主宰)に出席する形で座談会を開いたのである。当時まだ大学院生だった黄英哲さん(現愛知大学教授)が一行の案内役を務めてくれた。
この座談会の模様は、二水会のメンバーでもあった『中央公論』の近藤大博さん(当時編集長)のお世話で、同誌の4月号に「台湾 民主進歩党の挑戦」と題して執筆させていただいた。近藤さんが私の記事につけてくれた「台湾の政治に新しい風が吹いている/台湾は変貌し、新たな転換期に入っている/その渦中にいる人々が日本にやってきた」というリード文が、この時私が日本の世論に伝えたかった感触をよく現していたと思う(※1)。
座談会出席の民進党側メンバーは次の6氏であった。( )内には当時の年齢、党内役職、議員職などの公職を付記した。
張俊雄(49歳、党中央執行委員、立法委員)
康寧祥(48歳、党中央常務委員、立法委員)
尤清(44歳、党中央常務委員、立法委員)
謝長廷(41歳、党中央常務委員、台北市議会議員)
蘇貞昌(39歳、党中央常務委員、台湾省議会議員)
廖學廣(33歳、党中央評議員、台北県議会議員)
後に民進党が成長して民主選挙を通じて政権党にまでたどり着いたことを知っている今日の眼からすると、相当の大物が参加してくれていたことになる。張、謝、蘇の三氏は陳水扁政権(2000-08年)の行政院長(首相に相当)、蘇氏は現蔡英文政権でも行政院長を務める。謝氏が1996年初回総統選挙で民進党の副総統候補となったことはすでに触れた。2008年には民進党の総統候補となったが敗れた。現政権下では台湾の駐日代表を務めている。康寧祥氏は、その後党内での地位は後退したが、李登輝政権下で監察委員を務め、陳政権では一時国防部副部長や総統府国家安全会議秘書長を務めた。
ただ、当時の急進派であった新潮流派系統の人は入っていない。私と二水会側では出席メンバー選定には全く関与していないし、訪問団側でどういう判断があったのか分からないが、座談会を通じて発信されたのが、民進党穏健派の見解であったとは言えるだろう。
(※1) ^ 座談会の詳しい内容は当日も参加した坂井臣之助氏が起こしてくれたテープから私が翻訳・編集して『中国研究月報』470号[1987年4月]に「台湾の新野党・民主進歩党は語る」と題して坂井氏と連名で発表した。
「国民党と同じなのは機関の名称だけだ」
前記『中央公論』の記事には、座談会の際に撮影された当日の6氏の表情を示す写真を掲載している。
なかなかの面構えである。決然とした面持ちの中に緊張感が漂う。こうした表情から発せられた、静かだがこれもまた決然とした彼等の発話が、当日の座談会の雰囲気を作り上げていたという印象が今でもある。
彼らの緊張感は、ほとんどが初対面の日本の学者とジャーナリストの前で話したことに由来するものではなかったかと思う。発言した複数のメンバーが、われわれの党は生まれてまだ4カ月あまりの「とてもベイビーな党」で、国民党の法律ではまだ合法化されていない存在であることに注意を喚起していた。私は、彼らの新党党内での職掌や党組織の名称をとりあげ、彼らが反対しているはずの国民党と同じではないかとの質問をぶつけたが、それには国民党がわれわれに「人民団体」として登録せよと迫り、新党の存在を矮小(わいしょう)化しようとしているから故意にそうしたのだとの答えが返ってきた。
新党の前途はまだ不確実性に満ちていた。後知恵からすれば1986年の民進党結成容認や87年の戒厳令解除は結果的には後戻りできない政治的自由化措置であったように見えるのだが、法的には「政党は国土の分裂(台湾独立を指す)を主張してはならない」とする制限付きの自由化であった。新党を潰してしまえる手がかりは存在し続けていた。民進党の法的地位が最終的に安定するのは、これらの制限が無効となる1992年の第二次憲法修正まで待たねばならなかったのである。
私はと言えば、台湾の権威主義体制のブレークスルーにより以後に展開していく初回総統選挙実現までの民主化の十年の台湾政治のダイナミズムをどのように見ていくのか、それを単なる時事的観察の積み上げに終わらせるのではなく、学術的な政治研究としてどのように実現していくのか、そういう課題を突きつけられていたのである。
バナー写真=「党外選挙後援会」の席上で民主進歩党結成が決議された場面。議長席で立ちあがって司会しているのが游錫堃[現立法院長]、右端立って発言しているのが謝長廷、この時彼が民主進歩党という党名を提案した。出典:張富忠・邱萬興編著『緑色年代:台湾民主運動25年 1975-1987上冊』台北:緑色旅行文教基金会、2005年、206-207ページ(筆者提供)
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g01087/

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急増中「宗旨・宗派は問いません」が示す1200年以上続いた枠組みの崩壊

2021-05-17 | アイヌ民族関連
プレジデントオンライン 2021/05/16 09:15
現在、日本国内の仏教宗派には曹洞宗、浄土真宗本願寺派、真宗大谷派、浄土宗など167ある。ジャーナリストで僧侶の鵜飼秀徳氏は「仏教が日本に入ってきたのは6世紀。歴史の中で各宗派の勢力は変化してきました。近年は『宗旨・宗派を問いません』というケースが増え、仏教の枠組みも変わりつつある」という――。
■なぜ「宗旨・宗派は問いません」が増えたのだろうか
近年、「宗旨・宗派は問いません」などとうたう、納骨堂や永代供養墓が増えてきた。しかし、この表現はアバウトだ。「宗旨」と「宗派」は本来同義だ。この場合、おそらく「宗旨=○○宗」と「宗派=○○派」とを分けていると思われる。
つまり分かりやすくいえば、「仏式の場合、お墓はそれぞれの決まった宗派のお寺に納めてもらうのが慣例ですが、うちの納骨堂はどの宗派の方でも納められます」ということになる。これまで納骨に際しては、「宗派しばり」が当たり前だったのだ。
だが、日本の仏教宗派の成り立ちや、どのような違いがあるのかについては、じつに複雑怪奇だ。
6世紀に日本に仏教が入ってきた当初は、「ひとつの仏教」だった。それが、鎌倉時代初期までに8宗(南都六宗に加えて天台宗、真言宗)に別れた。さらに、鎌倉時代に法然が浄土宗を、親鸞が浄土真宗を、日蓮が日蓮宗、栄西が臨済宗、道元が曹洞宗を開くなどし、いわゆる鎌倉新仏教が誕生する。
以後、その弟子筋らによって、さらに細かく分派していく。昭和初期までに「13宗56派」にまで膨らんでいる。それが1939(昭和14)年、宗教団体法が施行されて公認制となり、「13宗28派」にまとめられた。戦後は、さらに分派が進み、現在でも増減を繰り返している。
では、直近でどれだけの宗派が存在するのか。国から認められた包括法人(仏教宗派、令和2年)はなんと167(前年比マイナス1)もある。
このなかで最大の宗派は、およそ1万4600カ寺もの末寺を抱える曹洞宗である。次いで約1万300の末寺がある浄土真宗本願寺派。3位は真宗大谷派(約8600カ寺)、4位は浄土宗(約7000カ寺)、5位は日蓮宗(約5100カ寺)――となっている。
曹洞宗の規模がずば抜けて大きいのは、派閥に別れていないからである。派閥の全てを包括すれば、浄土真宗(主に10派)系が全体で約2万1000カ寺と曹洞宗を抜いて圧倒的勢力となる。
■「地元で強い」日本の各地でトップの仏教の宗派は何か?
しかし、日本全国まんべんなくそれぞれの宗派が分布している、というわけではない。地域によって、かなりばらつきがある。それは「真宗王国」「禅宗王国」「法華(日蓮宗)王国」などという表現でたとえられることもある。
改めて北から見ていこう。
北海道・東北に教線(布教の範囲)を拡大したのは曹洞宗だ。その理由について、『曹洞宗宗勢総合調査報告書 2015』では、
〈現在の曹洞宗寺院の多くは、15世紀中頃以降に開創されたものが大多数を占めるが、それは当時、新興勢力として台頭してきた在地領主である『国衆』が領有する発展途上の村落に展開した。商工業が発展し、多くの人々を引き寄せる都市部においては、他派の教線が入り込んでいたためであり、曹洞宗寺院はその間隙を縫って、その数を飛躍的に増加させていった歴史的経緯がある〉
としている。
本州の最北端にある青森県下北半島のパワースポット恐山(菩提寺)も、曹洞宗寺院だ。
北海道は江戸時代までは蝦夷地と呼ばれて、アイヌの住む土地だった。そもそも北海道は仏教の歴史は浅いが、江戸時代に幕府がロシアの南下政策に危機感を抱いて「蝦夷三官寺」を開いたのが最初である。蝦夷三官寺とは、浄土宗の有珠善光寺(伊達市)、天台宗の等澍院(様似町)、臨済宗南禅寺派の国泰寺(厚岸町)だ。いずれも現存している。
明治時代に入って、布教が本格化し、現在道内には2300もの寺がある。これは北海道開拓のための移民の心の拠り所、供養の場として寺が開かれたからだ。永幡豊『北海道における仏教寺院の分布について』によると、北海道開拓民の多くは東北6県(41.4%)、北陸4県(26.3%)が占めていた。曹洞宗王国の東北と真宗王国の北陸からの大量移民の影響を受け、現在、北海道では曹洞宗が全体のおよそ20%、浄土真宗系が43%という分布になっている。
■東京都は浄土宗寺院が多く、千葉県では日蓮宗寺院が多い
東京都を含めた首都圏の仏教勢力はどうか。
戦国時代、各地の戦国大名の庇護を受けた寺院が、その地域で力を持つようになった。たとえばこの頃、江戸に入った徳川家康は東京・芝の増上寺の存応に深く帰依し、菩提寺にした。そのことで増上寺は徳川歴代の墓所となり、江戸では浄土宗寺院が勢力を拡大する。現在でも都内には浄土宗寺院が多い。
家康のブレーンだった天台宗の僧、天海が3代将軍家光の時代に創建した寛永寺も同様に将軍家の菩提寺となり、江戸時代は関東では浄土宗と天台宗の勢威が高まった。
また、千葉県では日蓮宗寺院が多い。それは日蓮の直弟子日進が法華経寺を拠点にして、上総や下総で大布教を展開した影響が考えられる。
北陸は浄土真宗を開いた親鸞の嫡流、蓮如が15世紀に越前吉崎に赴き、布教の本拠地としたことで、まさに「真宗王国」になっている。
■なぜ、京都には曹洞宗のお寺が少ないのか
日本を代表する仏都、京都。寺の数の上では3000カ寺余りで愛知県や大阪府のほうが多いが、なんといっても主要教団だけで大本山の寺院が36もあるのが特徴だ。
浄土宗総本山知恩院、東西本願寺、臨済宗妙心寺派妙心寺、同天龍寺派天龍寺、東寺真言宗総本山東寺などである。そのため、こうした大本山傘下の寺院が比較的まんべんなく分布している。
その京都にあって、あえていうならば、曹洞宗寺院が少ない。これは、京都五山(臨済宗)勢力に、曹洞宗勢力が洛外へと押し出されたとも考えられる。
■広島や山口、島根は浄土真宗、山口は浄土真宗本願寺派
中国地方に目を転じれば、広島県や山口県、島根県では浄土真宗勢力が強い。山口県にはおよそ1400の寺院があるが浄土真宗本願寺派寺院が600カ寺を占める。これは戦国時代、毛利元就が真宗門徒の結束の強さに怯え、また、利用しようとして真宗寺院を庇護したからである。
四国の高知県や、九州の宮崎県、鹿児島県はそもそも寺院数が極端に少ない。高知県約360カ寺、宮崎県約340カ寺、鹿児島県約480カ寺である。
これは明治維新の時、日本仏教界が受けた最大の法難である「廃仏毀釈」の影響だ。廃仏毀釈とは新政府が出した神仏分離令に端を発した仏教への迫害のこと。鹿児島県では寺院が1つ残らず打ち壊され、宮崎県や高知県でも大方の寺院が消滅した。
廃仏毀釈の影響は凄まじく、約9万カ寺あった寺院がわずか数年の間に半減したとも言われている。今でも鹿児島県、宮崎県、高知県では寺院が少ないのは廃仏毀釈の影響である。
特に鹿児島県では江戸時代の寺院分布が完全にリセット。廃仏毀釈の嵐が止んだ後、この寺院空白地帯において浄土真宗が大布教を実施。現在、鹿児島県内では8割以上が浄土真宗系寺院となっている。
■1200年続いた宗派の枠組みが崩壊の局面にある
以上のように日本仏教の歴史を俯瞰してみるだけでも、地域の信仰のあり方の一端を垣間見ることができる。詳しくは拙著『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)をご一読いただければ、日本における仏教構造が理解いただけることだろう。
冒頭のように、都会で「宗旨・宗派は問わない納骨堂」が増えているということは、1200年以上続いてきた宗派の枠組みが、いままさに崩壊の局面にあるという裏返しなのかもしれない。
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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)
浄土宗僧侶/ジャーナリスト
1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)など多数。近著に『仏具とノーベル賞 京都・島津製作所創業伝』(朝日新聞出版)。浄土宗正覚寺住職、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。
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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)
https://news.goo.ne.jp/article/president/bizskills/president_46025.html

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マッチョ文化に挑む メキシコ先住民の女子ソフトボールチーム

2021-05-17 | アイヌ民族関連
AFPBB News 2021/05/16 09:00

© ELIZABETH RUIZ / AFP メキシコ・キンタナロー州ホンゾノート村で行われた「ピステの戦士」チームとの試合で、ボールを打つ「小悪魔」チームの選手(2021年4月3日撮影)。
【AFP=時事】中米メキシコ・ユカタン(Yucatan)半島の乾いたグラウンドに勢ぞろいした女性たちは、刺しゅう入りの伝統衣装に裸足といういで立ち。マヤ系先住民の彼女らはバットとソフトボールを手にし、男女差をめぐる固定観念と、この国のマッチョ文化に挑んでいる。
 ロッカールームも、端正な芝生もないホームグラウンドは、メキシコ南東部キンタナロー(Quintana Roo)州のマヤ系先住民の居住地、ホンゾノート(Hondzonot)村にある。チームは、名付けて「小悪魔(Diablillas)」だ。
 試合の観客は、ほとんどがビール片手の男たち。過酷な直射日光を避け、木陰の石の上に座っている。
 チームが最初にぶつかったのは、性差別の壁だった。「あの人たち、女性がプレーできるなんて思っていなかったんです。でも、男性と同じくらい、いや、それ以上にできることを見せてきました」とキャプテンのファビオラ・マイ(Fabiola May)さん(29)は誇らしげだ。「今では、夫たちもたくさん応援してくれます。私たちを批判する人もまだいるけれど、気にしていません」
 選手の多くは母であり、主婦だ。手工芸品を売って暮らしを立てている女性もいる。だが、新型コロナウイルスの感染拡大はメキシコにも大打撃を与え、他の商売と同じく、儲けは大きく減っている。
■「切っても切れない」民族衣装
 試合前、マイさんはマヤ語で最後の指示を選手らに与えた。
 その日の対戦チームは、隣接するユカタン州の村ピステ(Piste)から来た「ピステの戦士(Guerreras de Piste)」だ。やはりマヤ系の女性たちだが、ズボンにTシャツ、スニーカーという装いだ。
 対して、20人の「小悪魔」たちは裸足でプレーすることを選んでいる。その方がずっと楽だし、身に着けた鮮やかなウィピル同様、このチームらしさが出ている。手縫いで刺しゅうを施したウィピルは、何世代も引き継がれてきた民族衣装だ。
「ウィピルをユニフォームに決めたのは、私たちから切っても切れない、マヤ人であることの証しだから」と言うフアナ・アイ・アイ(Juana Ay Ay)さん(37)。スミレの刺しゅう入りのウィピルを着ている。
 数か月かけて出来上がる伝統衣装は、キンタナロー州の暑さを過ごしやすくしてくれる。
「小悪魔」軍はさらにイヤリングやメークをして、グラウンドに立つ。彼女たちにとって、すべての試合は祝祭なのだ。
■「私たちにはできる」
 アマチュアのチーム「小悪魔」は3年前、ホンゾノ―トの村役場が地元女性を対象にしたスポーツ振興を図って生まれた。公的な支援はなくなっていったが、選手たちのソフトボール熱は止まなかった。
 初めはテニスボールや借り物の用具を使用していたが、今では自前の用具がそろっている。憧れのプロ野球チーム、メキシコシティ・レッドデビルズ(Mexico City Red Devils)から贈られたものだ。
「小悪魔」の試合はすべて親善試合。メキシコにプロの女子ソフトボールリーグはないが、創設する話はある。
 東京五輪では初めてソフトボール競技に女子代表が出場する。チーム構成は、ほとんどが米国で生まれ米国でプレーしているメキシコ系の選手だ。
 世界野球ソフトボール連盟(World Baseball Softball Federation)の女子ランキングで、メキシコは米国、日本、カナダ、プエルトリコに続く5位。
 ソフトボールがメキシコに根付いてから1世紀以上たつが、「小悪魔」はこのスポーツの今後の成功に貢献したいと願っている。
 彼女らが住む地域社会は、長年直面している困難に加え、コロナ禍によって観光や建設業界で多くの仕事が奪われた。
「小悪魔」はガソリン代が無いために、ホームでしか試合ができない。だが、チームで積んだ経験が、グラウンドを離れても、生きることの励みになっている。
「ご覧のように、ここはたくさんのものが欠けていて貧しいです」とマイさん。けれど「やる気になればできます」と強調した。
「初めはこんなふうになると思っていませんでした。私たちにはできないとばかり言っていたけど、今なら、できるんだって知っています。そして、チームとして、もっとできることも」
【翻訳編集】AFPBB News
https://www.msn.com/ja-jp/news/world/e3-83-9e-e3-83-83-e3-83-81-e3-83-a7-e6-96-87-e5-8c-96-e3-81-ab-e6-8c-91-e3-82-80-e3-83-a1-e3-82-ad-e3-82-b7-e3-82-b3-e5-85-88-e4-bd-8f-e6-b0-91-e3-81-ae-e5-a5-b3-e5-ad-90-e3-82-bd-e3-83-95-e3-83-88-e3-83-9c-e3-83-bc-e3-83-ab-e3-83-81-e3-83-bc-e3-83-a0/ar-BB1gMbiS?ocid=BingNewsSearch

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