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勇敢な日本兵に 「平等」の名のもと差別は闇の中 報道センター・武藤里美(32)<戦禍とアイヌ民族>①

2025-01-01 | アイヌ民族関連

 

武藤里美

北海道新聞2024年12月31日 10:00(1月1日 0:00更新)

 1940年(昭和15年)ごろ、銃弾が飛び交う旧満州(現中国東北地方)の戦場。旧日本軍の先頭に、アイヌ民族の青年が立っていた。

 「突っ込むぞ、ついてこい!」。弾が頭や肩をかすめてもひるまず進む。軍服の中にはお守りとして、自らこしらえた10センチほどの祭具「イナウ」(木幣)をひそめていた。

 青年は秋辺福太郎さん=1996年死去=。満州などで5年間、「勇敢な日本兵」として戦った人だ。

 2025年は戦後80年の節目の年になります。記者が遺族や戦没者のゆかりの場所などを訪ね、戦争とは何かを考えるシリーズ「記者がたどる戦争」の特別編として、「アイヌ民族と戦争」について掘り下げます。初回はすべての方に全文公開しています。

②沖縄に刻まれた戦時の絆 慰霊塔に宿る平和の祈り

③2度の強制移住で絶えた歴史 日ロが壊した千島の生活

④文化継承に壁 社会の「目」に見張られて

⑤GHQに訴えた民族の窮状 便せん15枚の思い

 第2次世界大戦でどれだけのアイヌ民族が徴兵され、亡くなったのか。2025年の戦後80年を前に、アイヌ民族を取材してきた記者は、国や北海道庁に照会したが、記録はなく、関連の公文書もほとんどなかった。

 「つらそうな父の姿が、幼心に焼き付いている」。わずかな情報をたどる中、取材に応じてくれたのが、秋辺さんの長女・鈴木紀美代さん(77)=釧路市=だった。

父秋辺福太郎さんの思い出を語る鈴木紀美代さん(大島拓人撮影)

 秋辺さんも手記は残さなかった。戦場のことを普段話すこともなかった。ただ酒に酔った時だけ、親しい友人や家族を前にぽつぽつと過去の記憶を語った。戦場で先頭に立つ姿も本人が漏らしたものだった。

 秋辺さんは1916年(大正5年)、現在の釧路市で生まれた。アイヌ民族への深刻な差別が横行していた時代だった。

 秋辺さんの親友だった大場昭蔵さん(92)=札幌市=が証言した。「秋辺さんも幼いころから過酷な差別を受けていた」

 出自を理由にののしられ、石をぶつけられ、穴に落とされた―。大場さんの前で酔うと、秋辺さんは当時の記憶がよみがえり怒鳴り声を上げることもあった。

 アイヌ民族は1871年(明治4年)の戸籍法制定で、和人と同じ「平民」に編入された。日本政府は教育の場で日本語の使用を徹底。川でのサケ漁や女性の入れ墨といった風習を禁じるなど同化政策を進めた。

 北海道全域で徴兵が始まったのは1898年。この年を境にアイヌ民族も日本兵として戦争に巻き込まれていく。

 記者には疑問があった。アイヌ民族の人々は、自らを差別してきた和人と共に戦うことにためらいはなかったのか。

 秋辺さんが入隊したのは1937年、20歳の時だった。「隊長の理解があり、俺は助かった。感謝している」

 大場さんによると、秋辺さんはそう語っていた。アイヌ民族としてたくわえたひげも「伸ばしたままでよい」と特別に認められていた。

(写真)秋辺福太郎さん

 部隊内ではアイヌ民族や和人の区別なく仲間意識が強かったという。鈴木さんは父親が戦友を思い、涙を流す姿を覚えている。

 ただ、いくら仲間意識が強く、仲間が倒れる姿を目にしたとはいえ、なぜ秋辺さんは危険な最前線に立ち続けたのか。記者の疑問に、鈴木さんは長い沈黙のあと答えた。

 「父はアイヌであることに誇りを持っていた。子どものころのつらい経験から『誰にも負けたくない』と強い気持ちで戦ったのではないか」

 国立民族学博物館(大阪府)のマーク・ウィンチェスター助教(アイヌ近現代思想史)も「アイヌ民族は、差別を乗り越えるために軍隊で奮闘したのだろう」と指摘する。

 日本は周辺国や地域を併合していく中で、「一君万民」(※1)を掲げた。ウィンチェスター助教は「国が『平等な臣民』としてアイヌを徴兵することで、戦場で頑張れば和人と対等になれるという夢を抱かせた」と語った。兵士の確保が最重要で、軍隊内でアイヌ民族を排除するような動きは起きにくかった。

 実際、従軍したアイヌ民族の証言には「軍隊内の方が平等だった」との声が複数残る。日高管内平取町の木村二三夫さん(75)も、戦時中に徴兵された父・一夫さん=92年に死去=について「差別された話は全くしていなかった」と振り返る。

 軍隊の中で奮闘するマイノリティーは、アイヌ民族に限らない。第2次世界大戦後期に米兵として「極めて勇敢に戦った」(日本外務省)とされる日系人の第442連隊(※2)の例もある。

 ゆがんだ「平等」をかけ声に、マイノリティーを取り込んでいく戦時の軍隊。そこに本当に差別はなかったのか。

 秋辺さんの三女・遠藤絹江さん(74)の言葉が心に引っかかった。

 「差別を受けても、隠したこともあったと思う」

■過酷な差別、実態は不明

 ミズナラに囲まれた公園に隣接する名寄市北国博物館。その一角に、名寄で長年暮らしたアイヌ民族・北風磯吉さん(1880~1969年)の功績を伝えるスペースがある。

 1904年(明治37年)開戦の日露戦争で活躍した郷土の偉人。展示ケースの中には、武功抜群の者に贈られる「金鵄(きんし)勲章」や各種賞状、愛用のたばこ入れなどが並ぶ。

 危険を伴う伝令役を志願するなど、北風さんの武勇伝は事欠かない。日露戦争直後には「勇敢なる旧土人」(05年の北海タイムス)、「アイヌの勇士」(12年発行の書籍)などと持ち上げられ、少年誌にも登場した。

 なぜ、そこまで脚光を浴びたのか。

 北海道博物館の小川正人学芸副館長(教育史)によると、日露戦争はアイヌ民族を徴兵した初めての大規模な対外戦争だった。政府はアイヌ民族を「マイノリティーを包摂した大日本帝国のイメージを宣伝する要素として取り上げることもあった」という。

 だが第2次世界大戦が始まる頃には、北風さんはアイヌ民族というより、日露戦争で陸軍を率いた乃木希典大将との絆が印象的に描かれた。

 アイヌ民族として日本のために戦ったと紹介されていたはずが、今度は和人同様に「忠君愛国」の人物として強調されるようになった。北国博物館の鈴木邦輝元館長(70)は「時代に合わせて都合よく使われてしまった」と話す。

(写真)アイヌ民族の軍隊での活躍を報じる当時の新聞記事(小葉松隆撮影)

 第2次世界大戦末期には、アイヌ民族の活躍が新聞などで紹介される機会も少なくなった。政府が「平等な臣民」として徴兵を進め、珍しい存在ではなくなった結果だが、軍隊内で「平等」は実現していたのか。

 そんな疑問を抱き始めていた矢先、1冊の本を見つけた。

 表題は「あるアイヌの生涯」。かつて千歳市に住んでいたアイヌ民族の中本俊二さんが94年に出版した自伝だ。

 中本さんは21年(大正10年)に千歳で生まれ、42年(昭和17年)に樺太・ポロナイスク(敷香)に駐屯していた部隊の所属となった。

 「君は土人ということで間違いないか」

 自伝によると、中本さんは配属直後に中隊長からそう尋ねられた。これをきっかけに、同期から「アイヌのくせに生意気だ」「アイヌ野郎」などとののしられるようになった。

 上官の暴力や同期の嫌がらせは日常的だった。幹部候補生の試験に合格しても、差別はやまなかった。手記にはこんな嘆きがつづられていた。

 「他民族、ことにアイヌを軽蔑する誤った考えが(和人の)身に深く染み込んでしまっている」

 千歳アイヌ協会によると、中本さんの所在は現在分からず、自伝の存在も協会内では知られていなかった。

 同協会の中村吉雄会長(75)は記者から受け取った中本さんの自伝を初めて読み、「軍隊の中でも和人はアイヌを人としてみていない」と憤った。その上で、「中本さんは『アイヌは劣った民族』というレッテルを貼らせないよう頑張ったのだろう」と、厳しい差別にさらされた中本さんの心中を思いやった。

 アイヌ民族が軍隊で勇敢に戦ったという記録は数多く残っている。一方、記者が軍隊内の差別に関する証言を確認できたのは、中本さんらごく少数だった。

 道博物館の小川学芸副館長は、軍隊内に差別はなかったとする証言は尊重すべきだと話す一方、「実際には何らかの差別や偏見があったが、軍隊での奮闘を通してそれをはね返したと認識している場合もあっただろう」とも分析する。

 軍隊内での差別に関する証言が少ないのはなぜか。小川副館長がその理由のひとつを指摘した。「無配慮に『どんな差別を受けたのか』と尋ねてくることへの拒否感として、あえて語らなかったことも十分あるだろう。実際の厳しい状況への想像力が必要だ」。アイヌ民族は差別される存在だという聞き手の一方的な思い込みは多くの人を傷つけてきた。

 無意識の差別や偏見に基づく「マイクロアグレッション(小さな攻撃やけなし)」の問題は現在も解消されていない。

 政府の同化政策によって、徴兵された人数も戦死者数も分からなくなったアイヌ民族。さらに差別という人権侵害のリスクに日常的にさらされる中、多くの人は歴史の暗部を語ろうとしなかったのではないか。

 アイヌ民族はあの戦禍をどう生きたのか。記録や証言の少ない難しい取材になるのを覚悟の上で、実相に迫りたいと思った。

 ※1 一君万民 天皇の超越的な権威のもと、そのほかの人々に身分差がなく、みな平等という主張。大政翼賛会の結成理念にも掲げられ、挙国一致体制を進めるスローガンの一つとなった。

 ※2 米軍第442連隊 1943年(昭和18年)、米国への忠誠心を示すために約4500人の日系米国人の志願兵で結成された。3分の2はハワイ出身、残る3分の1は家族が強制収容所に送られた米本土出身者で、45年5月まで欧州戦線の激戦地での戦闘に参加した。

 むとう・さとみ 茨城県出身。2015年4月に入社。本社編集本部、旭川報道部、根室支局を経て、23年3月から本社報道センター

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1104733/

 

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