山と渓谷 2020年11月27日
アイヌと神々の物語、アイヌと神々の謡
アイヌ語研究の第一人者、故・萱野茂氏が、祖母や村のフチから聞き集めたアイヌと神々の13の謡(うた)を収録した『アイヌと神々の謡』。ヤマケイ文庫『アイヌと神々の物語』の対となる名著です。北海道の白老町に「ウポポイ(民族共生象徴空間)」もオープンし、アイヌについて関心が高まる今、本書からおすすめの話をご紹介していきます。第9回は、「ゴールデンカムイ」アイヌ語監修者・千葉大学文学部教授の中川裕氏の序文を特別公開します。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/a0/beb88b8b2d285eae804d862e270f523a.jpg)
アイヌ民族はさまざまな口承文芸を豊かに発展させた人たちであり、その中で物語的な内容を持ったものとしては、散文説話、神謡(しんよう)、英雄叙事詩という大きな三つのジャンルがある。このうち、散文説話については、本書の姉妹編である萱野茂『アイヌと神々の物語〜炉端で聞いたウウェペケレ〜』(ヤマケイ文庫)で紹介されているが、本書は萱野氏の収録・訳出した神謡と呼ばれるジャンルの口承文芸を中心に、一冊の本にまとめたものである。
神謡というのは、地方によってアイヌ語でカムイユカラとかオイナなどと呼ばれるものである。そのカムイユカラのカムイとユカラに、それぞれ「神」と「謡」という言葉を当てたのが神謡という訳語だが、日本にも周辺民族の口承文芸にも見られない、このユニークな物語の性格をよく言い表した名称であるので、それからまず説明していこう。
鳥や虫、火も水もカムイ
カムイというのは、この世界の中で魂を持って活動している人間以外のものすべてを指す言葉で、本書でも「神」と訳されているが、日本語の「神様」という言葉よりはずっと広い意味を持っている。
たとえば、そこいらを歩いている犬や猫などの動物、スズメやカラスなどの鳥、あるいはバッタやクモなどの虫たちもみんなカムイである。草や木もすべてカムイだし、本書にも火のカムイと水のカムイが争う話が出てくるが、私たちが生き物とはみなしていない火や水、雷などの自然現象も、それ自体がみんなカムイなのである。
そして、人間の手によってつくられた家や舟、臼(うす)や杵(きね)といった道具類にいたるまで、みんな魂を持っていて、人間と同じように笑ったり泣いたり、結婚したり嫉妬したりして暮らしていると考えられている。
カムイユカラというのは、そのカムイの目を通して語られる物語である。
たとえば本書の「マムシが人助け」という話はこう始まっている。
「わたしの家は、太い太い風倒木(ふうとうぼく)。倒木の上端へ下端へ、私の細い尾で、ぴょんぴょんと立ち、暮らしていた」
「わたし」というのは、主人公のマムシのカムイである。つまりこの話はマムシが自分の体験したことを、物語として語っているのだ。
そこに、山の上からふたりの人間の若者が走ってくる。見ると、その後を化け物グマが追いかけてくる。そこでわたしは黄金の銛(もり)を抜いて、化け物グマめがけて投げつけた。するとクマは肉が溶けて骨だけになって崩れ落ちた。
ふたりの若者は村に戻ると、わたしに感謝の祈りやお酒などの贈り物を捧げてくれた。わたしはその贈り物で宴を開き、カムイたちを招待すると、彼らはわたしをたいそうほめたたえてくれ、わたしは豊かに暮らすことができたという物語である。黄金の銛というのは、もちろんマムシの毒牙(どくが)のことであり、その毒で悪いクマが退治されたのである。
この話は最後に「今いるマムシよ、人間をも、助けるものだ。してはならないことは、人間をからかうことや、かみつくことです」という言葉で締めくくられている。
マムシというと、多くの人は恐ろしい動物、怖い生き物というイメージしかないだろう。事実、昔のアイヌの人たちでもマムシなどのヘビを恐れる人は大勢いた。しかし、だからといってヘビを見かけたらすぐ殺したりしてはいけない。そんなことをするとカムイからひどい罰を与えられるという話もよく聞かれる。
この話は、人間とマムシ双方に対して、お互いに害を与えるようなことなく、敬い合って共存しなさいということを伝えているのである。
そしてそれを人間の視点からではなく、マムシの視点で物語として語っているところが、神謡というものの非常にユニークな点である。いわば人間をとりまく自然や環境の側からこの世界や人間を見ているわけで、このようなお話を物語として毎日聞いているうちに、子供たちはそういった動物や火や水などが人間と同じ心を持った存在であるという意識を強く持つようになり、それぞれのカムイにどう接したらよいかといった知恵を身につけていったのだろう。
メロディに乗せて伝えられた物語
もうひとつのユカラという言葉は、英雄の活躍する叙事詩の呼び名としてよく知られているが、もともとは「真似る」という意味の動詞であり、またサハリン(樺太)では、「歌」という意味を表わしている。
カムイユカラというのは上で述べたように、カムイの真似をして、カムイになり代わって節(ふし)をつけて歌う物語である。そういう意味でユカラという言葉が使われているのであり、それに「謡」という訳が与えられてきた。
「謡」は「歌」とは違う。アイヌの口承文芸の中で、「歌」に相当するものは数多くあるが、それは基本的に節回しーー歌声を聞かせるためのものであって、歌詞はその場で即興的に自分の思いを歌い上げるものであったり、歌い継がれているうちに意味不明になって、よくわからないものであったりする。つまり歌詞の内容を伝えることが重要なのではなく、声を出して歌うこと自体を楽しむためのものだと言ってよい。
それに対してカムイユカラは物語としての内容を伝えることが一番の目的であり、だから能の詞章(ししょう)を意味する謡曲の「謡」の字が当てられているのである。
しかしカムイユカラもまたメロディに乗せて歌われるものであり、ただ聞いているだけでは歌と区別はつかないだろう。節のないウエペケレ「散文説話・昔話」と違って、言葉がよくわからなくても聞いているだけでも楽しいし、真似をして自分で口にしてみるとなお楽しいものである。
本書を見ると、どの話でもほぼ一行おきに「ハラカッコッ」とか「トゥカナカナ」とか、謎の言葉が繰り返されている。その部分の日本語訳を見ても何も書いていない。実はこれはサケヘと呼ばれるもので、「折り返し」と訳されることが多いが、このサケヘを繰り返してその間に本文を挟んでいくというスタイルをとるのが、他のジャンルとは違うカムイユカラの独自の演じ方なのである。
たとえて言えば、ロシア民謡の「一週間」という歌では、「日曜日に市場へ行って紡錘(つむ)と麻を買ってきた」という、それぞれの曜日ごとの仕事を歌う歌詞の後に、毎回「テュリャテュリャテュリャテュリャテュリャテュリャリャ〜」という言葉が繰り返される。サケヘというのはこの「テュリャテュリャ〜」のようなものだと思えばよい。
サケヘはその神謡の主人公であるカムイが何者であるかを示すのが、もともとの大きな役割のひとつだったと思われる。たとえば、本書の「カケスとカラス」という話のサケヘは「ハンチキキ」というものだが、この「チキキ」というのは、主人公のスズメの「チュンチュン」という鳴き声を表しているのであり、このサケヘを聞いただけで、昔の人たちは「ああこの話はスズメのカムイの話だな」とすぐにわかっただろう。
あるいは「火の女神と水の女神のけんか」と題された物語のサケヘは、「アペメルコヤンコヤンマッ アテヤテンナ」という長いものだが、この「アペメルメルコヤンコヤンマッ」というのは「火の輝きがそこに上がり上がりする女神」という意味であり、火のカムイの本名だとも言われている。「アテヤテンナ」のほうは意味がわからないが、こちらもたいてい火のカムイを主人公とする神謡についているサケヘであり、これを聞けば火のカムイの話だと思ってよい。
つまり、いわば落語家が高座に上がる時の出囃子(でばやし)のようなもので、それが鳴ると、「次に出るのは円生か」「お、いよいよ文楽の出番か」などといったことがわかるのと同じように、サケヘを聞けば、語り手が今何のカムイとして語っているのかがわかるというものであったのだろう。
ただし、本来はそうだったと思われるが、萱野茂氏の解説にあるとおり、多くの話のサケヘはもはやそれがどういう意味だったのかわからなくなっている。形が崩れて意味がわからなくなったり、かつては意味が明白だったものでも、もうその言葉を知っている人がいなくなってしまったりというようなことで、語り手自身にも何を指しているのかわからないまま、歌い継がれてきたものがたくさんあるのだと思われる。
このように説明したところで、文字からだけでは神謡がどんなふうに演じられるものかを理解するのは難しいが、現代はインターネットの発達によって、誰にでも音楽としての神謡に触れる場がある。
そのひとつが、公益財団法人アイヌ民族文化財団のホームページで公開されている、
オルシペ スウォプというコーナーである(https://www.ff-ainu.or.jp/web/learn/language/animation/index.html)。
これは、一言でいえばアイヌの口承文芸をアニメ化したもので、神謡だけでなく、散文説話や英雄叙事詩などいろいろなものがそこに上げられているが、アイヌ語でも日本語でも見たり聞いたりすることができる。アニメとしても非常にバラエティにとんだ良質の作品が並んでおり、本書と合わせて見ると、神謡というものがどんなものか良く理解できる。その中には、主人公は違うが本書収録の「カケスとカラス」と同じ話も収録されている。
世界はどんな仕組みで成り立っているのか
カムイユカラはこのように、自然の側、人間を取り巻く環境の側からこの世界を描いた物語であり、かつてのアイヌ民族の世界観に立って描かれている話である。だから、カムイユカラをじっくりと読み込んでいけば、昔のアイヌの人たちのものの考え方を理解することができる。
本書の「ムジナとクマ」という話を例にとろう。主人公はムジナ(タヌキ)で、おじいさんと一緒に暮らしているが、そのおじいさんがすっかり年をとってしまったので、アイヌのところへ客として行きたくなった、というところから話が始まる。
このおじいさんというのはクマのことだが、クマの冬眠する穴の中にムジナが一緒に入りこんでいることがあるそうで、萱野氏の解説にあるように、ムジナは「クマ神の飯炊きなので、顔に炭がついて顔が黒いものだ」と考えられているので、こういう話ができあがったのだと思われる。
アイヌのところへ客として行きたくなったというのは、「アイヌの所へ客として行くことによって若返ることができるために」と解説されているが、これは人間とその獲物となる動物との関係を示す重要な考え方である。つまり、クマがカムイ「神」であるのなら、なぜそれを人間は殺して食べてよいのかという疑問に対する答えがここにある。
アイヌの伝統的な考え方で言えば、それは動物のほうから人間のもとへ客としてやってくる行為なのである。そして、動物たちはその肉と毛皮を土産として人間に与え、人間はそのお礼にお酒や米の団子などの御馳走(ごちそう)や、ヤナギなどの木を削って作ったイナウという御幣(ごへい)などを動物たちに捧げ、その魂をカムイの世界に送り返すのである。
そのようにしてもとの世界に戻った動物たちは、人間界から贈られたもので良い暮らしをし、再び若い肉体を身にまとって、人間世界を訪れる。狩というものは、そのような人間と動物の相互利益をもたらす行為だと考えられていた。
だから、クマのおじいさんは、わざわざ古い土を内側に入れて、新しい土を外へ出すようにムジナに言いつける。ふたりの住んでいるのは山の中のクマの巣穴であり、その穴の外に新しい土が出ていたら、人間たちはそこに今年クマが冬眠していることを知って、狩にやってくる、つまり客として迎えにくるからである。
外に出たクマとムジナは人間に矢を射られて死んでしまうのだが、話はそのまま途切れずに続いていく。死んだのは肉体だけであり、魂のほうは不滅であるので、ムジナはそのまま自分の目でみたことを語り続けていくからである。
このように、このひとつの話からでも、かつてのアイヌの人たちの考え方を読み取ることができる。本書の物語の数々はお話として面白いだけでなく、今私たちが見ているのとは違うこの世界の見方をそこから教えてくれるのである。
カムイユカラというのは、かつてのアイヌの人たちにとって歌のように歌われる楽しい物語であり、同時にこの世界の仕組みを教えてくれる大切な教科書だったのである。
千葉大学文学部教授、「ゴールデンカムイ」アイヌ語監修者
中川 裕
※本記事は『アイヌと神々の謡~カムイユカラと子守歌~』(山と溪谷社)からの抜粋です
『アイヌと神々の謡~カムイユカラと子守歌~』
著者が聞き集めた13のカムイユカラと子守歌を日本語とアイヌ語の併記でわかりやすく紹介。好評発売中のヤマケイ文庫『アイヌと神々の物語』の続編であり、完結編!
池澤夏樹氏、推薦!
著者:萱野 茂
発売日:2020年8月14日
価格:本体価格1100円(税別)
仕様:文庫488ページ
ISBNコード:978-4635048903
詳細URL:http://www.yamakei.co.jp/products/2820048900.html
https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=1267