黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 「継続は力なり」とは言うけれど・・・・・

2013年07月24日 20時47分00秒 | アマチュア無線

 連日暑い日が続き午前中ならまだしも午後に成るとアマチュア無線処では無い状態に成りエアコンの有る部屋に逃げ込む始末、無線運用は早朝と夜半に限られる状態、しかしながらコンディションの方は余り良くない。今朝も7時30分頃から50、24,21、18MHzと下がって聞いたがハイ・バンドのコンディションは皆無の状態で7MHzを運用したが8時頃にはバンド全体にノイズぽくなり、比較的近距離は良いが1エリヤから先は信号が可也落ちる。最終的に午前中は3局との交信でQRTした。



 午後は16時頃からハイ・バンドをチェックしたが国内の信号は殆ど聞こえず試しにCQを数回出したがまったく応答が無く7MHzにQSYして暫く聞いていたら移動局がQRTしたので其の周波数でCQを出したが3回ほど空振りの後、此れで応答が無ければ閉局と思った最後のCQに応答が有りJA8EHV、苫小牧市の上川さんと交信しJR8JRM 新得町の三浦さん其の後にJH7GNC 青森市の磯野さんと続いた。

 

 御三方とは移動先や固定局でも沢山QSOして頂いて居るのでゆっくりと交信、磯野さんとは2010年の東北を移動中に青森県の津軽半島の蓬田町に態々御越し戴きアイボールQSO、其れ以来、各バンドで交信戴いている。ゆっくりとしたQSOを楽しんだ後の16:30JST辺りから国内コンディションが変わりバンド全体のノイズレベルが下がり関東より西方面の0,1,2,3,4エリヤが59プラスで入感し始めた。

 

 其の後5局と交信して閉局、早めの夕食を取った後、日が落ちた川縁の散歩コースを1時間半を掛けゆっくり散策した。以前はこの散策時間は只管歩いていたが、歩くだけでは勿体無いと最近に感じ此の時間を有効に使う為、オーディオ・プレイヤーに英会話の教材を録音して「50の手習い成らぬ60の手習いを始めた」、前々から英語が話せれば海外との交信に役立つと高額の教材を入手していて過去に幾度と無く挑戦したが私の飽きっぽい性格から長続きする事無く御蔵入りの状態、今回も同じ様な結果に終わりそうだが今日で10日程、継続している。此の教材は基本的に聞き流すタイプの物で途中で色々、質問されたりする方式だが現段階では質問されている内容は理解出来るが其れに対する返答が中々浮かばない。「語学は勉強と捉えず赤ん坊が自然に母国語を喋る様に只管な繰り返ししかない。」と教本には書いて有るのだが必要に迫られない限り継続する事は難しいし、その様な環境下にも居ないので何処まで続くか?爺さんの戯言に成りそうな気がする。

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久し振りの同級生との嬉しいお空での再会

2013年07月24日 00時47分08秒 | アマチュア無線

 先日7MHzでCQを出していたら高校時代の同級生のJA5BRN/1の樫福さんから声が掛かった。学校を卒業してから47年に成るが彼のコール・サインも忘れていないし即座に彼だという事は解かった。ヘッド・ホォンから聞こえる声も話し方も昔と余り変わっていない。卒業後、随分昔に一度、彼と高校の無線部の後輩の音頭取りで、阿南で会合を開いた事が有ったが其の後、10年に一度位の頻度でお空では会って居るのだが今回は1年振りの交信と成った。不思議なもので65歳に成っても彼と話していると瞬間に高校生時代にワープし色々な彼との思い出が甦って来た。


 私がアマチュア無線と出会ったのは中学2年か3年生頃、余り定かでは無いが兄が其の当時としては珍しいトランジスターラジオを組んだりしていた関係で其の方面の本は家に有って理屈は解からなくても興味本位で見ていた様な気がする。当時のアマチュア局はA3の電波形式で交信していた為、当時の2バンド用5球スーパーでも短波帯を聞いていると7MHz帯は受信する事が出来た。勿論、選択特性が悪いので複数の局が同時に聞こえる状態で有ったが息を止めて選局して交信会話を聞いていた。当時は白黒テレビは各家庭に普及していたが電話はまだ各家庭には引かれておらず九州や関東方面から入感する信号に心ときめいて居た。


 中学時代の3年生の前半は白衣姿に憧れて工業高校の化学科への入学を考えていたがアマチュア無線の存在を知った事により3年生の夏休みが終わる頃には自分の中で電気科に進む事を決めた様に思う。特別に電気に興味が有った訳では無いが今考えると其の延長線上にアマチュア無線が有った様に思えて成らない。当時のアマチュア無線局を開局する事は経済的な基盤が必要で有ったがそれ以上に国試に合格する事が大変であった。試験も全問記述式で問題集も余り流布されておらず受験用参考書も余り無く、専門知識は当時の電気の工業高校では高校2年生以降に習う内容で有り合格率も40%以下で有った様に思う。当然、試験会場は大半が工業高校の電気を専攻している人が大半で一般の人は非常に少なかった様に思う。


 そして目標の電気の学校には入学出来たが1年生の1学期まではアマチュア無線とは無縁の世界に居た。当時の電気科の定員は90名、其の中で同じ中学から8人が同科に入学していた為、入学仕立ての1学期は気持ちの余裕も無く仲間内で小さく纏っていたが2学期が始まると他校から入学した連中との付合いが始まった。樫福さんは当時グラスバンド部でクラリネットを吹いていたが私は帰宅組みで余り接点は無かったが彼は小松島市からの自転車通学、私の家は彼の通学路の途中に有り、私も同じ自転車通学で有ったので多分其の辺りが接点で有ったと思うのだが(ハッキリ思い出せない)ある日「家に遊びに来ないか?」と誘われた。


 彼の家は町筋から少し離れた所に有り、屋敷内に松の木が有り其の間にアンテナを張っていた様だが私には余りよく見えなかった。2階の広い部屋に入るとアルミシャーシに組んだ受信機と黒いケースに入った送信機と裸のシャーシに組み込まれた変調器と其の電源トランスは机の上に転がっていた。やがて彼の交信の実演が始まり彼のCQに九州や関東方面から応答が有り次々と交信が進むのを聞いて驚いた。ラジオで無線交信を聞く事はしていたが交信している現場を見たのは初めて、勿論、送信機を見たのも初めてで有り、この様な小型の送信機で保々全国と交信する現場や無線機器の現物を見て可也興奮した事を覚えている。この辺の状況はブログで何度か書いているが先日の彼との話で彼自身は其の時の事は余り覚えて居ない様で有ったが、其の様な事は彼にとっては日常茶飯事の事で それ故に印象に残って居ないのだろう。


 この様な出会いから卒業まで彼との付合いが始まったが卒業後は彼は東京へ私は大阪へと就職し、暫く直接やお空で会う機会は無かったが最近、団塊の世代が退職したり仕事を続けていても時間的な余裕が出来ると此の時代にアマチュア無線に興味を持った人達はカムバックやアクティビティが上がって居る様で、其の中で同級生と電波で昔の事を語れる事は楽しい。もし彼が同級生に居なかったら私のアマチュア無線に対する思いも頓挫していたかも知れない。其の意味で私に多大な影響を与えた一人である。

 


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