今日は教室のない水曜日です。で、朝から天気予報ではやたらと「午後は荒れ模様」を連呼しているし、それを裏付けるように何だかやたらと風が強いし…。なので、朝のうちに近所のコンビニで買い物を済ませて、今日はもう一歩も外へ出ないゾ!という体制を作り上げました。
しかし、そのまま何にもしないのではただの自堕落なダメ人間にしかならないので(違うとでも言いた気だが…(*□Д□)=○)`Д゜)・;゜ )、ちょうど来月から大人の生徒さんに弾かせる曲の検証をしてみることにしました。
今回検証したのはA.ヴィヴァルディの《ヴァイオリン協奏曲 ト短調 作品12-1》です。ヴィヴァルディの最後の協奏曲集の1曲目で、鈴木バイオリンの教則本を使ってレッスンされている方には5巻に出て来る曲なので、特に馴染み深い作品だと思います。ただ、この教則本に載っている楽譜が後の時代に手を加えられたバージョンなので、個人的にちょっと気に入らないのです。
ヴィヴァルディに限らずバロック期の作品には、いくつかのメロディラインのパターンというものがあります。ただ、これらのいくつかについて『動きが単調である』という理由の下に、メロディのスラーや、時にはオクターブそのものまで変えられてしまったものがあるのです。そして、なぜか日本の教則本に載っているヴィヴァルディやバッハの作品は、この『改竄バージョン』が殆どなのです。
勿論、何らかの意図があってそのバージョンを載せているのだとは思うのですが、私はあんまり意味がないと思っています。と言うのも、数多コンサートやCD録音の現場ではどこでも演奏されてはいないからです。
恐らくこういう教則本を最初に編纂する時に、いろんな曲の楽譜を集めて検討したのだと思います。その時にたまたまこういうバージョンのものが残っていて、それを時の編纂者が『面白い』と思ったか何かで掲載したのでしょう。しかし、残念ながらそれはあくまでも第三者の手が入ってしまった『改竄されたもの』でしかないわけです。そんな世界的に実践の伴わないものを、果たしてヴィヴァルディの作品として教えていいものか…そう考えた時、わたしの出した答えは『NO』だったのです。ということでいろいろと検証した結果、私は写真に載せたガラミアン校訂版を使うことに決めました。
このテの話を、かつてたまたま同僚の講師としていたら「あらぁ、すごいこだわりねぇ…」だけで話が終わってしまったことがありました。こだわり…かしら?むしろ、世間が一番好んでいる『みんながやってること』をやっている気がしているのですけれど…。
しかし、そのまま何にもしないのではただの自堕落なダメ人間にしかならないので(違うとでも言いた気だが…(*□Д□)=○)`Д゜)・;゜ )、ちょうど来月から大人の生徒さんに弾かせる曲の検証をしてみることにしました。
今回検証したのはA.ヴィヴァルディの《ヴァイオリン協奏曲 ト短調 作品12-1》です。ヴィヴァルディの最後の協奏曲集の1曲目で、鈴木バイオリンの教則本を使ってレッスンされている方には5巻に出て来る曲なので、特に馴染み深い作品だと思います。ただ、この教則本に載っている楽譜が後の時代に手を加えられたバージョンなので、個人的にちょっと気に入らないのです。
ヴィヴァルディに限らずバロック期の作品には、いくつかのメロディラインのパターンというものがあります。ただ、これらのいくつかについて『動きが単調である』という理由の下に、メロディのスラーや、時にはオクターブそのものまで変えられてしまったものがあるのです。そして、なぜか日本の教則本に載っているヴィヴァルディやバッハの作品は、この『改竄バージョン』が殆どなのです。
勿論、何らかの意図があってそのバージョンを載せているのだとは思うのですが、私はあんまり意味がないと思っています。と言うのも、数多コンサートやCD録音の現場ではどこでも演奏されてはいないからです。
恐らくこういう教則本を最初に編纂する時に、いろんな曲の楽譜を集めて検討したのだと思います。その時にたまたまこういうバージョンのものが残っていて、それを時の編纂者が『面白い』と思ったか何かで掲載したのでしょう。しかし、残念ながらそれはあくまでも第三者の手が入ってしまった『改竄されたもの』でしかないわけです。そんな世界的に実践の伴わないものを、果たしてヴィヴァルディの作品として教えていいものか…そう考えた時、わたしの出した答えは『NO』だったのです。ということでいろいろと検証した結果、私は写真に載せたガラミアン校訂版を使うことに決めました。
このテの話を、かつてたまたま同僚の講師としていたら「あらぁ、すごいこだわりねぇ…」だけで話が終わってしまったことがありました。こだわり…かしら?むしろ、世間が一番好んでいる『みんながやってること』をやっている気がしているのですけれど…。